空飛ぶヘビとアメンボロボット

アメンボの推進力 

アメンボが濡れないのは、脚の表面積が毛によって増大したおかげだ。これは、じつに興味深い表面特性だ。フラクタルなどのパターンを取り入れれば、物体の表面積は無限に増やすことができる。そのような広い表面が撥水性のワックスで覆われている場合、脚に付着した水ははね返される。水面に立つアメンボの脚を拡大して見ると、水は毛の「先端」で押しとどめられている。毛と毛の間には水が入り込めないのだ。つまりアメンボは、水の上と言うより、空気の上に立っている。脚もとにある空気の層のおかげで、アメンボはアイススケートをするように、水面をスイスイ滑って移動できる。

(略)

オールをこぐような動きたった1回で、アメンボはものすごい加速を見せる。ヒトでいえば 100メートル走を1秒で駆け抜けるようなものだ。そしてこの高速ストロークのあとは、まったく脚を動かさないまま体長の10倍以上の距離を滑って進む。

(略)

でも、滑るのがうまいのはいいとして、そもそもどうやって動きだすのだろう?停止状態から体を前進に転じさせる力はどこから来るのか?

(略)

 流体を後方に押して推進力を得る動物は、運動量保存の法則を満たす必要がある。(略)

[ハチドリが]空中で静止するためには、絶えず空気を下向きに送りつづける必要がある。

(略)

 泳いで前に進む魚も運動量保存の法則に従う。前進するとき、魚は胸びれや尾びれを動かして、自分とほぼ同じサイズの後流を運動と反対方向につくりだす。運動量保存の法則によれば、後流は魚と反対方向に移動する。

(略)

低速飛行中の鳥は、はばたくごとに渦をつくり、結果として煙の輪のような渦輪ができる。水上を走るトカゲの一種バシリスクの後流は、体重を支える下向きの渦と、推進力をもたらす後ろ向きの渦からなる。渦の生成は、水中に暮らす動物の運動にはお決まりの特徴だ。しかしアメンボは水中でなく水面で生活している。だからジョン・ブッシュが思いつくまで、誰も渦をつくるとは考えもしなかったのだろう。水の表面にとどまりながらも、アメンボは、鳥、魚、一部のトカゲといった、渦をつくって推進力を得る動物たちの仲間だったのだ。

 アメンボを見たことがある人は、かれらがスイカの種ほどの大きさの渦をつくりだせると聞いて驚くかもしれない。かれらの脚にはオールにあるような平らな部分はなく、ただの細い棒2本を使ってこいでいるように見えるからだ。脚の直径は渦の幅の3分の1しかない。こんな脚でどうやって流体を動かしているのだろう?答えは「表面張力」なのだが、そのしくみは少し複雑だ。アメンボが水面にいると、そこに小さなくぼみができ、水面が歪む。くぼみはアメンボの脚の先端を中心にした小さな虫眼鏡のようだ。アメンボが脚をこぐときも、くぼみは維持される。空気で満たされ、表面張力によって維持されるくぼみがパドルのように作用し、アメンボはより多くの水を捉えて押すことができる。つまりアメンボは脚を軸として、水面のくぼみを櫂として利用する。

ゴカイの 「亀裂伝播による推進」

 ゴカイの行動は、それまでの生物学者の想定とは対照的で、驚くほど洗練されていた。(略)

「亀裂伝播による推進」と呼ばれるこの方法を、これほど巧みに利用する人工の掘削機械は、いまだに存在しない。冷凍庫で凍らせたチーズケーキを切るところを想像してみよう。あなたも僕と同じなら、肉切り包丁で何度もガンガン、ケーキが二つに割れるまで叩きつづけるだろう。(略)

一方、ゴカイのやり方では、まず小さな切り込みを入れ、その側面を小刻みに押して裂け目を広げていく。試してみると、この方法は冷凍チーズケーキには効果てきめんだった。でも、どうしてこんなに効果的なのだろう?

 ゴカイの戦略は硬い素材のある特性を利用しているのだが、これが発見されたのは第一次世界大戦中のことだった。戦時中、鋼鉄やガラスといった高強度素材を使って飛行機や戦車が製造された。奇妙なことに、こうした素材は実戦ではあまり頑丈ではなく、分子結合の強さから予測される上限のわずか 100分の1の負荷で破損した。何が素材をこんなに弱くしたのか?一九二〇年、イギリスの航空工学者アラン・アーノルド・グリフィスが、ガラスを使った実験でこの謎を解明した。彼は滑らかなガラスを用意し、そこにごく小さな切り傷を入れた。こうして傷をつけるのは、ガラスに思い通りに亀裂を入れるいい方法だ。グリフィスは傷の大きさをさまざまに変えて破砕実験をおこない、驚くべき結果を見出した。傷が一定の長さを超えると、ガラスはごく弱い力を加えただけで、あっさり割れてしまうのだ。亀裂が破壊につながるのは、亀裂の先端に非常に大きな負荷がかかるせいだ。彼の実験により、ガラスがわずかな負荷で割れる理由が解明された。同じ原理は、コピー用紙を左右から引っ張ってみるだけで、簡単に実証できる。最初のうち、紙はかなりの力に耐えられる。ところが、紙のてっぺんの中心部に小さな切れ目を入れると、いとも簡単に破れてしまう。グリフィスの発見により、航空技師たちは冷間圧延など、当時一般的だった素材に小さな傷をつける製造技術を廃止し、代わりに研磨で傷を取り除くようになった。こうして素材強度が増したことが、最終的にボーイング727のような、一枚の金属シートからなる完全な片持翼を備えた大型機の開発につながった。航空機の翼をトラスで支持していた時代は終焉を迎えた。

 亀裂は、素材のアキレス腱だ。ゴカイはこれを利用して、自分よりもずっと硬い泥の中を動き回る。ゴカイの頭は斧の刃のようにはたらく。木材にひびさえ入れば、割るのに力はいらない。ただし、状況によっては亀裂伝播を利用しづらいこともある。例えば、ゴカイが水槽の壁面と泥の間に挟まっている場合だ。ゴカイが頭を小刻みに動かしても、硬い壁に押し返される。そのため、ゴカイが壁に沿って移動しているときの半径方向力は、壁から離れているときの10倍にもおよぶ。

