ワード・オブ・マウス ジャコ・パストリアス 魂の言葉

生い立ち、音楽的バックグラウンド

父親はギリシャ系で(略)ドラマーで歌手なんだ。フランク・シナトラとかトニー・ベネット風のジャズ・シンガーだ。もちろん現在も現役としてやっている。

(略)

僕が7歳になった時、両親は離婚してしまい(略)母と一緒にフロリダに移住することになった。(略)アメリカとキューバが国交を断絶する前だったから、フロリダではキューバの音楽がとても盛んだったんだよ。トリニダッドのカリプソとかスティール・ドラムのバンドなんかもよく聴かれていたね。ラジオでもこの種の音楽がしょっちゅう放送されていた。フロリダではこのほかに、R&Bなんかのブラック・ミュージックも盛んで、僕は11歳か12歳になる頃には、ジェームス・ブラウンとかオーティス・レディングウイルソン・ピケットのファンになっていたよ。一方、父がドラマーだったので、子供の頃からドラムをよく叩いていてね。当然のようにリズムには特に感受性が強かった。だからフロリダで聴いたカリブ諸島の民族的なリズムは、僕のリズム感に大きな影響を与えたんだ。

(略)

ベースは15歳になった春(略)

ジャズを自分で聴き出したのはこの頃からで、母親のベッドの下のほこりにまみれた(略)マックス・ローチの(略)チャーリー・パーカーの曲ばかりを演奏したアルバムだった。もちろん最初、僕はチャーリー・パーカーのことなんて皆目知らなかった。家にあったレコード・プレイヤーがまたひどいもので、ベースの音なんてはっきりとは聴きとれないような安物だった。でも僕は、トランペットとテナー・サックスが吹くメロディを聴きとって、その曲のラインを記憶すると、そのラインがどのコードになっているかをピアノで探り出し、それに番号をつけたりして、ベースで弾き始めたんだよ。自慢じゃないけど僕は記憶力がとても良くてね。その上ベースを弾くにはいい具合に手も大きかったから、上達は早かったと思う。一度弾いたスケールは記憶できたし、いくつものラインをいく通りにも弾いたりして、どんどん覚えていったんだ。こうしてベースを手にしてから間もなく、パーカーの6曲を弾けるようになった。

 実際のところは、ベースを始めて1週間目で僕はもうR&Bのバンドに入って仕事をしたんだ。もともと学校で勉強をするのはあんまり好きではなかったしさ。でも、学校ではいつも成績は優秀だったよ(笑)。高校生の身分で、朝方の4時頃までナイト・クラブで演奏し、2~3時間の睡眠をとって、午前7時頃には学校に出かけるなんてことをよくやってたよ。

影響を受けたベース・プレイヤー

▼では、影響を受けたベーシストと言えば誰?

(略)ジェームス・ジェマーソンジェームス・ブラウンとプレイしていたバーナード・オーダム、アレサ・フランクリンとやっていたジェリー・ジェモットかな。でも、僕が一番インスピレーションを駆り立てられるのは、いつもフランク・シナトラなどのシンガーだった。歌い手というのは、パーソナルな表現に秀でているからね。僕がベースをプレイすると、ほとんどの人が、これは僕だと言い当てることができる。なぜなら僕は、そういうパーソナルなものを自分のベース・トーンに織り込もうとしているからだ。

自由と現実が訪れる街、フロリダ

少年時代のジャコの友人(略)ボブ・ボビング[回想](略)

「(略)ふたりともソウル・バンドでベースを弾いていて、宗教はカトリックで、ハイスクールで建築製図を学んでいた。共通する部分が多かったんだ。また僕たちはホンダのオートバイを持っていたんだよ。赤、白、黒の3種類があったホンダのニューマシンは、ごく普通の少年にとって抗しがたい魅力を放っていてね。今日に至るまで、僕は初めて新しく買った白の"ホンダCB-160"に乗って走り回ったときに勝る経験をしたことはないよ。ジャコもホンダに魅せられ、新聞配達で貯めたお金で黒の"ホンダ・ブラック90"を買ったんだ。ティーンエイジャーにとっては、オートバイに乗ればどこにでも行けるという自由を新しく発見したようなものだったんだ。当時、フォート・ローダーデイル周辺は、白い砂浜と南国的な気候で、美しい冒険の世界という雰囲気を持っていた。まるでこの世の楽園のような場所だったんだ。大きな転換期にあったアメリカという国から完全に隔離されていたよ。変化の時代だった60年代。(略)社会的、政治的な問題は、南フロリダで育っているふたりの少年の頭からは抜け落ちていた(笑)。そんなことよりも、頭のなかは週末のダンスとバンドのリハーサルのことで占められていたよ。ジャコもとても前向きだった。彼は元気に満ちあふれ、楽しく音楽に打ち込んでおり、人生をエンジョイしていた。彼にとってまるでエデンの園のような時代だったと思うよ。僕が当時録音した、ジャコの初期のレコーディングを聴くと、メロディに関する彼ならではのアイディアが無数に散りばめられていて、ファンにはお馴染みの特徴的なプレイの萌芽を随所に発見できる。すでに才能が開花した演奏からは、後年の彼のベスト・プレイにも匹敵するファンク・ラインやソロも聴き取ることができるよ」。

(略)

▼(略)フロリダの良さはどんなところにあると感じている?

 フロリダには本物のリズムがある。それは海のせいだ。カリブの海には何か特別なものがある。そこから来た音楽がみんな本物のリズムを持ってるのは、そのためなんだよ。うまく説明できないけど、僕にはそれがわかるんだ。その場にいると、それが感じとれるんだ。カリブ海の水はほかの海の水とは違っていて、少し冷たい。フロリダでは波もそんなに立たない――ハリケーンがこなければの話だけどね。ハリケーンの時はまたほかのどこよりもすさまじく荒れ狂う。フロリダの音楽もそれと同じで、リズムは洗練されてなくても、ノリがスムーズで、それが知らないうちに聴いてる者を引きずり込んでいく。いつのまにか心が奪われてしまうんだ。

(略)

フロリダは音楽的に偏見がないところが素晴らしい。

(略)

どんな音楽スタイルをプレイしようと、誰も気にしなかったからね。純粋にライヴを楽しむのがフロリダの流儀だ。

(略)

ナイト・クラブでは、どんなスタイルの音楽でもやった。時には楽器も持ちかえたりした。テンプテーションズではキーボードをプレイしたし、フォー・シーズンズの場合はギターを弾いたよ。僕はいろんなことをやることによって楽譜を読むことも練習したんだ。最初にやったステージは、メルバ・ムーアとだったんだが、その時は一応楽譜は読めてたけど、ステージ全体を通してとなるとまだ不十分で、緊張のしっぱなしだった。ピーター・グレイヴスという僕にとっては最高のミュージシャンがいるんだけど、彼は僕のデビュー・アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』にも参加していて、僕の知る限りでは、最高のベース・トロンボーン奏者だと思う。その彼が、僕を作曲家として雇ったことがあったんだ。というのは、彼は僕のことを曲を書くやつとしか思っていなかったんだ。僕は曲を書いていたけど、曲を書くほどうまく楽譜は読めなかったわけ。まあスローだったんだな(笑)。それを知った彼は僕のためにつきっきりになって教えてくれた。そのおかげで彼とのステージで一緒にやった曲はひとつひとつの音まで暗記しちゃったよ。だからコードから何からすべて記憶でやっちゃったくらいだ。そういうことがあって、1年以内に僕自身がビックリするぐらい楽譜には強くなった。そのうちフロリダでの僕の評判は最高になっていたんだ。

(略)

僕は自分の好きな音楽に関しては、一度聴くと忘れなくて、すぐ歌ったりすることができたんだ。特に、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』なんかだと、メンバーのひとりひとりがやっていることがすべて頭の中に入ってしまった。

(略)

[18歳で結婚したから]僕はやれることはなんでもやったさ。(略)音楽を正式に勉強したわけじゃないけど、写譜の仕事をやっているうちに、譜面が読めるようになっていったね。

(略)

▼楽譜は読めたの?

 うん。自分で覚えたよ。あれは簡単さ。譜面をまったく読めない時にショーやギグを頼まれ、金をもらうためには必死で覚える以外に道はないからね。そういう状況に自分を追い込めば一晩で読めるようになるよ。耳に全神経を集中して覚え、あとは試行錯誤だ。僕はそうやって覚えたんだ。

カリブ海の船旅をする、観光クルーズ船の専属バンドに雇われていたこともあるそうだね。

 それはけっこう楽しい経験だった。音楽的にという意味ではないよ。(略)カリブ海のいろんなところに行ったことさ。メキシコに2日間、それからジャマイカバハマ諸島、ハイチといった具合にね。出航して1週間後の土曜日の正午に帰ってくる。そしてまた数時間後に出航、というサイクルのくり返しだった。船が港に着いた時は、よく街に出て通りをぶらついたよ。ウェイラーズのメンバーと親しくなったこともあった。それを辞めたあとは、フロリダでカントリーやソウルのバンドで働いた。アメリカ本土に入ってきて流行り始めたばかりのレゲエなんかもやったよ。残念だったのは、フロリダには誰もそれらを語り、心を許しあえる仲間がいなかったってことだ。ミュージシャンの友人はいたけど、全国的な水準にはほど遠い人たちばかりだった。そういったことを話し合える友達すらあまりいなかった。ニューヨークなんかにあるような、志を同じくした若いミュージシャンのグループもなかった。彼らのやることと言えば、喋ったり、食べたりするだけで、僕にとってはちっともおもしろくなかった。

ロン・カーターフランク・シナトラ

僕がジャズのベース奏者で真剣に耳を傾けたのはロン・カーターひとりだった。(略)

あの頃のマイルス・グループの音楽は、いつ聴いてもいい気持ちになった。そして僕は『ソーサラー』のロンのベース・プレイを聴いて、彼がウォーキングベースで生み出すフィーリングや、マイルス・バンドの音楽が持っている独特のフィーリングの中で、ロンがどういう風にベースを弾いているかといったことを参考にした。僕はベースを弾くけれど、作曲することも大切だと思っているから、レコードを聴く時はベースのラインを聴くだけといったような聴き方はしない。音楽として聴き、作品として聴くんだ。しかも好きなのしか聴かないから楽しみで聴く場合が多いけど、聴けばその作品がどうなっているかが同時にわかるんだ。

(略)

▼ジャズで一番大きな影響を受けたのは、やはりチャーリー・パーカー

 一番とは言わないけれど、大きな影響を受けたのは事実だ。彼は本当に素晴らしいラインをプレイするからね。チャーリー・パーカーのプレイの仕方が僕は大好きなんだ。(略)

フランク・シナトラは最高だね。(略)彼の声域は、僕がプレイする音域とほとんど同じなんだ。バリトン・テナーの音域に近いと思う。僕はその音域でプレイするように心がけている。その音域では、僕は本当に歌えるし、ひとつひとつの音のクオリティに集中することができるんだ。それが難しいところなんだけどね。だから、どんなに速弾きをしている時でも、流れていくひとつひとつの音を考え、そこから最大のものを引き出すように心がけている。

(略)

▼あなたの音楽をフュージョン・ミュージックというファンも多いけど、それに対してはどう?

 フロリダ時代から僕は、今とまったく同じことをやっていた。ジャズとR&Bのコンビネーションをね。僕はレコード会社が騒いでいるバカげたフュージョン・ミュージックなんか好きじゃないよ。僕はジャズとR&Bが好きなんだ。というか、ジャズこそR&Bとも言えるんだ。チャーリー・パーカージェームス・ブラウンとか、僕はそんな人達を聴いて育ってきた。僕の音楽をフュージョン・ミュージックなんて呼ばれるのはイヤだ。まあ、誰が僕のことを何と言おうと関係ないよ。僕はただのミュージシャンであり、ベーシックなベース・プレイヤーなんだ。(略)

リトル・ビーヴァー

 1974年、ジャコは、憧れていたファンクの人気スター、ウィリー"リトル・ビーヴァー"ヘイルのアルバム『パーティ・ダウン』のなかの「アイ・キャン・ディグ・イット・ベイビー」に1曲だけ参加した。(略)

[リトル・ビーヴァー回想]

「俺はミュージシャンにいつも指示を出していた。(略)だけど、ジャコの場合は違った。あいつには何も言う必要はなかったよ。言わなきゃいけなかったのは、"もうちょっと、ゆっくりやれよ"くらいのものだった(笑)。あいつはベースをギターのようなフレーズで弾いていた。だから俺としては、そのプレイを邪魔しないように気をつけていたんだ。本当にファンキーだったよ。聴いたこともない曲でも、あいつにかかっては何の問題もなかった。すごかったのはイントロのプレイだ。ハーモニクスで演奏するんだぜ。それがあいつさ。本当にクレイジーだったよ(笑)。とにかく、白人のガキがこれだけファンキーに弾けるのには驚いたね。きっと、これまでいい音楽を聴いてきたんだろう(笑)」。

パーティー・ダウン

パーティー・ダウン

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カルロス・ガルシア

[ボブ・ボビングのバンドが出演したクラブの対バンの]

カルロス・ガルシアというベース奏者は信じられないほどユニークだった(略)ジャコに話すと、ジャコは早速、翌日にはカルロスを観にクラブにやって来た。それは有意義な、歴史的とも言える夜だった(略)

 最初にジャコが注目したのは、アコースティック360のベース・アンプ。そのアンプは奇妙な形をしていたが、明らかにそれまで聴いてきた中で最高の音を出していた。その上、カルロスの独特のスタイルは大いに目を奪った。ときどき左手でミュートをかけて、新しい次元のパーカッシヴな響きを作り出すというものだ。(略)

「ジャコはカルロスを観て、"あのミュート・スタイルは、絶対に掘り下げてみる価値がある"と言っていたよ。そして演奏が終わると、僕たちはステージにいるカルロスのところに行った。カルロスが、スピーカーはキャビネットのなかで裏側に向いていると話すと、ジャコがひどく興奮していたのを覚えているよ」と、ボブは当時をふり返る。

 その翌日、ジャコとボブは楽器店に行き、アコースティック360を2台注文したという。(略)

ジャコ奏法の確立へ向けて

▼わずか1年の練習で、どうやってこれほどまでに豊かなベースの知識を身につけられるのかな?

 耳をオープンにしておく。それだけさ。僕の音楽知識の大半は、演奏体験を積む中で培われたものだ。

▼プレイを始めた頃は、ピックを使っていたの?

 いや親指が先だ。一ヵ月ぐらい親指だけでプレイして、その後にほかの指も使い始めた。

▼どうやって右手のテクニックを身につけていったのかな?

 右手の練習は一度もやったことがない。自然に弾けるようになったんだ。最初の2本の指(人差指と中指)で弦をはじき、ほかの2本の指はミュートに使った。飛びまわる時は親指もミュートに使ったね。一番難しかったのは、プレイしていないストリングスを鳴らさないことだった。「ドナ・リー」なんかを聴いてもらうと、ノイズを出さないようにプレイしていることに気がつくと思うよ。

▼具体的にベースで行なった練習は?

