サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 その3

前回の続き。

69年ビートルズ

[68年12月ポールから電話]

全曲書き下ろしたものをTV番組用に、観客を入れて生で演奏するとともに、アルバムとして出そうと考えている。(略)一緒に作ってくれるかな?わたしは宝くじに当たった気分だった。

(略)

 メンバーがぽつぽつと現われた。まずはポール、次がリンゴ、続いてジョージ、最後にジョンとヨーコ。全員が一堂に会するのは久しぶりらしく、親睦を図る当意即妙のやり取りが交わされ、だんだんと互いの存在に慣れていき、ある程度落ち着いたところで、プロジェクトに関する具体的な話に入った。ひとつだけ、軽い違和感を覚えたのがヨーコの存在だった。(略)彼女はジョンと同じ椅子に座ったまま動こうとせず、時には残りの3人の誰かが投げかけてくる質問に、ジョンに代わって答えていた。ジョンはそれに心から満足している様子(略)

わたしはどうにも据わりの悪い思いでいた。他の人々の気持ちも推して知るべしだろう。(略)

最初の曲に取りかかり、何度か通しでやった後、ポールが不意にわたしを振り向き、イントロはどうしたらいいかな、と聞いてきた。あまりの衝撃に、わたしは卒倒しそうになった。エンジニアとして雇われただけだと思って来たのに、たった今、リハのしょっぱなから、アレンジに関する意見を求められたのだ。 わたしはあらん限りの迅速性と自信をもって答え、イントロに関する案を提示すると、彼らはそれを気に入ってくれ、それを機にリハーサルが始動した。よそ者をあっという間に、いとも簡単に受け入れてくれたことに、わたしは感激していた。

(略)

『Recording The Beatles』にはわたしが呼ばれた理由について、映画関係の仕事に携るのに欠かせない組合員証を持っていたから、と示唆されている。この本に載っているわたしの関与に関する情報の大部分がそうなのだが、これもでたらめもいいところだ。わたしは音楽家組合以外のどこにも属したことがない。

(略)

ポールが抱いていた案は、船いっぱいにビートルズ・ファンを乗せてチュニジアのどこかにある古代に建てられた屋外円形劇場に連れて行き、そこでステージをするというものだった。だがそれは他の3人の好みと特には合わず、なかでもリンゴはとりわけ不服そうで、何よりも食べ物のことを気にしている様子だった。2日目、メンバー間の緊張状態が臨界点に達した。われわれスタッフ一同は大慌てで外に出て、4人だけで意見の相違を解決してもらうことにした。

(略)

 今でもよく覚えている、あの寒い灰色の午後、わたしはトウィッケナムの殺風景なサウンドステージの外で、番組ライン・プロデューサーのデニスと腰を下ろし、祈っていた。世界最大の成功を収めたバンドのプロジェクトに起用されたという高揚感が、どうかたったの2日で、激しいブレーキ音と共に急停止してしまわないように、と。

 何が起きたのかについて、わたしは詳しく語る立場にないが、よく知られているとおり、ジョージがバンドを後にし、数日後に説得されて戻った。

 この件に片が付くや、わたしたちは仕事を再開した。すべてすぐに水に流されて、何事もなかったかのような雰囲気だった。ひとつだけ目に見えて変わった点はヨーコで、相変わらずたいていスタジオに来てはいたものの、ジョンの椅子に一緒に座ることはなくなった。

(略)

不意に、ただごととは思えないけたたましいノイズが耳に飛び込んできた。誰かが猫を踏んづけたかのような騒音だ。機材のどこかに異常が発生したのかもしれない。わたしは慌てふためき(略)目を凝らした。(略)

頭から黒い袋をすっぽり被った小柄な人物で、袋からマイクのコードが伸びていた。どうやらそれはヨーコで、自分も演奏に貢献しようと思い立ったらしかった。

マジック・アレックス、ルーフトップ・コンサート、「サムシング」

海外行きという発案に伴う当初の興奮も、リンゴがどうにも気に入らないと宣言してから冷めていき、ジョンとジョージからも異論が出なかったことで、結局、廃案となった。

 これでちょっとした問題が発生した。それはつまり、TV番組にするというポールの原案の破棄を意味したからだ。

(略)

 ビートルズはサヴィル・ロウに立つ自社ビルの地下にスタジオを作らせており(略)わたしはジョージ・ハリスンに連れられて様子を見に行くことになった。

(略)

