2000年の桜庭和志 柳澤健

メインの高田より強いじゃないか

 先輩相手のスパーリングでは、関節技の防御は覚えられるが、攻撃は難しい。

 関節技を覚えるためには、実験相手が必要だが、先輩で実験するわけにもいかない。

 先輩レスラーの上になり、グラウンドでコントロールし続けることは、桜庭にとってさほど難しいことではなかったが、練習で先輩を圧倒しても、いいことはひとつもないことは明らかだった。

 93年早々には山本健一が入門してきたが、スパーリングではすぐに先輩たちにつかまってしまい、桜庭の順番はなかなか回ってこなかった。

 しかたなく桜庭は、ボーウィー・チョーワイクンというキックボクサーとスパーリングを行った。

(略)

ボーウィーは、もともと大江慎のコーチとしてタイから招かれたが、やがてプロレスラーたちから打撃のコーチを依頼され、ボーウィー自身もスタンディングバウトに出場するようになった。

 合宿所で同室ということもあって桜庭とは大の仲良しだったから、スパーリングの相手を務めるのは自然の成り行きだった。

(略)

 向こうは70㎏弱で僕は85㎏くらい。それでもボーウィーをテイクダウンするのは相当難しい。キックのスタンスならタックルに入れるけど、レスリングのスタンスで足を広げて構えられると、バランスが良くてなかなか入れないんです。首相撲もめちゃくちゃ強い。90㎏以上ある髙山さんを普通に首相撲でつかまえていましたからね。(略)ムエタイ首相撲で倒したり、脇をすくって、腿を使って投げたりするでしょう?スタンド・レスリングの部分もあるんですよ。

 グローブをつけて打撃のスパーリングをやったことはほとんどありません。キックは、まあ時々(笑)。

(略)

[ボーウィー談]

《彼はミットはやんないよ。『(略)俺はグラウンドの選手だから』って。彼は頭いいから、キックのタイミングがわかる。キックの練習に真剣に取り組んでやるというよりは、タイミングをずらすフェイントとかずっとやってた。》

(略)

桜庭和志のデビュー戦の相手は(略)スティーブ・ネルソン

(略)

[流智美談]

「スティーブは、シューターとして有名なゴードン・ネルソンの息子。普通、デビュー戦はもっと軽い相手を当てるんですけど、宮戸さんがレスリングの攻防を見せようと考えて選んだんでしょう。

 ルー・テーズさんは、桜庭の試合ぶりにとても驚いていました。『感動したよ。どうしてこれが前座試合なんだ?メインの高田より強いじゃないか』って。(略)」

ヒクソン日本上陸までの経緯

 試合はヒクソンの完勝に終わったが、ズールは3年後にもう一度挑戦してきた。

 エリオ・グレイシーは即座に了承。ヒクソンに再戦を命じた。

 一度完勝した相手とのリベンジマッチをエリオが受けた理由は、この時期に柔術の道場ビジネスが低迷していたからだ。

 当時のリオ・デ・ジャネイロでは、ブルース・リーの映画の影響を受けて(略)打撃系格闘技の道場が急増していた。

 柔術が再び人気を取り戻すためには、柔術が最も実戦に役立つ格闘技であることを満天下に示す必要があったのだ。

 23歳のハンサムなヒクソンは、ブラジル格闘技界の新たなるスターとして、メディアからも注目される逸材だった。

 1983年11月12日(略)ヒクソンは、ズールに一切のチャンスを与えないまま完勝した。

(略)

 1980年代は、リオ・デ・ジャネイロ柔術が大きく発展した時期だ。

 リオで一番人気のサーフブランド「カンパニー」などがスポンサーとなって次々にカップ戦が開かれ、一流の柔術家がこぞって出場したことから、全体のレベルが急速に上がった。

 ヒクソンは(略)出場したほとんどの大会で優勝して、最強の柔術家であることを証明し続けた。

(略)

 しかし、命がけでヴァーリトゥードを戦っても、柔術の大会で優勝しても、ヒクソンが経済的、社会的な成功を収めることはできなかった。

 一般市民は柔術を「不良がやるもの」と見なしていたからだ。

(略)

[89年LAへ]

 ロサンジェルスに近いトーランスでは、長兄のホリオンが、グレイシー柔術アカデミーを開いていた。

 すでに4年前には六男ホイスが、ヒクソンの後には五男ホイラーがアメリカに渡ってきた。

(略)

