著作権ビジネスの変遷『ティン・パン・アレイの歴史』

一見、朝妻一郎伝記本のような本の中に収録されていた『ティン・パン・アレイの歴史』(全64回)抜粋。

ヒットこそすべて ~オール・アバウト・ミュージック・ビジネス~

ヒットこそすべて ~オール・アバウト・ミュージック・ビジネス~

『ティン・パン・アレイの歴史』(全64回)

[1880年以前の音楽出版社のメインはクラシックで、ポップスは片手間、ヒットを座して待つのみで]
外に出ていい曲を探す、ということも、何かこれから行われる大きなイヴェントに合せて企画物の曲を作り出す、ということも、自分たちの出版した曲をミンストレルズ・ショーに売り込んだりする、ということも一切せず、すべて偶然に頼っていたのである。(略)
1880年前後から1890年代にかけて新しいコンセプトを持ったポピュラー・ソング・パブリッシャーが続々と登場するようになる。彼らの多くは、自分自身作曲家で1曲15ドルから25ドルで既成の出版社に曲を売り渡し、[ヒットすれば出版社だけが大儲けということを体験し](略)“それだったら自分で出版社をやった方がいい…”と考えた人たちだった。

ソング・プラッガー

[ウィル・ロシッターは]ソング・プラッガーとして、譜面の小売り店の店頭で、曲を歌い、道行く人々に、自分の曲が、どんな曲であるか積極的に知らせたのである。(略)
[彼は]劇場の業界紙に自社の曲の広告を出すという、出版社として初めて広告を打つという宣伝活動を行ったことでも知られている。

劇的成長

[譜面の売上は1880年代初期ビッグ・ヒットで5万部だったのが、1890年には70、80万部に達するようになり、1892年のチャールス・K・ハリスの「アフター・ザ・ボール」は初めて100万部を突破、最終的に500万部に]
デパートに譜面売り場が出来、1900年代に入ると、新聞がヒット・ソングの譜面と歌詞を載せたページを作ったり、デパートがチラシ広告にヒット・ソングの歌詞を印刷して配ったり

ウィットマーク&サンズ

 例えば“プロフェッショナル・コピー”と呼ばれる、歌手のための無料の譜面を作って、配ったのは彼らが最初である。レコードもそれ程ポピュラーではなかった、この時代歌手がステージでとり上げてくれることが何よりも譜面の売れ行きを伸ばす最良の手段だったのだからコロンブスの卵の様な発想なのであるが…。
 またオーケストレーションのアレンジャーにフランク・サドラーを雇い、新しいユニークなハーモニーや、変わった楽器の効果を加えた、人々の耳をひくアレンジを行い、ポピュラー・ソングのオーケストレーションに新しい時代を導いた
(略)
ラグライム・ミュージックに最初に興味を示したのも、ティン・パン・アレイにミュージック・ライブラリーを最初にオープンさせたのも(略)
いい曲を持っている他の出版社を買収するのが、一つの見事なビジネスになり得る事を実証したのも、すべて、ウィットマーク&サンズ

シンギング・ストゥージ、ウォーターボーイ

E・B・マークス、J・W・スターン、T・ハームス、J・ウィットマーク、L・フェイストといった、これらの若い会社の経営者はまた、そのまま自分の会社のソング・プラッガーとしても慟いていた。
 彼らは夕方から朝まで、音楽が聞かれる所をくまなくまわって歩いていた。サロン、劇場、レストラン、ビアー・ホール(略)ミュージシャンに酒をおごり、歌手にはゴマをすって自分の曲を歌ってもらい、オーケストラのリーダーやヴォードヴィリアン、或いは歌うウエイターに、葉巻を箱ごとプレゼントしたり、食事をおごったり(略)
1883年頃に始められ、それから数年間流行したソング・プラッキングの一つに、“シンギング・ストゥージ”というのがある。
 これは、普通少年歌手を客席にもぐり込ませておき、ステージの上の歌手が歌を歌い終ると同時に、(その曲のパブリッシャーの命を受けた)少年が、まるで、いかにも今の歌に感動したから、思わず立ち上がった、といった様子で椅子から立ち上がり、その曲のリフレインの部分を歌い出すのだ。ピン・スポットが、この少年に当てられると、観客は自然に、この少年に拍手をする、すると少年は、それに応えて、何回も何回も、リフレインを繰り返し、観客にすっかりメロディを憶えさせてしまう(略)
 ティン・パン・アレイの代表的な作曲家として、又パブリッシャーとして後年知られるようになるガス・エドワーズは、14才の時からハーティング&シーモンのバーレスク劇場でこのシンギング・ストゥージをやっていたし、これまたティン・パン・アレイと切り離せない大作曲家、アーヴィング・バーリン
(略)
バルコニー席などの客に、飲み物や水をサーヴするために劇場が雇っていたウォーターボーイと呼ばれる少年たちの中で、歌の巧い人間と契約し、自分のところの曲のリフレインの部分をいいタイミングで歌わせる、という方法などもあった。(略)
歌の巧い少年を音楽出版社は、教会の聖歌隊のメンバーの中からピック・アップしてくるのを常としていた。(略)
あのアル・ジョルソンもショウ・ビジネスの世界には同じような経歴で入って来ている。

