サリンジャー 評伝 その3 『キャッチャー』は戦争小説

前回の続き。

『キャッチャー』は戦争小説

 サリンジャー最初の六章をノルマンディーのビーチに持って行き、ヒュルトゲンの森にも持ち込み、強制収容所にいたあいだも持ち続け、精神科病棟にも持ち込んだ。戦争の間中、彼は想像力のなかでその長編小説を運びつづけた。それを、もはや支えきれないような日々にもずっと彼の精神を支え、耐えきれないような日々にもずっと彼の心を耐えさせた。それは、彼と崖のあいだに立っていたのである。

(略)

 エドワード・ノートンは、「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』初体験は、ホールデンが自分の友達なんだと思うことじゃない、ホールデンは自分なんだって思うことなのさ。文字通りの意味でね」と語っている。

(略)

 ホールデン・コールフィールドは、ジェームズ・ディーンが現れる前のジェームズ・ディーンであり、「クール」以前のクールだった。

(略)

一九五七年には、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』がビート・ジェネレーションを打ち立ててもてはやされることになるのだが、ケルアックは六年遅かった。それはサリンジャーがすでに成し遂げていたことだった。ビート族はアメリカを求めて長いハイウェイをヒッチハイクで旅したが、彼らのジーンズには『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が詰め込まれていた。

(略)

「[ホールデン・コールフィールドは]郊外に暮らす白人少年たちにとってのマルコムXなんだ」と、俳優ジェイク・ジレン ホールは語った。

 

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 作家アンディ・ロジャースは異なる理論を持っている。『キャッチャー』は一九五〇年代に出版されたが、一九四○年代の小説だというのだ。戦争小説である。

(略)

ホールデン・コールフィールドは疎外されたティーンエイジャーよりも、トラウマを背負った兵士と、より多くの共通点を持っている。若者にふさわしくないホールデンの白髪はからかいと自信喪失の種になっているが、かなり明白にある事実を象徴してもいる。すなわち、ホールデンは若者の肉体のなかにいる老人であるということだ」(略)

 

 アリーの嘘くさい墓石にも雨が降っていたし、彼のおなかの上に生えている草にも雨が降っていた。

 

(略)

彼が書いたのは、社会と自分自身との戦争を行う若者についての本だ。そしてサリンジャー同様に、ホールデンは治癒するために必要だった救済を見つけ出すことができなかった。「彼[サリンジャー]を助けるためにそこにいたメンタルヘルスの専門家たちは、彼が見てきて堪えてきた恐怖の数々を物語っても、それに耳を傾けてくれない。そこでサリンジャーは、精神科病院の外に留まることを決心して家に帰り、やがて自らの症状を隠した[彼の姿を]見て大喜びする虚飾まみれの社会を目撃する」。(略)

「戦争の野蛮さ、愚かさ、残酷さ、恐ろしさは、甘ったるくて下らない会話や歌や映画へと形を変える。人々は戦争についてよく知らないどころかまるで気にしていない、という状況のなかで、戦争についての真実を指摘することに、どんな良いことがあるだろうか」。

 

 しばらくそこに座って、そういうインチキ連中がインチキな拍手をしているのを見ていると、もう世界中のすべての人間を憎んでやろうかっていうような気持ちになってくるんだよ。まったく、嘘じゃなくてさ。

 

 ホールデンの怒りに燃料をくべるのは、そういう無関心だった。

(略)

サリンジャーの異議申し立てが、もし自分自身の存在そのものとの苦闘でないとすれば、それはもはや彼のことをたえず傷つけてきた一連の経験に対してではなく、社会の意図的な無邪気さ(略)に対して行われているのである」。

 サリンシャーは、それについて直接書くことはできなかった。「文脈を変えて、戦争と関係のないような人物と状況を選んで、幅広く人々に受け入れてもらうために疎外の感覚を普遍化させなければ」ならなかった。

(略)

サリンジャープレップスクールに通う少年には二度と戻ることができない(略)だから、ホールデンサリンジャーなのであり、しかも決して戻ることのできないサリンジャーなのだ」。

 

 そのうちに僕は真剣に酔っぱらってきて、腹に銃弾をくらったっていう、しょうもない例のやつをまたやり始めた。僕はそこのバーではただ一人、腹に一発撃ち込まれた男なんだ。そこらじゅうを血だらけにしないために、上着の中に手を入れて、腹をぐっと押さえているわけさ。自分が傷ついていることさえ、まわりに気づかれちゃならない。自分が深手を負っているという事実を、僕はひた隠しにしているわけだ。

