プリンス FOREVER IN MY LIFE

スザンナ・メルヴォワン

 当時の彼は『パープル・レイン』のヒットで世界中が熱狂する大スターになっていたが三年間公式なインタビューを受けていなかったし、今後も受けることはないと宣言していた。(略)

この数週間前にローリング・ストーン誌の特集のために、彼のバンド、ザ・レヴォリューションのウェンディ・メルヴォワンとリサ・コールマンのインタビューを済ませていた。だから、彼女たちが説得してプリンスはインタビューをついに承諾したのだと勝手に考えていた。

 裏話を聞いたのはずっと後になってのことだった。(略)ザ・ファミリーでボーカルだったスザンナ・メルヴォワンの「彼と話してみたらどう?」という言葉が決め手となったらしい。スザンナはウェンディと一卵性の双子で、当時プリンスとは随分長く付き合っていた恋人だった。数々のプリンスの伝記に彼女はプリンスと婚約までしていたと記されている。実際にこれは事実で作り話ではない。スザンナは自分をしっかり持っていてプリンスに意見することができ、言わば彼を地球につなぎとめておける唯一の女性だった。

 スザンナのために、または彼女について彼が書いたとされる曲は『ナッシング・コンペアーズ・トゥ・ユー』『ビューティフル・ワン』『フォーエバー・イン・マイ・ライフ』『イフ・アイ・ウォズ・ユア・ガールフレンド』などだ。そして神話的と言っていいだろう『ウォリー』もある。別れたスザンナへの気持ちを込めたバラードで、録音を担当していたエンジニアのスーザン・ロジャースによれば言葉にできないほど素晴らしい曲だったらしい。けれどもプリンスは録音後すぐにこの曲を消してしまったそうだ。

(略)

ウェンディとリサが彼に代わって質問に答え、プリンスは彼女たちと表紙を飾るだけという設定だった。けれども彼女たちはスザンナに、プリンスはインタビューを受けるべきだと話した。(略)

ロックの世界ではローリング・ストーン誌の特集を他人に譲るなどあり得ない話だった。

 けれどもウェンディとリサはプリンスに譲ろうとしたのだ。

死の理由

アドリアーノエスパイアートが彼の祖母によって少しひねりが加えられたサン=テグジュペリの言葉を引用していた。「彼女は、よく『あなたと一緒に歩いてくれる人は誰ですか?その人たちを見ればあなたという人が分かります』と言っていた」

 誰もがプリンスの隣で歩きたいと思っていたがプリンスは誰かと寄り添って歩くことがなかった。誰かと短期的に親しくなるということはあった。けれどもプリンスと急速に親しくなることは「プリンスの元友達」という出口に一直線に向かってしまうことも意味したのだ。

 プリンスの死亡証明書にはフェンタニルオピオイド鎮痛剤)の過剰摂取が原因と記されているのだろうが、彼が死んだ理由はそれだけではない。原因は多数で、その一つは生きる活力を失ったということだ。(略)

 プリンスの一部はすでに死んでいた。彼は二人の子を失ったことから完全に立ち直ることがなかったからだ。最初の妻マイテとの間の二人の子供を一人は流産で、もう一人は先天性の欠陥によって生後一週間で失ってしまった。「誰も僕のために生きてくれない。僕も誰のためにも生きていない」と彼がつぶやいたことがあった。

(略)

 彼を追いつめたのは、子供を亡くしたことだけではなく、ひどい腰の痛みであったことも僕は確信している。何十年もの間、ほとんど踊るのが不可能な厚底の靴でスピーカーから飛び降りたりしていたのだ。(略)

他界前の数ヶ月間は、ずっと働かせ休ませることのなかった腕の麻痺がひどくなっていた。 ピアノやギターを今後どのくらい弾き続けられるかも分からない状態になっていたのだ。

マイルス・デイヴィススパイク・リー

かつて多大な影響を受けたボクサー、シュガー・レイ・ロビンソンが後に試合で完璧に打ちのめされて、控え室で仰向けになり茫然としていたとき、マイルス・デイヴィスはこう言い放ったという。「さっさと荷物まとめろ、レイ」

 これを聞いたプリンスは「あいつ最低だな。才能はすごいよ。影響も受けたし感謝しているけど、もし同じ部屋で過ごせと言われたら耐えられないな」と言った。

 

