ヒットこそすべて・その2 朝妻一郎 ナイアガラ経緯

前回の続き。

ヒットこそすべて ~オール・アバウト・ミュージック・ビジネス~

ヒットこそすべて ~オール・アバウト・ミュージック・ビジネス~

パシフィック音楽出版入社まで

 ポール・アンカ・ファンクラブができたのは、キングレコードの主導だった。(略)[58年の]来日を盛り上げようという意図でね。(略)田辺昭知さんから、「おれはあのとき、ドラムを叩いてたんだぞ」って教えられた。まだホリプロを設立される堀威夫さんのスウィング・ウェストのメンバーをやってたころかな。アンカはバンドを向こうからは連れてこなかったからね、日本のバンドが演奏をしたんだ。
 当時はもちろんエルヴィス・プレスリーも人気があった。だけど、僕にはプレスリーはカントリーの感じが強く思えて、そんなに好きじゃなかった。僕はメロディーが好きな人間なんだ。ポール・アンカは、そのメロディーが一番キャッチーだなと思えた。それからバックで鳴っているドン・コスタのアレンジが、ストリングスやコーラスを結構いっぱい使っていて、すごく心地良かったんだ。
(略)
 で、なぜヤマハに僕が出入りするようになったかと言うと、ポール・アンカがレコード会社を、ABCパラマウントからRCAビクターに変えてしまったからなんだよ。(略)
[ビクターの洋楽部が協力的じゃなかったので]
じゃあ「ヤマハミュージックが楽曲の著作権を持ってるんだから、そっちはどうだろう」と思ったんだ。そこで改めてお願いした。そしたら「いいですよ」と。向こうにとっては、それでポール・アンカのレコードが1枚でも売れれば、著作権使用料が入ってくるわけだからね。
 それからは、ヤマハでファンクラブの会員に送る会報を作るのに、コピー機を使わせてもらったり、事務所で購読していた「キャッシュボックス」や「ビルボード」とかを見せてもらったりした。ヤマハにはエアメールでちゃんと「ビルボード」が来ていたから(略)1位から20位まで書き写して、ポール・アンカの曲が入っていると二重線を引いたりしてね。
 高校生でよくそこまでやったねとか言われるけど、なぜかポール・アンカ・ファンクラブの会長になってたからね。何とかしなくちゃいけなかったんだ。それにほかのファン・クラブもみんな頑張っていたしね。
 そのヤマハにいらした楊華盛さんが、「おまえ、なかなか音楽に詳しいから」と、ニッポン放送高崎一郎さんを紹介してくれた。「この間、洋楽売り場にいつも変わったレコードを買いにくる亀渕っていうのを高崎さんに紹介したら、すごく喜ばれたから、おまえも高崎さんとこに推薦するよ」と。そのあと、僕が高崎さんのアシスタントにつくことになったら、亀渕さんもそこにいた。それが2人の出会いだったね。
 亀渕さんは僕より1歳上で、当時は早稲田の大学生だった。その亀渕さんに、僕は全然敵わなかったんだ。(略)
 それで亀渕さんの行動をよく見てたら、たぶん、僕が見ているものと亀渕さんの目にしているものは、そんなに変わらない。要するに「ビルボード」や「レコードワールド」、「キャッシュボックス」とか僕と同じものを読んでるわけ。ただ一番最初に亀渕さんは僕に、「レーベルクレジットは、よく見ろよ」ということは教えてくれた(略)
ずっと見ているうちに「あ、このライターって、そういえばほかの曲で、あれも書いてたな」とか、「この音楽出版社は、あの曲も出してたよな」とか、「このプロデューサーは、あれもやってたよな」とか、そういうことに気がつくようにはなった。(略)[それでもまだ敵わなかったが、やがて]
誰に子どもが生まれたとか、誰と誰が結婚するとか、誰が死んだとかいうような記事(略)までちゃんと見てなかったことが分かった。「ああ、そうか。そうなんだ」と、だんだん分かってきてね。(略)
 業界誌のそういう読み方については、亀渕さんから教わった部分は大きいね。(略)
