ザ・キンクス ひねくれ者たちの肖像

オーストラリア、アーサー

 デイヴィス家は労働者階級だったが、庭師をしていた父親には当時人気があったマズウェル・ヒル地区に家をかまえるに十分な稼ぎがあった。デイヴィス一家は数の力を信じていたが、これは、デイヴによれば21人兄弟のなかで育った母親の影響に違いない。家のなかは5人姉妹、なかでも長女のローズが仕切っていた。そして、女ばかりの家庭ではつまらないとばかりに、デイヴィス夫人は彼女らの下に息子をふたりもうけた。レイモンド・ダグラス・デイヴィスは1944年6月21日に生まれ、弟のデイヴィッド・ラッセルはその3年後、1947年2月3日に生まれた。レイはローズの影響を大きく受け、とくに小学校時代はローズがレイの心のよりどころになっていた。50年代はじめにローズは結婚し、近くに新居をかまえたが、弟たちとの絆は弱まることはなかった。実際、子供時代につらいことがあるとローズの家を避難所に使っていたとデイヴは認める。

(略)

 1960年にはレイはすでに学校をやめて、姉のローズの家に転がり込んでいた。

(略)

ローズと夫のアーサーは、長年の夢だったオーストラリア移住を実現した。レイにしてみれば、自分を理解してくれる人間がひとりいなくなったことは大きな打撃だった

(略)

[64年の豪ツアーでレイはローズ夫妻と]うれしい再会を果たした。(略)アーサーはその後、レイの数々の歌のなかで永遠の命を与えられることになる。

ラリー・ペイジ

 ラリー・ペイジは英国のポップミュージック界が生んだ労働者階級の典型的ヒーローだった。彼は学校を出ると、EMIレコードの包装係の職に就いた。音楽業界の仕組みに興味津々だった彼は、ルックスとイメージとおもしろい曲をもっている若者なら50年代後半のポップス界でいくらかのチャンスがあることに気づいた。しばらく考えたあげく、この若き工場労働者は、本名のデイヴィスを捨て、“ティーンエイジの人気者”ラリー・ペイジとなった。チャートをにぎわすまでにはいかなかったが、ペイジはクリフ・リチャード・アンド・ザ・シャドウズらスターの前座など、いくつかの重要なサポート役を務めた。彼はまた、それまで前代未聞の青く染めた髪でステージに登場し、大人たちの怒りを買った。同世代のスターの多くは忘れ去られていったが、ペイジはポップスターの寿命は非常に短いことを抜け目なく察していた。彼はいったんポップシーンを引退し、ウェールズでパブを経営しながら、新しい仕事の計画を練った。彼はいとも器用に、ポップシンガーから実業家へ変身を遂げ、チェーン店のメッカの興行主としてかなりの成功をおさめた。

(略)

有名な音楽出版者のエディ・カスナーはとくに、ペイジの興行主としての才能を自分の利益のために使いたがった。交渉は成立し、ペイジはカスナー・ミュージックのジェネラルマネジャーに就任、出版権をパートナーに渡すことを条件に、新人と契約することも許された。

(略)

彼の目の前にいたのは、レザージャケットに身を包み、R&Bチャック・ベリー風ロックンロールを混ぜ合わせたような曲をやっている4人の若者だった。器材はみすぼらしく、アンプは絶え間なくフィードバック音を出していたし、グループはステージ・パフォーマンスにも無頓着のようだった。しかし、ペイジはこの荒々しいグループに、コンサートの主役を務めるようなビートグループに変身する可能性があることを見抜いた。コリンズとウェイスがほっとしたことに、ペイジはグループの利益の10パーセントで契約に同意した。グループはこれで3人のマネジャーをもつ形になったが、ロバート・ウェイスはペイジの権限は非常に限られたものだったと語る。

 「ラリー・ペイジを加えたのは、音楽出版の仕事をしていたからだ。(略)

言っておくが、彼はグループのマネジャーでは決してなかった。もっとも、彼はそうだったと思いたがっているようだけどね。

(略)

[ペイジ談]

「カスナーの話は彼らにとっては吉報だった……カスナーの登場がなかったら、ウェイスはネクタイ売りでもするはめになっていたろう。ウェイスはとにかくなにも知らなかった。彼はぼくのところへ来ると、グループを見てくれと懇願したんだ。あれがなければ、彼らはものにもならなかったろう……エディ・カスナーのことはいろいろ言われているけれど、彼がいなかったら、キンクスはまだレイヴンズって名前で近所のパブで演奏してるのがおちさ。(略)レイには優れた素質があったが、誰かの指導が必要だった」