 ケリーは次にクリーミーな泥に目を向けた。亀裂を生じさせる方法は、ここでは通用しない。ナイフを小刻みに揺らしながらホイップクリームを切ろうとしても、柔らかすぎて亀裂が入る前に崩れてしまう。しかし、ゴカイには次善策がある。まずは体をできるだけ膨張させて、柔らかい泥のなかに小さな空間をつくり、周囲を押す。この動きで体を固定するのだ。ここでいったん動きを止めるのは、おそらく深呼吸のためだろう。次に亀裂の中に頭を押し込み、口から子どものおもちゃのピロピロを出す。このピロピロはじつはゴカイの頭で、裏返しにして突出させることができるのだ。咽頭が泥をかき分け、前方の亀裂を広げる。この方法は、ミミズが土の中を前進するときと似ている。泥はとてもクリーミーなので、裂け目ができるのはほんの一瞬で、ほとんど目に見えない。硬い泥の場合の長くはっきりした亀裂とはまったく違う。亀裂ができると、ゴカイは前に進み、また体を固定する。前進運動はゆっくりで、ゴカイの咽頭が飛び出す回数で記録できる。

(略)

 ケリーが研究するゴカイは、泥だらけの湿った世界を、亀裂をつくるかクリームのように変形させて進んでいた。

境界層、ディンプル

ダランベールが粘性を無視したのは、粘性力は流体の慣性力に比べてはるかに小さいとみなされていたためだった。プラントルはその誤りを証明した。粘性が重要か否かは、動いている物体との距離に依存するのだ。

 ここに流体のなかを動いている物体があるとする。物体の周囲の流体は、積み重ねたトランプのようにたくさんの層に分けられる。接している二層は反対方向にずれあって剪断し、物体の運動を可能にする。物体にもっとも近い層はずっと密着した状態を保ち、これは「壁法則」と呼ばれる。流体の粘性が高いほど、カードにずれが生じにくくなる。物体が動くとき、粘性は周囲の空気全体に影響を与え、すべてのカードが物体との距離に応じて少しずつ動くのだろうと思うかもしれない。だが実際には、動いている物体から遠く離れた空気は、物体の存在に気づいていないかのように、静止状態を保つ。物体がそこにあると「感じている」のは、周囲のごく薄い空気層だけなのだ。プラントルはこの部分を境界層と名づけた。物体にかかる抗力のほとんどは、この層で生じる。

 境界層が一九〇四年まで見つからなかった理由のひとつは、観察の難しさにある。サッカーボールを蹴ったとき、ボールの動きがつくりだす境界層の厚さはわずか0.1ミリメートルだ。観察は非常に難しく、動きが速いものほど境界層は薄くなる。しかし、どれほど薄くても、この小さな空間を介して、物体は外の世界と相互作用する。境界層の内部で、物体は空気に急速な剪断を起こさせる。これに対して空気の粘性が動きに抵抗し、物体に抗力をはたらかせる。こうして物体は、周囲を取り巻く薄い空気の層に影響される。これが物体表面の小さな変化が空気抵抗に莫大な影響を与える物理的原理だ。

(略)

スポーツの世界ではゴルファーたちが、表面のきめの粗さの重要性にいち早く気づきはじめた。

(略)

 広く普及した最初のゴルフボールは、スコットランド人のロバート・パターソンが一八四八年に発明した「ガッティ」だった。マレーシアで採れたサポジラ(チューインガムノキ)の乾燥樹液を粘土のように成形したもので、当時主流だった革のボールよりも安価だった。ガッティ人気のもうひとつの理由は、ベテランゴルファーたちが目にした、説明のつかない現象にあった。新品のガッティはつるつるだが、使用するうちに、ゴルフクラブで繰り返し打たれ、表面が小さなへこみでいっぱいになる。そして古いガッティほどよく飛び、羨望の的になるのだ。現在のゴルフの世界では、コンピューターで生成されたディンプルが抗力を半減させるため、最初に与えられる打力が同じでも、なめらかなボールに比べて飛距離が大幅に伸びる。

 ディンプルの作用を理解するため、まずはなめらかなボールを思い浮かべよう。空気はボールに当たると、その周囲を迂回して移動し、外周を取り囲む。物体表面に沿って移動する空気の速度は、壁法則に従い、積まれたカードのように剪断するにつれて遅くなる。減速した空気は、ボールの外周を通過するころには、もはや風上に向かってボールと同じ向きに移動している。これにより、ボールの後方に真空、つまり陰圧の空間ができ、これがボールを後ろ向きに引き込むために抗力が増す。

 ディンプルつきのボールはこの吸引力を抑制する。ディンプルがあると空気がボールの表面をなめらかに流れず、周囲の空気と混じりあうためだ。周囲の空気の移動速度は、ボールの境界層よりも速い。速い空気が混ざると、冴えないパーティーにハイテンションなパリピが来たような現象が起こる。遅い空気は流入した外の空気に刺激され、ボールの周囲をより速く動くようになるのだ。これにより後流が減少し、ボールは抗力をあまり受けずに飛ぶ。

 ディンプルの効果が発見されるのに時間がかかったのには、もっともな理由がある。あまりに直感に反するからだ。物体表面をなめらかにした方が、動くのが空気中であれ水中であれ、抗力は減ると誰しも思う。

(略)

 きめの粗い表面を利用して境界層を撹乱し、抗力を減らすというアイディアは、飛行機や車にも採用された。飛行機の翼や車のルーフには、ゴルフボールのディンプルの代わりに、同じ役割を果たす小さな静翼が複数設置されていて、高速で動く空気を取り込んで抗力を抑えている。

 

戦争育ちの放埓病 色川武大

 幻視幻覚

  麻薬体験があるらしい見知らぬ方からの葉書がときおりまじっていて、貴方もLSDをやっていたことがあるでしょう、と記してある。私の小説の中に幻視幻覚に類するものがひんぱんに出てくるせいで、たとえば、地球の自転にへばりついている自分を意識するローリング感覚などは、LSDのもたらす幻想のもっとも一般的なものだという。

 しかし私はLSDを一度も使用したことはない。私はナルコレプシーという持病があり、この病気は入眠時幻覚をともなうので、いわゆるまぼろしが日常茶飯に現れる。麻薬中毒ならずして、同じような幻想を見られてまことにありがたい。