 僕は工業高校を卒業して、そのまま石川島播磨に入社した。66年にパシフィック音楽出版に入るまでは、ずっとそのまま。ライナーノートの依頼を受けたときも、まだ石川島にいた。
(略)
 どうして朝妻一郎という名前になったかというと、高崎一郎さんが、「おい、朝妻、おまえね、おれの弟子は全部『一郎』という名前にするんだ」とおっしゃって。「木崎(義二)も亀渕も全部『一郎』にするんだから、おまえも『一郎』にしろ」「わかりました」。
 でも、結局、「一郎」にしたのは僕だけだったんだ。
(略)
 ニッポン放送では、初めて会った高崎さんに「じゃおまえ、来週から来て、電話リクエストの選曲をやれ」っていきなり命じられた。(略)
 高崎さんのアシスタントには、すでに亀渕さんがついていて、僕はその後だった。ほぼ僕と同じころに大橋一恵さんっていう女性もついた。今は、アルファミユージックっていう音楽出版社の社長されてる方だよ。彼女はリッキー・ネルソン・ファンクラブの会長か副会長だったと思う。
(略)
 あのころは、石川島播磨で平日は朝8時から午後4時まで仕事して、4時30分には豊洲からバスに乗って銀座4丁目へ出る。そこからニッポン放送まで歩いて、レコード室に直行。書かなきゃいけないレコードの解説の資料調べと、それから、番組の構成のアイデアを練る。いろんな曲を聴いて、どういうふうに並べようかなとかね。
(略)
 僕がこの業界に入った時代というのは、ラジオがあらゆる音楽情報の伝達の主役だった。それは音楽に必ずしも限らない。ラジオが言うことをリスナーがかなり信頼したんだよ。ラジオのしゃべり手、DJを、ある種の権威としてみんな受け止めていた。だからその権威が言うこと、権威がかける曲をみんなが聴いた。だから深夜放送が始まってから、そこからいっぱいヒット曲が出たんだ。だけど、70年代も半ばになると、だんだんと深夜放送が、しゃべりの方がメインで、音楽は単なるサウンド・ロゴみたいな存在になってきてしまった。
 そのあたりから、ラジオの情報の伝達力、特に音楽を伝達する力っていうのは弱くなってきた気がする。(略)
 そういうラジオに対する信頼度の頂点が、67年10月に「オールナイトニッポン」が始まった最初の数年じゃないかな。要するに、常木健夫さん、糸居五郎さん、高岡寮一郎さん、斎藤安弘さん、今仁哲夫さん、高崎一郎さんのラインナップ。この6人は、基本的にしゃべりのタイプは違ってたんだけど、やっぱり、音楽を伝えようっていう部分は共通していた。
 そういうラジオ黄金期にラジオが作ったヒット曲と言えばさ、ガス・バッカスの「恋はスバヤク」とか。あの曲は、筒美京平さんがまだご本名の渡辺栄吉で、ポリドールの洋楽の社員だった時代の仕事だったね。筒美さんが高崎さんのところに来て、「高崎さん、この曲、面白いんですけど、日本語のタイトルをつけてください」って言ったんだ。それで、高崎さんが「恋はスバヤク」っていうタイトルをつけて、「キャンディ・ベストヒットパレード」でずっとかけて大ヒットになった。
 やっぱり筒美京平さんは、そのころからどういう曲が日本でヒットするかを見抜くセンスを持っていたね。ジョニー・ティロットソンに「バラが咲いた」を日本語で歌わせてみたのも筒美さんだし。結構ヒットしたんだよ。
(略)
 高崎さんから、「ニッポン放送音楽出版社作るから、おまえ、来ないか」って言われたとき、僕は「ちょっとすいません、少しお時間を下さい」って返事をした。(略)
 音楽が好きで、音楽の仕事をオファーされたんだから、やりたいなとは思った。でも、そこへ入っても、自分が何をやるのか分からない状態で闇雲に入ったら、その先どうなるか分からない。(略)
[色々迷ったが]
「基本的には、いい曲を探すことが第一のようだし、それならたぶんできるんじゃないか」(略)
1966年2月、こうして僕はパシフィック音楽出版に入社した。