 ホリオンは「グレイシー柔術は最強だ。異論があるならノールールで戦おう。我々に勝ったら賞金を出す」というチラシを作り、『ブラックベルト』に雑誌広告を出した。(略)

空手家や柔道家やキックボクサーが何人も挑戦してきたが、グレイシーの兄弟たちは、彼らをたちまち片づけ(略)

「よくがんばったな」と挑戦者の健闘を称え、次に優しく声をかける。

 「君が弱いのではない。僕が強いのでもない。柔術の技術が優れているだけだ」

 挑戦者の多くが柔術の技術とブラジル人柔術家の謙虚な態度に感心し、グレイシー柔術アカデミーに入門してくれた。

(略)

 成功者の道を歩き始めたホリオンを頼ってアメリカに移住してきたヒクソンだったが、兄から渡される給料は少なかった。

(略)

[不満なヒクソンだが]

ホリオンにとって、トーランスのアカデミーは、艱難辛苦の末にようやく手に入れた自分の城であり、異国の地でゼロから柔術の普及を始めた自分と、英語もロクにできないまま自分を頼ってきた弟たちの間に収入格差があるのは当然と考えていた。

 1992年にホリオンがUFCを企画した際、ヒクソンは「俺が出たい」と強く主張した。(略)

 だが、ホリオンが選んだのは(略)ホイスだった。

「万が一、ホイスが負けた場合には、最強のヒクソンを出すことができるだろう?」というのがホリオンの説明だったが、ヒクソンは到底承服できなかった。(略)

反抗的な自分よりも、従順なホイスを選んだに違いない、とヒクソンは考えた。

(略)

[ホリオンから離れ、柔術クラスを始めるもうまくいかず]

ブラジルに飛んでふたつのテレビ番組に出演して「誰の挑戦でも受ける!」と宣言したが、挑戦者はひとりも現れなかった。(略)

 ホイスより強いヒクソンと、安いギャラで戦うメリットはどこにもなかった。

 失意のヒクソンに救いの手が差し伸べられたのは、日本からだった。(略)

「7月に行われるシューティングのオープントーナメントに出場しないか?」

(略)

[最強の男ヒクソンを招聘すれば、シューティングの普及にも大いに役立つと佐山聡は考えた]

トーナメントの優勝賞金はわずか500万円。それでも(略)行きづまっていたヒクソンにとっては、ノドから手が出るほどほしいカネだった。

(略)

 だが、シューティングの試合のビデオを見て、ヒクソンは顔を曇らせた。ルールがありすぎる。制限をもっと少なくして、グラウンドでの顔面パンチも解禁してほしい。

 佐山聡は、大会の主役の言い分を100%受け容れることにした。「日本初のヴァーリトゥード」という謳い文句は、観客の興味を引くはずだ。

(略)

 ヒクソン中村頼永と話し合って、新たなるルールを作り上げた。

 UFCのような金網ではなく、リングで行う。ロープエスケープなし。頭突き、噛みつき、目つぶし、金的および脊髄への攻撃禁止、顔面へのヒジ打ち禁止、そしてオープンフィンガーグローブの着用。(略)

この"ヒクソンルール"が、以後、日本の総合格闘技の標準となっていった。

イスラエルで大人気『BUSHIDO

[米ではHBOがUインターの試合を『シュートレスリング』という名で放送、ヨーロッパではロンドン制作の『BUSHIDO』が流れた]

テイストが全然違っていて、『シュートレスリング』と『BUSHIDO』を見比べると、同じ試合とは思えないほど。

 『BUSHIDO』は特にイスラエルでは大人気で(略)50%近い高視聴率を取ったから、興行の依頼がきたんです。(略)想像以上の人気で、選手たちは街中を歩けないほど。試合会場には1万3000人も集まりました。

(略)

その後、ユダヤ系の人たちとは何度も仕事をしましたが、『BUSHIDO』を知らない人はひとりもいませんでした。

 アメリカでもヨーロッパでも、『シュートレスリング』や『BUSHIDO』を観て、総合格闘技を始めたという人によく会います。ジョシュ・バーネットティーンエイジャーの頃に『シュートレスリング』を観て、UWFインターナショナルのファンになった、と僕に言ってくれました」(テディ・ペルク)

