ヒットこそすべて・その3 朝妻一郎

前回の続き。

ヒットこそすべて ~オール・アバウト・ミュージック・ビジネス~

ヒットこそすべて ~オール・アバウト・ミュージック・ビジネス~

70年代の著作権収益事情

[クラウンの伊藤正憲とニッポン放送の石田達郎が仲が良く、石田、PMP社長羽佐間経由で]
「おまえ、何かクラウンのレコードでヒットしそうなものはないか?」って聞かれてね。クラウンのレコードをいろいろ聴いた中で、これは絶対いけると思ったのがかぐや姫の「神田川」だった。「もう、〈神田川〉しかないです」と僕が言って、幸いなことに大ヒットになり伊藤さんも大変喜んでくださった。
 でも、「旅立ちの歌」も「神田川」もそうだけど、当時は、まだ著作権についての認識が今とは違っていたから、起こり得た話でもある。
 その当時、著作権の録音印税は、基本的にはシングル・レコードが1枚売れると、7円20銭。その基準は、1ドルが360円だった時代に、アメリカの著作権が1曲につき2セントだったから。だからそれにならって7円20銭か、または小売価格の5%のどちらか高い方という規定になっていた。ほとんどの場合、7円20銭になっていたね。
 そうすると、例えばシングル盤が10万枚売れると、印税は全部で72万円、そこから作家に半分、残り36万を例えばPMPと事務所で分けるとすると18万円ずつになる。だからその18万円の収入を広告費と考えて、PMPに動き回らせた方がいいというような考え方があったんだ。(略)
[ラジオテレビからの使用料は微々たるもの。その理由は]
日本では、放送でレコードをかけても、最後にそのレコードの出所を言えばお金を払わなくてもいいという特例が60年代まで存在していたからなんだ。(略)
それが、64年の東京オリンピックのころに、外国の著作権団体から「我々の著作権を使っているのに、レコードだから払わないっていうのはおかしい。オリンピックができるくらいの国力がついたのだから、きちんと国際水準に合わせるべきだ」という抗議がくるという事態になり、結局、著作権法の法律改正が66年に行われた。
 ただし、昨日まで1銭も払わなくてよかったのが、今日から払うということで「欧米では営業収入の5%を音楽使用料として払ってます。だから5%払ってください」なんてJASRACに言われても、いきなりは対応できるわけはない。仮に営業収入が1千億円とすると5%といえば、50億!(略)だから、じゃあ5年で1億、さらにその次の5年で何億という感じで、徐々に設定を上げていきましょうという合意がJASRACと放送事業者の間で交わされた。
 だから、まだ70年代はそのシステムの初期段階で、放送局の払う額は非常に少ないものだった。
 ほかにめぼしい著作権使用料としては「平凡」とか「明星」の付録に付いていた歌本があった。歌本に載ると、1曲2万円ぐらいの使用料が発生する。両方に載って2誌で4万円。そこそこの売上のレコードの印税より多かった気がするな。あのころは、「平凡」とか「明星」に行って「来月はこれをぜひ載せてください、これ絶対売れますから」とかお願いすることが重要な仕事だったね。「新譜ジャーナル」や「ヤングフォーク」なんていうフォークの楽譜を掲載している雑誌もその後加わってきてね。
(略)
だから著作権なんて持ってたってお金にならないやという考え方も、当時の業界には根強くあったことは事実。「朝妻さん、そんなものをPMPにあげたら宣伝を手伝ってくれるの?」「はい、頑張ります」という、そのやりとりで、お互いの利害が埋め合わされていたんだ。