ソング・スライド

[ジョージ・H・トーマスが曲が歌われる際、ステージのバックにスライド写真を映し劇的効果をあげた]
楽曲のプロモートに大きな効果があると判断したJ・W・スターン&カンパニーは、その権利を買い取ったのである。
(略)
すぐにこのソング・スライドはニュー・ヨーク中にひろまり、次いでアメリカ中に拡がっていった。(略)ドラマ化したスライドがバックに写される、という視覚からのイメージが加わっただけで単に耳から入る以上のインパクトを与え[その場で譜面がバカ売れ]
[音楽出版社は最初宣伝だからと、スライドを希望する劇場に無料貸し出ししていたが]
劇場の一つのメイン・アトラクションとなってしまったのでやがて一組貸し出す毎に5ドルから10ドルの料金をとるようになった。全盛期には、一つの曲のソング・スライドが、アメリカ全土に1000セット以上も貸し出される、という現象も起こっている程である。
 出版社は、このイノヴェーションで新しい収入の道(時としては数千ドル以上の収入をもたらす)を一つ開拓することができたのだ。

ミリオンセラー

(1900年から1910年の間には100曲以上の曲が100万部以上の譜面を売っている)(略)
 出版社は、ある曲の譜面の初版の1000部を出版するのに制作費、プロモーション費用、人件費などを含めて2500ドルもあれば充分だった。1900年当時、譜面は一部50セントで売られていたので100万部も売れば10万ドルの利益が生じていたのである(作家もまた10万ドルの利益を得ての上である。この頃には、大体に於て作家は、詞、曲につき、それぞれ5%の印税を支払う契約を行うようになっていた)。
(略)
[デパートが客寄せで50セントの譜面を6セントで売ったことに、出版社が連合して対抗、赤字を承知で1セントで販売]
デパートに『もう安売りはしない』という一札を入れさせる、という騒ぎを起こすなど音楽ビジネスは、益々ホットな、そしてビッグなものになっていったのである。
(略)
[産業の巨大化にともない、曲ができてからどうプロモートするか考えるのではなく、作詞・作曲家に旬なテーマを与えて曲を作らせる、楽曲製造工場スタイルに。ビジネス街に行き、トラックの荷台で歌い譜面を売ったり、レース場、夏の海岸、ポロ・グラウンド……]パレード、選挙のキャンペーン、ピクニック、サーカス、遊覧船、その他、ありとあらゆる人の集まるところにソング・プラッガーは出かけて行き、自分たちの曲を拡める努力をしたのである。
(略)
無声映画が興行される時には、必ずと言っていい程、ピアノの伴奏者がついていたので、そうしたピアニストに単にアドリブでピアノを弾かせる代わりに、自分の曲を使ってもらうという発想が、アッという間にポピュラーになったのは当然と言えるだろう。

ペイオラ旋風

ミュージカル・コメディーのビッグ・スターやヴォードヴィルの主役を押さえて、自分のところの曲を彼らの主演するショーの中で歌わせることが出来れば[曲が売れるので](略)
ソング・プラッガーとアーティストの間には、そうした単なる友情や“曲がいいから”といった綺麗事では済まない、物品や金銭のやりとりが、からむようになってくるのである。(略)
[贈り物競争の果に、アーティストに曲の印税の一部を渡すまでになり]
劇場でサラリーとしてもらう収入より多くなる、という歌手やアーティストが、かなり多くなって来る。1905年頃でティン・パン・アレイ全体で1年間に50万ドルの金をステージ・スターの誰れ彼れに注ぎ込んでいたのである。
(略)
[しかし]ショーの内容とマッチしない曲だったりしても金をもらっている弱味でその曲を歌わざるを得なくなり、逆にいくらいい曲が他の出版社から持ち込まれても断らざるを得ない
[ミュージカルの質が低下。ジョン・J・オコナーがペイオラを禁止し出版社の利益を守る団体を設立、なんだかんだあって、ようやくペイオラ旋風一旦収束]

レコードの登場

1903年当時アメリカの著作権法は、こうした録音物の登場を想定していず、レコード会社も自動ピアノ会社も、これといった法律による印税の支払いを出版社に対して規制されていなかった事、そして、1906年最高裁が、こうした会社は、何ら余分な支払いをする事なく、彼らが望む曲を自由に録音し、ピアノ・ロールとして使用してもよい、という判決を下している
(略)
[敏腕弁護士ネイサン・バーカンを代表にした音楽出版社の反攻で1909年新しい著作権法が成立。レコード片面一曲につき2セントに(70年据え置き)、1978年に3セントに。業界に不満はあったがレコード売上の急増による収入増でうやむやに]