僕たちは一緒に駆け落ちするべきなんだ

ある編集者の妻 とてつもないインパクトをもつ彼の肉体的な存在感を前にして、私は心の準備ができていなかった。彼には真っ黒いオーラがあった。黒い服に身を包み、真っ黒い髪に、漆黒の瞳。それにもちろん、すごく背も高かった。彼の呪文にかかってしまったみたいだったわ。でも私には夫がいたし、妊娠していたの。私たちは語り合って、お互いのことをすごく気に入った。それから、お別れの時間になった。私は夫と別の友人夫婦と一緒にそのパーテに来ていたのよ。それで、二階に置いていたコートを取りに階段を上がった。ジェリーが部屋に入ってきたのは、ちょうどコートを手にした時だったわ。彼は私のところにやって来て、僕たちは一緒に駆け落ちするべきなんだ、と言った。「でも私、妊娠してるのよ」って言ったら、彼はこう言ったの。「そんなの問題じゃない。僕らはまだ逃げ出せる」。本当にその気でいるみたいだった。嬉しくなかったと言ったら嘘になるわ。それに多分、ちょっとばかりその気になってもいたの。

 

デイヴィッド・シールズ サリンジャーは様々な面でホールデン的だが、その少なからぬ一部は、熱狂的にのめり込み、それから姿を消すところにある。俳優の資質でもって完璧な素振りを見せながら、彼はいつでも消失を遂行する。

コーニッシュ、シャーリー・ブレイニー

エバーハート・アルセン コーニッシュは彼が避難した城だったのだろう。それが世界中のあらゆるものから彼を護ってくれていたのだ。

(略)

 

エセル・ネルソン 私は[コーニッシュに引っ越した直後の]ジェリーと一緒に遊んでいた高校生グループの一員だった。しょっちゅうジープで球技の試合に連れていってもらってたのよ。彼は単に私たちの仲間のひとりだった。誰も彼を前にしてかしこまったりなんてしてなかったと思う。もう『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を書いた後だったんだけど、私たちはそんなことも全然知らなかった。彼のことが好きだったのは、ただ彼がそこにいたがって、私たちを遊びに連れて行ってくれて、一緒にいて楽しい人だったからなの。彼はいい人だった。あの当時、他人のことに構ってくれる人なんていなかったでしょう?(略)

遠征試合に行くときはジェリーがジープに乗せてくれて、ぎゅうぎゅうに乗れるだけ乗りこんだ。(略)

 古いオープンジープで、フードもなにもついてなかった。全部がオープンで、それが楽しかった。女の子はみんな一緒に行きたがった。みんなで試合に行って、それから親の許可を得た女の子たちが何人も残って、彼と一緒にレストランで食事をするの。(略)

ウィンザーには私たちがたまり場にしてたソーダ・ファウンテンがあって、よくジェリーもそこに混ざってた。よほど若い人たちのことが好きだったみたい。ジェリーはすごくエネルギッシュで、周りにいるみんなに力を与えていた。そのエネルギーがさらに人から人に広がっていった。女の子たちは叫んだり笑ったりはしゃぎまくっていて、頭痛がするほどだった。

(略)

彼が大人だなんて考えることもなかった。実際は大人だったんだけど、でも彼はのんびりしていて、一緒にいて楽しくて、とてもハンサムで、肌もサラサラで、すごくスリムで、いつも行きたいところに快く連れて行ってくれて、まるで世界中の時間を手にしてるみたいだった。(略)

そのうちシャーリー・ブレイニーがジェリーとすごく親しくなって、何度かデートもするようになったの。

(略)

彼女は学校年鑑の編集委員だったの。高校時代、新聞の仕事もたくさんしてたから、二人には書くことへの愛という接点があった。それがシャーリーとジェリーが近付く大きな理由だったんだと思う

(略)

シャーリーはジェリーのことを真剣に考えはじめて、友達以上になりたいと思うようになった。

(略)

彼女は学校でもすごく人気があったの。美少女で、髪は美しいブロンドだった。学校の男の子たちもみんな彼女とデートしたがっていた。

(略)