 普通の人間は、不必要な想念を体力で律してもみ消してしまうけれども、その体力が衰えて意識の交通整理ができなくなったとき、幻視幻覚が現れる。

(略)

 原則的には本能に基づいており、(1)不安、被害者感覚(2)潜在的願望(3)生存本能の裏返しの恐怖、嫌悪感覚、が主な要素であろう。だからLSDの幻想と、私の病気がひきおこす幻想とが似ていて当たり前なのである。

(略)

 S・スピルバーグという監督の映画をはじめて見たのは“激突”であるが、そのとき葉書の主と同じように、私も思った。あ、この人は麻薬体験があるか、幻視のともなう持病があるか、どっちかだぞ。

 この世にありえないものに恐怖を感じる、というのは普通人の神経だが、実際に目に見えている変哲もないもの(この場合はトラック)に異常を感じ、こだわりだしていく、あの恐怖の受けとめかたが、私には同病の親近感がある。これはたとえばヒチコックにはまったく感じない。

 “レイダース”を観たときは怖かった。あの映画の最後の場面、箱から煙が出て来て、美女が出現し、瞬時にそれが悪相に変わる。あのパターンはふだん私がくりかえし見ているものなのである。西欧風の美女神の顔も、なぜかまったく同じなのだ。

(略)

 “ポルターガイスト”という映画に現れる変異は、ドラマを成立させるための大仰な部分をのぞいて、やっぱり端々はリアリティーがあった。まず、変異が意識される手順がおおむねうなずける。

 椅子やベッドがかたがた揺れはじめるところは、あのとおりに近い。風のようなものが吹きつのるようなところもそうだ。私の場合は、風がおこる前に、何かが家の近くまでやってきた気配がし、ズキン、と頭の中にショックが伝わり、それから風になるが。

 重たい空気の塊が圧迫してきて、新聞や本を押し倒してしまうところもそうだ。

 台所で肉片がはじけ、フライドチキンに虫がたかり、自分の顔の肉をひきむしっていく、あそこは作り物じみて見えるかもしれないが、私には日常茶飯のことである。

 ただ私には骸骨は出てこない。私が骸骨にあまり恐怖感を抱いてないせいであろう。私の場合は肉のついた死体が多い。

 スピルバーグ監督は、どの映画でも、(多分)自分がふだん見なれている幻視幻覚を非常にうまく利用しているにちがいない。幻を具象化することはとてもむずかしい。ただ、今のところ彼は、熟達した職人のような手際で、恐怖感をスクリーンに定着させたにすぎない。

 たしかに、オカルティズムは、従来の神の意識や科学を飛び越えてしまった。神や科学よりも、オカルティズムが大敵のようになってきた。この次の作品は、十九世紀の作家たちがそうしたように、オカルティズム自体をぶちこわそうとするものになって欲しい。それではじめて、オカルティズムの底の深さが現れてくるように思う。

 麻薬について

三十年ほど前、私の周辺はぶったぎるようにさまざま薬物が乱舞していた。

(略)

[注射針が怖くて手を出してないと言っても誰も信用しないが]

今、辛うじて生き残っているのは、薬を打たなかったことが唯一の原因じゃないかと内心思っている。

(略)

 私たちが日を送ってきた過去の中で、実に多くの人たちが意味もなく、薬に身体を毒されていった。薬に毒されながら、しかしある意味でそれを必要としていたわずかな数の人も居た。行跡でそれを示した人も居る。仕事の仕上りでなく、外見にはしかと見えないが、本人のそのときなりのとことんの判断でそうせざるをえなかったらしき人も居る。いずれにしてもそれはごくわずかな人たちだ。

 実例をたったひとつ記す。昭和二十四年頃。チクロパンナトリウム、我々はイチコロパンといっていた。最初は尻や太股に刺す。効かなくなると徐々に脳に近い所に打つ場所が移動する。速効性あり、打つとすぐ深々と眠る。すぐに眠ってわからなくなるのに、どこがよいのだろうか。安眠ということが、命を賭けるほどのものであるほどの、苛酷な日常があるのだろうか。深川高橋の某君は、額の横、顳顬[こめかみ]のあたりに、私の眼の前で針を刺し、たちまち音を立てて横転した。倒れた某君の顳顬に刺さったままの注射針が、ゆらゆら揺れていた。

 尻から頭へくるまで約半年、それで廃人だという。意味も糞もない。外見はかくのごときである。禁止すべきが当然であり、法治国であるから、法で禁じられたことをやって罰せられるのもこれまた当然である。

 そのことに私は毫も不服を抱いているわけではない。

 しかしまた、ここがややこしいが、かつて薬を使っていた私の友人知人を、軽蔑もしていない。

 たとえば、ミュージシャンである。ミュージシャンのうちのある者は、仕事が苛酷すぎる。聴衆は常に、人力以上のものを期待し要求する。それはただ単に拍手をすればよいので、それほどだいそれたことを望んでいるような気がしない。あるいは、偶然にすばらしいものが聴けた感動を現わしているだけだと思う。けれども演ずる方には、そういう日々の積み重なりであり、彼等を人力以上のところへ駆りたたせる鞭になっていることはたしかである。法を犯し、身を害するのは彼等自身であり、結果的に不幸を背負うのは仕方がないとしても、私たちは、一夕の楽しみを、そうした重たい犠牲のもとに得ているということを忘れるわけにはいかない。聴衆の一人でもある私には、彼等を軽蔑することができない。

(略)

能の魅力

(略)

昼間、後楽園競輪場に行って、競輪にどっぷりと浸り、その足で裏手の大曲まで歩いて観世に行くか、或いは水道橋の宝生の能楽堂に行って夜能を見る。その一日は、私にとってもっとも豪華な味わいがあった。

 競輪も、能も、ともに日本人でなければ創案できないもので、いずれも神がない、規範がない現実を踏まえているところに特長がある。そうして、よかれあしかれ現実のとりとめなさに負けていない。他の凡百の競技や芸能が色あせて見える。

 能といっても、私の関心は主に世阿弥にあるので、特に後世作られた技巧的なものには何の値打ちも見出せない。また、名人上手といわれる演者たちが次々と亡くなっていった頃であったせいもあるけれど、演者や奏者たちにもそれほどの関心がない。私は私の勝手で見ている。