 何年間もありとあらゆるスケールの練習はした。でも大半は3和音(トライアド)に関することだ。これは今までのベース・プレイヤーが練習してこなかったことだよ。だから僕がまるで新しい何かをプレイしているように聴こえるわけだ。ひょっとしたら、実際にそうなのかもしれない。でも僕はそれが当たり前のことだと思っていたんだ。だって、ピアノ・プレイヤーがウォーミング・アップをする時、あるいはソロなんかをとる時、そんな3和音を駆使してプレイしているじゃないか。でも、それをベースでやるのは至難の業なんだ。3和音を演奏するということがね。3和音を速弾きするのは物理的にものすごく難しいよ。だから3和音スケールをうまく使わないといけない。ドミナント・トライアド、またはメジャー7のトライアドは練習しないとね。全音階スケールであればどれでもいいから、そのスケールの各コード・ナンバーから離れたところでアルペジオをやってみるといい。おそらくこれはベース演奏で最も難しいことのひとつだ

(略)

僕は本当にそれを"オン・ザ・ジョブ・トレーニング"だけで身につけたんだ。振り返ってみると、6年前にウェイン・コクランのバンドを辞めるまで、僕はずっとそれをやり続けてきたけど、そのあとはまったく練習してこなかった。いや、弾き始めた頃、ベースの音がどこにあるかを確かめたことが唯一の練習と言えるかもしれない。音がどこにあるかを覚え、いろんなキーで演奏すること、それだけさ。あとは、ひたすら外で仕事をこなした。ほんと、音がどこにあるかを確かめることは数日もあれば充分だったよ。数学的に考えるだけでいいんだからね。みんなあまりにも音楽的に考えすぎるんだよ。数学の基礎さえ身につけていれば、そこからどんな風にでも応用可能なんだ。

 練習に関して言えば、1972年にウェイン・コクランのもとを去ったあと、1年くらいだったと思うけど、かなり真剣に練習した。1日数時間、どんなに忙しい時でも1時間から4時間は練習に費やした。その時間はものすごく集中してやった。

(略)

いったん僕が集中するとまわりの存在がすべて消えてしまう。それぐらい集中すると、モーター・スキルのようなもので手が勝手に動き出す。(略)

モーター・スキルが得られたあとは、メロディを考え始めてもいい。その時点では、どこにでも自分の思いのままに動くことができるはずだから。(略)

ビ・バップの譜面

[アレックス・ダーキ回想]

「僕のアパートメントには、古いビ・バップ曲の譜面があってね。チャーリー・パーカーの「ドナ・リー」や「コンファメーション」、「デクステリティ」など、とにかく素晴らしい曲がたくさん載っていた譜面集なんだけど、それを部屋に置きっぱなしにしていたんだ。するとジャコは、それに載っている曲を初見で次から次に弾き始めた。とにかく、暇さえあれば弾いていたよ。彼はビ・バップの曲が好きだったんだね。メロディラインが好きだったんだと思う。そこで弾いた曲たちは、彼にとって大いにプラスになったはずだよ。掲載していた曲はほとんど全部、一緒にメロディを演奏した。最終的には譜面なしでも演奏できるまでになったよ」。

 

ビートルズの時代 その3

前回の続き。

ポールの一人旅

 一九六六年八月二十九日、ビートルズは(略)「ロング・トール・サリー」でサンフランシスコのキャンドルスティック・パーク球場でのショーを締めくくった。「来年また会おう」とステージを降りながらジョンは言った。そのあと四人は装甲車に乗り込み、走り去った。それがビートルズ最後の正規のコンサートとなる。

(略)

雨降りのセントルイスでとりわけ惨めなショーを終えて、がらんとした窓もないトラックに連れていかれたところで、ポールが他の三人に言った。「まったく、みんなの言うとおりだよ。とにかく、もうたくさんだ」。

「何週間も前からそう言ってるだろう!」と返事が返ってくる。

 イギリスに帰る飛行機のなかで、ジョージがトニー・バーロウに言った。「これでおしまい。ぼくはもうビートルじゃない」。

(略)

「ジョンは何をしても無駄という気持ちだった、いずれにしろ、たいして長くは続かないのだから」。年が経つにつれ、ツアーに明け暮れたこの時期についてのジョンの見方は自己憐憫に変わる。五年後、ジョンはエリック・クラプトンにそれを「夜ごとの拷問」と形容した。

(略)

三か月の休暇をもらい、四人は好きなことができた。(略)

[ジョンは映画出演、ジョージはボンベイへ]

ポールは(略)前衛的な人々と深く付き合い、ロンドン暮らしを楽しんだ。(略)

[「無名の気分をもう一度味わおう」と、かつらと髭と素通しの眼鏡を作り]

髪をオールバックに撫でつけ、丈の長いコートを着込めば、誰にも気づかれずに歩き回れるとわかった。旅仕度をしてポールはひとり車のハンドルを握り(略)フランスに向かった。(略)「ぼくは旅する名もない寂しい詩人だった」(略)

ニュー・ウェーヴの映画やアンディ・ウォーホルを見て覚えた実験的な撮影技法を用いて、あれこれフィルムに収めた。

(略)

[ボルドーで]変装したまま地元のディスコに行ったところ、入店を拒否される。「みすぼらしい老いぼれに見えたんだ。『ノ、ノ、ムッシュー、ノン』とやられた。このろくでなし、さあ帰った!」そこでホテルに戻り、薄汚れたコートを脱ぎ、付け髭と眼鏡をとった。そしてディスコに戻ると、今度は大歓迎された。

 この頃になると、ポールは無名であることの欠点に気づき始める。(略)

名声からしばし身を退いてみて、ポールは自分の運を前より楽しめるようになった。

(略)

[マル・エヴァンズと落ち合うと、マドリードコルドバ、]マラガに向かったのは、漠然とジョンに合流しようと考えてのこと。ところがジョンはすでにスペインを発ったとわかり、ポールはこの計画を断念(略)

[ケニアでサファリ体験]

帰国する機上で、ポールは少し前に別人になってみたことを思い返し、ビートルズも同じことをしたらそこから何かが得られるのではないかと考えた。「別人格のバンドなら、演奏するのはぼくらではなく、ビートルズではない、別のバンドになる、するとぼくらは自分たちの人格をそのバンドに委ねて失くすことができる」。でもバンドの名前はどうする?ポールが思案しているうちに、機内食が運ばれてきて、そこにSとPと書いた袋が添えてあった。「これはどういう意味だろう?」とマルは訊ね、「ああ、塩(salt)と胡椒(pepper)か」と自分で自分の質問に答えた。「サージェント・ペパー」、ふとポールが言った。

遂にポールもLSD体験

[「イッツ・ゲッティング・ベター」録音中に覚醒剤と間違えてLSD錠剤をのんでしまったジョン]

階段を昇ってコントロールルームに向かう。そして天井を見上げた。

「うわあ、ジョージ、星を見てごらん」

 マーティンは上を見たけれども、天井しか見えない。(略)一世代上の人間で、幻覚剤のことは何も知らない。「ジョン、新鮮な空気を吸ってみたらどうかな(略)

裏手の階段を昇れば屋上に行ける」(略)

「ジョン、あまり縁に近づくなよ、柵がないからな」(略)

[戻ってきたマーティンに]ポールが訊ねる。「ジョンはどこ?」

「屋上に置いてきた、星を見ていたよ」

「ははん、ヴィンス・ヒルみたいにってことだね」とポールは冗談を言う。(略)ポールとジョージは大声で「エーデルワイス」を歌い始める。(略)

 突然、ふたりはLSDでハイになったジョンが危険きわまりない状況にあると気づいた。揃って階段を駆け上がり、ジョンを階下に連れ戻した。そしてこれがレコーディング作業を終える潮時と決めて、ポールがジョンを近くの自宅に連れ帰った。

(略)

ここに来てポールはにわかに試す決心をする。「ジョンがもうやっているのだから、追いつこうという感じだね」。

 ふたりは朝まで眠らず、一緒に幻覚に耽った。「互いの目を見つめ合った、以前よくやったアイコンタクトってやつだけど、それがなんとも信じられないような話でさ。互いに相手のなかに溶けてしまう。(略)とにかくびっくりした。(略)相手のなかに自分が見える。(略)ジョンはずっと、ひどく謎めいた様子で座ったきりだし、ぼくはジョンが王様、絶対的な永遠の皇帝になる壮大な幻覚を見た。あれはいいトリップだったな」。

「アイ・アム・ザ・ウォルラス」

 一九六七年八月二十三日、ブライアン・エプスタインは「ユア・マザー・シュッド・ノウ」のレコーディング二日目の様子を見に立ち寄った。四日後、ブライアンはもはやこの世にいない。

(略)

九月五日の夕方(略)四人はアビー・ロードに集まった。重苦しい雰囲気が漂う。「その日のセッションは最初から最後まで沈んだ感じだった」とジェフ・エメリックは回想する。「みなブライアンのことを考えて、気もそぞろだった」。

 アコースティック・ギターを弾きながら、ジョンが新曲を歌った。歌い始めは「ぼくはかれで君もかれで君はぼくだからぼくらはみんな一緒」。

 いったいぜんたい、ジョンは何をしようとしているのだろう?ジェフ・エメリックは不思議に思った。「誰もが面食らった。メロディはほぼ二つの音だけでできていて、歌詞ときたらほとんどナンセンスなんだから」。

(略)

 ジョンがようやく歌い終わった。誰も何も言わない。ジョンがジョージ・マーティンの反応を知ろうと、コントロールルームを見上げた。「今のは『アイ・アム・ザ・ウォルラス』という曲だ(略)で、どう思う?」

 マーティンは絶句し、ためらいはやがて苛立ちに変わる。「そうだね、ジョン、正直に言うと、ひとつだけ訊きたいことがある。いったいわたしにこれをどうしてほしいと言うんだね?」

 気まずい笑い声が聞こえた。エメリックにはジョンが「明らかに面白くない」のがはっきりわかった。

 ジョンに「アイ・アム・ザ・ウォルラス」の訳のわからない歌詞を書いてやろうという気にさせたのは、八月の終わりに母校クオリー・バンク校に通う十五歳の生徒スティーヴン・ベイリーから届いた一通の手紙だった。(略)

ピート・ショットンは、ジョンが相当の覚悟を固めたのに気づいた。「[自分を落第生と見なした]クオリー・バンク校の文学教師がレノン=マッカートニーの歌詞の象徴性についてご託を並べる図に刺激されて、ジョンは想像力の限りを尽くしておよそ馬鹿げたイメージを歌詞に込めた」。

(略)

「おいピート、クオリー・バンクに通っていた頃に歌った『死んだ犬の目』って歌は、どんな詞だっけ?」

(略)

黄色い膿みたいなカスタード、緑色のこぼれパイ

みんな死んだ犬の目と混ぜこぜにして

厚さ三メートルのサンドイッチにべっとり塗ったら

カップ一杯の冷たいゲロと一緒に呑み下す

 

 一九五〇年代には、この国の津々浦々の学校の生徒たちがこの短い歌のさまざまなバージョンを歌った。(略)

ピートが歌ってみせると、ジョンは大喜びした。「それだ!」と言ってペンに手を延ばす。「すごくいい!」ジョンは「黄色い膿みたいなカスタード」と正しく書きつけてから、子供の頃の記憶から手当たり次第に集めたあれこれを付け足した。「ジョンはセモリナ(子供の頃に無理やり食べさせられた不味いプディング)とイワシ(よく猫にやったサーディン)のことを考えた。『セモリナ粉のイワシエッフェル塔を登っていく……』とジョンは厳かに言いながら、かなり嬉しそうに書きつけた」。教師が内に秘められた意味を探ろうとして時間を費やすと思うのか、見るからに楽しそうだった。「ピート、畜生どもに、こいつの意味を説明してもらおうじゃないか」とジョンは言った。

 この曲にはさらに(略)『鏡の国のアリス』でトゥイードルディーがアリスに話して聞かせる「セイウチと大工」の詩に見られるあべこべの世界のフィルターがかかる。

(略)

 ジョンは「アイ・アム・ザ・ウォルラス」をとりわけ誇らしく思った。「小さな面白さが詰まって、百年後でも興味を抱かせる曲のひとつだ」。

(略)

「あとで読み返してみたら、セイウチは物語の悪玉で、大工が善玉だったと気づいた。それで、『あれ、畜生、間違った奴を選んじまった』と思った」。というわけで、「グラス・オニオン」で自分のことを歌ったときには、こんな一節を考えついた。「じゃあここでもうひとつ手がかりをあげよう――あのセイウチはポールだったんだ」。

(略)

 「『アイ・アム・ザ・ウォルラス』を演奏したとき、みなの表情が虚ろだったのは、はっきり覚えている」とジェフ・エメリックは回想する。「ビートルズと過ごした日々のなかで一番悲しい思い出のひとつだ」。

 ジョンはマーティンとエメリックに、月から聞こえてくるような響きの声にしたいと言った。(略)エメリックはアンプを歪ませて、ジョンの声を鋭く、同時により霊妙にしようと試みる。

(略)

翌日、ジョンがラジオから流れる音をでたらめに付け足したいと言い張った。ジョージ・マーテインは呆れて目をむく。

 完成した寄せ集めには『リア王』の台詞の切れ端、マイク・サムズ・シンガーズの「エヴリバディーズ・ゴット・ワン、エヴリバディーズ・ゴット・ワン」の歌声に、遊園地で流れる歌「ウンパ、ウンパ、よけいなお世話」が含まれる。

(略)

[脚注]

マイク・サムズ・シンガーズはポピュラー音楽の歴史のなかで最も幅広く、最も報じられることの少ない活動歴を残した。グループの声は「レット・イット・ビー」と「グッド・ナイト」で聴けるほか、トム・ジョーンズの「デライラ」、ケン・ドッドの「ティアーズ」、オリビア・ニュートン=ジョンの「バンクス・オブ・ジ・オハイオ」など多くの曲でバックコーラスを務めた。(略)『海底大戦争スティングレイ』の記憶に残る主題歌も歌った。(略)

エルトン・ジョンはセッション・ミュージシャンだった時代にかれらと仕事をすることが何度かあった。「(略)中年のおばさん、おじさんがゴルフクラブの夕食付きダンスパーティーからスタジオに駆けつけてきたようにしか見えない。ところが一緒に歌うとなると、いきなり神の前に立たされたような畏れを感じさせる。なにしろ何を歌わせても上手すぎるから」。

マジック・アレックス

気まぐれから、ジョンはマハリシ超越瞑想のメッセージを世界中に発信できるラジオ局をリシケシュに作れる友人がいると話した。電力が余れば僧院と周囲の村々の照明にも使える。(略)

〈マジック・アレックス〉・マーダスは何種類かのネジ回しと電線を何本か入れた小さなリュックサックを背負ってリシケシュにやってきた。

(略)

トニー・ブラムウェルは、物理学の学位を持つマハリシが、いったいどうすればわずかな電線とヒューズだけを使って国際ラジオ局を作れると提案できるのか、マジック・アレックスに根掘り葉掘り訊きすぎたという噂を耳にした。「マハリシが鋭い質問を連発して、若いギリシア人は答えられず、パニックを起こした」。

(略)

[お返しに]マーダスはマハリシ若い女を口説こうとした(略)とジョンとジョージに吹き込み、マハリシへの敵意を植えつけ始めた。

(略)

「おれが代表して話した」とジョンが回想する。「(略)『お暇するよ』。『なぜだ?』とマハリシに訊かれて、おれは言った。『あんたは宇宙までお見通しなんだから、なぜだかわかるだろう!』(略)」

(略)

 ジョージはのちに、ジョンは前から帰りたくて、マジック・アレックスの作り話をこれ幸いと口実にしたと思うようになった。

(略)

 英国に戻ったビートルズは、マハリシに抱いた懸念については驚くほど口が固かった。幻滅したと少しでも言おうものなら、自分たちが騙されやすいと認めるようなものだから、黙っておくにしくはないと考えたのかもしれない。

(略)

[一方]マハリシの盛名は増すばかり、超越瞑想のワークショップには著名人多数が参加する。カート・ヴォネガットローリング・ストーンズ(略)女優のシャーリー・マクレーン(略)

二十四時間放送の衛星テレビ放送チャンネルも主宰し、超越瞑想を二十二の言語で百四十四か国に課金方式で発信した。いくつもの関連会社の複合ネットワークが書籍、CD、精神相談、マッサージオイル等の超越瞑想関連商品を販売する。ニューエイジのヘルスセンター、大学、公益信託に加えて「地上の楽園不動産会社」を運営し、政界にも進出して自然法党を結党し、一九九〇年代には減税、ヨガ式空中浮揚法、すべての町にハーブ村をとの綱領を掲げて英国の総選挙に打って出た。(略)

ブリジット・バルドー

 クオリー・バンク校では、少年たちが放課後になると藪のなかに集まって猥談に花を咲かせた。(略)少年たちは順番に有名なピンナップガールの名前を叫ぶ。「名前を聞くたびに、わたしたちはそれまでにない快感に昇りつめた」。

 自分の番が来ると、ジョンは好んでブリジット・バルドーの面影に協力を求める。(略)バルドーは端役で出演した『想い出』(一九五三年)の宣伝のためカンヌ映画祭を訪れ、ビキニ姿でポーズをとって英国でも一躍名を馳せた。バルドーが女優として大活躍した時期は、ジョンの思春期にあたる。(略)

「ウィークエンド」誌に毎週ついてくる付録の写真をつなげると、最後には水着姿のブリジット・バルドーの等身大のピンナップ写真ができあがる。全部集まると、ジョンは小さい写真を貼り合わせたポスターをベッドの真上の天井にテープで留めた。

 ポールもジョンに負けずにお色気たっぷりのフランス人女優に熱を上げた。「彼女だよ、彼女が最初の、最初のうちのひとりだ。ヌードやセミヌードを見たのは(略)すごくいい女で、フランス人とくれば、ぼくらにはブリジットしかいない、あの長い金髪と曲線美、それにぷっくりした小さな唇、あれが女性美の極致だよ。(略)」。