(略)

まだ青くさいレイ・デイヴィスと、彼をバックアップするマネジャーとしては素人のふたり、そしてデンマーク・ストリートの若きやり手興行主。

(略)

ウェイスが言うところの、主導権を握っていたのは自分たちで、契約もそうなっているという話に対して、ペイジは当然のことながらひどく一方的だと憤慨する。

「マネジャーが3人いたわけではない。マネジャーはひとり、それはぼくだった。ほかのふたりは音楽業界では門外漢で、なにもできないから、あの時点ですべてはぼくにまかされた。ところが、金が入ってくるようになって問題が起きたんだ。彼らは椅子にふんぞりかえって、他人の栄光の恩恵に浴していただけだ。彼らはぼくと契約を結び、その契約では全権はぼくにあった。さもなければ、ぼくは手を出していなかったさ。主導権が握れないのに、ふたりの素人と組むわけがない」

ドラマー、ミック・エイヴォリー

ミックはまたクロウダディ・クラブの常連客で、ほんの短いあいだローリング・ストーンズの母体となったグループでブライアン・ジョーンズミック・ジャガーとプレイしたことがあった。ロックに詳しい人は、1962年7月12日の木曜日に、彼らが"ローリング・ストーンズ”という名前でマーキーに初出演したときのグループのメンバーのなかに、“ミック・エイヴェリー”なる人物がいたのを覚えておられるかもしれない。ここでエイヴォリーがストーンズの創設メンバーであると報告できれば喜ばしいが、実はそうではないようだ。自らの才能や経歴についてあくまで謙虚なミックは、ストーンズとライヴをやったという話を否定する。

「(略)ミック・ジャガーから電話があったんで、ぼくはオーディションに出かけた。で、そのギグならやってもいいと言ったんだが、彼らはフルタイムのドラマーをほしがっていたんだ。当時は、昼間仕事をしていたんで、ぼくは無理だった。それで、二度ほどリハーサルをして、やめたんだ。ストーンズの一員になる最大のチャンスだったのにな!」

 しかし、幸運なことに、ミック・エイヴォリーは二度目のチャンスを与えられ、人気者になる可能性を秘めたグループに迎え入れられたのだった。

売るための秘訣はリフ

ペイジは、いかにしてデイヴィスに初期の傑作を書かせることができたか、次のように語っている。「レイと話をして、レコードを売るための秘訣はリフだって伝えたんだ。最初から最後までリフばっかりの。まず最初に彼と作ったのが、〈リヴェンジ〉って曲だった……ほくらはまず、うまいシンガーを必要としない曲を作ることに集中した……〈ルイ・ルイ〉をベースにしたんだ。ぼくはキングズメンの大ファンだったから。あれは、リフだけって曲だからね。ぼくらはピアノの前で、アイディアをいろいろ試してみた」

シェル・タルミー、キンクスに改名

 シェル・タルミーは若いアメリカ人の独立プロデューサーで、フリーランスという存在がまだものめずらしかった業界で、当時はデッカの仕事をして成功をおさめていた。

(略)

タルミーはプロデュース印税をもらえるようなはじめての真に独立したプロデューサーになることに意欲的で、自分の評判を高めるために無名のグループと仕事をしたがっていた。ある日の午後、デンマーク・ストリートでロバート・ウェイスから声をかけられ、その突破口が開けた。

(略)

タルミーがペイジの権力と影響力に気づいたのは、しばらくたってからだった。ペイジのほうは最初からタルミーを支持していたのだが、アメリカ人のほうは、この元ティーンエイジ・ポップスターがきっかけがあればただちにプロデューサーの地位を奪いにかかるつもりだと思っていた。 

 パイと契約したグループは名前を変えることにしたが、レイヴンズがどういった経緯でキンクスとなったかは、話すと非常に長くなる。レイ・デイヴィスは当然のように新しい名前を選んだのはラリー・ペイジだと言うが、しばらくのあいだこの名前はジョークとみなされていたらしい。“kinky”という単語は、膝上丈のブーツと関連した60年代中盤のキャッチフレーズで、諷刺的なテレビ番組『ザット・ワズ・ザ・ウィーク・ザット・ワズ』といったテレビ番組でミリセント・マーティンが流行らせたものだった。このフレーズは最初、グレイのプルオーバーにツイードのズボン、オレンジのタイという出で立ちのレイ・デイヴィスを見たスタジオエンジニアが、彼を“変態[キンク]”と呼んだことから使われるようになった。デイヴ・デイヴィスがビニール製のコートに芝居関係の店で購入した騎士が履くような太ももまでの丈のブーツを履くようになって、そのイメージはますます強まった。16歳のデイヴはまた、ロングヘアを真ん中あたりで分けるようになるが、当時そのスタイルはめめしいと思われていた。というわけで、キンクスはゲイ・パーティに招かれて演奏することが多くなり、ラリー・ペイジはすぐに、彼らの風変わりなところを売りにできると考えた。