 世阿弥の凄さを一言でいえば、劇のまん中に明瞭な一つの線をひいたことである。その線を境にして前半は主人公の実人生を、後半はその実人生の再検討、再評価、再認識をやっている。この発想が天才的で、西欧の演劇はこういう発想を持っていない。もっとも、それはひとつには、規範との関係で人物像乃至実人生をきざんでいくから、具体を描けば同時に規範とのドラマが成立するのであろう。したがって劇の最後に、その具体の終末が来る。

 規範の乏しい我々の風土では、どのような具体であろうと、具体を描いただけではドラマが成立しない。そこに定着しているかに見えるものは、概念乃至思いこみかもしれない。具体の終尾をまん中に持って来て、もう一度全体を眺め直すということを形式にまで高めたことに驚嘆する。器量がちがいすぎて、世阿弥から何も盗み得ないが、私はこの天才の烈しい殺気のようなものに浸っていることが好きだった。

(略)

 

アントニオ・カルロス・ジョビン ボサノヴァを創った男

ジョビンの妹による評伝。

森へ入るのは好きかい? 

「森へ入るのは好きかい?」(略)

「森へ入るだろう。中でじっと静かにして、耳を澄ませるんだ。でも、歩いている時でも、来たりするから……」

「来たりするって、誰が?」

「音楽だよ。もうできあがった形で聞こえてくるんだ。森の中で、曲が丸々聞こえてくるんだよ」

 兄は作曲をはじめた頃に、このことを私に教えてくれていた。その時、唐突に記憶を追い払うように、手を動かした。すると魔法がとけてしまった。兄はまた、病を苦にするあの不安で悲しげな様子に戻っていた。

(略)

「今日はとってもハンサムよ、知ってた?」

 長い間、そんな言葉とは疎遠だったとでもいうように、びっくりしていた。

「そうかい?」 

その後、私の手の中の本を指して、言った。

「文学は、芸術の中でももっとも美しい。でも、一番孤独でもある」

イパネマの少年 

 当時、コパカバーナ地区には、端から端まで路面電車が走っていた。トムは学校から、海を眺めつつ、顔に潮風を受けながら戻ってきた。電車がイパネマ海岸に着き、ジェネラル・オゾーリオ広場で旋回すると、トムの胸は高まった。彼の海が見えた。彼の浜辺が見えた。あとで泳げるかどうか確かめようと、波を見つめた。大きな海が大好きだった彼は、マリン・ボーイスカウトに入会し、毎日曜、集会に参加していた。

 のんびりとした生活だった。昼には家で食事をとる。テーブルの用意が整うと、母親が呼んだ。トムは凧の糸を、ラゴアに面した空き地のグアバの木に結びつけた。昼食をとるあいだ、彼は窓から空にあがっている凧をちらちらと見ていた。凧は、彼自身が上手に作り上げた。バザール・エニグマの店で凧糸を買う。二巻あれば、凧は本当に高くあがった。そして、色とりどりの薄紙。

 竹林を求めてカンタガーロの山に登り、大きな竹を切って戻り、細かい作業をするのに必要な道具をすべて揃え、テーブルに向かう。刃の鋭い小刀で、骨を作る。そのあと、糸を結び、骨格のバランスを確かめ、最後にキッチンで、小麦粉の糊を作った。凧が震えないよう、骨格の上に紙をしっかりと広げる。風を手に受けるのが好きだった。風を受ける凧を通して、彼は宇宙と対話していた。

(略)

ガレージでトムはピアノに接した。浜辺から戻ってくると、水着のまま、ガレージへ行った。指で音符の組み合わせ、ハーモニーを探した。その静かな場所に、何時間でもこもっていた。冷たいコンクリートの床に寝そべり、外の世界のことは忘れていた。

クラシックを勉強する

[ジムに]強い男になりたいと願う近所の少年たちと、彼は一緒に通った。バーベル上げのトレーニングをしていたが、九十キロが持ち上がるようになると、鼻高々だった。そのうち、ボクシングもやり始めたものの、彼には攻撃的なところが欠けていた。そこで、カポエイラに転向した。

(略)

 ニルザが息子に、ピアノの教師を見つけてきた。大戦から逃げてきたドイツ人、ハンス・ヨアヒム・コールロイターだ。彼はヨーロッパから、新しい無調音楽を持ち込んだ。トムは彼に師事し、本格的に学びはじめた。何時間も象牙色の鍵盤にかかりきりになり、スケールの練習をし、譜面の読み方を学んだ。クラシックを勉強するからには、ソリストになりたかった。時には、十時間もぶっ通しで練習していることもあった。根気強い性格をもって、彼は困難だが摩訶不思議な魅力のある職業に、勇敢にも近づきつつあった。ドビュッシーショパン、バッハ、ラヴェルストラヴィンスキーラフマニノフ、ヴィラ・ロボス。のちに、彼自身が「真っ暗闇の立方体」と名づけることになる場所へ、トムは引きこもっていった。

 二人目のピアノ教師、ルーシア・ブランコに、トムは手があまり開かないのだと、不安をうち明けている。「親指がひっかかってしまうんです」と、彼は言った。頑固にそう言い張った。

(略)

パウロ・シルヴァ教授に就いて、和声の勉強もはじめた。教授はいつも赤いタイをした、とても身なりのいい黒人だった。トムは、このクラシックなお洒落をした教授が大好きだった。とはいえ、教授が課してくる厳格な規則には反発したようだったが。こうして実習を積んだ時期、トムは他にも、トマース・テラン、レオ・ペラッキ、アルセウ・ボッキーノに師事している。

(略)

 北米文化が国を席巻しはじめていた。(略)

トムはアメリカのミュージカル映画が好きだった。映画館から戻ってくると、家族や友人に、映画の歌を歌って聴かせた。

(略)

チェット・ベイカー・シングス』は、トムをはじめ、ボサノヴァ全体に、歌い方を含めて大きな影響を及ぼしたアルバムだ。

作曲の仕方 

 テレーザとの結婚生活で、彼は幸せそのものだった。

(略)

朝は遅くに目を覚まし、午後いっぱいをピアノで仕事しながら過ごす。頭に浮かんだテーマを展開するのだが、その途中でハーモニーに行き詰まることがある。すると彼は、テレーザに助けを求めた。