アップル・エレクトロニクス社の長がヤニ・アレクシス・マルダスという男で、ジョン・レノンはマジック・アレックスと呼んでいたが、わたしに言わせれば、いかさまアレックスに他ならなかった。わたしはアレックスと1967年のストーンズ欧州ツアー中に会っていた。彼はある日、ギグの場にふらりと現われると、ミックにライトショウの案を売りつけた。(略)ごくごく平凡なディスコ・ライトとしか言えない代物で(略)良く言えば妄想に取り憑かれている、悪く言えば紛うことなき詐欺師というのが、わたしの到達した結論だった。ただ、弁が立ったのは確かで、その数年前にビートルズを言いくるめ、自分は電子工学の天才であると彼らに信じ込ませていた。だが実際のところ、元同居人で、マリアンヌ・フェイスフルの最初の夫にしてアート・ギャラリーの主人、ジョン・ダンバーによれば、けちなTV修理工でしかなかった。

 ブライアン・ジョーンズは1965年、ギリシャから英国に来て間もなかったアレックスと知り合い、ダンバーのギャラリーに展示されていた彼の『ナッシング・ボックス』に深い感銘を受けていたジョン・レノンに紹介した。文字どおり、不規則に点滅する明かりが付いただけのただの小箱を、ジョンはLSDによる酩酊状態でその場に座り込み、じっと見つめていたらしい。

(略)

 アレックスはその後、史上最高の画期的スタジオを作れるとジョージに請け合った、72トラックのレコーダーを設計・製作できるとまで言い切ったらしい。まだ8トラックが最大だった時代の話だ。

(略)

アレックスがレコーディングというものをほとんど、いや何も知らないことは明らかだった。コンソール卓は1930年代のバック・ロジャーズのSF映画から持ってきたのではないかと思うような年代物。

(略)

わたしが思わず噴き出し、げらげらと大笑いしたときも、ジョージから偏見は良くないとたしなめられた。(略)

けれど結局、関係者全員に、そしてジョージにとっては至極無念なことに、彼らがぼったくられ、そこの設備一式がわたしの第一印象どおり、悪い冗談以外の何ものでもないことが程なくして判明した。

 ジョージ・マーティンが救済に駆けつけてくれて、アビイ・ロードから機材を借り受ける手はずを整え、それを運び、設置してくれたのが、かの名人デイヴ・ハリーズだった。

(略)

数日後、ビリー・プレストンがふらりと顔を出し、即座に参加を求められ、エレクトリック・ピアノの前に座った。結果的に、これが何とも素敵な、思いがけぬ贈り物になった。ビリーとビートルズは、ハンブルクはスター・クラブ時代からの旧知の仲で、皆が再会を喜んでいた。

(略)

 サヴィル・ロウでは、世界一有名な4人のミュージシャンが自ら書いた曲に磨きをかけ、納得のいくものに仕上げていく様子を目の前で見させてもらえた。エンジニア冥利に尽きると思っていたし、その気持ちは日を追うごとにますます強くなっていった。しかもこの時の彼らは「サージェント・ペパーズ」で広く知られることとなった信じられないほど複雑かつ革新的な制作手法を離れ、これ以上ないほどシンプルな編成でそれを行なっていたのだから、なおさらだ。

(略)

リンゴから不意に、屋上に行ったことはあるかと聞かれた。ロンドンのウェスト・エンドが見渡せて、良い眺めなのだという。(略)

[壮観な景色を見てわたしは]口にした。大人数を相手にやりたいと思っているなら、この屋上でウェスト・エンド全域に向けてやったらどうだろう。下に降りてその案を皆に伝えたところ、短い話し合いの末、それでいくことに決まった。

(略)

 ある日の午前中、他の3人がスタジオに現われる前にジョージから、今日は終わった後、少し残ってくれないかな、デモを録って欲しいんだ、と頼まれた。ひとつ自分で書いた曲があるのだけれど、みんなの前ではやりたくないと言う。(略)

[それが「サムシング」]だった。これはすごい、彼の最高傑作なんじゃないか、と思ったのを覚えている。歌い終えたジョージがコントロール・ルームに入って来て、プレイバックを聴き、どう思うか尋ねてきた。自信がないようだった。素晴らしい、絶対にみんなにも聴かせたほうがいいよ、とわたしは伝えた。これはあくまでも推測だが、ジョンとポールの陰で生きてきた結果、自信をくじかれていたのだろう。