(略)

ジョンの心を掴もうと、シンシアは髪をブロンドに染め、付け睫をつけ、脚に吸いつく黒タイツを穿き、ぴったりしたセーターを着た。案の定、ジョンが興味を示すようになり、やがてふたりは付き合い始めた。

(略)

 ビートルズが初めてハンブルクに向けて旅立つ直前に、ジョンが電話をかけてきて、できるだけ早く家に来るようにと言われた。ミミ伯母さん[は留守](略)

「(略)色っぽいポーズをしてくれと言うので、髪を上げたり下ろしたり、スカートを持ち上げたり、胸を突き出したりして、できるだけブリジット・バルドーの真似をしようとした。写真を撮り終えるとセックスをして、それから暖炉に火を入れて、テレビの前のソファにもたれて、冷蔵庫にあったものを片端から食べた。してはいけないことだったから、なおさらわくわくした」。

 ジョンはこのとき撮った写真をハンブルクに持っていった。シンシアとポールの恋人ドットがハンブルクにやってくると、ジョンとポールはふたりを説得してちょうどバルドーが穿いているような革のスカートを着せた。何年も経ってから、ポールはジョンがこんなことを言っていたのを思い出した。「そうだな、ブリジットに似ていれば似ているほど、おれたちはうまくやれるってわけだよな!」

(略)

 一九六八年六月、ブリジット・バルドーがロンドンに到着し、アップルにひとりかそれ以上のビートルに会いたいと伝えてきて、空想が現実と衝突する。行くと言ったのはジョンひとりだった。

(略)

[対面を前に、気を鎮めんとLSDを嚥む、ジョンとデレク・テイラー]

バルドーは他のビートルが来ていないのにがっかりしたようだった。この頃になると、テイラーが服用したLSDの錠剤が効き始め、妄想の大波に襲われる。自分とジョンは危険にさらされているとテイラーはバルドーに言った。(略)

ジョンはしかるべく部屋までやってきたものの、LSDと革の服を着たブリジット・バルドーに二重のショックを受けて口が利けない。かなり苦労して「こんにちは」と言ったものの、その先が続かない。

(略)

 バルドーは、テイラーによると「ご機嫌麗しくはなかった」。バルドーと女性の取り巻きはジョンとテイラーをホテルのスイートルームに残して、足音高く階下のレストランに降りていった。ディナーから戻ってきたバルドー一行は、ふたりがまだそこにいるのを見て驚いた。テイラーはバルドーのベッドにぐったり横たわり、ジョンはインドで作った曲をギターで爪弾いている。バルドーの冷淡さはたちまち苛立ちに変わる。まもなくふたりにお引き取りくださいと言った。

「ヘイ・ジュード」

ジョンがヨーコと駆け落ちしてからまもない頃、ポールはシンシアに会いに車でウェイブリッジに向かった。シンシアには励ましが必要だろう、ポールはそう思った。「(略)ジョンはみなにも自分と同じようにわたしとは縁を切ってほしいとはっきり伝えたらしい。でもポールには自分の考えがあって(略)ジョンを恐れなかった」とシンシアは回想する。リンゴとジョージは何も言ってこないし、ふたりの妻も同様。「ジョンの怒りを買いたくないし、たぶんわたしに何と言ったらいいのかわからなかったのだろう」。

 ジュリアンはそのとき五歳、自分の父親が家を出たときのジョンと同い年だった。ポールは昔からジュリアンと仲がよかった。ポールは子供と心を通わせることができた。ジョンにはそれができない。(略)

「ポールはあいつの叔父さんみたいだった」とジョンもはるか後年、認めている。「ポールはいつも子供の扱いが上手なんだ」。(略)

「ジョンが寄ってきて(略)『どうやってやるんだ?(略)ジュリアンとだよ。どうしたら子供とあんなふうに遊べるんだ?』(略)

でもジョンにはどうしてもわからなかった。コツがわからないんだ」。壮年になったジュリアンは、父親よりポールと会う機会のほうが多かったと記憶している。「ぼくたちはとても仲が良くて、あの年頃ではポールと遊んでいる写真のほうが父とぼくの写真よりずっと多く残っている」。(略)

ウェイブリッジに向かう道すがら(略)どこからともなく、頭のなかに曲が浮かんだ。「ヘイ・ジュールズ」と始まる。「落ち込むなよ。悲しい歌を、もっとよくしよう」。

(略)

ジョンの脆い自尊心を傷つけまいとして、ポールは初めてジョンにこの曲を歌って聞かせる前に、「へイ・ジュールズ」を「ヘイ・ジュード」に変更した。ジョンは自分のこと、そして自分がヨーコを必要としていることを歌ったものと思い込ん「この曲のことを考れば、すぐにヨーコが思い浮かぶ。ポールが『ヘイ・ジュード』と言うのは、『ヘイ・ジョン』ってことさ。(略)これはたしかにおれに語りかける歌に聞こえる。『行って、あの子をものにする』のところは、無意識のうちに『さあ、行けよ、ぼくはいいから』と言っていた。ただ潜在意識のなかでは、ポールはおれに行ってほしくない。心のなかの天使は『うまくやれよ』と言っていた。心のなかの悪魔はまるで気に入らない、なぜならポールは相棒を失いたくなかったからだ」。

 

 何でも自分に引き寄せて解釈するのはジョンひとりに限らない。(略)

この曲はボブ・ディランに向けたものと考える者たちがいた。ディランはちょうどこの頃、ウッドストックの農場に引きこもっていた。「タイム」誌は周囲との関わりを求める呼びかけと理解した。「ローリング・ストーン」誌はジョンに女性への不届きな振る舞いをやめるように嘆願しているのではないかと考えた。

(略)

ジョンに歌って聞かせたとき、ポールはある一行の収まりがよくない――「君に必要な動きは君の肩の上にある (The movement you need is on your shoulder) 」――のにきまりの悪い思いをした。

「そこはあとでなんとかするよ」とポールは請け合った。

「よせよ、わかってるだろう」とジョンが言った。「そこがこの曲で一番いいとこじゃないか。何が言いたいかおれにはわかるすごくいい」。

(略)

最近この曲をコンサートで歌うと、「君に必要な動きは君の肩の上にある」の行にとりわけ胸を打たれることにポールは気づく。「この曲を演奏して、その行に来るとジョンのことを思って、その瞬間ちょっと気持ちが昂ることがある」。ということであれば、ジョンがうすうす気づいていたことは、その点では正しかったことになる。

『トゥー・ヴァージンズ』

 ある日のこと、ジョンが雑用係のトニー・ブラムウェルに、タイマー付きのカメラを用意して使い方を教えてほしいと頼んだ。翌日、ジョンがブラムウェルにこっそりフィルムを手渡して現像してれという。「ちょっと危ないんだよ、わかるだろう。誰にも見せないでくれ、いいな?」

 現像済みのフィルムがアップルに届いたとき、ピーター・ブラウンは悪趣味な冗談と思った。「あまり破廉恥なのでデスクの引き出しにしまって鍵をかけ、誰にも見せなかった」。潔癖なブラウンは「はにかんで微笑み、乳房が床に向かって垂れ下がる」ヨーコを見たくないし、「ヘロインが効いて目はとろんとし(略)馬鹿みたいににやにや笑い、萎んだ包茎のペニスを晒して誇らしげ」なジョンも見たくない。それ以上にアパートの惨状に狼狽した。「寝室はまるで豚小屋、しわくちゃのシーツ、汚れた衣服、新聞雑誌が床に山積みの、ヤク中毒の隠れ家と見紛うばかり」。数日後、ジョンが(略)『トゥー・ヴァージンズ』のジャケットに使うと一同に告げた。

(略)社内の全員が「笑い転げた。(略)いくらあのふたりだって、そこまでするとは誰も思わなかった」。

 そのときまで、ジョンは裸に対しては明らかに堅苦しい態度を示してきた。一九六五年六月にアレン・ギンズバーグの誕生日パーティーに出かけたところ、ジョンとシンシアを迎えた毛むくじゃらのビート詩人は、ボクサーパンツを頭にかぶった以外は何ひとつ身に着けず、「起こさないでください」と書いた札をペニスにぶら下げていた。ジョンは不快感を露わにする。「女の子の前でそういうことはしないでくれ」。(略)

その年の後半、「ローリング・ストーン」誌とのインタビュー(略)

「写真が戻ってきたとき、たしかにちょっとショックを受けた。もちろん、アルバムや写真に自分のちんぽが写っているのを見たことはなかった。『おいおい、いったいこりゃ何だ?ちんぽを出した奴がいるぜ』って感じかな。(略)」。(略)

ジャケット案を見せられたリンゴは、どこを見ればよいかわからなかった。何か言わなければいけないと思い、写真のなかのジョンの足許の床に落ちている「タイムズ」紙を指さして、「おや、『タイムズ』まで写ってるな」と言った。しかしいつまでも恥ずかしがってはいられない。「『おい、よせよ、ジョン。こんなことをして、君はイカしてると思うのかもしれないが、こっちはみなそれについて答えないといけないんだぜ』と言ったよ」。

 ポールはもっと強硬に反対した。(略)ブラムウェルはポールが「七千種の怒りの発作を起こす」のを見た。「ポールは胸くそ悪いと思い、ジョンが本気でそんなことをするつもりと知って心底愕然とした」。ブラムウェルによると、非はヨーコにあるとポールは考えた。「ジョンはヨーコと知り合うまでひどくお堅いほうだった。(略)ヨーコがジョンの抑制を解き放ち、惨憺たる結果を招いた。『ぼくら全員の問題だってことがジョンにはわからないのか?(略)写っているのはジョンとヨーコかもしれないけれど、世間の人々はビートルズは気が狂ってポルノを始めたとか言うだろう』」。

(略)

 最終的にEMI会長サー・ジョゼフが、EMIはジャケットに全裸の写真を載せたアルバムの配給はしない、ただしレコードそのものは通常の価格で生産しようと申し出た。アルバムは結局アップル・レーベルから発売され、ザ・フーのレーベル「トラック」が配給した。レコード店では無地の茶紙に包装されて店頭に並んだ。多くの人々が『トゥー・ヴァージンズ』をただジャケット欲しさに購入したのは避けがたいことだった。年若いビートルズ・ファンの何人かは、このアルバムで生まれて初めて大人の裸をちらりと覗くことになった。

チャールズ・マンソン

 チャールズ・マンソンにとって(略)[『ホワイト・アルバム』の]ジャケットの純白までが、マンソンの時代の到来を告げる合図となる。(略)黄色く塗って〈イエロー・サブマリン〉と名づけた家で、マンソンはこのアルバムに関するセミナーを主宰した。(略)

マンソンは信奉者たちに、互いに無関係な曲の雑多な集まりに見えるかもしれないものが、じつは武装蜂起への明確な呼びかけ、とりわけマンソン率いる比類ない特権を授かった「ファミリー」に向けて暗号化された檄であることを理解させたかった。

 マンソンは「ファミリー」に、アメリカの黒人たちが武装し、裕福な白人の抑圧者を数百万単位で殺害する準備をすでに調えたと信じ込ませた。この蜂起は白人と黒人の間の内戦に発展するだろう。殺戮がくりひろげられる間、マンソン・ファミリーはデス・ヴァレーの神秘的な洞窟に避難する。(略)勝利の喜びに湧く黒人たちが自らの「超意識」を利用して真の指導者、チャールズ・マンソンを見つけるだろう。

 こうした予言は、すべてビートルズの歌詞に見いだせる。ポールの「ブラックバード」は人種間戦争を煽動する。ジョージの「ピッギーズ」は解釈するまでもない。

(略)

 ジョージは一九六六年にこの曲を書き始めたものの(略)一九六八年になってもまだ歌詞ができずに四苦八苦していた。(略)backing(裏板)と韻を踏む言葉がlackingしか出てこない(略)するといきなり母親が、「あいつらに必要なのはどつき(whacking)」という歌詞を思いついた。ルイーズ・ハリソンが生涯にただ一度作詞に参加したのが、図らずもレノ・ラビアンカの死に一役買うことになったのだろうか?レノが腹にフォークを突き立てられた姿で発見された居間の壁には、「豚どもに死を」と血で殴り書きされていた。

 ビートルズそのものが人類に死をもたらすために遣わされた四人の天使にほかならない。マンソン・ファミリーの乗るバギー車はかれらの馬になるだろう。『ヨハネの黙示録』にマンソンは、イナゴが「鉄の胸当てのような鱗片をつけて」飛来するという一節を発見する――イナゴはむろんカブトムシであり、鱗片がギターであるのは言うまでもない。ビートルズにはいつの日か五人目のメンバー、あるいは「天使」が加わり、天使には「底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられる」。これは言うまでもなくマンソン自身だった。かれらはともに正義の名の下に大惨事をもたらす。「どちらも人を殺すこと、まじない、みだらな行ない、盗みを悔い改めなかった」。

(略)

英国では、ヘルター・スケルターは遊園地によくある鮮やかな色彩が目を引く螺旋状の大きな滑り台のことである。(略)その意味を無視して、マンソンはこれを蜂起への呼びかけと思い込んだ。信者のひとりは、マンソンが「ヘルター・スケルター」の語を差し迫った人種間戦争の略称に用いたと証言する。「これはつまりニグロが襲来し、都市を木っ端微塵にすることを意味する」。『チャールズ・マンソンとの日々』のなかで信者のひとり、ポール・ワトキンズはこう記す。「ヘルター・スケルターがやってくるまで、チャーリーの頭のなかには乱交しかなかった」。

(略)

マンソンはこう陳述した。「ヘルター・スケルターは混乱だ。瞬く間にやってくる混乱。瞬く間にやってくるその混乱が見えないのなら、好きなように呼んでくれ。これはおれの陰謀ではない。これはおれの音楽ではない。曲が語ることをおれは聞く。それは『立ち上がれ!』と言う。『殺せ!』と言う。なぜおれのせいにする?おれがその曲を書いたわけではない。お前たちの社会意識にこの曲を投影したのはおれではない」。

(略)

 ごく軽やかでふわふわした曲でさえ、はるかに不吉なものを指す暗号にされる。陽気な気分で、ポールはジャズ好きの父親へのプレゼントとして一九二〇年代のラグタイムを剽軽に模し「ハニー・パイ」を書いた。ところがマンソンにとっては(略)「大西洋を渡って故郷に帰る」の一行は、ビートルズがまもなくデス・ヴァレーにある農場で「ファミリー」に合流することを意味した。裁判中、殺人を命じたと非難され、マンソンはこう答弁した。「命じたのはビートルズだ、かれらが世に送り出す音楽だ。かれらは戦争を語っている。(略)」。マンソンの信者たちは「立ち上がれ」と「豚どもに死を」の言葉を犠牲者の家の壁に、「ヘルター・スケルター」を冷蔵庫に血で殴り書きした。

 ヘッドホンで「レボリューション9」を聴いて、マンソンはビートルズが「チャーリー、チャーリー、電報を寄越せ」と言うのをたしかに聞いたという。

エルヴィス・コステロ

ロス・マクマナスは一九六三年一月には三十五歳、ジョー・ロス・オーケストラの専属歌手だった。当時はBBCと音楽家組合の間に契約があり、毎日ラジオで放送できる録音された音楽は五時間に制限されていた。それを超える分は、すべて生演奏でなければならない。ジョー・ロス・オーケストラはその隙間を埋めるべく、他のアーティストの最新のヒット曲をわずか数日のうちに習得し、その後生放送のスタジオでそっくり真似て演奏した。

 マクマナスの九歳になる息子デクランは、父親が最新のヒット曲を何度もくりかえし聴き、声を合わせて歌い、覚えるのに耳を傾けた。(略)

 一月、マクマナスは新進のグループ、ビートルズの歌う「プリーズ・プリーズ・ミー」という曲を覚えるように指示される。デクラン少年は父親が何度もかけるレコードに聴き入った。少年はハーモニーをつける部分に驚いた。(略)「(略)あのクレシェンド、とくにファルセット気味に跳ね上がる最初の『プリーズ』はすごくいい」。

 デクランは父親に、曲を覚えてしまったらレコードをもらってもいいかと訊ねた。「父は笑って、レコードを手渡してくれた」。年が経ち、ビートルズの名声が高まるにつれ、デクランは父親がビートルズの新しいシングル盤が出るたびにレコードを持って帰宅するのを心待ちにした。(略)レコードはプレスされたばかりの状態でやってきた。ラベルの多くに「デモ盤」とか「ディック・ジェイムズ音楽出版社」と赤インクで印字されていた。