「テーマはどうだっけ?」

すると、テレーザはメロディーを口ずさみ、教えた。

「こうだったかしら?」

彼は妻の歌に満足し、笑った。

「完璧だ」

 テレーザはやきもきした。メロディーが浮かぶたびに、すぐ紙に書きつけてくれればいいのに。だが、トムにはトムの作曲の仕方があった。曲を作る時には、まずハーモニーから探っていくのだ。メロディーはそのあとで、テーマを集約することになる。その後ようやく、歌詞という「化けもの」にとりかかり、磨きをかけ、最後に全部を紙に書き出すのだ。

 とりとめもなく空想を続けながら、音符や音部記号、あとで展開させるかもしれないテーマなどを、暗号めかして五線譜に書きつづっていることもあった。テレーザが、なにを作っているのかと訊ねると、笑いながらこう答えた。

「ただの『紙の無駄プレリュード』だよ」……

 そして二人して笑うのだった。

 五時になると必ず、ピアノから立ち上がった。伸びをしながら、背中が痛いとこぼし、以前に浜辺で落ちた事故のせいだと言った。

「今日はよく働いた。ビールでリラックスしないとな」

カーネギー・ホールでコンサート

 シドニー・フレイという、出版社の社主でレコード会社のオーナーが、ブラジルへやってきた。(略)

 

コパカバーナの『オー・ボン・グルメ』でヴィニシウス、トム、ジョアン・ジルベルト、オス・カリオカスのショーを見る機会に恵まれ、米国でブラジルの曲を出版しようと思うようになる。そして、大きな賭に出た。一九六二年十一月二十一日、カーネギー・ホールでコンサートをやろうというのだ。

(略)

一方、当時の在ニューヨーク領事ドーラ・ヴァスコンセーロスも、アメリカでのブラジル音楽への関心の高いことに注目し、シドニー・フレイが主催しようとしていたコンサートにブラジル人アーティストを送り込むにあたって、外務省が援助してはどうかと言いはじめた。そこで、出演アーティストに対して、二十二枚の航空券代とホテル宿泊費が、外務省の予算で支払われることになった。

 シドニー・フレイは、コパカバーナ・パラッシ・ホテルで、出演アーティストを招いたカクテル・パーティーを開いた。すると、招待されていないが、自分も出演したいと考えたミュージシャンが続々とやってきた。事態を前に、シドニーは責任を放棄することにした。自費で行くなら、誰が行ってもかまわないと言ったのだ。

(略)

 これに驚いたのはアロイージオ・ヂ・オリヴェイラだ。彼は、ちゃんとリハーサルされた、立派なコンサートを頭に描いていた。しかし、シドニーの思惑は、これだけたくさんのアーティストがいれば、面白い曲も見つかるだろうというところにあった。アロイージオはトムに、ショーはでたらめな構成になりそうだから、君のアメリカでの名声も地に落とされてしまう危険があると忠告した。トムは納得し、行くのをやめることにした。ましてや、キューバ・ミサイル危機のせいで米ソの緊張が高まっていた時期だ。(略)

とはいえ、トムに対する圧力は強かった。友人の作家フェルナンド・サビーノは、ニューヨークへ行かなかったら、君は永遠に「無教養で未発達なブラジル人」の烙印を押されてしまうぞと言った。ヴィニシウスは、ウィスキー片手に一晩中、自分の共作者を説得しようと試みた。

 そして、十一月二十一日。朝早く、学校へ行こうとしていたパウリーニョは、父親がパジャマ姿でテラスに黙座しているのを見た。息子に声すらかけない。子どもは妙に思った。

 しばらくすると、外務省からマーリオ・ヂアス・コスタ大使が電話をかけてきた。トムは、ニューヨークへは行かない、コンサートは構成も定かでなく、リハーサルもしていないような代物だからと言った。この船は、乗れば必ず沈む、と。すると大使はトムに、政府が援助したのは、君の作品によるところが大きいのだとうち明けた。そのトムが行かないのなら、これは侮辱と言えるだろうと。

「乗れば沈む船だと言うが、君は船長なのだからな。船が沈むとしたら、君、アントニオ・カルロス・ジョビンも潔く、その名誉を腕に抱いて一緒に沈みたまえ」

 トムは大使のドラマチックな懇請を受け入れた。

(略)

直感に従わないアーティストは創造の道を失うことを、彼は知っていた。空港へ飛ばしたタクシーの中で、彼はそれを考えていた。

 パウリーニョが学校から帰宅すると、父親はすでに出発した後だった。

巻末収録の山下洋輔の考察「なぜジョビンはジャズの影響を否定したか」

等身大の栄光 山下洋輔 

[大方のジャズミュージシャン同様、アントニオ・カルロス・ジョビンについては一定の距離をおいて見ていたが、94年、死の八ヶ月前のカーネギーホールでのコンサートでの共同記者会見で同席]

ジョビンには当然ながら、あなたの音楽とジャズとの関係について、という質問が飛んだ。

(略)

「ジャズは知らない。私は私の音楽をやってきただけです」

 彼はこういう意味のことを言ったのだ。これには記者たちも納得しなかったらしく、さらに何度も同じ趣旨の質問がなされた。そのたびに彼は、非常に困った表情になりながら「関係ない。よく知らない。私はブラジルの、自分の音楽をやっているだけだ」という答に終始した。とうとう、ヴァーヴを代表して司会をしていたリチャード・サイデルがそばにやってきて、耳もとで「スタン・ゲッツとのレコードのことを話してください」とアドヴァイスをするという、一種の異常事態になった。それでもジョビンは、顔をしかめたままで、ことさらそのことを強調するような答えはしなかった。そのレコードが他ならぬヴァーヴレーベルで作られており、これがアントニオ・カルロス・ジョビンの存在を全世界に知らしめた最初の機会だったということは誰でも知っている。思わず顔を見た。すると、その顔は本当に困惑しているのだった。

 これは何だろう。この人はどうしてこのように言い張るのか。こういう催しなのだから、ちょっと一言リップサービスをしてもいいではないかと思った。しかし同時に、彼のまるで子供が困ったときのような表情を見て、この人は本当のことを言っているのだ、これは彼自身の強い確信なのだと思わざるを得なかった。とはいえ、彼がジャズから全然影響を受けなかったはずはないという音楽上の感触がぼくにはある。

