トッド・ラングレンのスタジオ黄金狂時代 その2

前回の続き。

バッドフィンガー《ストレート・アップ》

ジェフ・エメリックをプロデューサーに迎えてレコーディングされていたが、アップルは出来栄えに満足せず、ジョージ・ハリスンがじきじきにプロデュースを引き継いでいた。

 しかしその夏、わずかに四、五曲のオケ録りを終えたところで(略)

[ジョージはバングラデシュ・コンサートの準備に奔走、代役を探すアップルはトッドのうわさを耳にし、グロスマンは高額ギャラを取り付けた。ジョージに会い引き継ぎをすると](略)

「彼がバッドフィンガーとやった音は、使ってもいいし使わなくてもいいということだった。(略)彼と会ったのはその時が最初で最後だったし、話した内容もほとんどこれで全部だった」(略)

「バンドはジェフ・エメリックと一緒に一〇曲ぐらい録り終えていたし、ほかにもジョージが着手した曲が何曲かあった。でも彼らはそれ以外に、まだ手つかずの新曲を四、五曲用意していた。《ベイビー・ブルー》はそのうちの一曲だ」

 ハリスン・セッションの残り物には大いに気を惹かれる曲もふくまれていたが、ドラムのサウンドだけはなんともいただけなかったと彼は言う。新規にレコーディングした曲で、新たなドラム・サウンドを確立したトッドは、ドラマーのマイク・ギビンズに命じ、すでにマスター・テープになっていた曲のドラム・パートを一からやり直せるという、過激な手段に打って出た。

 「ハリスン・セッションのドラムはどれもあまりに平板で、風変わりなサウンドだった(略)これはリンゴが《ザ・ビートルズ》あたりからやりはじめた、なんにでもタオルをかぶせるスタイルが原因だったと思う。皮肉なことに、ジェフ・エメリックとやった曲では、バンドは一度もこの手を使っていなかった。たぶんエメリックはビートルズほど、あのサウンドにこだわりがなかったんだろう。ぼくらは単純に新しいトラックを開けて、元のドラムは奥に引っこませ、新しいドラムを前に持ってくることにした」

 最終的にハリスンのマスターは「ふたつか三つぐらい」しか使わなかったとトッドは言うが、その中にはやはりピート・ハムが書いた〈デイ・アフター・デイ〉もふくまれていた。(略)

[ジョージのスライド・ギターという通説を否定するトッド]

「だってぼくはバンドがプレイするところをこの目で見ていたんだ。弾いたのはまちがいなくバンドのメンバー、ピートかジョーイのどっちかだと思う。ハリスンのテープに入っていた音には、ほぼすべてになんらかの手を加えたからね。リード・ヴォーカルを録り直したり、バックグラウンド・ヴォーカルを追加したりもしたし、だから曲はほとんど原形を留めていなかった。それにぼくらはジェフ・エメリックのオケもたぶん四曲ぐらい使ったと思うけど、そっちにもやっぱり手を入れたはずだ」

 しかし当時のメンバー中唯一の生き残りとなったギタリストのジョーイ・モランドは(略)相反する証言をおこない、彼ではなくハリスンの手腕を賞賛した。(略)

「[ジョージが]やって来て言ったんだ。『なあ、この曲でスライドを弾いてもかまわないかな?ぜひ、弾かせてほしいんだけど』。もちろんぼくは『ええ、どうぞ、好きにしてください』と答えた。[ジョージは]いずれにせよ、最高の仕事相手だった(略)

一方でトッドはスターだった。とにかくエゴむき出しでね。すごく挑戦的で、口が悪い、不快な男なんだ。いや、あれはぼくにとって、最悪の経験だった」

(略)

トッドはレコードを通じて、ハリスンがオーケストラのオーヴァーダビングを考えていた所に、マルチ・パートのヴォーカル・ハーモニーを入れこんだ。そのほうがより親しみがわくだろうし、率直に言って、ずっと安く、短時間でレコーディングできたからだ。

(略)