 デイヴィスは裕福な家の生まれだ。(略)父親は幼いデイヴィスをジュリアード音楽院に送った。そのためプリンスはデイヴィスを、有産階級の甘やかされた黒人だとみなして、デイヴィスを会話に出すときはいつも、彼の名前を言わず罵り言葉で代用していた。(略)

 彼は映画界に入りたての頃のスパイク・リーに対しても同様の気持ちを持っていた。リーの映画が嫌いだったのではない。リーが裕福な学生たちが集うニューヨーク大学で学んでいたからだった。ただ、リーについては彼の『ドゥ・ザ・ライト・シング』の一場面を見てから、気持ちが変わったようだ。恥ずかしげもなく人種差別をするピノを演じたジョン・タトゥーロと、リー自身が演じたムーキーとの会話。ピノが、プリンス――恥ずかしげもなく高慢な黒人――を好きだという矛盾をムーキーが問いただすと、ピノがこう答えるのだ。

「でも、プリンスはその辺の黒い奴らじゃないだろ」

「その通り」とプリンスはつぶやき、もっと嫌な呼ばれ方があったけどと言った。

 プリンスは何年も実母の悪口を言い続けていた。(略)母は薬物依存者で自分の貯金箱からお金を盗んだこともあると言ったり(略)彼女が際どいポルノ映画を家のあちこちに隠していて、思春期前の彼がそれを見つけてしまったというような話などだ(この嘘は「礼儀正しい」という言葉の象徴のようなマティを知る人々にとっては、笑ってしまうほどバカバカしいものだった)。現実のマティはミネソタ州立大学の修士号を持ち二十年も学校でソーシャルワーカーとして勤め高く評価されていた女性だった。

 そんな嘘を言い続けながらもプリンスは、二〇〇二年に彼女が亡くなるまで、他の誰の意見よりも彼女のアドバイスを大切にしていた。

『パープル・レイン』とナパーム弾

「僕の父はナパームを作っていたんだ」。(略)プリンスは十一歳か十二歳のとき、[父の職場]ハネウェルの「家族参観日」に行った。「彼らは僕たちにビデオを見せた。ナパーム弾がジェット機からジャングルに落とされるんだ。(略)すごく綺麗だったのを覚えてる。真っ青な空と飛行機と。それでナパーム弾が目の覚めるような緑の地上に落ちてオレンジ色の光があたりを輝かせる。(略)

父が説明してくれたんだ。仕事から帰ってきてからね。『あれは地獄だよ。お前が見たのは地獄だ。ナパーム弾が緑の大地に落とされたのを見ただろう?あの緑が命だったんだ。オレンジは地獄の色だ』」

 会話の後で僕たちは 『地獄の黙示録』を見た。

(略)

「血しぶきが空に上がる。赤と青が混じると紫になるだろ。紫色の雨は世界の終わりなんだ。愛している人と一緒にいて、神を信じて委ねることでその雨をやり過ごすことができる」とプリンスは語った。

(略)

「(略)彼が見た夢、空が全部紫色になって人々が逃げ回る核戦争の終末、を表現した曲を作り上げた」とロニン・ロは解説している。

モハメド・アリ

 プリンスの生き方の見本になった人たちは他にもいた。デューク・エリントンジョニ・ミッチェル。ただ、一時期憧れることがあっても必ず彼らに失望するときがきた。一度も失望することがなかったのはアリだけだ。

 彼はジェームス・ブラウンマイルス・デイヴィススライ・ストーンに憧れ、失望した。スティーヴィー・ワンダーのことはよく知らない、ワンダーの作品は好きだけど彼個人にはまったく興味がないとプリンスは言っていた。

(略)

アリがまだ「カシアス」だった頃から、一度もアリに失望したことはなかった。もしチャンプが望めば、彼の家に飛んで行って庭の芝刈りもするとインタビューで話したほどだった。

(略)

その試合が、プリンスの人生を変えた。 プリンスは(カシアス・)クレイが奇跡的にリストンからチャンピオンの座を勝ち取ったとき、リストンの魂までもが失われたのが実際に見えたと言っていた。

(略)

「リングに入ったとき、リストンは三メートルぐらいの巨大な男に見えたんだ。でもリングを降りる彼は十五センチぐらいに縮んでしまったように見えた。彼はボクサーとしてそのときもう終わってたんだ。(略)」

 

 プリンスは一九九七年にアリと面会し、今までで一番心が震えたのはどの瞬間かと聞いた。(略)

 アリの答えは、一九六四年二十二歳のときのヘビー級世界王者決定戦。誰も倒せないと思われていたソニー・リストンを打ち負かしたときだった。

(略)