(略)

新しいルックスを作り出す作業が重ねられ、ペイジは自分が昔着ていた赤いブレザーと黒のパンツという50年代の制服とでもいえる服装をベースにしたらどうかと提案したという。結局、マネジメントはピカディリーにあるフォートナム&メイソンという老舗のデパートで、ぎょっとするような新しい衣装をオーダーした。グリーンとピンクのハンティングジャケットと黄色のフリル付きのシャツ、黒いズボンに乗馬用ブーツのセットを2組ずつ与えられたメンバーたちは、驚くと同時におもしろがった。キンキーなイメージでショックを与えようと、乗馬用のムチも登場した。労働者階級の若者たちが紳士の乗馬服に身を包み、デビュタント・パーティで演奏するのは最高の皮肉だった。やがて「ストーンズが好きなら、キンクスには夢中になるさ」というコピーの入ったポスターが登場した。ペイジはさらにデイヴィス兄弟に、ステージでセクシーにふるまうためのレッスンを授けてやった。

「レイとデイヴに、ギターの抱え方を教えてやったよ……自分のペニスを持つように持てってことだ。自分の真っ正面に構えてプレイするんだ。カメラが近づいてきたら、ギターをしっかり構える。そうすれば、緊張感が映し出されるから。カメラが顔に近づいたら、常に攻撃的な表情を崩さないこと。こういったことを教えたんだ。同じようにステージの動きも教えた。ひとりを一方に、もうひとりをもう一方に配して、中央まで駆け寄るようにさせたんだ。大事なのは攻撃性だった。それが見事功を奏した」 


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Jimmy Giuffre Trio / The train and the river

 

〈ユー・リアリー・ガット・ミー〉

 デイヴィス兄弟によると、〈ユー・リアリー・ガット・ミー〉のインスピレーションは、ブルース指向のフレンチジャズに興味をもっていたから得られたのだった。この曲のオリジナル・ヴァージョンは軽いジャズっぽい曲で、最終的にレコーディングされた曲とは似ても似つかなかったらしい。デイヴ・デイヴイスが回想するに、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルの映画のなかで、ジミー・ジュフリーとジェリー・マリガンが独創的な〈トレイン・オン・ザ・リヴァー〉を演奏するのを見て、あのリフを思いついたという。このオリジナル・ヴァージョンと、キングズメンの影響を受けたレコード・ヴァージョンとを比較するときっとおもしろいだろう。

(略)

批評家の多くが見逃していたのが、レイ・デイヴィスが意図的に60年代はじめのティーンエイジャーのラヴソングに見られたロマンティシズムの罠を解き放とうとしたことだった。

(略)

「〈ユー・リアリー・ガットミー〉は、月や6月なんて言葉が出てこない泥臭いラヴソングだ。つまらないって思った人が多かったけど、本当はみんなこんなふうに感じてるのさ。ファンだって同じように感じてると思う。ティーンエイジャーは決して、「愛してるよ」なんて言わない。彼らは自分たちの思いをセンチメンタルじゃない方法で伝えたいんだ」

カーディフ事件

 デイヴィス兄弟はあらゆる機会をとらえて、寡黙なメンバーを敵にまわすことにひねくれた喜びを見出していた。

(略)

 その晩、カーディフで、ミックの堪忍袋の緒が切れた。(略)最初のショウがはじまってまもなく、デイヴ・デイヴィスはミック・エイヴォリーに近寄って、いくつか言葉を交わすと、彼の大切なドラムキットをステージの端まで蹴飛ばした。会場を埋めつくした2500人のティーンエイジャーたちは、キンクスがパフォーマンスの一部としてやっているのだと思って歓声を上げた。しかし、ミックがシンバルを手に、崩れたドラムの後ろから立ち上がり、デイヴの側頭部を殴ると、会場の空気は一変した。レイが負傷した弟に駆け寄る一方で、パニックに陥ったミックはステージから逃げ出した。サム・カーティスが続きを語る。