(略)

 UFCグレイシー柔術は、UWFインターナショナルにとって脅威だった。

 「プロレスは最強の格闘技」という自分たちの主張が揺らいだばかりではない。『シュートレスリング』と『BUSHIDO』を足がかりに、UWFインターナショナルのスタイルを世界に向けて発信しようとしていた矢先、センセーショナルに登場したUFCグレイシー柔術は、ビジネス上のライバルでもあったのだ。

「海外での収益は、まだそれほど大きくはなかった。でも世界のあちこちでポッポッと人気が出始めて、特にイスラエルや中東では凄くよかった。だから、これからお金になるような雰囲気はありましたね」(安生洋二)

(略)

藤原組にいた頃の船木誠勝が「モーリス・スミスに立ち技で勝てる日本人がひとりだけいる」と語ったことがあるが、これは安生洋二のことを指している。当時の格闘技メディア関係者やプロレスファンの間では、安生最強説が囁かれていた。

(略)

格闘技通信』記者(のちに編集長)だった三次敏之は「Uインターヒクソンの実力を見誤った」と語る。「(略)安生さんはキックもできるし、レスリングもできる。充分に勝てると思ったんでしょうね」

 もともと、UWFインターナショナルは、新生UWF分裂後、宮戸優光と安生が若手だけを集めて設立しようとした団体だった。

 エースは船木誠勝鈴木みのるの予定だったが、意外にもふたりは藤原喜明の下に去った。(略)

若手レスラーの大多数は、スポンサーのいない宮戸と安生の新団体に集結したのだ。田村潔司や垣原賢人たちには、金銭よりも重要なものがあったということだろう。

 前田日明と袂を分かった髙田延彦が、宮戸と安生の新団体に合流したのはその後だ。

(略)

新団体の中心が宮戸優光安生洋二のふたりであることに変わりはない。

田村潔司

[新日との対抗戦出場を拒否し干された田村に]

K-1の舞台で総合格闘技をしないか?」[と誘い](略)

戦前の予想はスミス勝利が圧倒的。(略)

だが、田村はアキレス腱固めからヒールホールドに移行して、わずか55秒でギブアップを奪った。(略)

 UFC準優勝の強豪、パトリック・スミスを破って大喝采を浴びた田村潔司を、UWFインターナショナルが放っておくことはできなかった。

 マッチメーカー安生洋二は、田村を半年ぶりにUインターの試合に出場させることにした。(略)対戦相手は桜庭和志である。

「武道館では、安生さんが田村さんの控え室と僕の控え室を往復していました(略)今回はこっちね(桜庭の勝利)と。でも、田村さんが納得しなかったんでしょう。結局、安生さんから『サク、ごめん。ガチでやって』と言われて、僕は『いいですよ』と答えました。その頃には田村さんがUインターを辞めるという噂が流れていたので、たぶん、田村さん潰しなのかなぁ」

(略)

 グラウンドでの打撃は反則だから、お互いが主にアームロックもしくはフェイスロックを狙う。攻守はめまぐるしく入れ替わり、身体はもつれあったまま、上になったり下になったり。一瞬も動きが止まらない。

 UWFファンが愛してやまない"回転体"である。

(略)

 リアルファイトであるにもかかわらず、観客も楽しめる素晴らしい試合となったのは、ふたりにそれだけの才能があったということだろう。田村潔司はのちに「理想に近い試合」と振り返っている。

《あれはやってて面白かったですね。あの時点で、彼はトップクラスの実力はありましたよ。あの試合前、桜庭が「ジャイアントスイングをやっていいですか」って聞くので、かけられるならかければ?と言ったのも覚えてます。(略)》

(略)

 ふたりは5月27日の日本武道館でも戦ったが、桜庭によれば、3度めの試合はリアルファイトにはならなかったという。

「(略)確か3試合めは、勝ち負けだけ決めておいて、あとはお互いにいいところを見せて、適当なところでフィニッシュしようということだったと思います。僕が攻撃しまくってバテたところで、田村さんが飛んできたので(飛びつき式腕ひしぎ十字固め)、ああ、きた!と思ってギブアップしました」

 田村潔司はこの試合を最後にUWFインターナショナルを去り、前田日明のリングスへと移籍していった。UWFインターナショナルを完全実力主義に変えてしまおうとする田村の革命は、ついに実現しなかったのである。

石井館長のクリスマスプレゼント

もはやUインターに未来はない。

 だが、会社がつぶれたあと、自分はどうすればいいのか。この先、フリーランスのレスラーになったところで、借金を完済するまでには何年もかかる。(略)大きな引退興行を開催すれば、数千万円に及ぶ借金を一挙に返済できるのではないのか?