 アリは過去に記者に対してこう言っている。

 

 人生で恐れというものを感じたことが一度だけある。試合のゴングが鳴る前に審判がソニーと俺をリングの真ん中に呼んだ。 審判が話している間、彼はただ静かにじっと俺を見ていた。俺のふざけた態度に対して「虫けら野郎、悪いがかなり痛い目を見ることになる」と言ったんだ。本気で言っているのが分かった。一ラウンドで彼と戦っているときが最も恐怖を感じた三分間だった。それまで誰も彼を相手にニラウンド以上戦った者はいなかった。(略)弱い一人の人間の俺が、一番興奮したのはそのときなんだ。

 

(略)

ハーバード大学の学生たちを前にスピーチをしていたアリは、彼の詩を聞かせてくれと頼まれ、まず自分の胸に手を置きそしてその手を彼らに向け「俺?俺たちだ!」と短い詩を披露したのだ。

 

「それが『格好いい』ってことだよ」プリンスは言った。

アンドレ・シモン

 冷酷な父親のせいで家を追い出されたと聞いたシモンは[母に相談し自宅に住まわせた](略)

それから四年間、二人は(略)音楽で生きていくという共通の夢を見ていた。

(略)どちらが先に注目されても相手を一緒に連れて行くと誓った。

(略)

 プリンスは内向的で、母マティの言いつけに従い宿題をきちんと提出するような良い生徒だった。一方シモンは外向的で近隣では逆らうべきではない人物としての評判もあった。車を乗り回し、捕まらない程度に盗みも働き、気に入らないことは喧嘩で解決していた。

 プリンスは、頭の回転の速さと鋭い機転でからかいや暴力を免れ、また、力が強くて体も大きく威圧的なデュアン・ネルソンという兄がいたことも助けになっていた(異母兄と思われていたが、遺伝子的にはつながりがないと後に判明した)。

(略)

プリンスはシモンから、人を惹きつけるための自信に満ちた態度、近寄りがたい雰囲気が持つ力、人に弱みを見せないことの必要性を学んだのだ。

(略)

 そんな関係にあった二人なのに、プリンスは彼の四枚目のアルバム 『戦慄の貴公子』の中の一曲『ドゥー・ミー・ベイビー』のクレジットにシモンの名前を入れなかった。彼は傲慢にも、すべての曲を書き、すべての楽器を演奏したという表示にしてしまったのだ。(略)

自分が行き場がないときに手を差し伸べてくれた親友を、プリンスはただの雇われ者かのように、「バンドのベース奏者」と呼んだのだ。(略)給料を提示してシモンを他大勢の従業員のように扱った。友達に頼む態度ではなかったので、二人の仲に亀裂が走った。(略)

ただのバンドメンバーの一人として扱われることに嫌気がさしたシモンは、それからまもなくしてプリンスから離れることを決めた。その後彼は自分の力で成功を収める。やがてプリンスのことも許せるようになったのだとシモンは語った。

 目の前にいるシモンからは、プリンスに対する恨みなどまったく感じなかった。 「俺には愛する六人の子供と妻がいるんだぜ」と彼は言った。 彼の長男は元妻の歌手ジョディ・ワトリーとの間の子供で、シモンはワトリーのヒット曲となった『ルッキング・フォー・ア・ニュー・ラヴ』の制作も担当した。(略)

「俺は自分のキャリアに満足してる。四枚のアルバムを作ったし、グラミー賞(新人アーティスト部門)も取った。リズム・アンド・ブルースの番付で一位になった曲も作った(『ドゥー・ミー・ベイビー』―――クレジットはプリンスになっている)」と語るシモンに嘘は感じられなかった。

スプリングスティーン

僕には理解不能だが、プリンスはディランだけではなくあのヘンドリックスでさえ尊敬はしていなかった。「みんなが僕らを比べようとするのはただ僕が黒人だからだ。本当にそれしか彼との共通点はないよ……彼よりサンタナにずっと大きな影響を受けた」

 プリンスはそう言ったのだが、サンタナにも大して敬意を払っていたとは思えなかった。

(略)

 プリンスが尊敬した人など存在するのか?