おニャン子ビートルズ

[85年フジ音楽出版と合併、フジパシフィック音楽出版に。社長に就任]
 実は合併の前にも、すでにフジテレビとの仕事は始まっていた。(略)オールナイターズでレコードを作りたいという話が出たとき、フジ音楽出版はレコード制作の原盤制作には興味がないからというので、PMPに話が来たんだ。石田弘さんにお話を頂いて、僕は「ぜひ乗りたいです」と返事をした。そのあたりから、フジテレビの番組なんだけど、ニッポン放送のPMPがお金を出して原盤を制作し著作権を取るという関係は始まっていたんだ。
 結果的に両社が合併することになったときに、「オールナイトフジ」のスタッフで始めた新番組が「夕やけ二ャンニャン」。(略)おニャン子クラブに関しては、フジパシとレコード会社で半分ずつ権利を持つという仕組みも、そのときに石田さんと作った。秋元康君という才能の存在が大きいけど、あの大ヒットは予想していなかったね。
 あのころはおニャン子クラブのファンクラブの運営もうちの会社でやっていた。ファンクラブに来る現金書留の封を切るための機械まで買ったくらいだからね。
(略)
[1985年ビートルズ著作権が100億円で売り出された]あれは無理してでも買っておきたかった。
 あのときは、まだ合併の前だったのでPMP単体で、ということで、鹿内春雄さんに「今、ビートルズ著作権が売りに出てるから買いましょう」って言ったのだが、「いいけどなー、ちょっと高すぎるよな!」と一蹴されてしまった。実際、当時はまだフジテレビもニッポン放送も上場していなかったしね。(略)
[現在ビートルズの楽曲著作権は1千数百億円以上]
フジパシでビートルズの楽曲を持っていたかったということもあるけれど、一番は著作権というものの資産価値を世間に知らしめたかったということがある。
(略)
 フジテレビの日枝会長と先日話をしたら、そのとき僕がビートルズ著作権について強く主張していたことを覚えていてくれた。その後、あの金額がどう変化したかについても意識していて、だから、後に僕が海外を拠点にした音楽出版社ウィンドスウェプトをアメリカで立ち上げる際にも、著作権の穫得に対する投資ということに非常に理解を示してくれたんだ。あのとき頑張ったのは無駄ではなかった。
(略)
[85年CD発売開始]
ソニーは当時はCBSとの合弁会社でCBS・ソニーだった。だから、日本のCBS・ソニーがすごい利益を出すと、その利益の半分をアメリカのCBSに送らないといけない。当時の社長だった大賀典雄さんはそれを考えて、その利益を使って、市場に出回っていたアナログのレコードをどんどん回収した。レコード店に「アナログのレコードを全部うちで引き受けます、返品していいですよ。その代わりCDを仕入れてください」とセールスしたんだ。そうやって経費を使うことで、アメリカに払わなきゃいけない利益を少なくして、なおかつCDの売り場を増やしていったんだ。
 そのころ、僕は、ソニーがそのうちアメリカのCBSレコードを絶対買収するだろうと予測していた。CBS・ソニーはCDを一生懸命売って行こうと思っているのに、アメリカのCBSに「これからアメリカもCDの時代が来るんだから、CDの工場を作ろうよ」ってアピールしても、「そんな金のかかる投資は嫌だ。本当にCDも今後伸びるかどうかまだ分からないじゃないか」という回答だったというんだ。それを聞いた大賀さんがすごく怒っていたそうだ。そんな面倒くさいやりとりをするくらいなら、もうCBSごとソニーで買収してしまおうという流れになるのではないかと、僕は「ミュージックラボ」に書いた。それから、たぶん1年ぐらい後かな、本当にソニーがCBSレコードを買収したからね。
(略)
変な話、ヒットしていないのにカラオケで歌われている曲というのもある。カラオケによって徴収される著作権入金のリストを見ていると、「この曲がこんなに歌われているんだ」という発見がよくあるんだ。例えば、うちの楽曲で言うと、橋幸夫さんと安倍里葎子さんの「今夜は離さない」とかね。

ポール・マッカートニー

彼がまず買収したのは、バディ・ホリーの楽曲を持つ出版社でした。(略)
1975年には、自分のグループ、ウイングスのギタリスト、デニー・レインにバディ・ホリーのナンバーだけを取り上げたソロ・アルバムを作らせています。また翌1976年にはポールが中心となって呼びかけ、9月7日のバディ・ホリーの40回目の誕生日に合わせて1週間の「バディ・ホリー・ウィーク」をロンドンで開催し、人々の注目を集めました。これには、レコード業界の人達の興味をひいてバディ・ホリーの曲をもう一度レコーディングしてもらうことと、放送業界の人達にもアピールして彼のナンバーを放送してもらい、演奏使用料を増大させたい、という意図が込められていたと考えていいでしょう。そして、さらに1978年に「バディ・ホリー・ストーリー」という映画が制作される……というぐあいです。(略)
この後「ペギー・スー」、「レイニング・イン・マイ・ハート」[等も録音され、ポールの]選択とその後のプロモーションが少しも間違いでなかったことが証明されています(略)
[次に手に入れたのが「アンチェインド・メロディ」などを持つフランク・ミュージック。これをどうやって手に入れたかというと、1978年にCBSとEMIと再契約交渉に入った時、CBSが少し前に買収していたフランク・ミュージックをポールに友好的な額で譲渡する条件をつけた]
買収資金そのものはCBSから支払われた契約金とレコードの印税の前払い金をあてられたわけですから、「アンチェインド・メロディ」を初めとする数多くのスタンダード・ナンバーを擁する音楽出版社を、ポール・マッカートニーはとてもリーズナブルな価格で、しかも自分のポケットからそのための支出をいっさいすることなく手に入れたことになるのです。
 もっとも、こうしたことは1980年以前のCBSレコードだから起こり得たことであって、今仮にポールが同じような状況で同じことを要求したとしても、こんなにスンナリとはいかないでしょう。