グリン・ジョンズ版「レット・イット・ビー」

 1969年5月1日、ジョンとポールから電話があり、話があるからアビイ・ロードに来てくれないかと言われた。コントロール・ルームに入ると、そこにはうず高く積まれたマルチトラック・テープの山ができていた。聞けば、1月に君が出してくれたアルバム案を再検討した結果、君に任せることにした、サヴィル・ロウで収めた全録音をミックスしてひとつにまとめて欲しい、という。考えただけで興奮してきて、いつから一緒に始められるのかと、勢い込んで尋ねた。ふたりの答えは、君の案なのだから、君ひとりでやってもらって一向に構わない、だった。全幅の信頼を置いてもらえたと思い、その時は有頂天だったのだが、間もなく気づくことになった。彼らがこのプロジェクトに対する興味を失っていたというのが、真の理由だった。

 ともかく、わたしはオリンピックのミックス・ルームに直行し、それから3晩を費やしてアルバムを編集し、翌日のオリンピックでのセッションでそれを4人に聴いてもらった。

 わたしはもともとエンジニアという扱いであり、それで十分に満足していたし、その気持ちはジョージ・マーティンが制作に携わらないと知ったときも変わらなかった。(略)彼が関わらないと知った当初は、正直、かなりの気後れを感じたのをよく覚えている。

(略)

何とも微妙な立場にいるわたしを気づかい、サヴィル・ロウに移る前、ジョージは親切にも昼食に誘い出し、大丈夫、君はいい仕事をしている、何の問題もない、私の足を踏みつけて気分を害するようなことは何もしていないよと、優しい言葉をかけてくれた。 何と素敵な紳士なのだろう。

 自分版「レット・イット・ビー」のミックス済みマスターを渡した後、私はアルバムに制作者クレジットを載せてもらえないだろうかと、メンバー各人に尋ねて回った。 欲しいのはクレジットだけで、印税は要らないという点も、はっきりと伝えた。 ポール、ジョージ、リンゴの3人に異存はなかったのだが、ジョンはいぶかしみ、どうして印税が要らないのか、意味がわからないと言われた。わたしの説明はこうだった。君たちの地位を考えれば、僕の関与がどんな形であれ、アルバムの売り上げに影響を及ぼすことはない。だから今回の僕の仕事にはクレジットが分相応だと思うし、それだけでも今後のキャリアにとって十二分にプラスになるはずだから。 ジョンの答えはついにもらえなかった。

 蓋を開けてみればしかし、どんな答えであろうが、関係なかった。バンド解散後、ジョンはそのテープ群をフィル・スペクターに渡したからで、スペクターはそこら中にへどをまき散らし、あのアルバムをいまだかつて聴いたことがないほど甘ったるいシロップ漬けの糞みたいな代物に一変させてしまった。(略)

わたし版の“ゲット・バック"/“ドント・レット・ミー・ダウン"は一応、シングルとして1969年4月に発売された。

オールマン・ブラザーズ、ディラン

リハーサル中のオールマン・ブラザーズを見たものの、まだアルバムを作れる状態ではない気がした。まだ最初期の話だ。 潜在力は明らかに見て取れたものの、少々粗削りだった。どういうわけか、彼らはドラマーをふたり使うことにしていた。簡単にものにできる芸当ではないし、実際、ふたりでどう叩き合うのか、いまだ模索している最中だった。そのせいだろう、リズム・セクションはぎこちなく、安定感に欠けており、それでわたしは見送ることにした。その晩はデュアン・オールマンの自宅にお邪魔し、彼とすぐさま意気投合して、音楽やミュージシャンについて明け方近くまで大いに語らい、楽しい時を過ごした。デュアンは驚異的なギタリストであると同時に、人間的にも魅力的な男だった。

 続いて、ヤン・ウェナーと共にニューヨークに飛んだ。 機上、彼は先頃ボブ・ディランに行なったインタビューの原稿をまとめていた。その記事はヤンにしかできない離れ業だった、ディランは数年来インタビューを受けていなかったからだ。

 ニューヨークに着き、手荷物受取所を抜けて歩いて行ったわたしの目に飛び込んできたのは、何とディランその人だった。柱に寄りかかって人間観察をしていた。 ヤンが歩み寄って話しかけるなか、わたしは荷物を拾い上げ、迎えのリムジンを見つけようと外に出た。ディランとは面識がなかったし、話の邪魔をしたくなかったからだ。ところが、ヤンに肩をトントンと叩かれたので振り向くと、そこにかの偉人が立っていた。わたしにわざわざ挨拶に来てくれたのだ。彼はわたしが録り終えたばかりのビートルズのアルバムについて尋ね、長年にわたるストーンズとの仕事についてお褒めの言葉をくれた。興奮したわたしはお返しに、彼の仕事にわたしたち皆がどれほど影響を受けているのか、一気にまくし立てた。すると、ディランが言った。ビートルズストーンズと一緒にアルバムを作ってみるのも面白いと思っているんだけど、彼らが興味を示すかどうか、確かめてもらえないかな?