ASCAPの始まり

[バーカンは次にクラブ、レストラン等での演奏使用料に目を付けた。初期の音楽出版社はプロモーションだと考え、使用料を取れるとは考えもしていなかった]
 1909年に施行された新著作権法は“著作物のいかなる再生も、すべて著作者の所有物であり、第三者がこれを自分の利益のために、著作者の許可なしに使うことはできない”と定めてあった。この事からネイサン・バーカンは、演奏使用料も法律的には取れる、という見解を深めていた。(略)
[1913年のある日]ジョージ・マクセルは、ネイサンに、ヨーロッパでは1871年以来SACEMという団体が存在し、音楽が演奏されるたびに、演奏使用料なり、印税が集められている、という事を指摘したのだ。(略)
[こうして1914年ASCAP発足。当然クラブ、レストラン経営者はその要求を無視。ASCAPは裁判を起こす。だが裁判所は“音楽演奏があるからといって入り口で特別料金などをとっていない”とし原告の主張を退けた。上告してまた敗訴。が、1917年最高裁はレストラン等がオーケストラを雇っている、という事の目的は利益であり、この事だけで充分演奏される楽曲が何らかの対価を得るべきであると逆転判決。レストラン側は、演奏使用料で支出が増えた分、オーケストラの編成を減らし、さらには音楽の演奏すらやめるぞとミュージシャン・ユニオンに圧力をかけ、ユニオンがASCAPに「我々は今後一切、ASCAPに所属している出版社、作家の曲を演奏しない」という申し入れをさせる事態に。結局1921年に和解成立、6000のホテル、レストラン、キャバレー、劇場などが、ASCAPと契約]
 翌1922年にはASCAPは10万ドルを越える使用料を集め、続く1923年には20万ドル、と演奏使用料の額は年と共にふえ始めた。[1924年には映画業界が裁判で敗れASCAPと契約、ついでラジオ業界も契約](略)
 こうした結果、1930年代の初期にはASCAPの徴収する演奏使用料は200〜300万ドルの巨額なものになるようになり、1937年にはほぼこれが2倍になる(略)1977年度のASCAPの徴収額は1億ドルを越えるまでに

BMIの誕生と台頭

 事の起りは、1940年に、放送者連盟との5年間の契約が終了したASCAPが、新たな契約として、年間900万ドルの使用料をラジオ局に要求したのに端を発している。この数字はそれまでのラジオ局の1年間に支払っていた金額の倍、というものだったのである。(略)あまりの急激なアップに(略)腹を立て、断固要求を拒否し、契約を結ばない事に決定したのだ。(略)
[ASCAPは管理する楽曲を放送させないことで]対抗、放送局は著作権のない民謡ばかりを放送する、という処置でこれまた対抗という争いが行われ、放送業者達は、ASCAPが独占企業であるために、こうした事が起こるのだ――ということから、新たにBMI(Broadcast Music Inc)という演奏権団体を設立したのである。1941年のことだ。この年、ASCAPも泥沼戦争に終止符を打つべく放送業者に対する要求を年間300万ドル引き下げ、新たな5年間の契約を締結したのである。
(略)
BMIのバック(放送局連盟)に魅力を感じたり、それまでのASCAPの大作家優遇主義(…それぞれの作家のランクで年間の演奏使用料が決っていた)に不満を持っていた若い作家や出版者(特にニューヨークになかった出版社は、やはりかなりの不平等を感じていた)は、続々とBMIの傘下に集まったのだ。
[こうして1941年は150万ドルの演奏使用料を集めた](略)
既にASCAPに属する出版社として活動していたところも、若いBMI所属の作家と契約するためには、これまでの出版社の他に、もう一つ、BMIに属する出版社を作る必要に見舞われるようになったのである(現在アメリカの音楽出版社が、実体は一つであるのに、名前が二つあるのは、[それが理由](略)
例えばチャペル・ミュージックでいえば、チャペル(ASCAP)とユニチャペル(BMI)といった具合(略)
 現在BMIはASCAPの約70%の金額を徴収するまでになっていて、殆んどASCAPと肩を並べる状態になってきている。