カレッジ・フォーク誕生のいきさつ

[ニッポン放送社長・鹿内信隆の次女が慶応で、パパに友達のフォークグループを応援してとお願い。鹿内が高崎に、高崎が東芝の高嶋弘之に「なんとかならんか」と頼み]
高嶋さんが「あ、ちょうどいいですね。今、学習院大学のフォークグループのレコードを出さない?って言われていたところなんです。その慶応のグループだけでなく、〈カレッジ・フォーク〉っていうブランドで、各大学のグループを全部出しましょう」と答えて、本当にカレッジ・フォークが誕生し、早稲田大学のリガニーズの「海は恋してる」などのヒット曲が生まれた。(略)
 同じころ、グループ・サウンズのブームも生まれつつあったんだけど、彼らの歌っていた曲も、それまでの職業作家じゃない人たちの作品が多かった。(略)
だから、カレッジ・フォークやGSによって、日本の音楽業界で長く続いてきた専属制度が崩れていくことにもつながっていったんだ。
(略)
カレッジ・フォークのアーティストの多くはプロダクションに所属していないわけだから、我々が「この曲はいい曲なので一生懸命宣伝しますので権利を下さい」って言うと「ああ、どうぞ」っていうふうになりやすかった。

二度目の渡米

シンコーミュージックの草野さんに「音楽出版社著作権を取るためには、ある程度リスクを冒しても、原盤制作ということをやっていった方がいい」という話を伺ったりしていて、PMPでの音楽制作ということを真剣に考えるようになってきていた。そして、そのためにはアメリカで本格的に音楽プロデュースの勉強がしたいと思うようになっていたんだ。それで69年に高崎さんに直訴した。「アメリカにレコード・プロデュースの勉強に行こうと思います。スペクターの下でプロデュースを学びたいんです」とね。(略)
[フィル・スペクターに手紙を書いたら、OKの返事を貰えたが、高崎は一昨年行ったばかりだからと却下。しかし70年に「白い色は恋人の色」などの大ヒットのご褒美でお許しが出た]
 だけど、そのころ、スペクターは精神に変調を起こして入院しちゃってた。仕方ないから、今度はスティーヴ・バリに連絡した。当時、彼はダンヒルというレーベルを拠点にプロデューサーとしてヒット曲を連発していた。(略)
[ウエスタン・レコーダーズ・スタジオに毎日通い、A&Mのスタジオにも時々行き、カーペンターズの録音も見た]
そのときにスタッフたちが、「こないだの〈遥かなる影〉はさ、本当はバート・バカラックからハープ・アルバートが歌うために渡された曲なんだよ。彼はこの詩はめめしいって言ってレコーディングしなかったんだけど、カーペンターズにぴったりだとリチャードに渡して、ヒットになったんだよ」なんていう裏話を教えてくれたりした。
 でも、こういう話って、うちみたいな音楽出版社にとっても重要なことなんだ。要するに出版社という存在は、曲を誰かにプレゼンしないと何も起こらないということ。(略)
楽曲をストックしてプロモーションする。それをいつ誰に渡すかということを見極めて仕事をしなくてはいけない。「あ、この人に歌わせたらピッタリだ」というタイミングを逃さない。まさにそういうことだよね。