 なぜ彼はそう言い張るのか。

 強い印象を持って翌日を迎えた。自分の出番を終えたぼくは、ジョビンの演奏を見ようと、PA席の横に行った。ジョビンは一人で出てきてピアノに座り、「イパネマの娘」を語り弾きした。世界中に広まったその自分の曲を、作って三十年以上経った今、満員のカーネギーホールの客の前で響かせている。なんのてらいも特別な工夫もない。ただその人がそこにいてその人の音楽をやっている。若い時に見たイパネマの光景はその通りの詩の内容で今もこの人の中にある。ただ長い時間だけが経っている。その過ぎたすべての時間に起きた出来事が音となって立ちのぼってくるようだった。何物にも代えられない自分の世界だった。

 異様な感動をおぼえた。

(略)

[63年、セロニアス・モンクジェリー・マリガンがジョビンのアルバムに賛辞を寄せたのは、フリー・ジャズやマイルスへの反発からだった] 

モンクの「ニューヨークのインテリたちの音楽ジャズに欠けていたものをもたらした。すなわち、リズム、スウィング、ラテンの情熱」という言葉であり、マリガンの「ボサノヴァのハーモニーは完璧で、音楽は高度に洗練されている」という言葉なのだ。

 この年以後、なによりも「イパネマの娘」のシングル版のヒットによって、ジョビンの音楽は世界に知られる。といってジョビンがジャズシーンに参入しようとした形跡はない。むしろジャズミュージシャンがジョビンの音楽に侵入するのだ。

 ジャズミュージシャンになるかならないかについてのジョビンの端的な言葉がある。

 

「僕がジャズをやろうとしたら、そりゃ間抜け以外のなにものでもなくなる。彼らの国のその辺の〈ラパの黒ちゃん〉(ラパはリオの伝統的な地区)の方が僕よりずっとうまくやるだろうからね。」

 

 これはつまり、自分がジャズをやっても、アメリカのスラムにいる黒人たちのやるものにかないっこないという認識だ。冷徹な自己観察というべきだろう。

 一九七四年に行われたジーン・リース(本書にも出て来るジョビンの曲の英訳に力を貸した評論家)とのインタビューの中にも、ジャズに関して色々な言葉が出てくる。

 

「ジャズ、特にリアルジャズにはほとんど近寄らなかった。聴いていたのはビッグバンドだ」

ボサノヴァアメリカジャズのコピーだという人がいるが、そうだったら誰も面白がらなかった筈だ」

「あのハーモニーはジャズのものだというが、同じものがすでにドビュッシーにある。ナインス・コードもイレブンス、サーティーンスの音もアメリカ人の発明だとはいえない」

「なんども理不尽な偏見に出会った。私がナインス・コードを弾くと、皆が〈見ろよ、トムがビバップをやっているぜ〉と言うのだ」

「スイングするものは、黒人と白人の要素がミックスされた地域、すなわちアメリカ、キューバ、ブラジルにある」

「ラテンジャズ、ブラジルジャズと命名しても、意味はない。こういうカテゴリーからブラジルを解放することが必要なのだ」

 

 このインタビューへの前説にリースは「ジョビンは晩年、ジャズの影響を矮小化する傾向があった」と書いている。どこか残念そうなニュアンスにも聞こえる。

(略)

翌年、ヴァーヴは追悼の三枚組のCDアルバムを出すが、それに膨大なブックレットがつけられた。これが先ほどから何度も引用しているものなのだが、このブックレットには全体を通じてある傾向が感じられる。それは、ジョビンの音楽がいかにジャズと関係があったかという主張の正当化だ。まるで、「あの時ジョビンはあんなことを言ったけど、本当はそうじゃないんだよな」と悔しがる関係者が、一堂に会して作り上げた復讐の書という様相さえ呈する。その内容は次のようだ。

 

 あの時、司会者として最後まで思うような答えを引き出せなかったリチャード・サイデルは、編曲家のオスカール・カストロ・ネヴィスを引っ張りだしてインタビューしている。その中でネヴィスは、すでに一九五〇年代後半には、ジョビンがブラジルのメロディにコード進行の感覚を加えていたことを述べている。

 そして、「アメリカのジャズがジョビンに多くの影響を与えたと思うか?」という誘導的質問に対しては、「アメリカのジャズとフランスのハーモニーだろう」と答え、さらに「ガーシュインコール・ポーターは?」という質問には、「それらも当時ブラジルでは注目される存在だった」と言い、続けて、彼らは当時のウエストコースト・ジャズのレコードを聴いていたこと、チェット・ベイカーのソフトな歌や、ジュリー・ロンドンの歌のバックでのバーニー・ケッセルのギターコードを勉強したことなどを述べている。ただし、ネヴィスはジョビンよりも十三歳年下の世代であり、そこでいう「彼ら(原文 We)」の中にジョビンがいつもいたのかどうかはさだかでない。

 スタン・ゲッツが最初にジョビンの曲をレコードにしたことについてのブラジル人の反応について聞かれると「喜んだと思う。アメリカ人がブラジルの曲をやるのはあまりないことだからね」さらに、「うるさい人たちはあれはブラジルの音楽じゃないというだろうが、その通りで、ブレンドなんだ。自分にとっては、聴いて育ったアメリカの音楽の中にブラジル音楽が根を下ろすのを見るのは嬉しい。長年の輪が閉じた感じだ。あれから音楽のボーダーがなくなり、よりよい交流が始まったと思う」と態度が一貫している。こういう言葉をあの時にジョビンに言ってもらいたかったわけだ。

 そのスタン・ゲッツのアルバムを作った辣腕プロデューサー、クリード・テイラージーン・リースがインタビューしている。冒頭に「デサフィナード」を初めてチャーリー・バードから聴かされた時の印象などがあり、次のような会話になる。リズムよりもむしろメロディに魅せられたと言うテイラーが、「デサフィナード」のメロディを口ずさんで、「これはどうなっているんだと思った」と言う。するとリースが、

「あのフラット・ファイブのことですね」

「その通り。あれをジョビンがどこから持ってきたか知ってるか」

「どこです」

ビバップだよ」

 テイラーは一刀両断に決めつけている。「デサフィナード」の冒頭では、コードが二度セブンになったときにメロディが主調の音階の五度のシャープにくる。従ってコードとの関係はフラット・ファイブになる。そのことを言っているのだが、ビバップ以前にもまったく同じものが、エリントンの「テイク・ジ・A・トレーン」に出てくる。このへんおかまいなく決めつけているのは、なにがなんでもジョビンの音楽をモダンジャズのハーモニーと結びつけたいからなのだ。