(略)

髙田延彦は自らの願望を、東海テレビ事業榊原信行に打ち明けた。

 「レスラーとしてもうひと花咲かせたい。東京ドームで、マイク・タイソンヒクソン・グレイシー引退試合を戦いたい」

 髙田の目に榊原は、人気絶頂のK-1を初めて名古屋に持ってきたやり手のイベンターとして映っている。

(略)

榊原は格闘技にもプロレスにも、さほど関心を抱いていなかった。K-1の大会を名古屋で開催しようと考えたのは、会社の業績と自分の功績になるからで、それ以外の動機はなかった。

 榊原が初めて手がけた(略)「K-1レジェンド乱」(略)

メインイベント(略)以上に格闘技ファンの注目を集めたのは、第1試合の前に行われた"特別試合"だった。(略)特製の金網が設置され(略)パトリック・スミスとキモが、初期UFCに近いルールで戦ったのだ。

(略)

石井和義がUFC2を観るためにデンバーに出かけたのが1994年3月。

キモがホイスを苦しめたUFC3が行われたのが半年後の9月。

そしてパトリック・スミスとキモが戦ったK-1レジェンド乱が、さらに3ヵ月後の12月。

すなわち石井和義は次の3つを、恐るべきスピードで行ったということだ。

(1)UFC3の直後、無敗の王者ホイス・グレイシーを圧倒したキモに「日本で試合をしないか?」とオファーを出す。

(2)対戦相手をK-1アンディ・フグを破ったパトリック・スミスに決める。

(3)特製の金網を用意する。

このスピード感はただごとではない。

「バラさん、これ、わしからのクリスマスプレゼントやから」

(略)

 ところが、榊原は石井館長のプレゼントを喜ぶどころか、拒否反応を示した。

《ぼくだけじゃなく、あの時の名古屋で、あの競技を理解できる人はほぼいなかったと思います。衝撃は凄かった。でも、バイオレンス感がハンパじゃない。洗練され、完成されつつあったK-1とは対極に位置するというか、あまりにもハードコアすぎて、少なからず嫌悪感を覚えてしまったくらいでした。》(略)

 驚くべきことに(略)PRIDEを作り上げた榊原信行は、90年代前半に起こった日本の総合格闘技ムーブメントと、世界の格闘技を根本から変えてしまったUFCについて、何ひとつ理解していなかったのだ。

キングダム

 キングダムは設立当初から貧乏な団体だったが、練習環境は最高だった。

 いずれは一般会員を募集してジム経営をやろうと、麻布の一等地にビルを一棟借りした。(略)

コーチは全日本選手権に2度優勝し、1992年バルセロナオリンピックのフリースタイル62㎏級に出場した安達巧である。

(略)

「キングダムも、試合はプロレスですけど、練習はガチでやってますからね。レスリングをやっていない人には厳しくなった。でも、先輩たちが後輩の僕に教えてもらうことはできません。もし頼まれたとしても、僕は口下手だし、説明もうまくない。その点、外から来た安達さんなら、先輩たちも聞きやすいわけです」(桜庭和志)

(略)

[安達談]

「(略)僕が『一日一本、取ってやるぞ!』と宣言してから始めました。桜庭から一本取ると、もう今日の仕事は終わりって感じ(笑)。ただ、殺伐としたスパーではまったくなく、時には笑いながら、それでも真剣に、僕の100%の力を出してやりました。スパーの最中に桜庭が聞くんですよ。ダブルリストロックの時に、自分がこう入れば相手はこう動く。だから、こっちに回った方がいいんでしょうかって。桜庭はいつも考えながら動いているんです。『桜庭に教えたのは僕だ』と、これまであちこちで自慢してきたんですけど、正直に言えば、本人の考えで動いてきた部分が大きい。(略)」

 もうひとり、Uインター~キングダムの選手を強くしたのは、柔術家のエンセン井上である。(略)