 

 「ブルース・スプリングスティーン」。 彼が一度心からの称賛を込めて言った。

「そんなに彼の音楽が好みというわけじゃないけど、僕がファンを盗めないと思うミュージシャンは彼だけなんだ」と、「盗む」という言葉に感嘆を込めてつぶやいた。

(略)

 プリンスが(略)「ザ・ボス」に値するとみなしていた一番の理由が、彼の圧倒的な影響力だった。プリンスが初めてスプリングスティーンのコンサートを見たのは舞台裏からだったらしい。「そこでバンドメンバーが演奏を始めたとき少し浮ついた音を出したんだ。そしたらスプリングスティーンがちょっと振り返って、バンドに目をやった。その一瞬でメンバー全員に緊張が走ったし、すぐに演奏が変わったんだ!」

 二人は友達になり連絡も取るようになっていた。プリンスが他界した後、スプリングスティーンがプリンスに捧げるとして『パープル・レイン』でコンサートを始めたときの映像が、多くの人々に繰り返し視聴されている。

「プリンスは死んだ」

実際のところ、プリンスがヒップホップ革命に乗り遅れたと言うのも語弊があるかもしれない。

 彼は単純にヒップホップなど問題にしていなかったのだ。初めは。

(略)

最終的にはラップやヒップホップを認めて自分の曲に取り入れてみたりしていた。ただ音楽が重要でなくなり、業界全体がひどいものになったという考えは頭の中から消えていなかった。

(略)

[1993年]プリンスは、彼のロサンゼルスの豪邸で憤慨し苛立っていた。有名なスターたちの大半が楽器が弾けず歌えず踊れないのにチャートを制覇し、自分がそうでないことに怒っていた。(略)

 そして続けて「プリンスは死んだ」と言い出したのだ。(略)

「プリンスは死んだんだ。だからタイムカプセルを作る。プリンスをタイムカプセルに入れて歴史にする。彼は過去なんだ。彼ができることは何もないし彼が加えられるものも何もない。彼は必要ないんだ」

(略)

名前を発音できない記号にし(略)後に『ラヴ・シンボル』と名付けられるアルバムのジャケットにその記号を使う予定だとプリンスは続けた。(略)

それから二時間ほどの間、この行動が意味することを僕に説明した。

息子の死

 一九九六年十月二十三日、彼は崩壊する(略)

 プリンスとマイテにとっての突然の打撃は、彼らの息子アミール・ネルソンが先天性の病気との死闘の末、生後一週間で他界してしまったことだった。

(略)

残りの人生をかけて、彼は息子の死で自分を責めた。(略)

彼の存在に根を張っている「許されない者」としての意識が彼を決して離さず、息子の死は自分がしてきた罪に対する罰であると感じさせていたのだ。

(略)

 この朝を境にプリンスは二度と以前の彼に戻らなかった。

 彼の魂の大部分がアミールが他界した年に死んでしまった(略)

彼が持っていた一種の明るさ、たとえ最悪の時期でもいつも絶やさなかった小さな灯火が消えていた。普遍的な上昇思考、一種の楽観、最悪のときをやり過ごす生命力、終末的で運命論的な思想の中でも熱い石炭のように息づいていた希望がどこかに行ってしまった。

(略)

二年たち、もう戻れないほどに彼が変わるまで、変化に気づいた人はほとんどいなかったのだ。

 プリンスにはもともと好きな人があまりいなかったが、その数がさらに減った。

鎮痛剤の常用

[著者がローラーブレードで足の骨を五本折り半年自宅療養中、プリンスから電話があり慰めの言葉]

僕はその日(一九九七年だった)の電話で他の様々な話題と共に「パーコセット、制限なし」という処方箋をもらった話をしたのだ。

(略)

プリンスがドアベルを鳴らしたので松葉杖に頼りながらどうにか彼を迎え入れた。水を飲むかと僕が聞く間もなく、彼は僕の居間で、薬局の容器に入った錠剤を見つけたようだった。

 プリンスが容器の三分の一ほどの錠剤を、まるでエムアンドエムズのチョコレートを食べるようにあっという間に飲み込んだとき、僕の気持ちは沈んだ。ずっと噂は聞いていたが本当だったんだと思っていた。十年以上も前から、彼が強い鎮痛剤を常用したりやめたりを繰り返しているとは耳にしていた。『パープル・レイン』ツアーのあった一九八四年の秋からということだ。

 でも僕はいつも彼の事務所が使う言葉、プリンスは聖職者のごとく薬物に対して潔癖だという説明を信じていた。彼のツアーに同行したときは薬物摂取が解雇を招くとされただけでなく、彼の周辺でタバコを吸うことさえ禁じられていた。

(略)