仕事だから、こういう手法を絶賛する思考になるんだろうけど、そこらへんで大滝さんは不快感を示したのかも

それ以前にも、PMP時代にアメリカ人の持っていた会社を買い取ったことがあった。60年代にアンディ・ウィリアムスが歌った「ストレンジャー・オン・ザ・ショア」などを作詞していたロバート・メリンという音楽家がロバート・メリン・カンパニーという出版社をやっていた。この人は、アメリカで小さなレコード会社や出版社がヒット曲を出すと、すぐにその会社に連絡をして「500ドル払うからアメリカ以外の権利をください。ロバート・メリン・カンパニーが海外から受け取る額の半分を、あなたに払います」と言って契約をするわけ。当時はアメリカのレコード会社も出版社も、アメリカでのヒットの収入しか考えていなかったし、それで十分商売になっていたので(略)喜んでこの話に乗った。
 このやり方で、ロバート・メリンは、プラターズの「オンリー・ユー」やポール・アンカの「ダイアナ」などのアメリカ以外の出版権を手に入れていた。彼のビジネスマンとしてのすごいところは、その抜け目のなさ。例えば、Aという会社から海外の権利を取ったメリンは、A社と“アメリカのロバート・メリン・カンパニー(RMC)が受け取った額の半分を払います”という契約をしている。だから、彼は「ロバート・メリン・ロンドン」とか「ロバート・メリン・フランス」とか「ロバート・メリン・ジャパン」という別会社をあちこちの国にたくさん作って、それぞれの会社とRMCの間でフィフティ・フィフティの契約を結ぶ。するとロバート・メリン・ジャパンに100円入ってくると、まずジャパンで50円を取って、残りの50円をアメリカのRMCに送る。RMCはその50円の半分の25円を取って、残りの25円をAに払う。つまり、この方法だと(略)ロバート・メリンが4分の3を取れる

88年ウィンドスウェプト・パシフィック・ミュージック設立

アメリカで権利を取った楽曲の日本地域だけの代理店をやっていて、しかも3年ごとの契約更改でいじめられるっていうのは面白くなくてね。何とかアメリカの作家と契約して、直にうちが著作権を取れないかってことを僕は考えていた。(略)
「そうだ、制作プロダクションをアメリカに作ろう」と思い至った。(略)
[パートナーは]A&M以来の長い付き合いになっているチャック・ケイ以外には誰も思い浮かばなかった。(略)
 ところが、A&Mのジェリー・モスの弁護士が、そこに水を差してきたんだ。彼がジェリーに「チャックがやっていることを認めたら、A&Mレコードの中庭に、もう1つ敵のレーベルを作るようなものじゃないか。OKしちゃだめだ」と言う進言をした。これは実際は、A&M内での弁護士同士の権力争いみたいなものだったのだということは後に聞いたけど、結局、それで、この話はご破算になってしまった。しかも、チャックは、ジェリーとうまくいかなくなって、A&Mロンドールも辞めてしまったんだ。(略)
[責任を感じ]僕はチャックに「ともかく10万ドル(=2400万円)用意した。これをあなたにあげるから何をやるのかはわからないけど、資金にしてください。そして、あなたが権利を獲得したものの日本地域の権利をPMPに下さい」と言って、そのときは別れたんだ。
 それからしばらくしたら、チャックから電話がかかってきた。
 「イチ、権利取ったぞ」って。「何の?」って聞き返したら「今度出るジョン・レノンの『ダブル・ファンタジー』だよ」って!(略)日本地域の出版権をうちが獲得して、10万ドルのアドバンスなんかあっという間に取り戻せたわけ。
(略)
[88年設立後]最初に獲得したのは、モーリス・リビィというマフィアとの関係が噂されていた音楽業界の伝説の男が持っていたビッグ・セブン・ミュージック。このビッグ・セブンは、昔からみんなが欲しいと思って交渉しては結局手を引いてきた、パンドラの箱みたいないわくつきの物件だった。でも、チャックは「100%安全とは言えないけど、行くべきだ」と言う。(略)
 なにしろビッグ・セブンの管理している楽曲のクオリティーは最高だからね。スタンダードの「バードランドの子守唄」、コニー・フランシスの「バケーション」、フランキー・ライモンの「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブ」とか。結果的にこの買収は大成功だった。
 チャックからは、その後も「イチ、この後何を買いたい?ウィッシュ・リストを作れ」と言われて、僕もいろいろ挙げたな。サム・クックのカグス・ミュージックとか、フォー・シーズンズのサタデー・ミュージックとか。フォー・シーズンズは希望通り買えたよ。ロッド・スチュアートの著作権も買った。
 チャックからはバーズの楽曲も推薦されたけどね。でも、そのころの僕には「エイト・マイルズ・ハイ」がもう1回ヒットするとは思えなくて、乗れなかった。何年かしたら、バーズの人気がリバイバルしたり、あの時代の曲がいろんなコンピレーションに入ったりして、「おまえが、乗らないから買わなかったけど、あれ、買ってたら、大成功だったんだぞ」とからかわれたりもしたけど。でも、やっぱり、この楽曲を使ってこういうことをやれるだろうというのが自分で見えていなければ、絶対簡単には買ってはいけないものだと僕は思う。(略)
[99年獲得した楽曲はEMIに2億数千万ドルで売却]
著作権にそれだけの資産価値があるということを日本の金融機関に示すことができたということで、とても大きな意義があった。