(略)

 他に音楽については、ジョビンの間の取り方はチェット・ベイカーマイルス・デイビスギル・エヴァンスに似ていると言い、最後に決め手のように、クロード・ソーンヒルのバンドのボサノヴァへの影響力に触れる。そして、このソーンヒルというピアニストのタッチがジョビンに似ているとまで示唆する。

 ここでボサノヴァがジャズの影響を受けて成立したとする説をおおざっぱに紹介すると、一九五〇年代にアメリカ西海岸にはウエストコースト派と呼ばれる白人中心のジャズがあった。中心人物は、トランペットのチェット・ベイカーバリトンサックスのジェリー・マリガン、サックスとフルートのバド・シャンク、アルトサックスのリー・コニッツなどで、彼らは後に「クール」と呼ばれるようになる比較的静かで知的なジャズを演奏していた。ジャズのレコードのなかで、これらの音楽を録音したレーベルだけがブラジルで聴くことが可能だったせいで、ブラジルの音楽家志望の人々の一部が手本にした。前述のバーニー・ケッセルのレコードもそうで、これらのモダンジャズのハーモニー感覚がブラジルのリズム感と結びついてボサノヴァの誕生に影響を与えたというものだ。ジェリー・マリガンギル・エヴァンスリー・コニッツたちはクロード・ソーンヒルのバンドにいたことがあり、このバンドの特長であった静かなリリシズムを自分たちでもやろうと意図したという。だから、そもそもの大もとがソーンヒルバンドということになるという論旨だ。

 このブックレットには、他にもジャズの影響を受けたというブラジル人ミュージシャンたちの証言が続々と紹介されていて、まさにそれは、ジョビンの言葉への反証を集めているかのようだ。

(略)

[98年、ボサノヴァ誕生四十周年]に関連して日本で編まれた一冊の本がある。そのなかに次のような文章があった。

 まず前段に、ブラジルでは今ではボサノヴァと呼ばれる音楽は衰退しているが、アメリカではジャズを中心とした音楽家たちが、これを現在でも大事に見守っているという説明があり「これまで四十年間、ジャズはボサノヴァを変わらず大切に見守って来たのである。ボサノヴァにとってジャズはあこがれの存在で、厳しいが優しいところもある叔父さんというところだろう」とする。そして、「そもそもこの間口の広さ、ジャズのフィールドの奥深さが、ボサノヴァを現在のような存在にした。一九六〇年代初頭、リオデジャネイロの薄暗いバーやナイトクラブで見つけ出し、ちゃんと着るものを着せ、英語も少し教え、小遣いを与えて、ボサノヴァアメリカに連れ帰ったのである」

 ここでは、まさにジャズ優位のボサノヴァ史観が確立している。勿論、本当のことが含まれてはいるだろう。しかし、ここまでこうしてアントニオ・カルロス・ジョビンのことを考えきたぼくは、こういう言い方に非常に違和感を覚えた。この瞬間ぼくは、ジョビンがなぜジャズの恩恵を述べないかの理由が分かったような気がした。四十年の間に、徐々にこうした考え方が普通になっていったのだとすると、それを敏感に感じ取る芸術家の心に「そうではない」という感情と確信が芽生えていくのは当然のことだったのではないか。

(略)

彼がその音楽を最初に創ったのであり、そこに勝手にジャズの方がやってきたのだ。ジャズの人々は燦然と輝く天才の音をブラジルに発見して、夢中になったのだ。「デサフィナード」や「ワンノート・サンバ」はジャズから見て、似てはいるが決して同じではない、尋常でない音楽だった。ある意味で飛び抜けていた。その音楽に、ジョビンの言葉通り、アメリカのジャズミュージシャンたちが惹かれたのだ。ジョビンは自分の曲がジャズミュージシャンに演奏されるについて、何一つ働きかけをしていない。連中が勝手に持っていって、勝手に録音し、勝手に大金を儲けた。これが発端ではないのか。 

 あのようなジャズ優位史観が認知されていくにつれ、「そうではない」という気持ちがジョビンの中に湧き上がってきたのは当然だった。最初の共演アルバム「ゲッツ/ジルベルト」での出会いからして、スタン・ゲッツジョアン・ジルベルトは肌が合わず、間にたってジョビンが調停したという話は本書にもある。

(略)

スタン・ゲッツがどういう態度で彼らに接していたのか、その一例となるエピソードをジーン・リースが書いている。あのセッションでアストラッド・ジルベルトが飛び入りで「イパネマの娘」を歌った話は有名だが、その報酬はどうなったか。無論飛び入りだから、その場では何も支払われない。しかし、レコードになった以後は、アーティスト印税が発生して彼女は莫大な報酬を得られる可能性があった。しかし、そのことを言い出すマネジャーを持っていない。

 レコードがヒットした後のある日、ゲッツがテイラーに電話してきてアストラッドのことを話したいと言った。てっきり、アストラッドにも印税が入るようにしろという話かと思ったら、逆で、彼女には何も払うなという確認だった。自分で主張しなければならないタフな業界とはいえ、すごい話だ。こういうことがジョビンたちに伝わらないわけがない。

(略)

一方では、故郷のブラジルに帰ると、今度はブラジルの魂を売った式の非難が待っていたりもするのだ。どこにもやり場のない怒りと悲しみと諦めをジョビンは背負ったと思う。まさにこれがサウダーヂというものだろうか。ジョビンはとうとうこんなことを言い出す。

 

「僕の作品の八割は、ボサノヴァとはなんの関係もないものだ」

 