「運のいいことに、デイヴはちょっと体を動かしていたんだ。直撃を食らっていたら、頭から首にかけてやられていただろう。シンバルは鋭いからね……ミックはデイヴを殺してしまったと思って、劇場から飛び出したんだ。想像できるかい? ハンティングジャケットに黄色のフリルシャツ姿の男がカーディフの町に飛び出し、その後ろを(略)何百人もの女の子たちが追いかけるんだ。しかも、彼は人を殺したと思ってたから、自分の身を守るために走ってたんだ」。

 デイヴが治療のためにカーディフ王立診療所に担ぎ込まれる一方で、司会者は二度目のショウの中止を告知、カーティスは血迷ったドラマーを捜して、カーディフの町を走りまわった。とうとう彼は、近くのカフェで、そこにいた女性から盛んに慰められているミックを見つけた。カーティスによれば、ミックは事態をまったく理解できないほど取り乱していたという。

(略)

警察官がかなり深刻な容疑でエイヴォリーを尋問しようと、グループの滞在していたホテルを捜索していた。(略)

カーティスは、次のようなコメントを出した。「彼らにとっては、これがツアーの終わりになるだろう。グループはすぐに解散すべきだと思う。長いあいだ、いつかこの日が来るだろうと思っていた。グループ内の緊張はものすごいものがあり、それを解き放つ必要がある」

(略)ラリー・ペイジも次のように述べている。

「あれがキンクスの終わりだった。どう考えても彼らが二度と一緒にプレイするわけがなかった。

(略)

 ペイジは、デイヴにミックを告訴しないように説得し、ほとんど手のほどこしようもなくなっていたグループを再生させようとした。彼は、メンバーひとりひとりに電話をかけ、理由を説明することなくある金曜日の午後に自分の事務所に招いた。各メンバーは、ペイジひとりに会うつもりで姿を現した。

「想像できるだろうが、彼らが部屋で顔を揃えたときは一触即発って感じだった。ぼくはよけいなことはせずに、アメリカツアーがはじまるぞ、とだけ言った。彼らには質問する時間も与えなかった。最後に、『質問は?』ときくと、ミック・エイヴォリーが、デイヴの頭をたたいて壊れてしまったシンバルの代わりが必要だって言ったよ」。

(略)

ロバート・ウェイスも、ペイジがミックとデイヴを驚くほどうまく和解させたことを確認した。

(略)

 マスコミを静めるために、ラリーは(略)ステージ上の出来事は“事故”だったことにしてジャーナリストを丸め込むことにした。

(略)

「あれは〈ユー・リアリー・ガット・ミー〉をやるときの新しいパフォーマンスとして考えたものなんだ。デイヴがぼくのドラムにギターを振り下ろし、ぼくが彼をシンバルでたたくふりをするってことになってたのに、実際にたたいてしまったんだ。彼が倒れて、みんながステージに駆けつけたとき、なんてアホなことをしてしまったんだって思った。なんたって彼に怪我させちゃったんだから」

 ペイジからきみの発言があればいっそう役に立つと説得されたレイは、「弟は気の毒だったし、ミックが動揺したのもかわいそうだった」と発言した。驚くこともないが、デイヴ・デイヴイスはこの件に関して一貫して沈黙を守った。当時を振り返って、デイヴはあの衝突は、ツアー生活からくる絶え間のないプレッシャーと、自分が精神的に未熟だったせいだと考える。

 「当時16かそこらだったし、13歳から17歳までぼくはうぬぼれてたからね。避けられないことだったんだよ。グループが成功した1年目、ぼくはやりたい放題だった。来るものは拒まずで、酒でもなんでも手当たりしだいだった。それから、ミックとステージで殴り合って、彼のドラムスをぶっ壊して、やっと自分が間違ったことをしていたことに気づいたんだ。あのとき、ぼくは書くこともなにもしてなかったし、考えることも今より少なかった。17か18になってやっと考えるようになったんだ。それ以来、同じことをやるにしてもちゃんと考えてやってるよ」