[新日との]団体対抗戦を見たエンセンは、Uインターの選手たちが、プロレスラーでありながらも寝技の技術を持っていることに驚いた。身体の大きい彼らと練習すれば、得るものがあるかもしれない。

 早速、関係者を通じてUインターの選手と練習したいという希望を伝えたところ、金原弘光安生洋二が快諾し、以後、エンセンは世田谷の道場をしばしば訪れるようになった。

 当時のUインター宮戸優光田村潔司が抜けて道場の雰囲気が一気に自由になったところ。エンセン井上とのスパーリングは、金原や桜庭らに大いに刺激を与えた。

(略)

[エンセン談]

《桜庭には、強いポイントと弱いポイントがあった。強いポイントはテイクダウンをとられないことと、上に乗られないこと。それとマウントを取ったら、すぐ背中を向けるんだけど、本当は背中を向けるのは一番よくないこと。だけどなぜかチョークが取れない。それでだんだんこっちのポジションがなくなっていく。弱いポイントは俺がガードポジションになったとき、彼は上になると全然ディフェンスがわかっていなかった。でも、桜庭の強いポイントは、かなり強いと言える。とにかくレスリングの動きが凄い。(略)でも、桜庭は柔術を知っていたわけじゃなくて、自然な動きをしていただけ。俺にとってはいろんな新しい問題が出てきたから、彼とのスパーリングは最高だった。桜庭は天才だよ。学生時代にレスリングをやってただけなのに強かった。》

UFCの危機、修斗

[柔術家の戦術が研究され勝てなくなり]

勝てなければ柔術の宣伝にならない。これ以上ホイスをUFCに出す必要はない。

 そう考えたホリオンは、さっさとUFCから手を引き、同時に、ホイスもオクタゴンから去った。

(略)

UFCの主役は柔術家からレスラーに交替した。(略)

1996年、堅調を続けていたUFCに激震が走った。(略)

[ボクシング業界の意向を受けた上院議員ジョン・マケインUFCバッシングキャンペーンを展開]

ニューヨーク州を含む36州が総合格闘技を禁止する禁止法を制定。(略)

UFCは比較的規制の緩い南部の(略)ドサ回りを余儀なくされた(略)

生命線である大手ケーブルネットワークの契約も失い、経営は大打撃を受けた。

(略)

存亡の危機に瀕したUFCは(略)スポーツ化、競技化を急速に進めていく。

(略)

 UFCが競技化する際に参考にしたのが日本の修斗(略)

《僕にとって修斗は世界のベスト・オーガニゼーションだった。ファイティングをスポーツとして、そしてプロフェッショナルに運営していた。(略)そんな修斗の良さを、僕はUFCに導入した。スポーツとして論理的なシステム、より細分化された階級など(略)修斗が先鞭をつけた事例はとても多い。》(UFCマッチメーカー兼スカウティング担当ジョー・シルバ

マルコ・ファス

[94年4月、高田は桜庭を連れビバリーヒル柔術クラブへ。そこにはパンクラスに行くつもりで寝技を学びに来ていた須藤元気]

髙田さんはヒクソン柔術に対抗するために、ルタリーブリのマルコ・ファスに教えを乞うた。でも、じつはマルコ・ファスってガチしかできない人で、スパーなのに、キックもめちゃくちゃ強く蹴ってくる。スパーで相手を極める時も(略)一気に極めてしまうから危なくてしょうがない。

 だから、マルコ・ファスのクラスには、直弟子と僕のふたりしかいなかった(笑)。僕も覚悟を決めてやっていました。(略)

ファスは天然で危ないタイプだから、髙田さんも結構強くやられて、かわいそうでしたね。

(略)

 桜庭さんはインストラクターにイーサン・ミリアスといういい先生がいて、彼からいろいろ習っていましたね。三角絞めからの逃げ方を教わっていたことはよく覚えています。

日本を制覇した講道館、海外で広まった柔術

 講道館設立当時の嘉納治五郎学習院で理財学(現在の経済学)を教え、私塾「弘文館」では英語を教えた。約10年後、嘉納は第一高等中学校(現在の東京大学教養学部)と東京高等師範学校(現在の筑波大学)の両校の校長であり、さらに文部省参事官まで兼務していた。講道館の興隆期は、嘉納が教育界の大ボスへと上りつめる過程でもあったのだ。