 十一月の初め、ロス・マクマナスはジョー・ロス・オーケストラとともにロイヤル・バラエティ・ショーに出演して「天使のハンマー」を歌うことになった。デクランにとっては、父親がビートルズと同じ日に同じステージに立つことのほうが、王室の方々の前で演奏することよりはるかに心躍る出来事だった。

(略)

ビートルズとほんとに会えたの?」

 父親はああと呟き、かれらに会えたし、とても感じのよい若者たちだったと答えた。「それから椅子の背にかけた上着に手を延ばすと、薄いエアメール用の便箋を一枚取り出して手渡してくれた。紙を広げたら、そこにビートルズの四人全員のサインがあった。(略)インクがまだ乾ききっていないみたいに見えた」。

(略)

 十年後、デクランがミュージシャンとしてデビューしようというとき、父親のロスは息子に、自分の父がジョー・ロス・オーケストラで歌っていたなどとは絶対に口にしてはいけない、さもないと真面目に相手にしてもらえないぞと助言した。デクラン・マクマナスはカムフラージュに加えて名前をエルヴィス・コステロに変える。「考えてみれば、親父はあのとき三十五歳だった。二十二歳の若者たちのところに行って、『息子のためにサインしてもらえるかな』と言うのは、なかなか大変だったと思う」。

Ross McManus with The Joe Loss Orchestra - If I Had A Hammer


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新語考

 一九六〇年には theme park、wheeler-dealer(策士)、beehive(蜂の巣形の髪型)が語彙に加わり、その年シルヴァー・ビートルズビートルズに改名してハンブルクに旅立った。

 続く三年間には、life-style、Purple Heart(興奮剤の俗称)、Chelsea boots、trendy、no problem(何でもない/大丈夫)、mind-expanding(ハイになる、幻覚作用のある)が日常会話に登場する。(略)一九六四年には、裾広がりのパンツを指す flares とともに gonk(卵形のおもちゃの人形)、disco が初お目見えした。swinger(グループセックスをする者)、topless、そして beautiful people という表現が、従来の考えにとらわれない時代の到来を告げる。

 一九六四年にはリヴァプール生まれの作家アラン・オーウェンが『ハード・デイズ・ナイト』の脚本に grotty(むかつく/醜い)という形容詞を取り入れた。オーウェンはこの映画の台詞にビートルズなら使いそうと思う単語を散りばめた。たとえば、 dig(理解する、わかる)、fab(素晴らしい)、drag(残念)などである。オーウェンは grotty をありふれたリヴァプールの俗語と思っていたが、ビートルズのメンバーの誰ひとりその言葉を聞いたことがないと知って驚いた。「すごく変な言葉だと思ったよ」とジョンが回想する。「それを言わされるたびに、ジョージはきまり悪がって身体を丸めていた」。ところが映画がヒットしたおかげで、その年の終わりには grotty すでに立派な英語のひとつとなっていた。

 mini-skirt の到来は一九六五年のことで、この年にはgo-go dancer、teeny bopper(流行を追うティーンエイジャーの少女)、 loon(愚か者)、zit(にきび)、downer(鎮静剤)、women's liberation(女性解放運動)、chat show(トークショー)が、freak out(ドラッグなどで興奮状態になる)、turn on(興奮させる)という呼びかけの言葉とともに使われ始める。一九六六年(略)には Transcendental Meditation (超越瞑想)が初めて活字になったものの、日常会話で聞かれるようになるのはビートルズが初めてマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーと知り合ってからのこと、同じ頃、love-in(ヒッピーの愛の集会)、rave(どんちゃん騒ぎ)、encounter group(集団心理療法のためのグループ)、hype(誇大広告)、groupie、generation gap、mind-blowing(めくるめく(略))、flower power、そしてflower peopleとともに庶民の言葉に加わった。

 vibes(雰囲気)もやはり一九六七年に初めて登場したものの、ビートルズが初めて使用したのが記録されたのはその翌年、ジョージが自分のジンジャービスケットを断りもなく食べるヨーコを見てかっとなり、「あんた雰囲気を悪くしてるよ」と言ったのが最初とされる。

(略)

一九六九年は ego trip(独りよがりな振る舞い)、one-parent family(片親家庭)、alternative society(代替社会)、jet lag(時差ぼけ)、bowver boot、 missionary position(正常位)、roadie(ツアーアシスタント)が誕生する。turn on に遅れること四年、対義語の turn off(うんざりする/させる)がこの年に加わる。同じ年の三月二十五日、アムステルダムヒルトン・ホテルでジョンとヨーコは新語 bed-in を作ると同時に実演してみせた。これは sit-in(抗議の座り込み、意外かもしれないが、こちらはすでに四十年ほど前から通用した)が水平になったもの。(略)

さようならブライアン・エプスタイン

[引用者注:エプスタインの死からビートルズとの初遭遇へと時間が逆に進行し、最後に、本のタイトル「ワン、ツー、スリー、フォー」で、本の冒頭につながるという仕掛けになっている]

 

 一九六七年九月八日

[検視した病理医は]血液中から百六十八ミリグラムのブロミドが検出されたと報告する。(略)長期にわたり服用しないかぎり、これほどの量に達するはずはない。

(略)

血中のブロミド濃度が高くなると、無頓着、無分別になりやすいと書き添える。(略)「ドラッグに関しては、患者は少なくとも五年前から大量のアンフェタミンを服用し、また定期的にマリファナを喫っていた。ヘロインも試したが、中毒ではなかった。ときおり、とりわけこの二年間は、アルコールの飲み過ぎと、ドラッグなら何でも過剰に服用する傾向があった」と述べる。

(略)

 一九六七年八月二十九日

 ブライアンはエイントリーユダヤ人墓地の父親のそばに葬られる。父親が亡くなったのは、わずか六週間前のことである。ブライアンは帰宅する車のなかでこらえきれず泣きじゃくった。今度はブライアンが人々を悲しませる番だ。群衆が手に負えなくなるのを恐れて、ブライアンの母親クィーニーがジョージと他のメンバーに弔問に来ないよう頼んでおいたため、比較的静かである。

(略)

シラ・ブラックがあまりに悲嘆に暮れるのを見ていられず、クィーニー・エプスタインは精神安定剤を与える。

(略)

 一九六七年八月二十七日

 午後遅く、ポールはマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーウェールズのバンガーで主催した超越瞑想の集会を中座し、「リヴァプール・エコー」紙の人懐こい記者と話し込む。裏で電話が鳴りやまない。(略)記者は受話器を取り上げるポールを見つめる。ポールがこう言うのが聞こえる、「え、まさか、嘘だろ、どうしよう」。ポールは受話器を置き、ジョン、ジョージ、リンゴのいる二階に駆け上がる。しばらくして、階下に降りてきて記者にこう言う。「ブライアンが今朝、部屋のベッドで死んでいるのが見つかったそうだ。睡眠薬の過剰摂取か何からしい。さっぱりわからない。今すぐロンドンに戻らなくちゃ」

 ジョンは怯える。「困ったことになるとわかっていた。音楽を演奏する以外におれたちに何かできるとは思わなかった、ただ怖かった。『もはやこれまで』と思ったよ」。

(略)

[ブライアンが姿を見せないと秘書からアリステア・テイラーに電話]

過去に二度、どちらも日曜だったが、ブライアンが電話をかけてきて、これから自殺すると言ったことがある。「アリステア、もううんざりだ。お別れを言おうと思って電話しただけだよ」。二度とも、アリステアは大急ぎで駆けつけ、不機嫌なブライアンに迎えられた。「なんだ、馬鹿言うんじゃない。ちょっと気が滅入っただけさ。ほっといてくれ」。

 チャペル・ストリートに着くと、ジョアンがすでに医者を呼んでいた。医者が肩から体当たりしてドアを開ける。アリステアもあとに続く。ブライアンはベッドにいる。「眠っているように見えたが、死んでいるとすぐにわかった。全身が言いようのない痛みに襲われた」。

 医者が「残念ながらお亡くなりです」と言う。

 アリステアは呆然とする。何もかもが、自分自身も含めて、スローモーションのようにしか動けないと感じる。

(略)

遺書はなく、乱れた様子もない。引き出しを開けると、とてつもなく太いマリファナ煙草が見つかる。アリステアはそっとズボンのポケットに滑り込ませる。

(略)

 一九六七年五月十三日

 かかりつけの精神科医ジョン・フラッド博士に「不眠症、興奮状態、不安症、抑鬱状態」と診断され、ブライアンは自ら(略)診察を受ける。医者たちはブライアンを一週間弱、睡眠薬で眠らせる。

 目を覚ましたブライアンは、次々と訪問者に面会する。訪問者たちはブライアンが奇矯で被害妄想気味、ときおり感情を剥き出しにすると思う。面会に来たロバート・スティッグウッド、ナット・ワイスと仕事の打ち合わせをしている最中に、巨大な花束が届く。ブライアンはカードを開き、声を出して読み上げる。送り主はジョン。「ぼくが君を愛していることは知ってるね、心から」。ブライアンは泣き崩れる。ふたりの訪問客は廊下に退く。「ブライアンは正気じゃないな」とスティッグウッドが言う。

 ポールはブライアンに四枚の手紙を書くが、そこには忠告と励ましが優しくもぎこちなく入り混じる。「君の最大の問題は、なんでも深刻に受け止めすぎることだ」。「誰が気にする?」と書かれた新聞の見出しを切り抜き、三枚目の自分の文章のなかにそれを貼り付けて、「気にするひとだっている、友だちだ、そして友だちの声に耳を傾ける時が来た」と書き添えてある。手紙の締めくくりは、「いいこと考えろよ、元気を出せ、早くよくなるように祈ってる」。

 ビートルズはピーター・ブラウンに頼んでポータブル・レコードプレーヤーと新譜アルバムの初期プレス盤をプライオリー病院に届けさせる。プライアンはベッドの上に腰掛けて、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に初めて耳を傾ける。

 

 一九六七年春

 ブライアンの常軌を逸した振る舞いがますます目立ち始める。以前は時間厳守だったのに、めったに時間を守らなくなる。土壇場で約束をキャンセルする。仕事の会合で、大筋をまったく掴めていないのに、些事にこだわり、叫んだり怒鳴ったり、「なんでこんなことができないんだ?!」と大騒ぎする。

 

 一九六七年二月二十八日

 ブライアンはマンハッタンのウォルドーフ・タワーズ・ホテルに滞在中。(略)ナット・ワイスが立ち寄り、ブライアンがまともにしゃべれないのに気づく。ブライアンは睡眠薬[を](略)もっと嚥もうとする。ワイスは力ずくでブライアンを床に抑え込み、薬瓶を窓から外に放り投げる。(略)

自分の車に乗せてインタビューを受けるラジオ局に連れていく。ワイスはスタジオでもブライアンの隣に控え、ブライアンが崩れ落ちるのを防ぐ。最初の数分、ブライアンが訳のわからないことを呟く間、マレー・〈ザ・K〉がDJらしいおしゃべりで間を持たせる。だがそのうちに興奮剤が効き始めて、ブライアンは息を吹き返す。

 

 ブライアンはマンハッタンにいるときはいつでも、ひとりで運転手付きのリムジンの後部座席にゆったりと腰を落ち着けるのがお気に入りの気晴らしだ。銀のシガレットケースに手を延ばし、あらかじめスタッフに巻かせておいたマリファナ煙草をふかしながら、セントラル・パークの周りをドライヴするのを好む。ブライアンはいつも同じ曲を何度もくりかえしカーステレオ装置でかけさせる。曲はフォー・トップスの「イッツ・ザ・セイム・オールド・ソング」。

 

 一九六七年一月後半

 いつもとは逆に、ビートルズがブライアンのことを心配する。「エピーの具合がひどく悪そうだ(略)頭が完全にイカレてる、本当に心配だ(略)どうしたらいいか、まるで見当がつかない。独り立ちして、自分たちの道を進んでいい頃なんだが、それはそれとしてね」。

 ジョンが聞かせてくれた録音テープは(略)「人間の声とかろうじてわかる程度で、呻いたり、唸ったり、叫んだり(略)まるで意味不明だった」。

 ピート・ショットンがこれは誰かと訊ねる。「ブライアンだよ(略)自分の家でおれのために録音したらしい。なぜこんなものを送りつけてきたのかわからないが、何か伝えようとしたんだろう、何が何だかわからない。もうふつうのやり方でおれたちと話ができないらしい」。

(略)

 一九六六年十一月後半――十二月

 ツアーをやめた今では、ビートルズは以前ほどブライアンを必要としなくなり、一緒に過ごす時間も減る。スタジオの録音エンジニア、ジェフ・エメリックは、ビートルズの面々がブライアンにスタジオをうろついてほしくないと思っていることに気づく。ブライアンはビートルズとの日々の交流がないのが寂しい。することが減っていくにつれ、ブライアンの退屈しのぎもますます無謀になる。

 

 一九六六年八月二十九日

 ビートルズがサンフランシスコのキャンドルスティック・パーク球場で演奏を始めるほんの数時間前、ブライアンは打ちひしがれた様子に見える。コンサートは見に行かないことにしていた。その代わり(略)ホテルのスイートルームで過ごす。ブライアンはナット・ワイスに言う。「これがビートルズ最後のコンサート、もうこれっきりだ」

 ブライアンはナットに、昔の恋人ジョン・〈ディズ〉・ギレスピーが立ち寄ったと言う。(略)「あの子は変わった」とブライアンは言う。

「変わりゃしないさ」とワイスは言う。「追い出せよ」

「いや、君にはわからないよ……あの子は本当にぼくを愛している」

 ビートルズは四人ともギレスピーが好きなのだとブライアンは言い張る。ワイスはそれが真実でないと知っている。四人はあからさまにギレスピーを嫌った。ブライアンは横柄な態度や粗暴な行為に(略)性欲が昂るらしい。(略)

[二人が夕食から]戻ると、ギレスピーがふたりのブリーフケースを持ち逃げしたあとだった。(略)ツアー契約書と違法な睡眠薬セコバルビタールと現金二万ドルが入っていた。その後、ギレスピーはふたりに脅迫状兼取引要求の手紙を送りつけ、ふたりのブリーフケースと引き換えに一万ドルの支払いを求める。ブライアンはナットに「放っておこう」と言うが(略)ワイスは私立探偵を雇い(略)ギレスピーは逮捕され、ブライアンは金の半額が入ったブリーフケースを取り戻す。ところがブライアンはナットの行動をあっぱれとも思慮深いとも思わず、信頼を裏切られたと感じる。(略)

ワイスははるか後年、こう回想する。「あっちでもこっちでも裏切られたことが、ブライアンにとどめを刺した」。

(略)

 

 一九六六年四月六日

(略)ブライアンはナットに問題が起きたと告げる。ディズ・ギレスピーがニューヨークにいて、連絡してきた。ブライアンと縒りを戻したいと言っている。ブライアンは断りきれないと感じるが、同時にディズがビートルズを困らせるかもしれないと思うと怖くなる。ナットは(略)ギレスピーの姿を一目見て、どんなタイプか見抜く。「どこにでもいる男娼だ」。

 ギレスピーはブライアンを愛していると言い張る。「何もいらない。会いたいだけだ」

(略)

 ワイスはギレスピーの(略)要求を呑まないよう助言する。しかしブライアンはナットに、ギレスピーに車を買う金として三千ドルやるようにと言う。金を手渡す前に、ワイスはギレスピーに、ブライアンとビートルズが街を離れるまで、ワーウィック・ホテルの鍵のかかった監視付きの部屋から一歩も外に出ないことを承知させる。

 

(略)

 一九六五年八月十七日

(略)ラリー・ケインはビートルズ初の全米ツアーの全行程に同行してメンバーと親しくなっていたが、ブライアンに目立った変化が起きているのに気づく。気分の浮き沈みが激しい。輝くような笑顔を見せたかと思えば、次の瞬間には「打ちのめされた表情」に変わる。

 

 一九六五年三月

 ブライアンの新しい恋人ディズ・ギレスピーは暴力をふるう。ブライアンとディズは夜になると興奮剤をコニャックで嚥み下す。しまいには激しい口論になることもしばしばで、花瓶や鏡が叩き割られる羽目になる。ある晩、ギレスピーが怒り狂っため、ブライアンがアパートから出ていけと命じる。ギレスピーはキッチンナイフを掴んでブライアンの喉元に突きつけ、ブライアンの財布から金を抜き取る。

 