 わたしは度肝を抜かれた。(略)イングランドに戻るとすぐにわたしは各人に電話を入れ、賛同か否か確かめて回った。キースとジョージはふたりとも、非現実的に過ぎるけれど、そうはいってもディランの大ファンだからやってもいい。リンゴとチャーリーとビルは、他のみんながその気ならばいいんじゃないか。 ジョンはきっぱりノーとは言わなかったものの、さほど引かれない様子。 ポールとミックはいずれも、冗談じゃないという返事だった。

 今でもよく、 もしも実現していたらどうなっただろう、と思うことがある。いずれにせよ、一筋縄で行かなかったのは間違いないだろうが。

(略)

 ラガーディア空港での邂逅から6週間後、わたしはついにディランと仕事をするに至った。彼の最初のプロデューサー、ボブ・ジョンストンから、ワイト島音楽祭でのステージを生で録って欲しいと頼まれたのだ。ディランは当時ザ・バンドを引き連れていた。彼らの1作目「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」はわたしの音楽的嗜好に莫大な影響を与えた作品であり、それだけに楽しみで仕方なかった。

 ギグの前の晩、わたしは招待を受け、彼らが島に借りていた大邸宅のボールルームでのリハーサルに行った。この晩のことは一生忘れない。その広々とした、豪華絢爛なボールルームでたったひとり(略)翌日に予定されていた大半の曲のパフォーマンスを、そしてそれをほぼ完璧にまで磨き上げる過程を見るという恩恵に与かったのだ。ただ、コンサート自体はそれほど良くなかった。1時間もしないうちに、ディラン氏は癇癪を起こして、さっさとステージを降りてしまった。

(略)

次に会ったのは1984年、当時彼をマネジメントしていたビル・グレアムからライヴ盤「リアル・ライヴ」の制作を任されたときのことで、ディランはツアーでヨーロッパに来ていた。バンドにはミック・テイラーとイアン・マクレガンがいて、ふたりに会うのは久しぶりだった。ストーンズ在籍時代に諸々の経験をしていただけに、ミックと顔を合わせるのは少々気が重かったのだが、再会してみていい意味で驚いた。まるで別人のように更生していたからだ。

(略)

 諸々を終えてディランはアメリカに帰り、わたしは自宅に戻り、全コンサートの録音をラフ・ミックスして彼に送った。(略)いざ話し合ってみると、曲については意見が一致したものの、パフォーマンスについての見解がまったくもって違うことが判明した。ディランはどのテイクもことごとく最悪の例をこともなげに選んできたのだ。試験か何かの類だったのだろうか、答えは永遠にわからない(略)

ディランは極めて感じが良く、意見に進んで耳を傾けてくれ、最後にはわたしが推すテイク群を使うことで納得してくれた。

 自宅スタジオでミックスを終え、それを持ってLAに向かい、マスタリング・ラボのダグ・サックスとマスタリングに入った。(略)

 ボブはLAに住んでいたから、一応礼儀として、もし良かったら来ませんか、と声をかけた。すると驚いたことに、マスタリング・セッションに出たことがなかったらしく、ぜひ見させてくれ、という言葉が返ってきた。ディランは最後まで残り、わたしが車まで歩いて見送りに行った際には、握手をして感謝の言葉までくれた。その車はよく覚えている、見たこともないほどおんぼろの古いキャデラックのオープンで、ボディは錆びだらけ、残っている塗装は皆無に等しいという代物だったからだ。笑みを浮かべ、さっと片手を挙げると、ボブはハリウッド・ブルヴァードを西に向かい、午後の陽射しの中に消えていった。そして悲しいかな、以来、彼とは一度も会っていない。

ハウリン・ウルフ

 1970年は、元旦のリンゴ宅でのパーティで幕を開けた。(略)別の部屋から響いてくるドラムの音を耳にし(略)見に行くと、キース・ムーンがリンゴの4才になる息子ザックに手ほどきをしてやっていた。キースはザックの憧れの存在で、名付け親でもあった。

(略)

1月の第1週はアビイ・ロードとオリンピックで「レット・イット・ビー」の仕上げと、ジョージ・ハリスンとのビリー・プレストンのアルバム作りに明け暮れた。

(略)