 講道館の理念は「精力善用」と「自他共栄」。柔道の"道"に、教育的、道徳的な意味が込められていたことは間違いない。

 そのために嘉納治五郎が持ち込んだものが、「投げて勢いよく相手の背中をつければ勝利」「30秒間押さえ込めば勝利」というふたつの新ルールであった

(略)

 首を絞め、関節の逆をとるような寝技は教育的とはいえない。一高や学習院東京高等師範に通う良家の子女たちにケガをされては普及の妨げになる。

 俊敏さやバランス感覚を必要とする立ち技、投げ技こそが学校体育たる柔道にふさわしい。

(略)

 安全かつ教育的、道徳的で、レスリングを知る西洋人にとっても理解可能な柔術。それこそが教育者であり、高級官僚であり、明治期有数のインテリゲンチャであり、バイリンガルの国際人である嘉納治五郎が考案した「柔道」なのである。

(略)

 教育界の大ボス(略)嘉納は、優秀な門弟を柔道師範として各学校に送り込んだ。講道館とは何よりもまず、柔道教師養成機関なのだ。

 一方、柔術家にとっては、柔術に奇妙なルール(投げによる一本と押さえ込み)を付け加えようとする嘉納の考えは、納得のいかないものだった。(略)

最小限のルールの下で戦い(略)どちらかが参ったするか戦闘不能状態に陥って戦いが終わる。それこそが柔術であり、それ以外のものではありえなかった。

(略)

[講道館柔道を学べば柔道教師として一生食えるが、古流柔術ではそうはいかず]

 かくして講道館柔道は柔術界を制覇していく。

(略)

[しかし、意外にも、柔術は、海外で広まっていった。ホームズとルパンに"バリツ"が登場]

 19歳の谷幸雄が父の虎雄とともにロンドンに到着したのは1900年。(略)

ウィリアム・バートン=ライトは(略)鉱山技術者として世界中を回るうち(略)神伝不動流柔術に出会って感銘を受け(略)谷虎雄に「ロンドンで柔術を教えて欲しい」と声をかけ

(略)

 日本人柔術家の父子が教えたのは「バーティツ(Bartitsu)」(略)

バートン=ライトの「Barton」と「Jiu-Jitsu(柔術)」を組み合わせた造語である。

(略)

残念ながら新しい護身術バーティツの生徒は一向に増えず、経営困難に陥ったバートン=ライトは教室を閉めた。(略)

[父は帰国したが、息子幸雄はロンドンに残り]演芸場=ミュージックホールの舞台に立った。(略)

「誰の挑戦でも受ける。私を打ち破った方には大金を差し上げる。ただし、柔術衣を着ていただきたい」(略)

東洋人の小男の挑戦にロンドンっ子は大笑いして、次々に名乗りを上げた。

 だが、谷幸雄を打ち負かした者はひとりもいなかった。

(略)

 小さな日本人が雲をつくような大男を巴投げで投げ飛ばし、絞め技でギブアップさせ、もしくは失神KOに追い込んだこと。さらに失神した相手に活を入れて蘇らせたことは「日本人は一度死んだ人間を生き返らせることができるのか!」とイギリス人を仰天させた。

(略)

 スモール・タニと活殺自在の格闘技"ジウジツ"の名声は英国中に轟き、たちまちドーバー海峡を越えてルパンの作者モーリス・ルブランにまで届いた。

(略)

 四段となっていた1904年、前田栄世は実力を買われ、富田常次郎六段に随行してアメリカに渡ることになった。

(略)

[英国では]谷幸雄のいるロンドン以外の都市でレスラーやボクサーと無数の異種格闘技戦を戦い、レスリングのトーナメントにも出場した。

(略)

コンデ・コマ(コマ男爵)を名乗ってベルギー、フランス、スペイン、[中南米諸国で戦い]

前田光世が、ブラジル北部の街ベレンに住み着いたのは1915(大正4)年(略)37歳になっていた。

(略)

地元の名士であるガスタオン・グレイシーから「[素行の悪い]長男のカーロスに柔術を教えてやってほしい」と頼まれた。

(略)

 世界中で戦いに明け暮れたファイターが金持ちの息子に教えたのは護身術だった。

 首を絞められたらどうするか。手首をつかまれたらどうするか。後ろから羽交い締めにされたら?ナイフを持つ相手なら?