 一九六五年春

 パディ・チェンバースがナイツブリッジのアパートにブライアンを訪ねる。(略)「何から何までめちゃくちゃにされていた、ものすごく高級なアパートなのに、カーテンはすべて引きちぎられ、カクテルキャビネットは粉々に打ち砕かれていた。(略)ドラッグのせいと思うけれど、ブライアンは『気が触れていた』」。

 

 一九六五年二月

(略)ブライアンのベントレーのドアに、誰かが車のキーで引っ掻いて、QUEER(おかま)と落書きする。

 

 一九六五年一月

 ブライアンからかかってきた電話の声があまり奇妙なので、両親は息子の家に急いで駆けつける。(略)ブライアンはギレスピーを愛していると告白する。母親のクィーニーは、ピーター・ブラウンと一緒に南仏にでも休暇に出かけて、そいつのことは忘れなさいと強く言い聞かせる。

(略)

 一九六四年十二月

 ブライアン・エプスタインはいまや英国で、おそらく世界でも最も成功したマネージャー兼興行主である。(略)

ブライアンがマネジメントを担う他のアーティストの活躍も目覚ましい。

(略)

 事務所のスタッフはブライアンが傘下のタレント一覧に役者をひとり加えたと知って驚く。その名はジョン・〈ディズ〉・ギレスピー。

(略)

 一九六四年十月

 ブライアンは二十代前半のアメリカ人の若者ディズ・ギレスピーと知り合う。(略)「黒髪、いたずらっぽい目とやんちゃな小鬼のようなしゃくれた鼻」の持ち主。ギレスピーは役者か歌手、あるいはその両方になりたがっている。「かれには何か特別なものがある」とブライアンは言う。(略)

 ブライアンはギレスピーの借金を返済し、自分の個人口座から手当を支給し、NEMSエンタープライズに週給五十ポンドで雇い入れ、新しい服一式を揃えてやる。新聞各紙はギレスピーを、ブライアンの最新の掘り出し物と報じる。

(略)

 一九六四年五月十七日

[「オブザーバー」紙のインタビューで]

 ブライアンは自身の内気さ、不幸な学生時代について語る。ハリスが問う。「つまりビートルズがあなたの問題を、あなたに代わって解決してくれたというわけですね?」

 ブライアンは答える。「そうです、おかしなことですが、これまでそんなふうに考えたことはありませんでした。でも、たしかにそのとおりです。ビートルズのすべてが、わたしには正しかった。人生に対するかれらの心構え、かれらの音楽から伝わってくるあの心構え、かれらのリズム、歌詞、ユーモア、独特の振る舞い――すべてがわたしの望むものでした。率直で気取らず、気立てがよくて遠慮のないかれらのようなひととの接し方が、わたしにはどうしてもできなかった。そうしたいのにできないと感じていたのです。わたし自身の劣等感が、ビートルズのおかげで解消しました。なぜなら、わたしにはかれらを手伝えるとわかり、かれらがわたしに手伝ってほしいと思い、わたしを信じて、手伝わせてくれたからです。(略)」

(略)

 一九六二年六月七日

 デモ盤を聴き、EMIのジョージ・マーティンはテスト録音にビートルズを招くが、あまり気乗りしない。セッション中に席を外して社員食堂でお茶を一服、ビスケットもつまむ。「リヴァプールからやってきた四人の間抜け」をとくに気にかける理由は見当たらない。オーディションが終わっても疑念は消えず、とりわけ自分たちで書いたという曲には疑いを抱く。マーティンは「連中の作詞作曲の才能が売り物になる見込みはないと確信」する。ところがオーディションのあと、カフェで一緒におしゃべりするうちに魔法にかかる。当意即妙、ひとをからかうような気さくな会話、向こう見ずなエネルギー。「そのあとの十五分から二十分は、とにかく愉快だった。連中が帰ったあと、わたしは座ったまま、『ふう!あの子らのこと、どう思う?』と訊ねた。涙が頬を伝った」。

 おおまかに言うと、音楽より人柄を買って、ジョージ・マーティンビートルズと契約を交わすことにする。

 

 一九六二年五月八日

 何社ものレコード会社を訪ねた挙げ句、手持ちのデモ盤が尽きてしまい、ブライアンはデッカで断られた録音テープを持ってオックスフォード・ストリートのHMVの店に行き、一ポンド払ってレコードにしてもらう。ディスクをカットする係のジム・フォイが、このグループのサウンドは「かなりいいじゃないか」と言い、どこかと契約しているのかと訊ねる。「いや、ありとあらゆるところに行き、ありとあらゆるひとに会ったんですけどね」とブライアンが言う。

 フォイがブライアンを二階に案内し、EMIの音楽出版部門のシド・コールマンに引き合わせる。シドがブライアンにEMIにはあたってみたかと訊ね、ブライアンはあたったと答える。「だめだと言われました」。シドがジョージ・マーティンには会ったかと訊ねる。

 「誰ですか?」

 「パーロフォンの責任者だよ」

 ブライアンはいよいよどん底まで来たと感じる。パーロフォンはブライアンの眼中にない。コメディとジャズの屑籠だ。

(略)

 一九六二年一月二十九日

 ブライアンはビートルズの借金二百ポンドを返済する。これはギターとアンプの分割払い購入契約が積もり積もったもの。ブライアンは四人を行きつけの仕立屋ベノ・ドーンの店に連れていき、襟幅の狭い濃紺のモヘアの小粋なスーツを誂える。四人はズボンをもう少し細身にしてくれとしきりに頼む。ビートルズは有名になるからこの先注文が増えると言って、ブライアンはドーンに掛け合い、二十八ギニーを二十三ギニーにまけてもらう。

(略)

 ブライアンはビートルズに小ぎれいにするように強く求める。ひとりひとりに明確な指示を与え、最高級の紙にタイプして手渡す。「ステージ上では酒、煙草、チューインガムは禁止、罵りは厳禁。(略)ステージにいる間は可愛い女の子がいても話しかけないこと。時間を守ること。(略)いまや君たちはプロで、よい評判を保たなければいけないことを忘れないように」。

 グループのメンバーのなかで誰より問題を起こしそうなジョン・レノンが感心して、その気になる。後日、ジョンはこう回想する。「ブライアンが指示をまとめて紙に書いてくれて、それで何もかも現実だと思えた。ブライアンがやってくるまで、ぼくらは目覚めたまま夢を見ていたのさ。(略)それからはステージの上でチーズロールやジャムサンドをくちゃくちゃ食うのはやめた」。

 

 一九六一年十一月九日

ワン

 ツー

  スリー

   フォー

(略)

 演奏が終わり、テイラーは「まったくひどい連中ですね」と言う。

 「たしかにひどい(略)でも、すごくいいじゃないか。ちょっと挨拶しに行こう」

(略)

「やあどうも」とジョージは言う。「エプスタインさん、いったいどうしてこんなところへ?」(略)

 

ビートルズの時代 その2

前回の続き。

エドサリヴァン・ショー」

 一九六三年の大半、ビートルズは(略)アメリカでは無名だった。ブライアン・エプスタインもビートルズ自身も全米デビューのタイミングを誤らないように用心した。クリフ・リチャードに起きたことを目の当たりにして、同じ轍を踏むまいと心に決めた。「大勢の英国人アーティストが大西洋を越えて、泣かず飛ばずに終わった」

(略)

 十月三十一日(略)エドサリヴァンが、人材を発掘するためヨーロッパ大陸を巡ったあと、ヒースロー空港に降り立った。(略)悲鳴をあげる数千の若い娘たちがまず目に入り、何事かと思う。(略)返ってきた答えは「ビートルズですよ」。

 サリヴァンは飲み込みが早い。自分の番組に出演させるつもりで、ブライアン・エプスタインに連絡をとった。クリフの幻影が記憶に新しいエプスタインは、アメリカ遠征は絶対に失敗しないようすでに計画を立てていた。(略)

エドサリヴァン・ショー」のプロデューサーで司会者の義理の息子ボブ・プレクト(略)はぜひビートルズには出演してもらいたいが、目新しいもの、イギリス出身の珍品としてしか見ていない。他方、エプスタインはビートルズをなんとしてもその日のメインゲスト、スターとして登場させたかった。エプスタインが最終的にまとめ上げた契約は見事な妥協の産物だった――ビートルズは二週続けてメインゲストとして出演するが、ギャラは雀の涙の七千ドル。(略)およそ五万ドルの営業損失をこうむる

(略)

[のちのCCR]トムとジョンのフォガティ兄弟(略)「おい、ぼくらにもできるよ。このイギリスの連中にロックンロールがやれるなら、ぼくらにだってやれるさ」

(略)

 十三歳のトム・ペティ(略)「これならいける。(略)友だちを集めれば、それでちゃんと成り立つんだ。あとは音楽をやればいい」。数週間のうちに、近所のいたるところのガレージでいくつものグループが演奏を始める。

 クリッシー・ハインドは十二歳(略)「まるでセックスみたいだった、セックス抜きのセックス。自分がどこに座っていたか、はっきり覚えている。すごかった。地軸がずれたみたい(略)小さな処女で大人になりたくなくて(略)そういうわたしに一種の性感が拓かれた。より観念的な途だった。(略)」。

[翌日学校に行くと]男子生徒全員が額に前髪を下ろしていたので、クリッシーも同じことをする。「それから二度とカーラーを巻かなかった。櫛でまっすぐ梳かして、おかっぱにした」。

(略)

 十四歳のビリー・ジョエル(略)「四人はそこらにいる労働者階級の家の子供たちみたいに見えた(略)ジョン・レノンは『エドサリヴァン・ショー』でもこんな顔つきをしてたよ。『お前らみんないけすかないな。こんなのおれには何の関係もない』って」。ビリーはそのときそこで自分の運命を知った。「あの瞬間自分に言った、『こいつらを知ってる。こいつらのことは自分のことのように感じる。おれもこいつらと一緒だ。これがおれのやりたいこと。おれはこれがやりたい。あいつらのようになりたい。(略)ロックバンドで演奏する』」。

階級社会

アメリカ初のコンサート[後](略)イギリス大使館に迎えられ、そこで別の形のヒステリーが起きる。

(略)

夜会服に身を包んだ紳士淑女で溢れ(略)興奮と好奇心、軽蔑の入り交じる奇妙な目つきでじろじろ四人を見つめた。

 「上流階級の馬鹿息子を絵に描いたようなのが大勢いてね、ぼくらがそれまで会ったこともない人種だった」とポールは回想する。

(略)

[四人がサインをしていると]ジョンを見つめながら、ひとりが聞こえよがしに言った。「ごらん、字が書けるじゃないか!」(略)他の三人は凍りつき、ブライアン・エプスタインも同様。みなジョンがお返しに拳固をお見舞いしても少しもおかしくないと思った。そうはせず、ジョンはサインを拒み、大使館員が(略)「サインくらいしたっていいだろ!」と怒鳴っても知らんぷり。

 それほど我の強くないリンゴは片っ端からサインしていく。(略)謎の襲撃者が鋏を取り出し、リンゴの髪を切り取りはじめた。

 新たに語られるたび、事件は次第に寓話の様相を帯びる。

 リンゴは、犯人は男性と信じて疑わない。(略)咎められ、男は「おや、なんでもない……くだらん、くだらん」と答えた。それに対してピーター・ブラウンは、「夜会服姿の女性がパーティーバッグから爪切り鋏を取り出し、リンゴに制止する間もあたえず、娘へのお土産に髪を切り取った」のは間違いないと言う。

(略)

 ジョンは「ろくでもない人でなしがリンゴの髪を切った。おれはその場にいた全員に悪態をついて、そのさなかに立ち去った」と思う。しかしポールによると犯人はたしかに複数いて、ビートルズの四人全員が標的にされたのは間違いない。「女の子たちがぼくらの髪を切り取りたがっていたのを覚えている。そんなことをされてはたまらないから盛大に肘鉄を食らわした」。

(略)

[シンシア・レノンは]最初の自伝『ツイスト・オブ・レノン』で(略)この挿話を階級間の戦争として描く。「正真正銘の英国在留社交界は、最悪の英国上流階級にしかできないようなやり方で、ビートルズを奇形のようにあつかった。鋏はパーティーの主催者が用意していた。『まあ、あなたはどのビートルなのかしら?髪を少し切らせてもらって、寄宿学校にいる娘に送っても、ねえ、あなた構わないわよね?』

(略)

 ホテルに戻る車のなかで、エプスタインは四人に、二度と公式行事に無理やり連れ出したりしないと約束した。

髪型考

髪型自体の起源はどこにあったのだろうか?(略)[スチュの恋人]アストリット・キルヒャーは、それは自分のしたことだと言うこともあれば、それを否定することもある。「(略)馬鹿げてる!ドイツにはあの髪型の男の子が大勢いた」。

 アストリットが半年前に(略)スチュの髪をおかっぱにしたのは間違いない。ピート・ベストは、ジョンとポールがふたりしてそれをからかったことを覚えている。

(略)

[ニール・アスピノールがドイツ帰りの]「ジョンを迎えに行くと、前髪を下ろしていた。でもこれは何かあるなと思ったのは、ポールを迎えに行ったときだ。ポールも前髪を下ろしていただけではなくて、なんと家からスキップしながら(略)出てきて、髪を指さしている(略)それで我々も気がついた」。ポールはみなに「お前の髪、変になったな」と言われたのを覚えていて、それにポールとジョンは「いや、これが新しい流行さ」と答えた。

 そして、そうなった。一九五〇年代、英国の若者たちはヘアクリームをべったり塗った髪をオールバックにして、それを憂鬱な都会風と思った。(略)

二年もしないうちに、ビートルズの髪型は自由と若さの新時代のシンボルとなり、その結果、いくつかの学校や機関、国家では規則や法律によって禁じられた。

(略)

 数か月のうちにその熱狂はアメリカに広まった。(略)

ジョージ・マーティンはいい大人がビートルズのかつらを被って五番街を歩く姿を目撃したのを覚えている。(略)ニューヨークだけで一台二ドル九十八セントのビートルズのかつらが一日に二万台売れた。

 その頃、十四歳のブルース・スプリングスティーンは(略)レコード売り場に入り、『ミート・ザ・ビートルズ』を見つけた。それは(略)「史上最高のアルバムジャケット(略)まさにおれのしたいことだった。(略)

あの髪型……あの髪型ときたら。(略)衝撃を受けた。ラジオでは四人の姿が見えない。あの影響をいま説明するのは不可能に近い……あの髪型の影響は」。

 ブルースはすぐさま自分の髪型をビートルズみたいにした。そんなことをすればどうなるかはわかっていた。(略)「寄ってたかって貶され、侮辱され、危ない目に遭い、爪弾きにされ、よそ者扱いされるのを受け入れなければならない」。父親は息子のしたことを見て、「最初は笑った。(略)そして怒った。最後に厳しい質問をぶつけてきた。『ブルース、お前、おかまか?』」

 同じ年頃の仲間の大半も、容赦ないことにかけては父親と少しも違わない。それでもひとりかふたり、ブルースと同じように、ビートルズのためなら世間の嘲りなど撥ねのけようと覚悟を固めた者もいた。

(略)

 この頃になると、ビートルズの専属美容師レスリーカヴェンディッシュ自身が有名人になっていた。(略)自伝『カッティング・エッジ』まで著し

(略)

意外にも、最もとっつきにくかったのはリンゴ(略)

ポールはいつでも大らかで、感謝の気持ちを忘れない。ジョージは誰より髪が多く、「少なくともポールの倍はあった」けれども、髪を切ってもらう最中はほとんど口を利かず、終わってから「ありがとうと行儀よく」言う以外には何も言わない。ジョンは扱いづらい「これまで手がけたなかで、たぶん最悪の客」――というのも、少しもじっとしていないから。

(略)

 後年、ジョンは散髪にオノ・ヨーコを立ち会わせるようになった。

 

 正直言って、わたしはヨーコのとりとめのないおしゃべりの半分も理解できなかったが(略)[ジョンも同様で](略)次第にヨーコに苛立ちを募らせる。

「何が言いたいのかわからないよ!」(略)

「聞いていないからわからないのよ」とヨーコがジョンを高慢ちきな坊や(略)扱いして、からかうように答える。驚いたことに、それでもジョンは怒るどころか、ますますヨーコが恋しくなるらしい。だいたい誰と話していても、会話の主導権を握るのはジョンだった。ところがここで初めて、わたしはこの気の強い小柄な女性がジョンとの会話を完全に支配するのを見た。

リンゴのドラム

 リンゴにかかるとなぜかうまいことに不運が強みに変わる。(略)

[祖母に左利きを矯正され]右利き用のドラムセットにねじ曲げられた左利きの本能で取り組んだのが独特のドラミングを生み、そのせいで無数のトリビュートバンドが真似しようとしていまだにうまくいかずに困っている。