 療養のためほんの短期間休んだ後デイヴはキンクスのメンバーの座に復帰、グループはまたもやライヴのために集合した。このころにはレイ・デイヴィスは、ほかの6つものグループと一緒のコンサートで、たった15分しかプレイしないパッケージツアーにうんざりしていた。そこで、エージェントのアーサー・ハウズに、1グループだけのショウをやるという画期的なアイディアを持ち込んだ。しかし、レイはハウズから、このコンセプトは非現実的でありさらなる検討が必要という返事をもらった。無秩序なパッケージツアー・システムに対するレイの抗議も、彼らのステージを変えるまでには至らなかった。だが、早くも1965年ころから、彼がショウのプレゼンテーションの仕方について考えていたことは特筆に値する。

レイに翻弄されるペイジ

「コリンズとウェイスは、『ラリー・ペイジに10パーセントも支払っている。かなりの金額だ。本当に彼が必要なのか?』って言いはじめた。(略)

彼らを追い出すこともできたが、ぼくはそんな人間ではない。正義は正義、だからね。契約したからには、守り通すのが筋というものだ。でも、その気になれば、苦もなく彼らを追い出せたんだ」

 ペイジによれば、そのチャンスは、カスナーのオフィスでレイ・デイヴィスと話し合いをしていて、この金にうるさいポップスターが、支払われるコミッションの額に不満を示したときにあった。ペイジが、30パーセントもの分け前を取っているコリンズとウェイスに遠慮して、そんな好機を見送ったのは、不可解としか思えない。だが、彼は、デイヴィス兄弟から完全な支持を得なければクーデターは起こせないのに、兄弟はどちらの側にもつきそうにないことを知っていたのだろう。ペイジはこのままグループと関わり続けて努力をしていけば、いつかは報われると固く信じて、チャンスを待っていたに違いない。(略)

結局、グループをうまく売り出したのも、カーディフで大失態を演じて解散に追い込まれそうになったキンクスを救ったのも彼なのだ。キンクスはペイジに頼りきっていたし、ペイジはアメリカ進出を決めた自分の手腕にかなりの自信をもっていたに違いない。ペイジにとって不運だったのは、そのころからレイ・デイヴィスが始末に負えないほどわがままになって、要求も増えてきていたことだった。

(略)

ペイジの努力にもかかわらず、レイはまだコリンズとウェイスの影響を受けていた。彼ら一族の富、パブリックスクールを卒業していること、厚かましいほどの自信は、レイ・デイヴィスとは無縁の世界のものだった。

(略)

彼はスターとしての将来を犠牲にしてでも、自分のマネジャーの生活をめちゃくちゃにして自己満足に浸りたいという人間だった。食いものにされているというレイの苦々しい思いと不安を考えれば、アメリカでの失敗は予測できた、とサム・カーティスは指摘している。

(略)

「こちらがどういう態度に出ようと、レイは問題を引き起こしただろう。彼はへそ曲がりになりたがっていた。というのも、彼に話しかけてくる人間の目的はただひとつ、金儲けだと知っていたからだ。誰も、レイ・デイヴィスが好きだから声をかけてきたわけではなかった。(略)

『あんたたち、金がほしいんなら努力しな。ぼくはなるたけ扱いにくい人間になってやる』と思うのもしかたないことさ」

(略)

[ペイジ談]

「あのころは、誰もがみんなを殴り殺したがっていた。ぼくはレフェリー役だった。いつも彼らのそばにいなければならなかった。レイはもちろんおもしろがって挑発していた。(略)

ぼくのところへ来ると、『どあほう、どあほう』と言って、戻っていくんだ。小学生なみだろう。ほくは帰宅すると、下着のパンツや靴下の数を数えるのが習慣になっていた。(略)」。

あるとき、ペイジは眼鏡がなくなっているのに気づいたが、その夜遅く、レイがその眼鏡をかけているのを見てびっくりした。返してくれとレイに言っても、彼は自分で使うために買ったんだと言い張ったらしい。

“低予算”男

 名声が高まってきても、レイはお金を持ち歩くことを渋り、後にアルバム・タイトルにもなる“低予算”でいることを好んだようだ。

「レイは大金を稼いでいた。でも、ぼくによくこう言ったものだ。『ラリー、チューインガムがほしいんだが、1ペニーしかないんだ。もう1ペニー貸してくれるかい?』それがレイだ。レイは決して金を使おうとしなかった。(略)彼がポケットに手を入れているところなんて見たことがない。レイはポケットを縫い合わせていたんだ。レイ・デイヴィスは決して金を巻き上げられることはなかった。決して」。

(略)