エレック、ナイアガラ

[ELECレコードは]初期は沢田駿吾さんのギターの教則本を出していたような会社だったんだ。そこに浅沼勇さんという沢田さんの知り合いのギタリストが関わってくる。浅沼さんは音楽に詳しくて、業界的なつながりもあったから、フォークの新しいアーティストをいっぱい集めるようになった。(略)
加藤和彦君から「朝妻さん、よしだたくろうっていいよ。今度、彼の〈結婚しようよ〉っていうのを僕がプロデュースしたんだけど、あの曲絶対いいから」って聞いていたんだ。その言葉を聞いて、すぐに浅沼さんのところに行った。「浅沼さん、〈結婚しようよ〉っていう曲、うちに著作権ください。あれ絶対ヒットです」って力説した。そのときまだ曲は聴いてなかったんだけど、加藤君がいいって言うから信用したんだ。(略)
 拓郎の初期の曲はだいたいうちにあるね。『青春の歌』の曲とか、ソニーに移ってからの「旅の宿」「おきざりにした悲しみ」なんかもそう。ただ「人間なんて」の著作権はもらえなかった。浅沼さんがすごく気にいっていて、これは駄目だ、と言われたからなんだ。(略)
大滝詠一がソロを出すということになって、三浦光紀さんから「この著作権をPMPで預かってもらえませんか」とオファーがあった。そこで最初の接点が出来た。「恋の汽車ポッポ」と「空飛ぶくじら」の2曲かな。
 その少し後に、はっぴいえんどのマネージメントをしていた風都市の松下典聖君から「朝妻さん、大滝詠一がレーベルを作りたいって言うんですけど、協力してくれませんか」って頼まれた。(略)
『ソングス』や『ナイアガラ・ムーン』の著作権をうちで預かるということになったんだ。(略)
 ビジネスとしては、うちで制作費を持ちましょうということで、PMPが原盤権を持つことになった。そして一応、「ナイアガラ」という会社を設立するということで、資本金をうちも出した。
 まだまだ若者だった大滝君に対してそこまでできたのは、ひとえに「この人、すごい才能があるな」っていう敬意と、ぜひこの才能と一緒に仕事をしたいと言う気持ちが強くあったからだよ。(略)
 あと、彼はやっぱりポップスに対するセンスでは図抜けてた。僕も基本的にポップスが好きなんだよね。ロックじゃなくて、ポップスなんだということがお互いの認識の中にあったと思う。
 でもビジネス的には、すぐに成功したわけじゃない。(略)特に『ソングス』は内容もすごくポップで良かったのに、実売は数千枚。経費に対する売上という面では「ちょっと大滝君さ、これお金かかり過ぎだよ」と言いたくなるときもあったね。(略)
 上司に呼び出されて「おまえ、これ大滝詠一のプロジェクトはどうするんだ」とか問いつめられたこともあったよ。(略)「大丈夫です。絶対才能ありますから、絶対売れますから!」って突っ張った。「また金かかんのか」って言われても、「もうちょっとです、もうちょっとです」とか言って粘ってね。
[コロムビアに移籍して、『トライアングルVol.1』が2万枚、『CMスペシャル』が4万枚。]