 リンゴのドラムは決して派手ではない。誰にも気づいてもらえなくても、曲を引き立てられればリンゴは満足する。(略)

[ジェフ・エメリック談]

「正直に言って、リンゴとは一度も記憶に残るような会話をした覚えがない」――けれども、リンゴのドラムがグループの創造性に刺激をあたえるのを耳にしてしばしば驚いた。「ビートルズが九時間も十時間もぶっ続けに同じ曲を演奏するのを聞かされるのはひどく退屈で、気が滅入る。とくにドラッグが効いてくると脱線して演奏は拙くなるいっぽうだ。興味深いことに、そういう長ったらしいジャムセッションでは、演奏を新しい方向に引っぱっていくのはたいがいリンゴだった――同じビートをいつまでも続けるのに飽きて、リンゴが叩き方を変えると、ときどき誰かがそれにつられて演奏の仕方を変える」。

(略)

グレアム・ナッシュもリンゴのドラムは過小評価されていると感じる。「リンゴが奏でるのは心臓の鼓動だ、その音がわたしは好きだ。優れたドラミングの秘密のひとつはそこにある、なぜなら(略)ひとは懐胎されると、まず母親の心音を聞き、それがその後の人生のリズムを定める。(略)人と人として繋がりたいと思ったら、音楽のなかで最も重要なのは心音だ。しかもそれはじつに微妙なもので(略)ビートルズはリンゴを得て、じつに幸運だった」。

ジュリアを殺した男がファンレターを配達

 エリック・クラーグは郵便配達員だった。一九六四年は毎日一袋分のファンレターをリヴァプールの[ポールの家がある]フォースリン・ロード二〇番地に届けた。(略)

ビートルズが人気絶頂の頃は、何百通もの葉書や手紙をお宅に配達したものです」(略)

 六年前、クラーグはリヴァプール警察の新人巡査だった。

[非番の日、仮免で女性をはねてしまう。制限速度で走行していたとクラーグは主張]

目撃者の証言はこれと異なるが、陪審はクラーグを信じることにした。(略)偶発事故の評決が下され、エリック・クラーグは放免された。

 ミミはクラーグに向かって杖を振り回した。「本当に怒り狂っていた……あの卑劣漢め……もし手が届いたなら、殺していたものを」。

(略)

 クラーグは停職処分となり、その後まもなく警察を退職した。それから郵便配達員となり、市内のアラートン地区で日々の配達業務に携わることになった。

 クラーグの素性は誰も知らなかったけれども、「サンデー・ミラー」紙の記者が一九九八年二月に探り当てた。そのときまでクラーグは、ジュリア・レノンの死に関与したことを誰にも話していない。

 「これまでずっとその記憶につきまとわれてきました(略)そのことを考えずに一週間が過ぎることはめったにありません。ビートルズが有名になってからというもの、いつかこのことが知られる時が来ると覚悟していました。正直言って、ずっと怖かった。(略)レノン夫人はわたしの車の前にまっすぐ走り出てきたのです。どうにも避けようがなかった。スピードも出していなかった、本当です。(略)あとになって、母親の死がジョン・レノンにどれほどひどい打撃を与えたか書かれたものを読みました。そのことについては、心から申し訳なく思います。しかし、先ほどお話ししたとおり、あれはどうしようもない事故だったのです」。

ローリング・ストーンズ

[『ハード・デイズ・ナイト』のプレミア上映レセプション]

ブライアン・ジョーンズキース・リチャーズは、招待されてもいないのに挑発するつもりかタートルネックの軽装で会場に潜り込んだ。「史上最大の押しかけじゃないか?」とブライアン・ジョーンズはにやにや笑った。

(略)

[近くのクラブにくりこみ、午前4時過、最後に残ったのは二人とジョン]

ジョンが長居するつもりなのは明らかで、スコッチ・アンド・コークのグラスを次から次に空にする。(略)「グラスを、まるで押しつぶそうとするかのようにぎゅっと握っていた。目つきは険しく、鋭く、少しも笑っていない。(略)」。

 夜が更けるにつれ、ジョンは目の前にいるローリング・ストーンズの二人が好きになる。「お前らが好きだ、初めて聴いたときから好きだった(略)だけど、お前らどこかおかしくないか?グループのなかにひとり、他の連中ほど上手くないのがいる。誰なのか見つけて、追い出せよ」

 話題は音楽に移る。ストーンズが本物のリズム・アンド・ブルースをやっているのに、ビートルズは売り物のポップ音楽をやっているだけだとジョーンズとリチャーズが主張する。これはジョンの泣き所だった。ジョンはいきなり話題を変える。

 まずジョーンズを見る。「お前の髪はまともだ」と言った。それからリチャーズを見る。「お前の髪はまともだ」と言った。それから不在の友人たちのほうを見る。「だがな、ミック・ジャガーはだめだ。お前らもわかってるな、奴の髪はまともじゃない」

(略)

ジョンが言う。「もう一年すれば、金が溜まって、こんなのおれはもうやめる」

「もう一年すれば」とブライアンが言う。「おれたちだってそこまでいってるさ」

ジョンが難しい顔をして、煙草を一服した。「そうか」と言う。「だがな、そこってどこだ?」

(略)

両者が初めて会ったのは一年余り前のこと(略)まだパブで演奏していたストーンズに対し、全国ツアーのトリを務めるビートルズがはるか先を行っていた。

 一九六三年五月の第一週、ジョージ・ハリソンは(略)タレント発掘コンテストの審査員に招かれ、もうその頃には「ビートルズを蹴った男」として広く知られたディック・ロウと同席した。ロウはジョージに、失敗を悔やんで今も自分を責めていると言った。ジョージは鷹揚に、なにしろオーディションでの自分たちの演奏はひどかったから、ロウの判断はおそらく正しかったのだろうと答えた。(略)

コンテストに出たタレントにロウが失望していると気づき、ジョージは毎週日曜にリッチモンドでライブをしている素晴らしい新人グループのことをこっそり教えた。数日のうちに、ロウはかれらと契約を結ぶ。(略)ビートルズは、ストーンズがデッカと結んだ契約のほうが、自分たちとEMIのものより条件がよいと知って悔しがる。ビートルズはまもなく負け犬が勝ち犬になりはしないか、気を揉み始める。それからというもの、両者の友情にはつねに刺々しさがつきまとう。

(略)

 ジョンは比べられると次第に苛立ちを募らせる。「マージー・ビート」誌の編集長ビル・ハリーは、「ストーンズが粗削りと盛んに持ち上げられるのを見て、ジョンは頭に来た」と回想する。「ジョンはストーンズの連中がロンドン郊外に住む中産階級の出で、革ジャンを着た不良少年なんかではないことを知っていた。ビートルズハンブルクで悪態をついたり娼婦とじゃれたりしてた頃、ストーンズの連中は洒落た学校に通っていた。ジョンはそれが嫌だった。嫌でたまらなかった」。

(略)

ジョンは、ローリング・ストーンズビートルズのアイデアを盗むのが気に入らず、憤懣やる方ない。(略)

仕事をしたグリン・ジョンズから、ビートルズの新曲のタイトルのひとつは「レット・イット・ビー」と聞かされて、ストーンズは新しいアルバムを『レット・イット・ブリード』と名づけた、等々。(略)

「おれたちがやったあれこれ全部ひっくるめて、リストにして見せてやりたいよ。ミックはまるで同じことをする。おれたちを真似るんだ。『サタニック・マジェスティーズ』は『ペパーズ』じゃないか!『この世界に愛を』だって、ふざけるな!あれは『愛こそはすべて』だろ」。

(略)

ジャガーの住まいは(略)セント・ジョンズ・ウッドのポールの家まで歩いていける。ふたりはときどき顔を合わせたけれども、それはいつでもジャガーがマッカートニーの家を訪れるのであって、その逆ではない。

[マリアンヌ・フェイスフル談]「(略)いつもミックがかれの家に行く、だって相手はポール・マッカートニーだから、こっちから向こうに行く。ポールがわたしたちのところに来たことは一度もない。ミックがポールをどう見ているのか、ポールのことをどう思っているのか、わたしはずっと興味津々だった。ライバル意識はつねにあった。ポールのほうからはない、ちっとも。ポールは少しも気にしていないのに、ミックのほうはそうはいかない。面白かった。テレビでゲームを見ているみたいだった」。

(略)

キース・リチャーズはよくジョンをけしかけた。(略)

「頼むから、ギターを顎から少しは下げてみろよ。ヴァイオリンじゃねえんだから」。「もっと長いストラップにしてみろよ、ジョン。ストラップが長けりゃ長いほど、うまく弾けるぜ」。「お前がスウィングしねえわけだよ、わかるか?ロックするだけで、ちっともロールしねえわけだ」。時が経つにつれて、ジョンのストラップがこっそり、だがじわじわと下がっていくのを見て、キースはほくそ笑んだ。

ディランとマリファナ

[ディランが]ジョイントを巻き始めたが、意外にもぶきっちょだった。(略)

火を点けて、ジョンに回すと、そう思われたい姿よりつねに用心深いジョンは、自分では喫わずに――「お前やれよ!」――リンゴに差し出す。これを見て、アロノウィッツは「ビートルズのグループ内の力関係」を瞬時に見抜いた。「明らかに、リンゴがトーテムポールの一番下にいる」。

 「リンゴはおれの忠実な毒味役なんだ」

(略)

 ポールはひどくがっかりした。「五分ばかり『なんにも起こらないな』とか言って、どんどん吸い続けた」。いきなりリンゴがくすくす笑いを始めた。それが周りに伝染する。「リンゴの笑い方があんまりおかしいので、他のみなもヒステリックに笑うリンゴがおかしいと言ってヒステリックに笑い始めた。そのうちにリンゴがブライアン・エプスタインを指さし、ヒステリックに笑っているのがおかしいと言うので、ぼくらもみなブライアンの笑い方がおかしいと言ってヒステリックに笑い出した」。

 アロノウィッツはエプスタインが、「ハイになりすぎて天井に届いた」と何度もくりかえしたのを覚えている。それからエプスタインは鏡に映る自分の姿を見つめ始め、「ユダヤ人、ユダヤ人……」と言い出した。

(略)

「一列に並べた五脚の椅子にファブ・フォーとマネージャーのブライアン・エプスタインが、すっかりマリファナが効いた状態で座っている。ときどき、列の端に立つ男が一番近くにいるビートルを押して椅子から落とすと、ドミノのように次の者が椅子から転げ落ち、最後にブライアンが床に崩れ落ちてこらえきれずに笑うと、それを見て全員が笑い出す。とても現実とは思えない光景だが、最初に押すのがボブ・ディランとなると、ますます奇妙に思えた」。

 そのうちにポールが人生の意味を見いだしたと思い込み(略)マル・エヴァンズに(略)自分の口から出る金言を書き留めるよう指示した。電話が鳴るたびボブ・ディランが受話器を取り、「こちらビートルマニア」と答える。

(略)

 ディランの訪問がビートルズにおよぼした影響は深く、また長く尾を引いた。二か月後、ビートルズは「シーズ・ア・ウーマン」をレコーディングした。この曲にはジョンの書いた「ぼくが寂しくなったら気分を晴らしてくれる(turn me on)」という歌詞が含まれる。『ヘルプ!』の撮影に入る一九六五年二月頃には、ジョンによると四人は「朝食にマリファナを喫い(略)目は潤み、のべつまくなしにくすくす笑う」状態だった。六月にレコーディングした「イッツ・オンリー・ラヴ」の歌詞には、ディランが聞き違えた言葉Ⅰget high がそのまま使われた。

 それ以来、ドラッグに触れる歌詞が、riding so high (大喜びしている/麻薬が効いている)(「涙の乗車券」)、find me in my field of grass (草原/マリファナ畑でぼくを見つけて)(「マザー・ネイチャーズ・サン」)、because the wind is high,it blow my mind (風が強いからぼくの心を吹き飛ばす/麻薬が効く)(「ビコーズ」)など、次々に転がり出る。歌詞が書かれた当時、その多くは誰にも気づかれずにすんだ。明るく陽気な「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」の優しく、愛情のこもった歌詞「君がいなけりゃ一日もやっていけない」と「君と一緒のときはあそこにいたい」はじつはマリファナ賛歌とポールが告白したのは、何年も経ってからのことである。『サージェント・ペパーズ』のレコーディングに取りかかる頃には、ドラッグに一言も触れない曲を探すほうが難しくなった。

(略)

[ジョンはディランに憧れ]声はますます擦れ、態度は皮肉っぽくなり、歌詞は意味がわかりにくくなった。(略)

ある曲のレコーディング中、ジョージ・マーティンがジョンに、もう少しボブ・ディラン風に聞こえないようにやれないかと頼む羽目になった。「ジョンはわざとそうしているわけではなかった。まったく無意識にそうしていた」。

墜落寸前

 一九六五年八月二十一日土曜日の午後十時、二度目の全米ツアーの第一週、ビートルズは(略)ポートランドに向かった。(略)

ツアーを取材中のラリー・ケイン(略)「翼の発する明るい光のようなものに反応して瞼がぱっと開いた。(略)焰が、翼の右エンジンから噴き出していた」。

(略)操縦室のドアを激しく叩くが応答なし。飛行機は自動操縦で飛んでいて、操縦士と副操縦士は客室の最後尾でポール、ジョンと歓談中。ケインはそちらに向かって急ぎながら、大声で「右のエンジンが燃えているぞ!」と怒鳴る。たちまち乗客全員がパニックを起こした。

(略)

[ジョンは]「畜生、畜生、畜生」と言うや後部の非常ドアに駆け寄り、ハンドルを力任せに引っぱり始めた。ケインはジョンに組みつき、「気でも狂ったのか?そんなことをしたら、みんな死ぬぞ」と(略)押し退けようとする。そのとき飛行機は高度六千七百メートルを飛行中だった。

 ところがジョンは理屈を前に怯むような男ではない。もう一度非常ドアめがけて突進するが、今度は屈強なマル・エヴァンズが立ちはだかって事なきを得た。

 その頃には操縦士がコックピットに戻っていた。飛行機は(略)残りのエンジンだけで目的地に支障なく着陸できると機内放送が流れた。「くだらねぇ!」目をぎゅっと閉じてジョンが叫ぶ。

 三十分後、飛行機はポートランドに着陸し、待ち構えていた消防士たちが機体を泡の海ですっぽりくるむ。飛行機の乗客全員が(略)「もう二度と飛行機には乗らない」と誓ったのをケインは覚えている。ところが二日後、全員がふたたびロサンゼルスに向かう飛行機に乗らなければならない。訪問先ではエルヴィス・プレスリーに会うことになっていた。飛行機に乗り込もうとして、リンゴが楽しそうに「六五年も生きていようぜ」と言った。

 八か月後、同じチャーター会社の運行するエレクトラ機がオクラホマ州アードモアで墜落し、訓練を終えて帰郷する兵士七十八名、乗務員五名が死亡する。そのうち三名――操縦士とエンジニア二名――は、危うく難を逃れたポートランド行きの便にビートルズと乗り合わせた人々だった。

エルヴィス

 いよいよその日が来ると、両陣営とも神経を尖らせる。(略)

バーロウはビートルズの四人の緊張が次第に高まるのに気づく。

(略)

[ついに対面]

数秒の間(略)沈黙に包まれる。プリシラは四人が緊張していると感じる。「(略)四人がとても恥ずかしそうにしているのに驚いた。(略)アイドルに初めて会う子供たちのようだった。とくにジョン――エルヴィスを見て、恥ずかしそうにおどおどしていた。(略)」。(略)

エルヴィスが、「おい君たち、いつまでもそこに突っ立っておれをじっと見てるのなら、こっちは好きなことをさせてもらうよ」と言ったのを彼女は覚えている。

(略)

ふたりのマネージャーは部屋の隅で密談に忙しい。ブライアンはエルヴィスの英国ツアーをぜひとも企画したいが、大佐には仕事と遊びを混同しない信念がある。

(略)

エルヴィスはベースを取り上げ、ジュークボックスから流れる曲に合わせて弾き始める。テレビは点いているが、音量は絞ってある。ときおりエルヴィスがリモコンを取り上げ、チャンネルを切り替える。そのときポールは生まれて初めてリモコンというものを見た。「エルヴィスがチャンネルを切り替えると、ぼくらは『ひゃあ!いったいどうやったんですか?』という具合だった」。