シャーリー・ブレイニー 結局、彼はティーンエイジャーについての新しい小説を書いていて、私たちは彼のモルモットなんだって結論に達したわ。もちろん、私たちを見下してたとか、私たちをピンで留めてたとか、そういうことじゃないの。彼はすごく誠実だった。インチキなところはまったくなかった。ほんとに良い人なのよ。いちど私は彼に、作家になりたいと思ってる、夜は横になりながらアイデアを出そうとしてる、って言ったことがある。彼は心から共感した様子で頷いて、こう言ってくれた。「それが一番良いんだよ。忘れないように、起きてメモするようにしたらいい」。

 

ジョン・C・アンルー サリンジャーには、若者たちのイノセンスを保存しようという強い欲求があった――できる限り時を止めておきたいという欲求である。

クレア・ダグラス

ポール・アレクサンダー シャーリー・ブレイニーとの出来事の後、サリンジャーは外の世界へ出て彼のコミュニティの人間たちと再び繋がることを決めた。大人たちと友好的になるよう心がけ、招待された様々なパーティーにも赴いた。

 

シェーン・サレルノ 一九五〇年の秋、三十一歳のサリンジャーは十六歳のクレア・ダグラスと出会った。クレアはペンシルヴァニア州ブリンマーにある全寮制女子校シプリー校の最上級生だった。

(略)

マーガレット・サリンジャー パーティーに現れた彼女は驚くような美しさだった。大きな瞳で、儚げで、まるで『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘップバーンか『恋の手ほどき』のレスリー・キャロンみたいな雰囲気があったのよ。(略)

私の両親が出会った夜、(略)彼女は深い青色のベルベットの襟がついた青い麻のドレスを着ていて、まるで野生のアヤメのように飾らずエレガントだった。

 

クレア・ダグラス ああ、あのドレスは大のお気に入りだった。(略)私の瞳の色にすごく合っていたの。人生であれより美しいドレスを着たことは一度もないわ。

 

シェーン・サレルノ (略)次の日、サリンジャーはビー・スタインに電話をかけてお礼を言い、シプリーにいるクレアの住所を尋ねた。翌週クレアはサリンジャーからの手紙を受け取った。サリンジャーはクレアが高校生だった一九五〇年から五一年の間中、クレアへの電話と手紙を欠かさなかった。

 

ポール・アレクサンダー サリンジャーはクレアを見たその瞬間に夢中になった。彼女は愛嬌があり、人当たりもよかった。魅力的な仕草のなかに可愛らしさがあり、柔和さと上品さが備わったクレアは、サリンジャーにとって実に魅力的だった。

(略)

サリンジャーは、クレアの父が非常に名の知れたイギリスの美術批評家ロバート・ラングドン・ダグラスであることを知った。興味深いことに、クレアは父と母の年がかなり離れている家庭に生まれたため、サリンジャーに心惹かれるのは、彼女にとって不自然なことではなかった。

 

デイヴィッド・シールズ クレアは著名な一族の出だった。年の離れた腹違いの兄(略)は貴族の一員となり、貴族院の議員にもなった。

(略)

サリンジャーと同じようにクレアもアイルランド系のハーフだった。

 

マーガレット・サリンジャー 母は基盤と言えるものが何もないなかで幼少時代を過ごしたの。五歳の時に修道院の寄宿学校に送られて、八つの異なる里親の元を転々として、また別の寄宿学校へ送られた。

(略)

シェーン・サレルノ クレアはよく東五十七丁目のジェリーの住まいを訪ね、彼の黒いシーツの上で夜を過ごしたが、彼らの間に性交渉はなかった。

(略)

クレア・ダグラス 黒いシーツ、黒い本棚、黒いテーブルとかそういうものは、彼の憂鬱にマッチしてたわ。彼はブラックホールにはまり、身動きもとれず、ほとんどしゃべることもできない状態に陥っていたのよ。

 

シェーン・サレルノ (略)一九五三年、サリンジャーニューハンプシャーに引っ越した後、ラドクリフ女子大学にいるクレアを訪ね、川辺を散歩しながらの長い会話のなかでクレアに求婚した。しかし、会いにくる以外のときの彼の態度はよそよそしく、彼女は見放されていると感じていた。学校を退学して一緒にコーニッシュに住んでほしいとサリンジャーに言われたとき、彼女は驚き、それを拒否した。傷ついた彼はその場を去った。クレアは取り乱し、彼と話をするために車でコーニッシュまで向かった。しかし彼はどこにもいなかった。