対談:秋元康朝妻一郎

秋元 (略)日本で僕がそれまでお会いしてきた方々は、どちらかというと芸能界的というか、怪しげな感じだったんですけど、朝妻さんはアメリカの音楽ビジネスマンみたいでした。イメージだけで言うと、数字や契約にうるさい音楽プロデューサーとか社長みたいな存在(笑)。(略)
[芸能界の匂いがせず]むしろ、それよりも音楽大好きという気持ちが強かった。(略)もしかしたら、この業界の中でも一番音楽的な人だと思う。ヒットするためにこうしようああしようっていうよりも、「このメロディーラインがいいね」とか言って盛り上がる。そういう感じが大好きでしたね。(略)
コード進行やアレンジ、サビにこういう展開をとか、例えば60代のあの曲の感じでやろうとか、そういう打ち合わせになる。(略)
そういう意味では、朝妻さんって、雑誌の編集とかも好きな感じがしていましたね。
朝妻 僕が発行人を務めた雑誌『SWITCH』も、そんな感じでできた。
(略)
秋元 それにしても、あのころは、すごく忙しかった。(略)最高で1日で13曲ぐらい書いたことがあるんです。(略)寝てる時間なんかない。そのころは、アナログ・レコードの時代で、まだジャケットの入稿の方がレコーディングよりも先だった。「とりあえず、タイトルだけ下さい」なんて状況がよくありましたね。あるとき、もう力尽きて寝ちゃったときがあって。そうしたら、朝、フォーライフの担当者から電話がかかってきて、「吉沢秋絵の新曲今日もう入稿なんですけど、タイトル決まりました?」って受話器の向こうで言ってる。僕も、ぱっと電話取った瞬間、まだ寝てたんでしょうね?だけど突発的に「なぜ?の嵐」って言ったんですよ(笑)。「分かりました」って電話は切れて、ジャケットが入稿されて、僕は、どうして「なぜ?の嵐」なんだろうって考えながら作詞した。
(略)
朝妻 「真赤な自転車」と「じゃあね」が好きだね。(略)「じゃあね」はアイドリング!!!にカヴァーさせようよって僕は言ったんだけど、「うちは一応、秋元さんのAKB48に対抗してるんで」とかって反対されてね(笑)。
(略)
秋元 Winkだってそうですよ。あれは、朝妻さんが提案してやったわけだから。あのころ、朝妻さんはずっと言ってたんですよ(略)いい楽曲をユーロビートにすれば、きっと当たるぞって。そして、それが大当たりした。
(略)
秋元 (略)朝妻さんの謎ってそこだと思う。(略)どうして朝妻一郎という音楽好きの音楽評論家が、音楽出版という権利ビジネスで成功したのか?
朝妻 たぶん、僕が、自分では楽器も演奏できないし、歌も歌えない、つまり、自分で何かができないからじゃないかな。僕は自分で音楽を作るクリエイターじゃないという線引きをしたんだ。もちろん、自分でレコードのプロデューサーをやってた時期もあって、けっこう我ながら優秀だなと思っていたときもあったよ。だけど、会社の中で課長とか部長になったときに、絶対に自分の作ったレコードを「これ、うちで押そう」とか言いたくなるから、制作にかかわることをやめた。スタジオにも、もう入らないようにしたんだ。たぶん、そこで意地を張って続けてたら「あいつ、つまんないレコード作ってんのに、これを会社の一押しにしようとかって言ってんだよな」とか陰口を言われておしまいになっていたかもしれない。

Winkボーイズ・ドント・クライ

良い曲なんだけど、そのままではちょっと弱いなという感じだったんだ。そのときのWinkのプロデューサーが、なんとあのジャックスの本橋君だった。だから本橋君に「この曲サビをもう1回繰り返すと絶対ヒット曲になるんじゃない?」って頼んで、サビを2回繰り返すようにしてレコーディングしたらヒットした。そうしたら、「ボーイズ・ドント・クライ」を歌ってるオリジナル・アーティストが日本に来たときに、日本のファンはWinkの方で曲を知ってるから、「お願いだから、そこもう1回繰り返して」って本家の方に逆にリクエストしたりして冷や汗をかいたこともあった。これは余談だけどね。