 エルヴィスがビートルズのためにもギターを持ってこさせ、四人も演奏に加わる。ポールはエルヴィスとベースの奏法について語り合う。いささか散漫な会話が、ジョンの一言で色めき立つ。「昔みたいにロック調の曲をやらなくなったのはなぜ?」(略)最近のはあまり好きではないと言い添える。エルヴィスが近々またロックのレコードを作ると言う。「ああ、それはいいや」とジョンが言う。「それが出たら買うよ」。エルヴィスは当惑気味。(略)

のちにジョンは「LJBを全面支持」というスローガンが目に留まったと語る。ジョンはリンドン・ジョンソン主戦論者と見なす。エルヴィスに意地悪なことを言ってやろうという気になったのは、そのせいだろうか。

(略)

 ジョンはクルーゾー警部の滑稽な物真似を始めて、「こうでなぎゃいがん……どもだちずごじとちょっどばがじのおんがぐのあるざざやがなづどいだよ」とやる。エルヴィスは面食らった様子。しばらくすると、演奏する曲もなくなり、エルヴィスとビートルズの四人も先に遊戯室に行った仲間に加わる。(略)

ジョンはカーニバルの芸人をしていた若い頃の大佐の切った張ったのエピソードを楽しむ。ライオンと組み打つやり方、踊るニワトリが踊るのはホットプレートの上に置かれたときだけ、等々。「大佐には驚いたよ、いかさま博打もお手の物の本物の芸人さ(略)それにしてもエルヴィスときたら――まったく拍子抜けもいいところさ。ひどくぼんやりして、何かの錠剤かマリファナをやってたんだろう。(略)とにかく、まったく何にも興味を示さないし、話も通じなかった」。

(略)

 正面玄関から外に出ようとする四人に、エルヴィスが「テネシーに来ることがあったら、メンフィスでまた会おう」と声をかける。

 まだ滑稽な声音のまま、ジョンが大声で言い返す。「おんがぐをありがど、エルヴィス!ゼ・キング、万歳!」そしてエルヴィスに、翌日の晩ベネディクト・キャニオンの自分たちの宿泊先に来てほしいと言う。

 「さて、どうかな。行けるかどうか」とエルヴィスが返事をする。

 帰り道、ジョンはパーティーをまったくの期待外れと形容する。「くだらないのはどっちだ、おれか、それともエルヴィス・プレスリーか」。

(略)

[脚注]五年後の一九七〇年十二月三十日、ホワイト・ハウスを非公式に訪れたエルヴィスはニクソン大統領に、「ビートルズ反米感情を煽る重大な勢力です。(略)ビートルズはこの国にやってきて、金儲けをしてイギリスに帰り、そこで反米意識を広めている」と語る。(略)

プレスリーは、ビートルズは薄汚れ、乱れた身なりと思わせぶりな音楽で、若者たちの抱える問題の多くを起こす下地をこしらえたと考えると述べた」と公式メモにある。

LSD体験

 ジョージの歯はとくに治療を必要とした。キャヴァーン時代の写真を見ると、ひどい乱杭歯なことがわかる。(略)

[ジョン・ライリーの歯科医院に通ううちに友人になる]

[パティ談]

「どんな治療をするにもジアゼパムを静脈注射した。ビートルズの四人全員あのひとに診てもらって、それが普通のやり方なのだと思っていた(略)。わたしたちはぐっすり眠り、目を覚ましたときには何をされたか、ちっともわからない。あのひとがジョージの目を覚まさせようとして顔を平手で叩くのを一度見たことがある。不気味だった――わたしたちが気を失っている間に、あのひとは何だってできた」。

(略)

[夕食に招かれたジョン&ジョージ夫妻。クラウス・フォアマンの新しいバンドを見に行くという四人に強引に食後のコーヒーを勧めると]

「君たちは帰れない」とジョン・ライリーが言った。

「なんだって?」

「君たちは今LSDを嚥んだ」

(略)

パティによると、ジョンは「かんかんになって怒った(略)貴様、なんでおれたちにそんなことするんだ?」

 大波のようにLSDが効き始めた。シンディは時が止まったと思い、おまけに全員が溺れると思った。「ビスマルク号が沈没する!ビスマルク号が沈没する!」とシンディは何度も叫ぶ。(略)

[ジョージ談]「奴はあれを媚薬と思ったにちがいない。(略)盛大な輪姦にでもなれば、奴はみんなをやるつもりでいたんだろう。動機はきっとそれだ」。

(略)

[自分が送るというライリーの申し出を]四人は断り、パティのミニにぎゅう詰めになって乗り込み、出発した。パティは車が縮んでいるにちがいないと感じた。「走っている間ずっと車がどんどん小さくなって、向こうに着いたときにはわたしたちはすっかり車の外にはみ出していた」。

 四人はピクウィック・クラブのエレベーターによろけながら乗り込み、今度は小さな赤いライトを燃え盛る焔と思い込んだ。ドアが開くと、四人は悲鳴をあげながらクラブに転がり込む。ジョン・ライリーは車で四人のあとをつけてきた。ライリーは四人と一緒にテーブルを囲み、ブタになった。

 パティは訳がわからなくなった。「人々がジョージに気づいて、近づいてくる。焦点が合ったりぼやけたり、それから動物みたいに見えた」。(略)

[別のクラブに行くと]

ミック・ジャガーとマリアンヌ・フェイスフル、そしてリンゴに出くわした。「ジョンがみなに麻薬を盛られたと話した。薬がどんどん効いてきて、わたしたちは全員ヒステリーを起こして、気が変になった。席につくと、テーブルが細長くなった」。

(略)

四人は家路に着き(略)冗談が次から次にジョンの口をついて出る。LSDは(略)駄洒落中毒には理想的なドラッグだ。

 LSDの効果が消えるのに八時間かかった。(略)

パティとシンシアが何もかも非常に恐ろしい体験と思ったのに、ジョージはそれで目を開かれたと感じた。「それまで一度もちゃんと味わったこともなければ、話したことも、見たことも、考えたことも、聞いたこともないみたいだった。生まれて初めて、無我の境地にいた」。そしてジョンは(略)最初のトリップから数週間のうちに、毎日LSDを口に放り込むようになる。

ミミ伯母さん

[ジョンの異父妹ジュリア・ベアード]は一九五六年、五十歳のとりすましたご立派な女は二十六歳年下の下宿人と肉体関係を持ったと主張し、ミミ伯母の「このうえない偽善」を告発する。

(略)

シンシア・レノンも容赦しない。「ミミ伯母は(略)ジョンの自尊心を叩きのめし、甥の心に怒りと傷を残した」。(略)知り合ってすぐに、わたしにはミミが俗物らしいとはっきりわかった。上流階級になりたがる中流階級、好んで使う言葉のひとつが『庶民』だった。(略)」。(略)

他のメンバーの家族はハンブルク行きを応援したのに、ミミは「ありとあらゆる手段に訴えて、ジョンが行くのを阻もうとした」。(略)

ドイツから戻ると、ジョンはシンシアにC&Aブランドのチョコレート色の革のコートをプレゼントした。「コートを着るととても贅沢な気分になって、早く誰かに見せたくてたまらなくなった」。ふたりは昼食にチキンを持参し、連れ立ってミミ伯母さんの家に立ち寄るが、伯母さんは嬉しそうな素振りも見せない。「ミミはコートを見て、ジョンがわたしに買ってくれたと聞くと、急に怒り出した。ジョンに向かって『ギャングの情婦』にお金を使ったわねと叫ぶと、まずわたしの手からもぎ取ったチキンをわたしに、それから手鏡をジョンに投げつけた。『これに全財産をはたいておいて、チキンでわたしのご機嫌をとれるとでも思うのかい?』とミミは怒鳴った。(略)[裏口から外に出ると]『ミミは金と猫のことしか頭にないのさ』とジョンは言った」。

(略)

ジム・マッカートニーは[キャヴァーンに]よく演奏を聴きに立ち寄ったし、ジョージの母親ルイーズも(略)息子たちを応援した。(略)

ミミはたった一度だけドアを開けてなかを覗き込み、ジョンが時間を無駄に費やしてきたのはどんな場所か確かめた。ルイーズ・ハリソンが離れたところから声をかけた。「あの子たち、すごくいいでしょう?」

「そう思ってくれるひとがいて、ありがたいわね」とミミは怒鳴り返した。「あんたたちがけしかけなければ、わたしたちは穏やかで素敵な暮らしができたのに!」

(略)

[演奏後、楽屋に行き]「とってもよかったわ、ジョン」と皮肉たっぷりに言うと、そのまま立ち去った。「ミミがそそくさと姿を消したので、ジョンは傷ついた」とシンシアは回想する。「ジョンはミミに自分を誇りに思ってほしかったのに」。

(略)

[ジョンが]初めてのシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」を(略)[聞かせると]「もしこれでひと儲けできると思うのなら、それは大間違いね」。(略)

[シンシアとの結婚を告げると]「ミミは悲鳴をあげ、怒り狂い、本当にそんなことをするなら、もう二度と口を利かないと脅した」。

 ミミ伯母さんが俗物ということに関しては、誰もが同意する。ロイヤル・ウースター製のディナーセット、革装版のサー・ウィンストン・チャーチル選集、そして雇い入れた庭師にみなが注目した。ミミはジョージのきついリヴァプール訛りが気に入らないだけでなく、ポールのことも快く思わず、ロックンロールのみっともない世界にジョンを誘い込んだと咎めた。

(略)

[成功後]他のメンバーの家族が息子たちの名声をいつまでも畏れ、憚っても、ミミ伯母さんだけはいつもモンティ・パイソンの映画『ライフ・オブ・ブライアン』に出てくる母親(略)と同じようにジョンを扱った。「あの子は救世主なんかではありません。とんでもない悪童ですよ!」

(略)

[ジョンがヨーコを紹介すると]

「端から見た目が気に入らなかった。長い黒髪が見境いなく広がって、それに小柄で――わたしには小人みたいに見えました。(略)

『ジョン、あのいやったらしい小人は誰なの?』(略)するとジョンが『ヨーコさ』と言いました。(略)『どうやって暮らしているの?』あの女は『わたしアーティストなんです』と言うの。わたしは言ってやりました。『それはずいぶんおかしな話ね、あなたのこと、わたしは一度も聞いたことがありませんけど』」

(略)

 ジョンは終生、ミミ伯母さんとの連絡を絶やさなかった。(略)

ハンター・デイヴィスは(略)「ビートルズになっても子供との関係があまり変わらなかったのは、おそらくミミだけ」と気づいた。(略)

ジョンが太ったと思えばそう言い、無駄遣いするなと注意する。

(略)

子供の頃のジョンはミミに叱られても、たまに褒められても平気な顔をしていたが、無視されるのは嫌でたまらなかった。「無視はしないでよ、ミミ」とジョンはよく言ったものである。

(略)

死ぬまでジョンは週に一度、ミミに長文の手紙を書き、「かれ自身(Himself)」と署名して送った。月に一度、電話で話すときには、わざときついリヴァプール訛りを使ってミミをからかい、かんかんに怒らせるのが好きだった。ニューヨークに暮らすようになってからは、ミミと過ごした子供時代を思い出させてくれる品々を欲しがるようになった。ミミ伯母さんは律儀に、ロイヤル・ウースター製ティーセットやクオリー・バンク校の制服のブレザーと縞模様のネクタイを郵送した。

(略)

[ジョンはダコタ・ハウスに引っ越してこないかとしきりに促したが]

「わたしがそんなところに行くわけないでしょう。アメリカ人はとにかくいけすかない。お前だって、そんなところにいると、ろくなことになりませんよ」。

 「ジョンは暇さえあればわたしに会いに来ます」とミミは一九六八年にハンター・デイヴィスに語った。「夏には四日間も屋根の上に座っていたことがありました。わたしはジョンのために昇り降りして飲み物を運びました。感情をあまり表に出さない子なんですね。ごめんと言うのが苦手なの。でもある晩、こう言ってくれました。たとえ毎日、いや毎月会いに来なくても、毎日どこにいても、伯母さんのことはきっと考えているって。わたしには、それがとても大きな意味のあることでした」。

 一九七九年、ジョンは従姉のレイラに宛てて昔を懐かしむ長文の手紙を書き送った――「今年のクリスマスは君のことをいろいろ考えた――夜、車が通り過ぎると天井に映る影――色紙の鎖を飾りつけて(略)イギリスに行くのが怖いくらいだ、だってそれがミミに会う最後の機会になるとわかっているから――さよならを言う段になると、臆病になってね」。ヨーコも、ダコタ・ハウスでティーカップを手に椅子に座り、猫を撫でているとき、「ジョンはいつもミミそっくりに見えた」と思った。

 ジョンの幼い頃、ミミは毎年クリスマスになるとリヴァプール・エンパイア劇場で上演される『長靴を履いた猫』を観に連れていった。ある年、雪が降り、ジョンは長靴を履いて出かけた。猫が舞台に登場すると、ジョンは立ち上がり、いきなり甲高い「ミミ、猫が長靴を履いてるよ!ぼくと一緒だね!」

(略)

[63年末ビートルズ]はリヴァプール・エンパイア劇場でクリスマスショーを催した。ミミ伯母さんはジョンの用意した最前列の席を断り、観客席の後ろに立っていた。

「(略)演奏するジョンを見て(略)初めて、ビートルズにどれほどの影響力があるか気づいたんです。群衆を押しとどめようと、騎馬警官まで出動していて(略)でも、ついこう思ってしまう。『いいえ、あの子は本当はビートルなんかではありません。以前わたしと一緒に二階席に座っていて、「ミミ、猫が長靴を履いてるよ!」と叫んだ、あの小さな男の子なのよ』ってね」。

ぼくらにとってジョンは上流階級の人間だった

十代のジョージとポールの目にジョンの家は上流階級のように映った。ふたりとは違い、ジョンは家族の持ち家の半戸建住宅に住み、その家には番号ではなく〈メンディップス〉という名前がついていた。それだけではまだ上流らしさが足りないと言わんばかりに、家からゴルフコースを見晴らせた。(略)シャム猫を飼い、しかも親戚にエディンバラの歯医者とBBCの職員がいた。それにジョンには、リヴァプール・インスティテュートでポールに書字と英語を教えた叔父もいた。

 ポールはそれに感じ入った。「ジョンにはハリエット叔母さんがいて、ハリエットなんて名前はぼくらには縁遠いし、とくにハリーと呼ぶなんてね!ミミなんて女の人も知らなかった。とても上品で、とても二〇年代、三〇年代風、ジャズ・エイジ風だよ。(略)長いシガレットホルダーを手にする姿が目に浮かぶ。(略)

ジョンが中流階級そのものなのを、誰もわかっていない。とても瀟酒な地区なんだよ。(略)実際、ジョンから一族がウールトンの村全部を所有していたことがあると聞いたことがある」。『ザ・ビートルズ・アンソロジー』ではポールはさらに数歩踏み込み、「ぼくらにとってジョンは上流階級の人間だった。(略)ジョンがすぐに『こん畜生!』と言って、『ワーキング・クラス・ヒーロー』って曲を書いたのは皮肉だよね――実際、労働者階級ではなかったんだから」。

 死の直前に受けたインタビューのなかで、ジョンは自分が実際に労働者階級の英雄だったことはないと認めた。

「ぼくは行儀も身だしなみもよい、郊外に暮らす子供だった。階級社会のなかでは、公営住宅に住むポール、ジョージ、リンゴより半階級くらい上にいたことになる。ぼくの家族には持ち家があり、庭もあったが、三人にはそんなものはなかった。だからぼくは三人と比べると、ある意味ちょっとした変わり種だった。リンゴただひとりが、本当の街っ子だ。リンゴが一番悲惨な地区の出だったと思うよ。(略)ぼくはいつも身なりもよく、栄養もたっぷり摂って、よい学校に行き、中流の下の階級の善良なイギリスの少年になるように育てられた」。中年になってジョンは(略)中流階級の出だったことが、ビートルズを他のグループと異なる存在にしたと考えるようになった。なんだかんだ言って、ジョージ、ポール、ジョンは揃ってグラマースクールを卒業している。「それまでロックンローラーはみんな(略)黒人で貧しかった。南部の田舎か、都会のスラムの出だよ。それから白人は、エルヴィスみたいなトラックの運転手だ。でもビートルズについて言えば、ぼくらはみんなかなりいい教育を受けていて、トラックを運転して暮らしを立てたことはない。ポールは大学にだって行けたろう。いつも優等生だった。試験にも合格した。博士号だって、ひょっとすると取れたかもしれない。ぼくだって、勉強していればできたはずだ。しなかったけど」。

(略)

