政治的ロマン主義の運命・その3

前日のつづき。

ヨーロッパ構想

「国家の時代は終わった。もう蘇りはしない。フランスもドイツも終わりだ。すべてがヨーロッパに融合するが、それをわたしたちは、怪物的な、新しく奇怪な存在と感じずにはいられまい」とも述べている。ドリュはやがて建設されるヨーロッパを怪物と思い描く一方で、勝利者ドイツがナショナリズムを放棄すると希望した。この楽観主義と悲観主義の入り交じったヨーロッパ構想は、ドイツ軍が西部戦線で攻勢に転じる数日前の記述とも合致している。

ドイツの意図

このように、ナチ占頷下のヨーロッパで旧知を党首とした国民政党を立ち上げ、フランスをファシズム国家に作りかえようとしたドリュの野望は、1940年8月時点でドイツ大使から一蹴されていたのである。(略)
ベルリン政府と占領ドイツ軍は、最初はイギリス攻略、ついで対ロシア戦のために、安全な後方をフランスに確保しようとしており、フランス世論をファシズム支持にまとめあげるどころか、パリとヴィシーの二重権力状態を維持して双方を牽制しようとしていたからである。日記を読むかぎり、ドリュは大戦末期になるまでドイツの意図に気づかず、フランス・ファシズムに賭け続けた。

幻滅

ドリュ・ラ・ロシェルはナチ占領下のパリで対独協力知識人の名士になっていた。(略)[しかし]
ナチス・ドイツがパリのファシストではなくヴィシーを重視し始めると、遅くとも1941年秋には、すっかり政治熱を冷ましてしまった。彼は日記に幻滅を綴っている。
「貧血フランスに、ファシズムはない。そして他国では--ドイツでさえ--ファシズムは時代遅れになりつつあるのに、フランスにファシズムを拵えてどうする。共産主義も同じだ。わたしたちがある観念を拾っても、埋葬するだけのことだ。

決算書(1943)

「これだけのことをもう一度納得していただきたい。わたしはヨーロッパにおけるデカダンスの進行を測定したからこそファシストなのだ。このデカダンスを抑えて切りつめる唯一の手段を、わたしはファシズムに見た。それに、もはやイギリスとフランスの政治力を信頼しておらず、アメリカ合州国とロシアのような外来の帝国がわれらの大陸に侵入していると感じているので、ヒトラーの天分とヒトラー主義より他には何も頼れなかったのだ」

結局、ドイツの敗色が濃厚な中、ナチ親衛隊に死に場所を求め、ファシズムに殉じて自殺したのだけれど、こんな日記も書いている

1943年2月17日、ロシア軍がスターリングラードの戦いを制して攻勢に転じ、ドイツ軍からハリコフを奪還したという報に、50歳のドリュ・ラ・ロシェル快哉を叫んだ。(略)
ナチ占頷下のフランス世論が反ナチ抵抗に向けて大きく動き出した。(略)ドリュはソ連の最終的な勝利を確信し、日記に「もはやドイツの血と才能ではヨーロッパの治療さえ無理だ。これからヨーロッパでロシアの支配に激しく抗う者がいるだろうか。おそらく皆無だ。観念したブルジョワどもは次々と首を飛ばされるだろう」と書いている。この箇所で読者は、ナチズムからスターリニズムに鞍替えしたドリュの政治参加の姿勢に露骨な機会主義を見ることだろう。だが、ドリュは十年近くに及んだファシズムヘの加担を取り消そうともせず、あくまでも「ファシストとしてブルジョワジーとプロレタリアをともに乗り越え、格下げし、価値剥奪を夢見」ると言いきる。ドリュが(略)ブルジョワであることは疑いをいれないが、ファシストになった彼は「首を飛ばされ」ずにすむと考えているからである。

死にたくて

「わたしは運命との戯れを洗練させた。その気になれば手遅れになる前に手を引き、書くことも意見表明も控えられたろう---ヒトラー主義の欠陥と誤謬に早くから蒙を啓かれ、踏みつけにされていたヨーロッパの大義などには見切りをつけて当然だったろうからなおさらだ」。(略)
だが、まさに償いたくなかったのである。1940年に抱えこんだ負債を1944年に支払うのは嫌だった。(略)
「これらのページを書きながら、わたしは何度もこう叫びたかった。〈そんなものは嘘だ、哲学を勉強したからだとか、寿命だとか、綺麗ごとではない。ただたんに、わたしは怖いのだ。大衆に殴られ、引き裂かれるのが怖いのだ---警官から、検事から辱められるのが怖い。低級な連中に理由を、わたしの立派な理由を説明しなくてはならぬのが怖いのだ〉」。

フランス人民党に復帰(1943)

名実ともに対独協力強固派を自任したドリュは、劣勢のドイツ軍とともに挽回をはかることで少しでも権力に近づこうとするファシストたちの間にいた。それを悪夢と書くほど明晰だったにせよ、彼には協力を拒むのは怯懦としか思えなかった。