3月末に地元に戻り、ローリング・ストーンズと夜通し続きの苛酷極まりない数週間を過ごし、さらに(略)ハンブル・パイの[A&Mでの]1枚目に向けた最初期のセッションをいくつか手がけた。

(略)

 続いて、チェス・レコードから電話があり、ブルース界の伝説ハウリン・ウルフがオリンピックスタジオでいくつかセッションをするから、エンジニアを務めてくれないか、と頼まれた。

(略)

チェスから来た男[ノーマン・デイロン]がいかにしてレコード・プロデューサーになったのか、わたしには理解できない。そいつはあらゆるレベルにおいて、徹頭徹尾無能であることが判明した。死んだ魚かと思うほど糞面白くない男で、ブルースのことが微塵もわかっていないことが、すぐさま明白となった。

 精一杯売れ線を狙ったのだろう、そのプロデューサーはリズム・セクションにリンゴ・スターとクラウス・フォアマンを押さえていた。いや、ふたりとも優れたミュージシャンではあるし、個人的にも大好きだが、どんなに頑張っても、彼らにブルースがわかるはずもなかった。そもそも、ふたりがなぜこの依頼を受けたのかがわたしには理解できない。特にリンゴは初日、何が何だかがさっぱりわからないから教えてくれ、頼むから俺とクラウスが残りのセッションから外れられるように手を貸してくれ、と言ってわたしに泣きついてきたのだから、なおさらだ。だからそのプロデューサーにそれとなく伝えた、あのふたりを入れたのは間違いです、自分ならたぶんビル・ワイマンとチャーリーワッツを口説いてステュと一緒に呼んで、残りのセッションで弾かせられますよ。

(略)

ステュとチャーリーと同じく、ビルもかの偉人と対面し、一緒にやれる機会にすっかり興奮し、すべてを放り出して車に飛び乗った。というわけで、リンゴとクラウスはお役ご免となった。

(略)

 ウルフは大男で、胴回りは樽ほどもあり、巨大な手から伸びる十指は、ギターなどとてもではないが弾けないだろうと思うほど太かった。喋る声も野太く、さながら喉の奥に砕いたガラスを数ポンド流し込まれたかのような響きだった。ミュージシャンたちがスタジオで曲を覚えている間、彼はコントロール・ルームに座り、わたしにさまざまな逸話を語り、自らが書いた歌詞についてあれこれと説明してくれた。ただ、お恥ずかしい限りなのだが、実のところ、何を言っているのか大部分は理解できなかった、訛りがきつ過ぎて、わたしにはほぼ意味不明だったからだ。わたしはすっかり魅了され、うっとりとして隣に腰を下ろしたまま、わかっていないことはおくびにも出さず、彼の言葉を必死で解釈しようと努めつつ、もう一度繰り返してくれと言って、失礼な奴だと思われることだけは許されないと、固く肝に銘じていた。ウルフは文字どおり心優しき巨人で、わたしはその面前にいられることのありがたみを深く噛みしめていた。

 ただ、ウルフ本人は自分が一体なぜそこにいるのか、まったくわかっていない様子で、それが何とも悲しかった。エリック・クラプトンのことは知っていたかもしれないが、それも誰かから聞いたからでしかなかった。他のミュージシャンのことは誰ひとり知らないようだった。一体全体何が起きているのか、皆目見当もつかないまま、商業的目的で所属レーベルに利用され、操られているとしか、わたしには見えなかった。彼は高齢で、混乱し、万全の体調ではなかった。

 とはいえ、至上の瞬間もあった。“リトル・レッド・ルースター”を始めようかというときのことだ。(略)

 ミュージシャンたちが通しでやり始めると、ウルフはそれを止め、コントロール・ルームに入り、段ボール製のくたびれ果てたギターケースを開け、古めかしい、同じくくたびれ果てたFホールのアコースティック・ギターを取り出した。

 ギターを手にしてスタジオに戻ると、彼はエリックの真向かいにどっかと腰を下ろし、目をまっすぐに見据えて言った。「こいつの弾き方を教えてやろう。俺が死んだら、誰かにちゃんとやってもらわんといかんからな」

 何が起きようとしているのかに気づくが早いか、わたしはレコーダーのもとへと走って録音ボタンを押し、畏敬の念に打ち震える、王位を狙う若者に老師が教え授ける様子を録った。あの場にいた全員にとって、それはまるで壮大な叙事詩を見ているかのごとき瞬間だった。

次回に続く。