ビートルズが初めてテレビ出演を果たしたあと帰宅したポールに、弟のマイケルはこう訊ねた。「どうしてあんなしゃべり方をしたの?まるで調子の狂ったジョージみたいだったよ」。(略)ポールは小学校の卒業試験でよい点をとり、リヴァプール・インスティテュートに進学し、一段上の社会階層に上ったことをからかわれた。「ぼくらの住んでる辺りからいい学校に通う子はあまりいなかった。ぼくは『カレッジとんま』と呼ばれていた。『ろくでなしのカレッジとんま』だとさ」。

フレッド登場

ある日のこと、ひとりケンウッドにいたシンシアが玄関のドアを開けると、見知らぬ男が立っていた。「小柄で柔らかそうな白髪頭のてっぺんが薄くなっている」。男はジョンの長く行方知れずの父親フレッドと名乗ったが、真偽は一目見て明らか。「髪は乱れ、浮浪者のように靴の踵は擦り減っていた――でも驚いたことに、顔はジョンと瓜二つだった」。(略)

なかに入って待つように勧め、孫のジュリアンを紹介し、お茶とチーズトーストでもてなした。(略)

 理由は不明だが、ほんの数週間前に父親と十七年ぶりに再会したことをジョンはシンシアに言いそびれた。ジョンが六歳のとき、フレッドは親権を巡りジュリアと激しく争った。それまでフレッドは船の客室係として働き、四年間航海に出ていた。帰国早々、商店のウィンドーを叩き割り(略)マネキンを抱いてワルツを踊っているところを逮捕され、刑務所で半年を過ごした。

 フレッドは刑務所から(略)ミミに手紙を送り、ジョンの人生に役立つ何がしかの役割を取り戻す手助けをしてほしいと頼んだ。ミミの返事は手厳しい。「あんたは自分の人生をめちゃくちゃにして、家族に恥辱と醜聞をもたらした。良識のかけらでも残っているなら、ひとりでニュージーランドに行って、過去のことはいっさい忘れなさい。まさか息子に自分が刑務所にいたと知られたくはないでしょう?」

(略)

[皿洗いをしていた]ホテルの同僚がビートルズのリーダーはレノンという名で、フレッドと瓜二つと教えてくれた。

 フレッドは何度かジョンに手紙を送るが、返事は来ない。そうこうするうち「デイリー・スケッチ」紙の記者に問い合わせたところ、特ダネの気配を嗅ぎつけた記者が長らく行方不明の父親と有名人になった息子を対面させようともくろみ、ブライアン・エプスタインと交渉に入る。そして一九六四年四月一日、ついに父子は(略)NEMSの事務所で対面した。

 開口一番ジョンがフレッドに放った言葉は、控えめに言って辛辣だった。「それで、望みは何だ?」

 フレッドは何も望みはないと答える。「倅に、お前の才能は父親譲りと言ってやった(略)自慢するつもりはないが、おれだって二十五年前には今あいつがしていることをやってたのさ――もっと上手くな!」船乗りだった頃、フレッドはミュージカルの名曲を歌って船員仲間を楽しませた。十八番ともなれば、顔を黒く塗って涙にむせびながらアル・ジョルソンの「リトル・パル」を歌ったものだ。

 十五分ほどしたところで、エプスタインがBBCとの約束を口実にフレッドとジョンの話を遮った。(略)

そのときから父子の関係は長い音信不通の時期にたびたび中断されながら、愛と憎しみの間を揺れ動く。(略)

「今では、以前のように親父を憎んでいるわけではない(略)両親が別れたのは(略)ジュリアのせいでもあったんだろう。ビートルズがなかったら、ぼくも親父のようになっていたかもしれない」。

(略)

ジョンは自惚れて騒がしく、反抗的な父親が気に入り、寛大な気分のときには、フレッド――自身が孤児院育ち――も境遇の犠牲者と認めた。「親父は警戒しなくても大丈夫さ。ちょっとイカレてるけど――おれもそうだしな」とジョンはシンシアに言った。そしてピート・ショットンにもだいたい同じようなことを言っている。「いい奴だよ。ひどく愉快でね――おれと同じ変人さ」。

 その後のふたりの関係は(略)仲直りのはずが仲違いし、あらためて仲直りが必要になることもしばしばだった。順調なときにかぎって、フレッドはへまをして立場を悪くする癖がある。ある日のこと(略)ジョンは自分の書いた曲のなかでどれが好きかとフレッドに訊ねた。「お前の曲はどれもすごくいいよ(略)でもとくに気に入っているのは『ペニー・レイン』だな」。

(略)

「さあ、何か仕事を見つけないとな。ジョンはうなるほど金を持っているのに、こっちは四シリングぽっきりだ」とフレッドは父子の最初の対面のあとで記者にこう言った。(略)とはいえ、息子との関係を足掛かりに一山当てようという誘惑には抗えない。まず、フレッドは自分の半生記を「ティット・ビッツ」誌に二百ポンドで売り、その後一九六五年には歌半分、台詞半分のひどいシングル「ザッツ・マイ・ライフ」をレコーディングした。そして「生まれてこのかた、おれはずっと芸人だった」と報道陣に語った。

(略)

[ジョンから生活費やアパートをあてがわれ]

[35歳年下の婚約者]ポーリーンを連れてケンウッドを訪ね、許嫁に働き口と住むところを世話してくれないかとジョンとシンシアに頼んだ。(略)「ポーリーンは数か月わたしたちと同居したけれど、まるで悪夢だった」とシンシアは回想する。

(略)

ピート・ショットンの記憶によると、「フレディが義理の娘を誘惑しようとしたので、ジョンの堪忍袋の緒が切れた。シンがひどく取り乱すのでジョンは父親を家から追い出し、その後二度と会おうとしなかった」。

(略)

[脚注]ジョンと父親との関係は一九七〇年末、フレッドが息子に自伝を書く計画を伝えたときについに決裂する。(略)[ジョン30歳の誕生日に]「もうあんたに金はやらない、ここから出ていってくれ。(略)おれの人生に首を突っ込むなもうたくさんだ!」と言い放った。(略)

プライマル・スクリーム」療法は、父親に対する激しい感情を誘引したことが明らかになった。「あんたのおかげでおれがどんなひどい目に遭ったかわかるか?来る日も来る日もセラピーで、親父を思って泣き叫び、家に帰ってきてくれって泣いて頼んだんだ!」ポーリーンによると、ジョンは母親を何度も「売女」と呼んだ。父親の襟首を掴んで、ジョンは言った。「あんたの半生記だがな、おれの許しを得ずに何も書くなよ。それから今日ここで起きたことを誰かに話したら(略)死んでもらう」。

「イエロー・サブマリン」

もともと大勢で一緒に歌う曲なので、その宵、パーティー好きの少数の友人に加わってもらおうと第二スタジオに招待する。パティ・ボイド、ミック・ジャガーブライアン・ジョーンズ、マリアンヌ・フェイスフル、そしてビートルズの忠実な運転手アルフ・ビックネルといった面々である。

(略)

ジェフ・エメリックは誰もが(略)[マリファナで]「見るからにパーティー気分」なのに気づく。

(略)

 ジョンが水中で歌っているような響きにしたいと言い出す。うがいをしながら歌おうとしたが、しまいにむせた。すると今度は方針を変更し、水槽をスタジオに運び込ませ、頭をそこに突っ込むと言い出す。(略)

[ジョージ・マーティンが]諦めさせようと試みる。ところがジョンは粘る。エメリックが妥協案をもちかける。ジョンのマイクを水中に沈めればよいではないか。ジョージ・マーティンはマイクが壊れはしないかと懸念し、損害は弁償してもらうとエメリックに警告する。(略)

マル・エヴァンズが鞄に入れてあったコンドームを見つける。エメリックがコンドームでマイクを包み、それを水の入った牛乳瓶に浸す。レコーディングを始めようとした矢先、親分風を吹かせたがるスタジオの管理責任者ファウラー氏が万事順調か確かめようとドアの向こうから顔を出す。

 エメリックには、もしファウラー氏が牛乳瓶のなかのマイクを見つければ、自分は即刻馘とわかっている。しかしジョンは頭の回転が速い。ファウラー氏の姿を見たとたん、装置を掴んで背後に隠す。

「諸君、万事順調かね?」とファウラー氏が問いかける。

「はい、スタジオ管理部長殿、このうえなく完璧であります」とジョンが言い、ジョージ・マーティンを含む全員がくすくす笑いをこらえる。

 レコーディングが始まるが、水中音がうまく録れず、そのうち取りやめになる。さあ、パーティーを楽しもう!

 ビートルズはスタジオの「道具部屋」の名で知られる巨大な戸棚、がらくたの宝庫を漁る。雷雨の効果音を出す道具、古いホース、サッカーの応援に使うガラガラ、戦場で使われたハンドベル、鎖、ゴング、送風器、ホイッスル、警笛。ポップ界の貴族たちは手当たり次第に摑むと、陽気なざわめきとグラスを合わせる音の響くなか、みなが声を揃えて歌い出す。(略)二番に入って最もよく聞こえるのは、それまでは囁くような話し方だったパティ・ボイドの声。

(略)

パーティーの客がガチャガチャ、くすくす、ガラガラ、ぶうぶうやる間に、ジョンがグーン風の声音で、「全速前進、甲板長!全速前進!」と言う。その宵は、マル・エヴァンズが胸につけた大きなバスドラムを叩きながらスタジオ内を歩き回り、全員がその後ろに続いて、ホーとかワーとか言いながらコンガを踊って幕となる。

「オラ・ナ・タンジー

ある静かな日曜日(略)[ドノヴァンのアパートにポールがやってきた](略)

 ふたりはマリファナを一、二本燻らせた。ポールは目下取り組んでいる二曲をドノヴァンに弾いて聞かせた。ひとつは黄色い潜水艦の歌で、もうひとつはこんな具合。

 

オラ・ナ・タンジー

パイプに泥をつめ、闇のなかで恍惚としている

誰も……とは言えない

(略)

 そのうちに「オラ・ナ・タンジー」は「エリナー・リグビー」に変化し、泥をつめたパイプを持って闇のなかで恍惚としていたものが、結婚式の執り行なわれた教会の米(rice in the church where the wedding had been)に変身を果たす。

(略)

 ポールは「オラ・ナ・タンジー」を「デイジー・ホーキンズ」に変えてみたけれども韻律に合わず、さらに変更し、今度は「エリナー・リグビー」にした。

ナンセンスな駄洒落

 ジョンのナンセンス好みは、読み書きを習った頃にまで遡る。ミミ伯母さんは幼い頃からジョンの綴り方が目立って突飛だったことを覚えている。「『水疱瘡(chicken pox)』はいつも『鶏鍋(chicken pots)』でした。エディンバラに住んでいた妹のところに遊びに行ったときには、葉書に『懐が寂しくなっている(Funds are getting low)』と書くつもりが『楽しみは低くなっている(Funs are getting low)』と書いて寄越したんですよ」。子供の頃はエドワード・リアとルイス・キャロルの作品に夢中になり、友だちに「ジャバウォックの詩」を何度もくりかえし朗読して聞かせた。「ときしもぶりにく、しねばいトーヴが、くるくるじゃいれば、もながをきりれば……」。ジョンは生涯、駄洒落や言葉遊びに大喜びし、たった一文字替えるだけで意味がたちまち無意味に転じるさまを見て悦に入った。

(略)

 ポールは、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「アイ・アム・ザ・ウォルラス」はどちらもジョンの「ジャバウォックの詩」に対する偏愛から生まれたと考える。「『ぼくはかれで君もかれ……』。ジョンがそんな歌詞を書けたのは『ジャバウォックの詩』のおかげだよ」。幼なじみのピート・ショットンは「ごく早い時期から、ジョンの最大の望みは、いつの日か自分で『アリス』を書くことだった」と記憶している。

 十二歳のジョンは毎晩キャロルとリアの模倣に熱中し、まずそれを練習帳に書きつけてから、「日々の遠吠え(Daily Howl)」と題する手書きの新聞に書き写すのだった。

(略)

 ジョンはラジオでグーンズの容赦なくとめどない駄洒落を聴くのが大好きで、翌日には教室でそれを真似してみせた。十六歳の誕生日祝いにもらったお金で、七十八回転のレコードを二枚買った。一枚はエルヴィス・プレスリーの「ハウンド・ドッグ」。もう一枚はグーンズの「イン・トン・ソング」(略)

 グーンズの台本はすべて、鬱病を患い、駄洒落に翻弄されて生きるスパイク・ミリガンがすさまじい勢いで書いたもので(略)成功が絶頂をきわめた頃、グーンズの第三シリーズを執筆中にミリガンは完全な神経衰弱に陥る。(略)

まもなくグーンズの共演者ピーター・セラーズを殺さないと頭が元に戻らないと思い込む。その結果ミリガンはセラーズの家に行き、ガラス戸を通り抜けようとして全身傷だらけになり、拘束衣を着せられ精神病院の隔離病棟に収容される羽目になった。(略)

世界の狂い方が足りないと気づくたび、ミリガンの頭脳は世界をもっと狂わせる術を見いだした。(略)ミリガンは世界に(略)自分のジョークの前に頭を垂れさせたいと願った。さもなければ相手をひどい目に遭わせる。一九五四年、グーンズの面々とコヴェントリーで舞台に立ったときは、観客の反応の鈍さに苛立ちを募らせた。とうとう堪忍袋の緒が切れて、「お前ら全員、もう一度空襲されるがいい!」と怒鳴って舞台を降り、楽屋に鍵をかけて閉じこもった。グーンズの共演者がようやくドアをこじ開けたとき、ミリガンは椅子の上に立って首に輪縄をかけ、縄の反対の端を頭上のパイプに引っ掛けようとしていた。

 駄洒落は言葉の統合失調症で、そこでは一つの言葉が同時に二つの方向を指し、同時に二つのまったく異なる事柄を意味する。シェイクスピアの登場人物は狂気に呑まれ始めると、駄洒落の世界に転げ落ちる。「ニューヨーク・タイムズ」紙に寄せた書評のなかで、ジョンは「グーン・ショー」の台本を「現実に対する陰謀。知性のクーデター」と評した。

(略)

 ポールと友だちになったばかりの頃、ジョンはよく前の晩にタイプ打ちした駄洒落に基づく冗談を読ませ、その多くがのちにタイトル自体が駄洒落の『絵本ジョン・レノンセンス』に収録された。「ぼくらは座ってくすくす笑いながら駄洒落を言っていただけ、だいたいそんなところだね。モーカムの早いふくろうたち (In the early owls of the Morecombe / In the early hours of the morning) とか。タイプライターに挟んだ紙に『コップ一杯の歯 (a cup-o-teeth / a cup of tea) 』と打ってあるのを見た覚えがある」。

 ビートルズ (The Beatles) の名を聞いても、今では誰もおかしいと思わない。(略)

ジョンとスチュアート・サトクリフは(略)[テディ・ベアーズや]クリケッツのような動物の名前を考え出そうとしていた。ふたりは「ライオンズ」や「タイガーズ」を経て、「ビートルズ」を思いつく。いかにもひねくれ者らしく、ジョンは(略)そこに「ビート(beat)」を取り込み駄洒落にした。

 ビートルズ初期の頃からジョンがファンに送った長文の手紙は言葉遊びが散りばめられ、多くは解しようがない。一九六一年か六二年にノルウェーの少女リンディ・ネスに宛てた手紙は「ぼくは指一本でこのレタス(lettuce)[手紙]を君のためにタイプしている」と始まり、続けて「額の国のユングの少女 (a jung girl in forrid country) [異国の少女 (a young girl in foreign country)] の前に立ちはだかる邪悪な誘惑」に気をつけるよう警告する。

(略)

ヴィクター・スピネッティはジョンとともに『絵本ジョン・レノンセンス』を舞台用に脚色した。スピネッティはジョンがやすやすと言葉遊びを思いつくのに目を瞠る。(略)

わたしは肩越しに、「ジョン、ここに女王の挨拶が欲しいんだけどね」と言った。ジョンは躊躇なくシンシアが買ったばかりのシャツに入っていたボール紙を掴んだ。

 

 我が在宅と目玉にとって青のコーナー、体重二ストーン三オンスの忠義な船を糾弾するのは大いなるプレッシャーであり、かれはそのとき憚に座っておりました。

 My housebound and eyeball take great pressure in denouncing this loyal ship in the blue corner, two stone three ounches, and he was sitting on the lav at the time.

 

 「『これでどう?』とボール紙をわたしに押しつけてジョンは言った。一度も手を休めなかった。一か所も訂正していない」。

次回に続く。