チャーリー・パーカースライ・ストーンなど(略)が薬物で破滅したことをプリンスは見下していたし、知り合ってからずっとそんな彼の話を聞いていた。レイ・チャールズマイルス・デイヴィスに薬物中毒だった過去があったことさえ軽蔑していたのだ。それは弱さだ、と。

 そんな彼が今、まるでアップタウンあたりをうろつくみすぼらしい物ごいのように、切に錠剤を求め僕の家の居間に来ていた。

 ここ二年ほどの間彼とは会っていなかった。彼と知り合い始めの頃の方が、実際に会って一緒に過ごすということが多かった。

引きこもるプリンス

 アミールの死による打撃と体の痛みが限界まで達して、プリンスは引きこもるようになっていた。

 

 プリンスがもう外部からの情報を吸収しようとしていないことに僕が気づいたのは一九九七年だった。(略)

 仕事を始めた十代の頃の彼はクリス・ムーンからスタジオ録音のすべてを学んだ。 ムーンやオーウェン・ハズニーの妻やリサ・コールマンから、ジョニ・ミッチェルについてのありとあらゆることを教わった。コールマンによって幅広いクラシック音楽の世界を知るようにもなった。

(略)

 アンドレ・シモンのアイスバーグ・スリムのような態度を模倣し、一九八〇年にリック・ジェームスのコンサートのオープニングで演奏していたときには、衰えていく伝説的なファンクスターと彼の弱さを観察していた。サクソフォン奏者のエリック・リーズによってジャズとマイルス・デイヴィスの荘厳なトランペットに興味を持つようになった。 ウェンディ・メルヴォワンとプリンスは精神的にそして知的に共鳴し合い、僕には計り知れない本質的な何かを共有していた。

 そんなプリンスが、だんだん内にこもるようになって生活をさらに区分化するようになっていった。彼が会話の中に出す人物を僕が知らないということが多くなっていった。そして昔は文章だった彼の会話が、切れ切れの文の集まりのようになり、彼が実際何を考えているのか僕にはほとんど分からなくなった。彼は自分が誰なのかを問い、自分を責めているようだった。死んでしまい、自分に痛みを与えるだけの赤ん坊をなぜ授かったのかという質問に苦しんでいるようだった。

ミネソタ・ナイスと裏の顔

ミネアポリスでは本当に多くの人がふりをしているように見える。(略)

住民の仮面の下を覗いてみれば、欺瞞の精神が深く根を張っていることに気づく。どんなに状況が深刻だとしても、とりあえず今は考えずに見ないふりをしておこう。そんな精神がミネアポリスの伝統となっていて、人々は現実を直視するより拒否しようとする。

 

・アルコールや薬物依存の友達に何か助言しようなどと夢にも思わない。

・同性愛者は、異性愛者を装う。

・「面白おかしい叔父さん」が四世代にわたって十代の姪たちにいたずらをしている状況を、身内が見て見ないふりをする。

・ある夫婦の夫が休暇中の親族の集まりに何年も姿を見せないが、誰一人理由を聞かない。

・自殺願望がある人がいても、カウンセリングをすすめない。

 

 ここでは皆が何事もなかったように振る舞い、波風を立てるべきではないと思っている。

(略)

 プリンスは他界したとたん、ミネアポリスのモダンカルチャーの神殿で君臨するゼウスのように(略)祀られた。けれども生前は決してそんなふうな扱いではなかった。実際ミネアポリスの住民の大部分は彼に対して、大げさでいつも態度の悪いスターという印象を持っていたのだ。

 

 ミネアポリス十戒は北欧の社会通念である「ヤンテの掟」だ。人より秀でてはいけない、身の程を考えるべき、変わっていると言われないようにすることが大切だとする社会構造 。こんな土地がどうやって「プリンス」のような人物を生み出すことができたのか?

(略)

 この十戒ノルウェーに移住したデンマーク人作家、アクセル・サンデモーセの風刺小説『逃亡者は己が轍を横切る』に出てくる。一九三三年出版の小説の中では、架空の町ヤンテで協調して生きるためとしてこの教義を広める。

(略)

一九六〇年の人口調査、ミネソタ州の九十九パーセントを占めたのは白人。大部分はノルウェースウェーデンデンマークの血筋を持った人々だった。つまりヤンテの掟を伝道し、教え、実行する集団だったのだ。

(略)

ミネアポリスアメリカ国内の十五都市の中で最も有色人種の人数が少ないと記録されている(二〇一八年にミネソタ州で黒人と自己申告した人は全体の七パーセントだった)。また白人とアフリカ系アメリカ人の平均所得の格差、そして高校卒業資格の保有率の差が最大なのがミネソタ州だ。