『A LONG VACATION』

 日本コロムビアとのナイアガラの契約が終了して、1年ぐらい動きがなかった大滝君が、当時六本木にあったPMPにやって来て、J・D・サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」みたいなレコードを作りたいと言った。すべてはそこからだった。
 大滝君は当時、所属のレコード会社がないわけだから、どこから出そうかという話になった。そのとき僕は「ソニーにしよう」と思ったんだ。本当は、70年代からPMPがずっとお金を出してきて、それを許してくれてた上司の羽佐間重彰さんが、このころにポニーキャニオンの社長になっていたから、道理から言えばキャニオンにすべきかもしれなかった。だけど僕は、羽佐間さんのところに行って「申し訳ないですけど、このレコードはポニーキャニオンじゃなくて、ソニーから出させてもらいます」と申し出たんだ。当然、羽佐間さんには「どうしてソニーなんだ?」って問いただされた。でも僕は「いや、ポニーキャニオンの得意としている音楽と、大滝君が作ろうとしている音楽には大きなギャップがあると思います」とはっきり言ったんだ。「絶対にソニーの方がいいと思います。申し訳ないですけど、これはソニーから出させてもらいますから」と主張した。
(略)
ソニー白川隆三君とやったら、絶対に良いものができるし、それをちゃんと売る手段を講じてくれる」という確信があったんだ。
 白川君とは、76年に「ソウルこれっきりですか」っていう企画物で、面白い仕事をしていた。(略)
[白川が当時流行りのディスコ風メドレー企画を持ち込んで来たがイマイチ。「じゃあ、どうすればいいんですか」と言われ、モコ・ビーバー・オリーブで力を借りた奥山祅伸に相談すると、山口百恵横須賀ストーリー」の「これっきり」で曲をつなげてきた。結果大ヒット、それが縁で白川と仲良くなった]
[ロンバケ制作前に大滝、松本、白川と四人で軽井沢のホテルでコンセプト固めの合宿]
僕はひたすら「ともかく胸キュンの曲、悲しい曲を書いてよね」って言っていた。
(略)
70年代に不本意な作品も出さざるを得なかったということも「A LONG VACATION」のためには役に立ったと思う。レコードを出さないタメの時期に自分の心の中に発酵してたものが、最良の形で花開いたんだから。
(略)
[初回出荷数は3万5千枚]大滝君の過大の実績を考えるとそれでも破格だった。(略)
 あのアルバムに関しては、実はカセットのセールスも40万本ほどあった。つまり、みんなカーステレオで聴きたがったんだ。ドライヴ・ミュージックとしては抜群の人気だったものね。
(略)
[『EACH TIME』以降]オリジナルのアルバムはもう出ていない。
 大滝君というのは、人から何かをせかされたりとか催促されることが嫌なんだと思う。「黙っててもアルバムを作りたくなるような環境ができれば、作るよ」と彼はずっと思っていたんじゃないかな。
 これは僕の失敗談だけど、97年に久々に出したシングル「幸せな結末」が売れたときに、「大滝君、久しぶりにシングルを出したんだから、これをフィーチャーしてアルバム作ろうよ」って言ったら、「朝妻さんは、すぐビジネスなんだから」と立腹させてしまったんだ。あまりにも短絡的すぎて、「もうちょっと何か言い方があるでしょ」みたいなことだったんだろうね。でも音楽業界の人だったら普通、当然そう言うでしょ。
 大滝君の場合は、基本的にはやる気になるのを待つしかないんだ。自分の音楽を作る上での、その美学は譲れないわけだし。それは、そもそも「ナイアガラ」ってレーベルを作りたいと考えて、実際に始めたところから続いているものだ。自分のレーベルを持つこと自体、新しい考え方だったのに、ましてやマスターを全部自分で持つという発想はさらに先を行っていた。やっぱり今、彼がマスターを持ってるから、再発のたびごとにリマスターをしたりして、自分の音楽を管理することができているわけだからね。彼自身、ティン・パン・アレイ時代からのアメリカの音楽出版とレコード・ビジネスの歴史をよく勉強していたと思う。

ムーンライダーズ

 ムーンライダーズは一部の熱狂的なファンとミュージシャンの間ではとても高い人気があるのに、なぜかヒット曲は出なかった。僕は作家としてもミュージシャンとしても慶一君を非常に買っているから、彼が書く曲も作ったレコードも十分ヒットになる要素があるのに、意識的にヒットにならないようにしてる感じがあるのがもどかしかったね。普通は、どうやったら自分たちをみんなに理解してもらえるかっていうアプローチするのに、彼らは、「どうだ、分かんないだろう」って作品を出して来る。
今まで何人ものディレクターやレーベルの人間が「自分だったらが彼らをスターにできる」と関わってきたけど、結局、慶一君の不思議な力で、違う方向へワープさせられてしまうんだ。(略)
でも、その売れなかったことが、あのバンドがここまで存続できている理由じゃないかとも思えるから、不思議なものだよ。まだ消費され切っていないんだ。
 そういう意味ではムーンライダーズとジャックスの楽曲は、もっと受け入れられる要素があると僕は思っている。この2つのバンドのトリビュート・アルバムはこれまでにも出ているけど、僕なりのものをいつか作ってみたいな。

次回に続く。