 前述したブラジルでのコンサートの為にジョビンの曲と向き合ったぼくにはそのことがよく分かる気がする。

「メウ・アミーゴ・ハダメス」はバッハイデオムの曲だが、分散和音で弾かれるコードの最高音が常にサンバのリズムを奏でているという実に不思議なものだし、「バラに降る雨」は変拍子の挿入と、ジャズでは説明のつかないハーモニーと共に、フォーレの「夢のあと」のような美しい旋律に独特の内声の動きが呼応する。「サーフボード」は、確信犯的一拍半フレーズの連続使用で極限までリズム感が試され、「ストーン・フラワー」はジャズに影響を受けたかのような出だしだが、バイヨン系のリズムにのって曲は次々と違う場面に進み、書かれたものをそのまま追うだけで、ものすごいスイング感が出現する完璧な構成を持っている。「フェリシダーヂ」も聴きやすい曲だが、コード進行は普通ではなく、実は非常にアドリブしにくい曲なのだ。また、出だしの六度のメロディーのコードを六度マイナーで始めるのは「アメリカ人の間違い」で本当は一度のコードで弾かなければならない。そうジョビンが言っていたとマウリシオが教えてくれたが、この感覚を真に理解するのは、ブラジルの感覚をもったギタリストでないと難しいだろう。ちなみにマウリシオは「バラに降る雨」のイントロで、E7コードの時に、Eをルートにして上にA♭のメジャー・トライアードを弾いていたが、これは普通のジャズ理論では理解不能な音だ。

 これらはほんの一例だが、ほとんどのジョビンの曲は、揺るぎない構成と置き換えのきかない独特かつ厳密なハーモニー構造をもっている。それらの曲が、世界に認知されたポップス音楽としてのあの「ボサノヴァ」という言葉で簡単にくくられるとしたら、それに違和感を感じるのは当然のことなのだ。

 しかし、ボサノヴァが上陸後すぐにアメリカで定着していくという現象はその通りなのだった。何年か前にスタンフォード大学に留学した知人が、ジャズのコースを受講した時に、ある先生は、ジャズの基本的な形式として、「ストレート」、「ブルース」、そして「ボッサ」の三つをあげたという。もはやリズムの一形式ではなく、ジャズの一形式として認識されているわけだ。そういう意味では大事にされていると言えるだろう。

(略)

 八章一四六ページにゲーリー・マクファーランドと言う名前が出て来る。これは米国留学中だった渡辺貞夫が一九六五年に在籍していたバンドのリーダーなのだ。

(略)

マクファーランド自身がジョビンも参加した「ソフト・サンバ」というアルバムをヒットさせていて、全米に九週間のツアーが実現した。その為のオーディションだった。渡辺貞夫はテナーサックスとフルートをやることを承知して参加した。最初は正直言って「まいったな。かったるいな」という印象だったという。オリジナルもあったが映画音楽からビートルズまでのレンジの広いレパートリーをボサノヴァのリズムでやるのだ。しかし、マクファーランドの暖かい人柄やギターのガボール・ザボの友情に触れてこれをまっとうする。

 ツアーの途中のサンフランシスコでセルジオ・メンデスを生で聴いた。興味を持ち、そのレコードを買うときについでにという感じでジョビンも買った。その音楽には心がなごみ、久々に歌を感じ、ツアーの孤独な心が癒される気がした。

 その年の暮れに帰国した渡辺貞夫は、その足で日本の若手がやっているライブハウスに現れて、嵐のように吹きまる。我々は歓喜した。翌年一九六六年にはセッションバンドを作り、出来たばかりの新宿の「ピットイン」に登場する。この時に、バリバリにジャズをやるための戦略として、一方でマクファーランド方式のボサノヴァを演奏する時間を取り入れた。そのバンドの一員だったぼくは、ここではじめて本格的にジョビンの曲に出会うことになる。リードシートに書かれたそれらの曲のコードワークは、繊細、複雑で、第一感はビル・エヴァンスそのものだった。これをこなすには大変な努力が必要だった。同じバンドにいたドラムの富樫雅彦によれば、そのリズムは「サンバ・カンサォンだと思った。ほとんど同じもので、それに誰かが勝手にボサノヴァという別名をつけたのだろう」という印象になる。

 これがジャズミュージシャンによる日本での最初のボサノヴァの演奏だったかもしれない。ジョビンたちのニューヨーク上陸から実際には三年ちょっとだと思うと、今になって不思議な感慨がある。

 もっとも、日本のポピュラー界ではすで六二年の暮れに、梓みちよによって「ボサノバ娘」というレコードが作られていたという。新しいラテンリズムだというポピュラー界からの注目は、プレスリーにも「ボサ・ノヴァ・ベイビー」という曲を歌わせるほどだった。

 「ピットイン」での演奏は、毎回客席はあふれるばかりの満員だった。そして、いわば息抜きの為にやる音楽が、このように高度な構造を持っていることにぼく自身は驚愕していた。それがアメリカからもたらされたボサノヴァという音楽の印象だった。これはすでにジョビンの手を離れた、アメリカ育ちの音楽なのだが、このように高度に音楽的になりうる要素を埋め込んだのは、ジョビンを含むボサノヴァ創始者たちのオリジナルの力にちがいない。

(略)

どのようにしてこういう人間が出来たのか、何故、そういうことをなし得たのか、その男は日頃何を食べ、誰とどんな話をしていたのか、どのような生い立ちだったのか。生まれる前からの出来事を含むすべてが本書に語られている。

 肉親でなければ書けない日常生活がある。

(略)

 イパネマで路面電車にのり、ファベーラで童貞を失う少年ジョビン。好物のイワシをつまむ指先。バーや自宅での友人たち。さまよいこむ大自然。降り注ぐ暖かい雨。勝手気ままと優しさの同居。いらだちと安堵。家庭生活の破綻。降霊祈禱。親戚たち。森の保存。鳥たち。釣り。食事。飲み物。好物。卓越した自然観察者。ここにあるのは、決してブラジルという居場所を失わない、等身大の兄と妹の姿だ。

 その行間のすべてから、なぜあのカーネギーホールでの記者会見で、アントニオ・カルロス・ジョビンがあのように言わなければならなかったのかが理解出来る気がする。

(略)

アメリカ流に変えられていく自分の音楽に、作曲者なのに印税を払ってもらえなかった現実に、あるいは前述したジャズの優位性をとなえる雰囲気などなどに直面して、やがて彼はアメリカに対して、ジャズに対して、徐々に違和感を抱いていったのではないだろうか。これが、エコロジーへの生まれながらの関心と共に、アメリカが象徴する現代の世界のありかたへの批判にもっながっていくのは、彼にとってはまったく自然のことだった。

(略)

あの時、隣の席で、アメリカに対してジャズに対してはっきりと言い張った男の姿は、この本を読み終わった今、さらにくっきりとぼくの記憶に残る。