さすがのロバート・ウェイスも、レイ・デイヴィスの倹約ぶりは自分の理解の範囲を越えていると認めている。

「レイは自分の成功を受け入れるのに5年かかった。彼がソングライターとしてかなりの財産を作ったということを忘れないでもらいたい。アーティストというものは財産管理に疎いものだが、彼は違った。でも、彼のお金に対する姿勢は洗練されたものではなかった。彼はいつも偏執的だった。彼は自分が宿なしだという幻覚にとらわれていた。彼ほど金に細かい人間には会ったことがない」

(略)

[サム・カーティス談]

「(略)彼は億万長者かもしれないが、ぼくにしてみればレイ・デイヴィスはいまだにアイスクリームの値段を尋ねるような男だ。ズボンが2本あって、ひとつは6ポンド、もうひとつは4ポンドだったら、彼は4ポンドのほうを試着するだろう」

混乱の米ツアー

[ペイジ談]

「とにかく一日中ハラハラしどおしだった。(略)レイの行動はまったく予想がつかなかった。(略)LAでは、黒人のドラマーがいるという理由で、彼はテレビ出演を断った。今でこそ、レイが黒人のドラマーになにも偏見をもっていないとわかっているが、あのころは毎日小さなトラブルがあった。彼はいつも自分が主導権を握っていることをみんなに気づかせたかったんだ。ツアーのあいだ中、そんな具合だった」。

 アメリカのテレビに出演した際のヴィデオテープを見ると、ペイジの言っていることが確認できる。60年代のポップスターのインタヴュー集のなかで、レイとほかのメンバーはなんと、パブリックスクールのアクセントを用いて、自分たちは大学の芸術学部で出会ったと話している。インタヴューに先立って、レイは番組の司会者に、イギリスに戻ったら女王からMBE(5等勲士)を授かることになっていると言った。その話を真に受けた気の毒な司会者は、レイ・デイヴィスがその勲章を返すつもりだと言うのでびっくりしたらしい。デイヴィスの言い分は「陸軍大将やその夫人」が同じような栄誉を受けるのには反対だからというものだった。「5等勲章にふさわしいのはポップスターだけなんだから、ポップスターだけが授かるべきなんだ……」と。 頭の混乱した司会者が、キンクスはポップスターなのかと言うと、レイは自分らは「表現者」だと言い返した。そのような突飛なやりとりはおおむね効を奏したが、司会者の多くはばかにされて、居心地の悪い思いをしていた。ペイジは自分の目の前ですべてがだめになりそうで、いつもはらはらしながら見守っていた。

 レイ・デイヴィスの粗野なふるまいが破滅の原因となるのは避けられないことだった。

アメリカを出禁になる

 その致命的となったツアーから何年もたった今でも、レイ・デイヴィスにはキンクスが国外追放されたはっきりした理由がわからないようだ。

「ぼくらは、ユニオンみたいなところから3年の出入り禁止を言い渡された。ツアー中にぼくらがしたと思われたことのせいで。だけど、ぼくらはギャラの支払いを求めただけなんだ。彼らが支払いを渋るので、ぼくたちは裁判をはじめた。アメリカはおかしなところだ。ブラックリストのようなものなんだ。グループとは関係なかった。政治的な問題だった。その結果、アメリカでのレコードの売り上げは2枚を除いて、がた落ちだった。関係者に謝罪の手紙を書いたあと(略)いろいろな交渉をした末に、ぼくらは復帰を認められた。禁止令は1968年に解かれたんだ」

(略)

ペイジは、度重なるレイ・デイヴィスの常軌を逸した言動が引き金となって、決定が下されたのだと考えている。「実際キンクスはいやな連中だった。黒人のドラマーがいるからと出演を拒否したり、テレビに出演して、趣味のことを聞かれているのに性癖を話しはじめたりしたら、どうなると思う?キンクスと出演契約をすれば、トラブルに巻き込まれることは、誰もが知っていた。その噂は広まり、活動禁止となったに違いない。そうに決まってる」

(略)

アメリカツアーはとりかえしのつかないほどの大失敗になり、しかもライバルのハーマンズ・ハーミッツ、フレディ・アンド・ザ・ドリーマーズ、ウェイン・フォンタナ・アンド・ザ・マインドベンダーズは難なく全米チャートの1位になっていた。アメリカでツアーやテレビ出演ができないキンクスは、たとえ相手に才能がなくても、太刀打ちできなかった。あとに残されたのは悲しみと怒りだけ、国外追放のおかげでキンクスアメリカでの人気は下降し、あまり目立たないカルトグループになり下がってしまった。

次回に続く。