衰退

 こうした、ティン・パン・アレイを経ないで、映画音楽を手がけることによって有名になる作家が出現し、映画音楽がそのままヒット・ソングになるという一つのパターンが完成した時、ティン・パン・アレイはその崩壊を一層色濃くしたのである。(略)
トーキング・ピクチャーの限りない音楽に対する欲求が、飢えた音楽業界に天からの恵みの食物を与えた格好になった(略)[ティン・パン・アレイは過去の栄光と繁栄の再来を期待したが]
事実は彼らの予想した通りには進まなかった。(略)映画音楽に於ける音楽の重要性を悟ったハリウッド[は](略)
既に多くの楽曲の権利を持っているティン・パン・アレイの出版社を買収する、という方向に動き出した(略)
[こうして]映画のための音楽の発注を作家にするのは、音楽出版社の人間ではなく、映画会社の撮影所のエライさんに(略)
今や、映画業界が物事を創造する立場に立ち、音楽出版社は、ただその結果を告げられるに過ぎない存在になってしまったのである。(略)
“かつて、ヒット・ソングや大作曲家を生み出していた我々が、今、やっていることといえば、まるで銀行員みたいに、回数券を切っている、といった程度のことしかないんだから、あの昔のティン・パン・アレイの持っていた、ゾクゾクするようなスリルと魔力は、永久に消え去ってしまったんだ”
(略)
[1920年代4000万枚の売り上げだったレコード産業は1949年には1億万枚に]
[こうした変化でソング・プラッガーは]日陰に追いやられ、中には解雇されるものさえ出て来たのである。そして、その代りに出版社の花形となったのは、レコード業界で音楽出版社との連絡窓口になっていた“メカニル・マン”と呼ばれていた役割の人間と何らかのコンタクトを持っていたオフィス・マネージャーと称される人間である。(略)
レコード会社の、A&Rマン(Artist and Repertoryの略。(略))によって選択され、どの曲が、どのアーティストによってレコーディングされるかを決定されていた。当然のことながらA&Rマンの意志一つで出版社はヒット曲を持つことが出来たり、いい曲なのに何のリアクションも起らないままで終ってしまう、ということになったり、という状態にいやおうなくさせられることとなり、ここでも音楽出版社は、映画産業が傘下の音楽出版社にとったのと同じ態度を、A&Rマンから味あわされることになるのである。(略)
プロモーションを行い、その結果、自分のところでプリントした譜面を売って利益を得る、という、一つのトータルした作業を行っていたティン・パン・アレイが、今や、レコード業界の力を借り[る状態に]
[素人が音楽出版に手をだせる余地はそれまではなかったが、クリエイティブな要素がなくなりただの金勘定になってしまったのを見て、アーティストたちが自身の音楽出版を次々と設立]

ペイオラ、再び

[鉄道スト発生時]ボストン近辺でこのレコードを持っているのは、ボブ・クレイトン一人、という数日間が偶然にも誕生したのである。クレイトンはこのチャンスを逃さなかった。(略)ストの間、毎日1時間に1回は必ずこの曲を流し続けたのである。この結果、ボストン近辺のレコード店には、このフィル・ハリスのレコードを買いに来る客がアッという間に増え出した。しかし、店にはレコードがなく、レコードがないとなると、客は一層ボブ・クレイトンの番組を楽しみにし、何とかニュー・ヨークからレコードを取り寄せろとレコード店にプレッシャーをかける、というヒット曲の生まれる一つの典型的パターンが出現したのだ。そして遂には客からの注文に音を上げたボストンのRCAレコードのディストリビューターは、自分のところの特別トラックを仕立てニュー・ヨークに、その日までのオーダー分20000枚を取りに行く、という結果を残している。(略)
[こうして力を持ち出したディスク・ジョッキーにレコード会社から金が流れ、ふたたびペイオラが問題に。多くのDJが有罪判決を受けたが、ディック・クラークは無罪に。彼は金銭は受け取っていなかったが、決して清廉だったわけではない。レコード会社の株を受け取るというスマートな手口を使っていたのだ。自分が株を持っているレコード会社所属のデュアン・エディの曲を自身の番組「アメリカン・バンド・スタンド」でかけまくった]
(略)
ポール・モーリアの「恋は水色」も、MIDEMの会場で、他のアメリカの有力な出版社がすべて断った曲だったのを、ニューヨークの小さな出版社が“自分は1人、こういう曲の好きなDJを知っているから、彼に頼んで放送してもらう”という事を条件に、タダ同然で権利を取り、約束通り、そのディスク・ジョッキーにレコードをかけてもらったことから、アッという間に大ヒットに化けていったのである。
(略)
[ペイオラは](最初は単に現金を渡す直接的なものだったが、空港やバス・ターミナルのコイン・ロッカーにシングル・レコード100枚入りのカートン・ボックスをレコード会社の社員が入れ、その鍵をDJに渡す。[DJはディスカント店で現金化といった一歩手の込んだものになり、やがて]
ディック・クラークのように音楽出版社やレコード会社の株を持たせたり、あるいはアラン・フリードのように、既に殆んど出来上った詞や曲に、何らかのコメントを加えるだけで、作家としての印税収入を受取れるようにしてやるなど[と変化]

次回に続く。


[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com