(略)

コーエン兄弟の映画 『ファーゴ』(略)

ミネソタ州の風習や社会的習慣を風刺し一九九六年に公開されたこの映画は、アカデミー賞の作品賞にノミネートされてニューヨークやロサンゼルスで人気を博した。劇場を出てくる観客が、アメリカ中西部訛りの映画のせりふを練習していたぐらいだ。

 一方で、ミネソタ州ではと言うと、人々の評価は「変わっている映画」だった(略)。コーエン兄弟は地元では以前から変わっているとみなされていたので、『ファーゴ』のウィリアム・メイシーの役が「ミネソタ・ナイス」を象徴し、社会病質の殺人者という設定だったのも驚きではなかったのだろう。しかも、ミネアポリス・スター・トリビューン紙の映画批評家の名前をその役名にしていた。この批評家は、彼らが皮肉を含んだ逆説的表現を試し始めた『ブラッド・シンプル』以降ずっと、国際的に多くの称賛を得ていた作品たちを痛烈に批判し続けていたのだ。

(略)

 プリンスが他界した夜(略)ミネアポリス繁華街の建物や橋は紫色のネオンで輝いていた。数え切れないほどの人が集まり、見知らぬ人同士で抱き合い、踊り、『パープル・レイン』を歌い、大泣きしていた。

(略)

ミネアポリスは、プリンスへいつもこんなふうに敬意を払っていたのだろうか?ミネアポリスは彼の曲がラジオでかからない場所ではなかったか?『リトル・レッド・コーヴェット』、彼の初めてヒットしたシングル曲が全米ポップ・チャートで六位になっても、このあたりではまったく聞くことがなかった。あんなに競争心が強く、簡単に怒り、蔑視されることを何よりも嫌うプリンスがなぜ気にしていなかったのか?「別に」と彼は平然と言った。「ここ以外では他のどこに行っても僕の曲が聴けるからさ」

(略)

ミネアポリスのマスコミも彼をまるで厄介者のように扱い、名前を変えたことをからかい、態度を軽蔑していた。ニューヨークやロサンゼルスではわりと普通とみなされる彼の横柄な態度は、ミネアポリスの基準では正真正銘の変人と判断されていた。それなのに彼は他界したと同時に神話化された。

(略)

 フィッツジェラルドプリンストン大学に入る前に格式高いセントポール・アカデミーを飲酒で退学になったが、僕の調べでは彼はその後一度もミネソタ州に戻っていない。しかし、驚くべきことに彼が逝去して五十四年後の一九九四年、セントポールの繁華街にあるワールド・シアターは、フィッツジェラルド・シアターと名前を変えた。しかもその二年後、生存中はまったく彼のことを認めなかったこの町には実物より大きい彼のブロンズ像が立てられたのだ。(略)

ジュディ・ガーランドは生涯ミシガン州のグランド・ラピッズ出身と言い続けたが実はミネソタ州のグランド・ラピッズで生まれた。本名はフランシス・ガムだった。映写技師の父親が複数の男性を性的に誘惑していたことが明るみに出て、家族は住民から蔑視され、この地から去る以外の選択肢がなかったのだ。

 そのような経緯があったにもかかわらず彼女が逝去した後、ミネソタ州のグランド・ラピッズは当然のようにジュディ・ガーランド博物館を建てた。隣の「黄色いレンガ道」というギフトショップでは驚くほど高い値段がつけられた商品が売られている。

(略)

 ボブ・ディランは一九四一年にミネソタ州ダルースで生まれ七年過ごした後、一家でヒビングに移った。ダルース・シビック・センターを囲む道を彼の名前にするか否かという論争は、彼がノーベル賞を取るかどうかの議論よりずっと激しいものだった。彼は一九六〇年代初期にミネソタ州から去ったが、この地に残った家族や親類(略)や幼なじみたちと連絡を絶やすことなく密な関係を保っている。彼の母親が数年前に亡くなったときに、彼女に向けた詩をグランタ誌でもパリス・レヴューでもなく、セントポール・パイオニア・プレス紙に寄稿した。

 それでもミネソタ州では、彼が生きている間は「ボブ・ディラン?それで?」とぞんざいに扱い続けるのだ。

 なぜなら彼も、プリンスやフィッツジェラルド、ルイスやウィルソンそしてガーランドと同様に、「変わっている」からだ。自分が特別だと信じていたからだ。