ダン・マニトヴァの評伝『ウィズアウト・ユー:バッドフィンガーの悲劇[未訳]』の中で、モランドはトッドの強引なやり口に対する不満をとうとうと述べている。モランドに言わせると、トッドはバンドのロック的な側面を見ようとせず、《ストレート・アップ》用にミドル・テンポの曲ばかりをセレクトする愚を犯した。しかし同じ本の中で、マイク・ギビンズはトッドのドラム・サウンドを賞賛した。「トッドはぼくらが組んだ中で、いちばん素早く、いちばん機敏なプロデューサーだった(略)

卓の前に座った彼は、まさに魔術師だった。あれには本気で感動した」

(略)

 一一月一五日に《ストレート・アップ》がリリースされると、トッドは憮然たる面持ちになった。ハリスンは「完全に手を引いていた」にもかかわらず、アップルはシングルになった〈デイ・アフター・デイ〉のプロデューサー・クレジットを、単独でこの元ビートルに与えていたからだ。

 「けっこうむかついたよ」とトッドは、現在も怒りを隠そうとしない。「だってぼくはその気になれば、あの曲をはずすことだってできたんだ。それにぼくのヴァージョンは、彼のとはかなり感じが変わっていた。それはジェフ・エメリックがやった曲についても言えることなのに、彼の名はいっさいクレジットされてない。とにかくフェアじゃないと思ったね。あとでぼくは、もしかするとこれは意図的なものだったのかもしれないと思うようになった。いわゆるビートルズ信仰の副産物ってやつさ。ビートルに文句は言えないだろ。とにかくこの件はそのままになってるはずだ。〈デイ・アフター・デイ〉もやっぱり大ヒットしたのにね。だからぼくは、いくらか印税を取りっぱぐれてることになる」

(略)

[72年の]インタビューでもハムはまだ、トッドに腹を立てていた。

 「まず第一に(略)彼は本来受け取るべきギャラの四倍の金額を要求した。しかもジョージがすでに完成させていた曲にも、クレジットがほしいと言いだした。(略)自分のアイデアばかり優先して、バンド自身のアイデアや創造力を認めようとしなかった。

〈ハロー・イッツ・ミー〉

新しい薬物が、またしても彼を変えようとしていた。彼は新たにリタリンという興奮剤を知った。(略)

「《サムシング/エニシング》をつくるころには(略)ぼくの曲づくりは、一種の習慣と化していた。ほとんどなにもに考えずに、型通りの曲を、条件反射的に、二〇分で一曲って感じでポンポン書いていたんだ。〈I Saw The Light〉や〈Marlene〉のような曲は、ごく短時間で、完成形が浮かんできた。(略)

ぼくはいつも、同じネタで曲を書いていた。ハイスクール時代の失恋体験さ。だけどあのころにはもう、まだ曲にしていない経験が、ずいぶんと貯まっていたんだ」

(略)

リタリンのおかげでぼくは、ずっと集中していられた。何時間かぶっつづけで働いても、時間の経過を感じないんだ。(略)夜も昼もなくレコーディングして、しかも通常の睡眠時間もどうにか維持できていた。

(略)

 自信を得たトッドは、今回はじめて、ベース、ドラム、歌――すべて――の大半を、自分ひとりでレコーディングすることにした。

(略)

[クリックに合わせてうまく叩けなかったので]

なんのガイド・トラックもなしに、曲の変化や、シンバルの入るタイミングや、リズムを食う個所を想定しながら叩くという一風変わったアプローチを取った。「頭の中で曲を想像しながら叩くほうが、簡単だということがわかったんだ。

(略)

家でレコーディングするいちばんの利点は、三〇分ほどやってみようかと思い立ったり、いったん音を止めてじっくり考えたくなったりしたときも、他人の時間をいっさい無駄にせずに済むことだった。

(略)

[地震発生によりNYで“スタジオ・ライヴ”セッション]

現代風に大きく化粧直しされたナッズ時代の作品〈ハロー・イッツ・ミー〉だった。 「あの曲が、別の形で聞こえてきたんだ(略)もっとアップテンポで、感触も違っていた。それでこの新しいアレンジでやってみる気になったんだよ。生まれてはじめて書いた曲だったから、別にかまわないだろうと思ってね。そうすればハイスクール時代にぼくをふったあのクソ女のことを、完全に忘れ去れるんじゃないかという気持ちもあったし」(略)