(略)

デイヴィッド・シールズ サリンジャーはヨーロッパで数ヶ月を過ごした。

 

シェーン・サレルノ この頃、彼はジーン・ミラーとも連絡を取り合っていた。

(略)

デイヴィッド・シールズ モックラーは病院ヘクレアを何度も訪ねた後、彼女にプロポーズをした。サリンジャーの沈黙の影響から、彼女はプロポーズを受け入れた。しかし一九五四年の夏、サリンジャーはクレアのもとを訪れた。(略)

クレアは間もなくモックラーと離婚した。ラドクリフ女子大学を卒業するまであと四ヶ月というところで、サリンジャーはクレアに、自分を取るか、大学の学位を取るかという選択を突きつけた。

 

シェーン・サレルノ クレアのサリンジャーへの感情は強いままだった。モックラーとの離婚後、クレアはサリンジャーのもとに引っ越してきた。二人は一九五五年二月十七日にヴァーモント州バーナードで結婚した。みぞれが降る二月の寒い日に、サリンジャーとクレアは法務官の立ち会いのもと結婚するため、車を走らせた。サリンジャーは結婚証明書に初婚だと記し、彼の最初の妻、シルヴィア・ヴェルターの法的な痕跡を一切消し去った。

(略)

ポール・アレクサンダー サリンジャーからクレアへの結婚プレゼントは「フラニー」の原稿だった。フラニーはクレアをモデルにしているようだ。そして、サリンジャーが描く痛々しいまでに凡庸なフラニーのボーイフレンド、レーン・クーテルの人物像は、かなりあからさまにモックラーを馬鹿にしたものだということが容易にわかる。

ニューヨーカー編集者・ウィリアム・ショーン

デイヴィッド・シールズ サリンジャーにはサリンジャー家とグラス家があったが、ウィリアム・ショーンを家長とするニューヨーカーという三番目の家族もあった。今時の言葉で言えば、彼はサリンジャーの助長者[イネーブラー]だった。彼はサリンジャーの最良の傾向(文芸への献身)を促したが、同時に最悪の傾向(忌避や退却、孤独、放棄、純潔、内面的本質、さらには沈黙に向かう傾向)を促しもした。サリンジャーはショーンのなかに、芸術的で、神経症的な心の友を見つけた。サリンジャーが彼との交流から得られる芸術的な利益を享受しているあいだ、外部から閉ざされたコーニッシュの楽園に取り残されたクレアと子供たちは、自分たちでなんとかやりくりする以外になかった。そこはサリンジャーが他人のためではなく自分のためにつくった場所だった。

 

ロジャー・エンジェル サリンジャーが初めて[ニューヨーカーに]やって来たときは、ガス・ロブラノ[とウィリアム・マックスウェル]が担当だった。しかし、[ロブラノが亡くなった後]ウィリアム・ショーンが引き継いだんだ。(略)私が小説部に来たとき、ショーン以外の部署内の編集者は誰もサリンジャーとやり取りをしていなかったよ。

 

ベン・ヤゴダ ショーンの職業的地位を高めたのは第二次世界大戦だった。ショーンは戦争を利用して、洗練されたユーモア雑誌からシリアスな記事を発行する雑誌へとニューヨーカーを変えた。そのひとつの到達点がジョン・ハーシーの「ヒロシマ」という記事の掲載だ。ニューヨーカーは、この記事のためにひとつの号をまるまる充てたのである。この企画の中心となったのがショーンだった。彼はハーシーとともにアイデアを練り、一冊まるまる使って取り上げるべきだと主張して、編集を行い、印刷にまでこぎつけた。そのことによってニューヨーカー内と文芸界におけるショーンの地位は向上した。

 

トーマス・クンケル ショーンは作家になりたかった人だから、作家の精神というものを大抵の人よりもずっと深く理解することができた。彼は作家たちが成そうとしていること、それがいかに大変であるかということを理解していたし、どうすればそれを出版できるかという術を知ってもいた。

 

スコット・バーグ ショーンは人前に出たり名が知られたりすることを好まず、作家が書くものを無私無欲で出版しようとした。そして、作家が編集者を必要とするのは本がすべて書き上がったときではなく、実際に執筆している最中であることが多いということを知っていた。ショーンはサリンジャーの右腕となった。

 

