財政=軍事国家の衝撃

財政=軍事国家の衝撃―戦争・カネ・イギリス国家1688-1783

財政=軍事国家の衝撃―戦争・カネ・イギリス国家1688-1783

 

時間がなければここだけ読むのもよかろうという、素敵な序論の一部

戦闘ではなく会計簿

本書の話題の中心は戦争にあるとはいえ、扱うのは戦闘ではなく会計簿であり、血糊のついた武器ではなくインクのしみのついた指である。政府機構、兵站、とりわけ資金調達に、本書は焦点をあてる。かりにそこにヒーローがいるとすれば、それは執務室の事務官たちである、そして本書が選んだ視点は、グローバルでもなければ辺境のそれでもない。それはまさしく中核のなかの中心、ホワイトホールとウェストミンスタからのそれである。
行政機構とは、定例の手続きがなくては機能しない。劇作家や歴史家の専売特許-変化、断絶、暴力的行為-を、行政機構は忌み嫌う。行政機構の専売特許は平凡な繰り返しである。毎日が同じでなくてはならない。そのうえ行政機構というものは、人間の共同作業というエントロピーの高い場面に、秩序と規則性を押しつけようとして、軋櫟をひきおこすのがつねである。秩序と手続き重視の態度と、公的な作業の現実との緊張。これこそがドラマをうみ、行政機構じしんは懸命に避けたがる衝突をひきおこす。権力と支配を求めて繰り広げられる葛藤は、戦闘という名の鮮やかな血色の絵の具で、複数の大陸という大きなカンヴァスのうえに描かれるばかりとはかぎらない。だが、その葛藤がどれほど抑制され、やんわりとしたものに見えても、その結果は広範な影響をもつ。国費を徴収し、資金を調達し、物資を徴発するのに必要な手続きを、政府役人たちがどれほど適切に定められるかが、勝利と惨敗の分かれ目になる場合もあるからだ。

  • 14〜15世紀ヨーロッパでも屈指の軍事力を誇ったイングランドは、「軍事革命」が起こった16〜17世紀に一旦後退する。戦略の変化に伴い各国常備軍を設けるようになったが、他が平均10万程度だったのに対し英国はその一割程度だった。貴族はどんどん非武装化され、17世紀半ばには貴族の八割が軍事未経験者だった。
  • 国家の危機が軍備拡張の理由になった大陸とは違い、島国型国防条件のおかげで海軍力が最強の軍事資産であり、極度の軍事化を避ける手段でもあった。積極的交戦国だったならば相応の負債による収入確保のために売官がはびこり寄生的役人層が増大したであろう。
  • 17世紀、ヨーロッパの戦争に参戦しようとする国王を下院の財布の固さが阻んだ。

風通しのよい行政府

1700年前後の熾烈な政界内対立により

官職保有者が頻繁に入れ替わったために、行政府はたいへん風通しがよかった。当時の官職保有者は、政府と民間の仕事を行ったり来たりした。この人たちは自分を純粋に国王の僕とは考えておらず、ましてや特定の政府部局の職員だとは考えもしなかった。むしろ有力な貴族か政治家の子分だと考えていたのである。行政府が後の時代ほど閉ざされていなかったから、役人たちは外部からの助言に耳を貸したし(受け入れることはそれほど多くなかったが)、政府の情報も公的な権力のチャンネルの外へ流れることが多かった。

情報もオープン

そうはいっても立案家が出してくる提案は事情に通じていたし、政府のやり方のあら探しも上手であった。それは省庁の資料や政府文書を見ることができたためである。(略)
政府部外者がこれらの資料を入手できたのは、現役役人が退職あるいは解任されたとき、自分が扱っていた文書を持ち出す習慣を利用したからである。

オランダとは対称的に収支の公開が安定した国家財政につながるとした英国

むろん、財政運営が公開されているという状況があれば、財政が成功するというわけではない。オランダでは、公的な国家収支報告がなかったのに、イングランドより低利で(18世紀前半では2.5-3%)資金の借入れができた。実のところ、オランダの財政は無知というヴェールに守られていたと指摘する研究者もいるほどである。オランダの税収の70パーセントが国家債務の利払いに充てられていることを知ったら、投資家は怖じ気づいて資金を出す気にはならなかっただろう。政府財政を公式に公開することは、公開された情報が信用を生み出す場合にかぎって有益になるものである。
しかし当時の人たちは、イングランドの財政システムがうまくいっているのは、それが透明だからだと信じて疑わなかった。国費収支報告と国家情報を示せば、国家に対して信頼感がはぐくまれ、それによって投資家は前向きになり、納税者は順うことになるのだ、と説かれたものである。

英国軍事力の限界

アメリカ独立戦争はそれまでの戦争とはちがい、兄弟同士の戦争であり国内を深く分断した。従軍を拒否する将校、アメリカ人捕虜救出の資金集めに奔走し、植民地風に青と黄褐色の服を着るもの。
七年戦争での連勝により強大化したため孤立。
3000マイルにおよぶ補給線を抱えた戦争。
こうしてアメリカ独立戦争ブリテン軍事力の限界を白日の下にさらした。

外交的な孤立に加えて、フランス(とスペイン)が先の敗戦の雪辱を果たそうと決意していたために、ブリテンは危機的な状況に立たされた。ヨーロッパ大陸の国々は、一国たりとも援護してくれなかった。1780年になると、ブリテンはフランス、スペイン、オランダと交戦状態にあり、自国の海運を妨害したブリテンに憤激していた国々が中立の立場をとったので、中立国からも包囲される有様となった。ブリテンの敵国の勢力を逸らしてくれるヨーロッパ大陸の戦争もなく、フランスとスペインは七年戦争中の敗戦の報復に全力投球することができた。

中世帝国再現のためではなく、

経済のための戦争へ

軍事戦略や戦争政策を判断するさいの基準は、経済を後押しするか否か、国の繁栄につながるか否かであった。もとより戦争を戦う目的は、大国たらんとするところにあったが、それは特定の性格を帯びた大国であった。望まれた大国とは、とうの昔に失われた中世の帝国をヨーロッパ大陸に再建するのではなく、いわんやヨーロッパに覇を唄えることですらなかった。望まれたのは、経済が繁栄する国、商業にもとづく豊かな国家であった。このようなとらえ方は、当時のブリテンの国王が抱いていた戦争や外交政策の指向とは、必ずしも一致しない。君主の戦争・外交観はあくまでも宮廷と王朝のそれ、ドイツの小君主たちがおしなべて憧れたフランス式のそれであった。ところがブリテンの人たちがお手本にしようとしたのは、オランダであった。小さくても豊かな国は大国になれる、そう教えてくれたのは、一七世紀に陸と海で活躍したオランダ人たちだったからである。

「パブリック」という言葉が持つ、開かれた情報への欲求

だが同時に「パブリックな知識」という言葉は、隠されていない、広く世間に知られた、誰にでも見える情報を意味すると解されたのだった。(略)
事業家が商業情報に対等にアクセスできたわけでもなかった。そうではなく、「パブリックな知識」「パブリックな情報」という言葉がさかんに使われた事実が、それまでは茫漠としてつかみどころがなく私的な情報と目されてきた知識を、白日の下に引きずり出したい、という欲求を反映していると考えるべきである。(略)
したがって逆説的ではあるが、ある知識を「パブリック」にせよという要求が、きわめて偏った特殊利害集団から出ることもむろん珍しくなかった。こうした利害集団は、万人のための不偏を口先だけで装い、私的な利益を引き出すために「パブリックな」知識を求めると訴えたものである。これが一八世紀イングランドの情報の政治学であった。