〈ハロー・イッツ・ミー〉のヒットの要因がなんだったとしても(略)ひとつまちがいなく言えるのは、全部が一発録りで、細かく手を入れるような真似はいっさいしなかったということだ。譜面は用意してなくて、みんな、その場で考えながら演奏していた。とくに最後のホーンは、ホーン奏者たちがいきなり吹きはじめた完全な即興だよ。シンガーたちも勝手に“ぼくを思って”とくり返しはじめた。あれはぼくの指示じゃない。

幻覚剤

メスカリンとか、サイロシビとか、マッシュルームとかに手を出しはじめた。LSDはやったことがない。(略)

《魔法使いは真実のスター》)の製作が近づくにつれて、トッドの音楽のサウンドと構造は、新たに知った幻覚剤経験後の精神状態に、より強く影響を受けるようになった。「ぼくの内的な環境で(略)音楽とサウンドがどういう状態になっているかをはっきり意識するようになったんだ。そしてそれが、以前つくっていた音楽とどれだけ違っているか。頭の中で混沌としているさまざまな音楽の要素をできるだけダイレクトに描き出すことが、ぼくの新しい挑戦になった」

ニューヨーク・ドールズ

 当時のトッドはフランク・ザッパやイエス、そしてジョン・マクラフリンマハヴィシュヌ・オーケストラのような、プログレッシヴなスタイルのロックに深く傾倒していた。そんな彼の目に、ドールズのステージは、音楽のライヴというよりコメディのように映った。「ユーモアのセンスはまちがいなくあったし(略)マジになりすぎるのはかっこ悪いというスタンスも見て取れた。たぶんそのせいで、あんまり上手くプレイする気になれなかったんだろう(笑)。たしかに挑発的ではあったけれど、それは女装したローリング・ストーンズが挑発的だったというのと同じ程度の意味しかない。

(略)

 マーキュリーは地元のファンや評論家がバンドに感じていた興奮を、レコードでもうまく再現できるプロデューサーを探していた

(略)

 トッドの名前がプロデューサーとして挙げられたとたん、ヨハンセンは顔を上げた。「(略)それだ!(略)当時のオレたちはたいていのプロデューサーにとって、ありがたくない存在だった。(略)でもトッドはそうじゃなかった。マクシズやザ・シーンで会って、オレたちはみんな彼のことが気に入っていたし、ナッズも好きだった。

(略)

現在のトッドは、時間に追われ、しかもバンドがあれこれ口をはさんできたせいで、ミックスのクオリティが全体的に損なわれてしまったと率直に認めている。

 「多くの面で、あのアルバムはバンドの実像からかけ離れてしまった。(略)

ミュージシャンは全体じゃなく、自分のパートしか聞かないから、すぐに収拾がつかなくなってしまうんだ。あそこは彼らのいるべき場所じゃなかった。だからさっさと出ていってくれればよかったんだけど、連中はぼくを急かし、しかもそれだけじゃ飽き足りないとばかりに、マーキュリーが用意した最悪のマスタリング・ラボにテープを持っていった」

 現在のヨハンセンは、バンドの狂騒的なエネルギーに耐え抜き、彼自身はすばらしいサウンドに仕上がったと考えているレコードをものにしてくれたトッドを賞賛してやまない。「オレの見る限り、プロデューサーとしてのトッドが持っている最大の強味のひとつはイコライジングだ。アンプやあんたの口やドラムから出てくる音をどう仕上げるか。オレはすごく気に入ってる。自分がスタジオで、バンドと一緒にやってるような気分にしてくれるんだ。オレたちの演奏のイカれっぷりを捕らえながら、それぞれの楽器の音を聞き、どれも力強く聞こえるようにイコライジングしてくれるんだよ」

「たいていのプロデューサーは、完璧に聞こえるように仕上げようとする」とシルヴェインがつけ加える。「ありのままの姿を見せる代わりに、何回も何回もオケ録りをやらせたり、でなきゃ“ミックスで修理”したりするわけだ。でもそれはミュージシャンじゃなくてプロデューサーの自己満足だし、そのせいで失われてしまうものもあると思うんだ。トッドはステージのバンドそっくりな音をつくってくれた。彼はジョニー・テンダースを右に、そしてオレを左に配置した。で、これが何年もキッズの語りぐさになって、そこからラモーンズセックス・ピストルズ、そしてパンク・シーン全体がスタートしたんだよ」