ヴェド・メータ ショーンはニューヨーカー内のどんな些細なことにも関わりを持った。J・D・サリン ジャーは天才だらけの家族について書いていたが、ある意味ニューヨーカーの雰囲気は拡大サリンジャー一家といった感じだったよ。ショーン氏は賢い父の役割を引き受けるのは嫌がっていたが、十九階の賢い兄といった感じだった。人は彼にどんなことでも助言を求めた。(略)

ショーンは決してうわさ話をしなかった。(略)

彼は、たぶんJ・D・サリンジャーを除いて、僕が知る限り最も秘密を守る人物だった。

 

ローレンス・ウェシュラー 世界で一番恐がりの男がいるとしよう。彼は周りがすべて水で囲まれた町に住み、橋や、トンネル、バス、リムジン、ヘリコプター、飛行機、フェリーなど、すべてを恐れている。彼はその島から外に出ていくことはできないが、世界で一番好奇心の強い男でもある。彼は何もかも、誰もかも、どんな場所でも知りたいと思っている。で、この男が何かの偶然で無限の富を手に入れることになったとしよう。すると彼は人々を連れて来て、彼の代わりに外に送り出す。(略)「行ってこい――どんなに長くかかっても、そこがどんな場所かを書いて送ってくれ。人々がどんなことを言い、感じているのか、どのように生活しているのか、何を不安に思っているのか――すべてを書いてよこしてくれ。完璧に、鮮明に、まるで私が自分でそこへ行ったかのように鮮明に書いてくれ」。そして男は毎週彼らの手紙やレポートをひとつに綴じ、自分だけのための、小さな私用の雑誌を作る。他の皆は男の肩越しにそれを読もうとする(男は気にならないし、ほとんど気がつきもしない)。ウィリアム・ショーンの下で働くっていうのはこんな感じだ。彼はまさしくニューヨーカーそのものだったんだ。

(略)

トーマス・クンケル ショーンは非常に決まりきった日常生活のパターンを持っている人だった。決まった種類の鉛筆でのみ編集をした。彼には風変わりなところが多くあったが、それが彼の本質的な部分だった。作家たちが彼にとてもよく反応した理由のひとつは、彼の不安定さや病的なまでの恐怖心に、人間味がちらりと見えたからだと思う。

 

ポール・アレクサンダー ショーンは毎日アルゴンキンにランチに出かけ、コーンフレークを注文した。

 

ベン・ヤゴダ 夏の間、ショーンはウールのスーツ、セーター、オーバーコートという格好だった。死ぬまでの五十年間で、ニューヨークを離れたことはたった一度しかない。シカゴにいる家族を訪ねるためだった。内向的な性格で、インタビューを受けたことは一度もなかった。人生のすべてがニューヨーカーと自分の作家たちのことばかりで、死ぬまでそうだった。オフィスの外には二人の従業員がいて、予期せず人がオフィスに入ることを防いでいた。

 

トム・ウルフ ショーンはアタッシェケースを携えて四十三丁目のニューヨーカーのビルに出勤していたんだ。ビルに入るや否や、オペレーターがエレベーターの入り口を手で塞いで、他の誰もなかに入れないようにした。ショーンはエレベーターで彼のオフィスへ上がっていく。アタッシェケースのなかには手斧が入っていた。階の途中でエレベーターが動かなくなった場合に手斧で脱出することができるようにってね。殺されるには悪くない方法だよ。それがショーンの性格だったのさ。

 

トーマス・クンケル ニューヨーカーの編集スタイルは様々な点において強迫観念的といえるものだった。編集者は――とりわけショーンは――どこにカンマを置くか、ここにダッシュは必要かどうかというところまで手を抜かずに真剣になった。作家は数えきれない質問に答えなければならなかった。ただひたすら、何度も何度もゲラの繰り返しだった。

 最後の校正者が、カンマが必要だと思う場所を見つけた。彼はマックスウェルのところへ行き、マックスウェルはそれを見て「確かに、カンマが必要に思える」と言った。二人はサリンジャーに連絡をとることができなかったため、先立ってカンマを入れた。小説が世に出たとき、サリンジャーがそのカンマについてふさぎ込んでいて、決して忘れなかったとマックスウェルは語った。マックスウェルは、「その後二度と、本人と話さずにサリンジャーの小説に句読点を付け加えることはしなかったよ」と言っていた。

次回に続く。