新生グランド・ファンク

[マーク・ファーナー談]

「オレはディーンディディッっていう展開部のギターのフレーズを追加した(略)

カウベルを使ったドラムのイントロも、オレが提案したようなもんだ『マウンテンの〈ミシシッピ・クイーン〉やストーンズの〈ホンキー・トンク・ウィメン〉みたいにカウベルを前に出したら、最高のイントロになるんじゃないか』と言ったんだよ。カウベルでスタートしたら、それだけでまちがいなくヒットするぞって」

 この曲を、彼らが求めてやまないナンバー1ヒットに磨き上げてくれるプロデューサーは、最初からリン・ゴールドスミスの身近にいた。(略)

「わたしは[トッドの仲間の]ラルフ・シュミットと一緒に曲を書いていたの」

(略)

「基本的にバンドを新生グランド・ファンクとして、新たに売り出したいということだった」とトッドは振り返る。「それまでは悪名ばかり高くて、あまり評価されているとはいいがたいバンドだったからね。プロデュースはずっとテリー・ナイトが一手に引き受けていたけれど、残念ながら彼はプロデュースのことをなにひとつ知らなかったらしい。たぶんリンは、どうせバンドを変身させるんだったら、ぼくぐらい変幻自在なプロデューサーに任せたほうがいいと考えたんだろう」

(略)

 トッドのようなハイセンスなミュージシャンが中西部の泥臭いロック・バンドに関心を持ってくれるかどうか、心もとなく思っていたゴールドスミスは、とりあえず金銭的な面で、できるだけ魅力的な話を持ちかけることにした。

(略)

前払金として、アルバートグロスマンはすかさず五万ドルをキャピトル・レコードから確保した。一九七三年としては記録破りの額で、これによりトッドは実質的に世界でいちばんギャラの高いプロデューサーとなる。

(略)

 スワンプに足を踏み入れたトッドは、即座に胸をなで下ろした。バンドが「自分たちの音楽に妙なこだわりを持たない、冗談のわかる、友好的な中西部の職人ミュージシャン」だったからだ。「彼らはみんな、ボブ・シーガーのような男たちと共演し、カヴァーばかりのライヴを何度となくこなしていた。そうやって鍛えられていたんだ。ミシガンはかっこつけたりするよりも、まず腕を磨けという感じの場所だった」

(略)

 レコーディングに関しては、音のパレットを広げるために、とくにギタリストのマーク・ファーナーと深く話し合った。「マークはじゅうぶんイケてるギタリストだけど(略)やたらと耳障りなトーンにこだわってるみたいだったので、そこから離れさせようとしたんだ」

(略)

バンドがまだアルバムのレコーディングをつづける中、〈アメリカン・バンド〉は初登場でチャートのトップ20入りを果たした。

(略)

[その時の]気持ちを、マーク・ファーナーは「帆がいっぱいに風を受けているような感じだった」とふり返る。「あれでみんなが、オレたちのレコードを待ってるって実感できたんだ」

 ドン・ブルーワーのリード・ヴォーカルも、バンドの新たな方向性を示す指針となった。(略)

 トッドはブルーワーの声を、当時愛用していたクーパー・タイム・キューブという機材が生みだす独特のルーム・エコーとともにレコーディングした。(略)

[スーツケースぐらいクーパー・ボックスの]中ではものすごく長いプラスティックのチューブがぐるぐる巻きになっている。(略)

すごく広々とした部屋でうたってるような効果を出す以外にも、手軽に声を二重にすることができたんで、オケの中で声を目立たせたいときに重宝した」

 「いやマジで」とブルーワーも同意する。「トッドは全部にあの仕掛けを使ってた。そうするとヘッドホンで聞く音が、すごくでかくてがっしりしてくるんだ。うたってるときからオレの声にはそのエフェクトがかかってた。

(略)

レコード購買層はグランド・ファンクを「新しい耳で」再発見することになった。「ドンはマークよりもストレートなロック声の持ち主だったし、実のところラジオにも合っていた。

《輝くグランド・ファンク》、〈ロコモーション〉

アルバムは、《アメリカン・バンド》がチャートから沈みはじめた時点ですでに、《輝くグランド・ファンク(Shinin'On)》と命名されていた。(略)

 たしかにセッションはなごやかに進んだかもしれない。しかしドン・ブルーワーとファーナーはともに、ずっと暗いムードがつきまとっていたと証言する。「《アメリカン・バンド》のヒット以降(略)バンドの内にも外にも、人が変わっていくやつがいたんだ」

 「なんだか重苦しい雰囲気だった」とファーナーがつけ加える。

(略)

事前にゴールドスミスから受けた、バンドを明るくしてやってほしいという要請を思い出したトッドは、アルバムのヘヴィさを埋め合わせてくれる、楽しい曲を求めて耳をそばだてた。

 セッションに入ったころ、トッドとバンドはついにその曲を見つけ出した。その瞬間をドン・ブルーワーはこうふり返る。「夜はだいたい六時ごろ、いったん休憩して晩飯を食っていた。それから七時にまた仕事に戻る。するとたまたまその晩は、マークがこの歌をうたいながら、晩飯から戻ってきた」

「『みんな踊ってる最新のダンス!』ってうたいながら、スタジオのドアをくぐったんだ」とファーナー。「すると先に来ていたクレイグとドニーが、バックグラウンドのパートをうたいだした。『カモン、ベイビー、踊ろうぜロコ・モーション』。最初はけっこう笑える冗談って感じだった。だってそうだろ? グランド・ファンクがうたう〈ロコモーション〉なんて、いくらなんでも馬鹿馬鹿しすぎるじゃないか」

 しかしトッドの耳には馬鹿馬鹿しく聞こえなかった。この騒ぎを耳にした彼は、満面の笑みを浮かべてコントロール・ルームを飛び出し、もしかするとこのリトル・エヴァの名作こそ、彼らの探し求めていた楽しいシングル曲かもしれない、と強い口調で訴えた。「ちょっとひねった感じもしたし(笑)。レイルロードの名で知られてたバンドが、〈ロコ・モーション〉をうたうわけだからね。ぜひともやるべきだと思ったんで、すぐさま作業に取りかかった。基本的に彼らは、ぼくのやりたいようにやらせてくれたよ」

(略)

 トッドはブルーワーのリード・ヴォーカル、それにミックス全体のかなりな部分を、今一度、頼りになるクーパー・タイム・キューブに強く押しこみ、騒々しい掛け合いのコーラスには、バンドともども参加した。「全員がマイクを囲んで立ち」とブルーワー。「トッドは超高音のファルセットをうたった。あのバックグラウンド・ヴォーカルは何度も重ねられ、とにかく積み上げられるだけ積み上げられた」

 リズム・セクションを補強するために、トッドはフロストに最新型のミニ・モーグバリトン・サックスを模したシンセサイザー・パッチをつくってくれと依頼した。「まだ手に入れたばっかりで」とフロスト。「弾き方なんてなにひとつ知りやしない。それどころか、スイッチを入れるのがやっとという状態だった。するとトッドがいきなりつまみをつかんで、『よし、ここだ!』と言ってくれたんだ。ある面、あの曲はそのおかげでできあがったと言っていい。家のスピーカーで聞くと、うなり声のような音が今にも飛び出してきそうな感じがするからね。しかもファーナーがギター・ソロを弾く度になると、トッドはあの舞い上がって急降下する、独特なサウンドを彼のためにつくりだしたんだ」

 〈ロコ・モーション〉の風変わりなギター・ソロは、ファーナーによる手練のギターと、トッドがたくみにあやつるテープ・ディレイ・ユニットの両方がつくりだしたものだった。「あのワイルドなサウンドは、あとでミックスに入れたと思ってる人が多いけど」とファーナーは説明する。「実際には全部が一発録りだった。[電機メーカーの]リトライツにいた友だちのジム・ファカートが、オレの使っていたエコープレックス・テープ・ディレイの配線をやり直してくれてね。そいつのテープループにはちっちゃなスライド・ヘッドがついていた。だからいよいよソロを弾くってときになると、トッドはそのノブをつかんで『ようし、弾いてくれ』と指示を出した。そしてオレが弾いてるあいだ中、そいつをいじり倒してたんだ。思いっきり上げたり下げたりして、おかげでギターが自分を食ってるようなサウンドになったんだよ」

次回に続く。