トッド・ラングレンのスタジオ黄金狂時代 その3 ホール&オーツ

前回の続き。

ホール&オーツ《ウォー・ベイビーズ》

 中にはホール&オーツが早々とアトランティックを去ることになったのは(略)プロデューサーにトッド・ラングレンを起用するという、彼らの決断が一因になっていたとする見方もある。(略)

アトランティックが望んでいたのは、売れ線の曲で埋めつくされたヒット狙いのアルバムだった。

「だからどうした?」とトッドは反論する。「レーベルの希望なんて知ったことじゃなかった(略)アーティストは自由であるべきだという考えがあの時代の主流だったから、ホール&オーツもそういう風潮に乗っただけだと思う。(略)

《ウォー・ベイビーズ》がまるで売れなかったせいで、あのふたりは深く傷つき、ダリルなんて長いあいだ、あのアルバムじゃいっさい曲を書いていないような顔をしていた。あんなに売れ線じゃないレコードをつくってしまったのは、もっぱらぼくが悪影響を与えたせいだというレーベル側のでっち上げに、ある程度まで乗っかろうとしていたんだ」

(略)

三五年が経過した二〇〇九年六月のダリル・ホールは、どうやら《ウォー・ベイビーズ》に対する評価を改めたらしかった。「ぼくにとって(略)《ウォー・ベイビーズ》はある意味、はじめてのソロ・アルバムだった。ジョンとぼくは一緒に育ち、もう何年か一緒に仕事もしていたけれど、ふたりのあいだにはつねに、ぼくらは別個のアーティストで、それがたまたま組んでいるだけだという共通認識があったんだ。《ホール・オーツ》は、デビュー前に書きためていた曲を集めただけの典型的な“ファースト・アルバム”だった。で、その次につくった《アバンダンド・ランチョネット》は、ぼくに言わせると、一〇〇パーセント、ダリルとジョンのアルバムだったと思う」

 一方でジョン・オーツは、《ウォー・ベイビーズ》はソ口作品だったというホールの意見に異を唱える。「彼の話はよく意味がわからないな。ぼくらはそれ以前にアトランティックでつくった二枚のアルバム――どっちもすごく“シンガー・ソングライター”っぽい“アコースティック”なスタイルだった――とは違う、新しい側面をつけ加えてくれるパートナーを探していたんだ。[プロデューサーとしての]トッドが持つ最大の強味は、あのユニークなパーソナリティとギター・プレイだろう」

(略)

ニューヨークに拠点を移してからは、ふたりの差異が明確になってきたとホールはつけ加える。「ジョンとぼくはニューヨークに対して、少しだけ通う反応を示した。(略)

たしかにぼくはジョン・ケージとか、それ以外の前衛的な音楽にも本気で入れこんでいた。でもそれよりもまず、やたらと神経を刺激する街のサウンドに、すっかり魅了されていたんだ。(略)その結果、ぼくの書く曲はよりダイナミックである種、耳障りなものになった。そのフィーリングとそうやって生まれた新曲が、《ウォー・ベイビーズ》のはじまりだったんだ」

(略)

 ふたりは《サムシング/エニシング?》のレンジの広さに感銘を受け、とりわけ《魔法使いは真実のスター》の“ソウル・メドレー”に瞠目していた。

(略)

[共演したユートピアには]当時のホールが愛聴していた(略)キング・クリムゾンと似通ったところがあった。

(略)

 トッドによると、ギターと音の質感以外で彼の影響が大きかった分野は、ヴォーカルのフレージングと曲のアレンジだった。(略)

「あのアルバムまでの彼らは(略)ライチャス・ブラザーズのように、ハーモニーをいつもふたりだけの問題として考えていた。でもこのアルバムでのぼくらは、もっと奥深い、3パートのハーモニーを取り入れはじめ(略)もっとセクション的なとらえ方をするようにさせたんだ」

(略)

 ダリル・ホールとトッド・ラングレンのヴォーカル・スタイルの類似については、長年、さまざまに論じられてした。いずれのシンガーも、フィラデルフィアというルーツを共有することは認めつつ、この件に関しては、異なった見解をしている。「かならずしも、ぼくらがおたがいに大きな影響を与えているとは思わない」とトッドは主張する。「ぼくらは今も、ふたりが共通して影響を受けた偉大なソウル・シンガーたちを模倣しようとしているところなんだ。ぼくらよりずっとすばらしいシンガーたちをね」

 一方でホールは「ぼくはまちがいなくトッドに影響を与えている」とだけ口元をゆるめて断言する。

(略)

 ユートピアのラルフ・シュケットも、《ウォー・ベイビーズ》のセッションを機に、トッドの唱法が変わったことに気づいていた。「その前のツアーでは、ライヴのシンガーとしてはまだまだという感じだった。(略)でも[《ウォー・ベイビーズ》を]仕上げたとたん、いきなり最高にソウルフルなシンガーになっていたんだ。同年にユートピアのファースト・アルバムをレコーディングしたときも、その変化は顕著だった。

(略)

[三人は]デイヴィッド・ボウイにこぞって深く傾倒していたとホールは言う。「ボウイの影響は、あのころのぼくらの生活全般におよんでいた。(略)トッドなんて、ファッションもそっくりだったからね。ただし音楽をコピーするような真似はしなかった。単純に、彼のスタンスを評価していたんだ」

七枚目のソロ《誓いの明日》

[〈一般人の恋愛〉は]《サムシング/エニシング?》のよりポップでロマンティックなテーマに回帰しようとしているようにも聞こえるが、当の本人は、テーマは同じでも、アプローチはより知的になっていたと主張する。「ある時点でぼくは自分が人間関係や“愛”について書くのは、たいていの場合、単なる習性でしかないことに気づきはじめた。ソングライターというのはそういったことをテーマにするものだからだ。でもラヴ・ソングは実のところ、愛を描いたものじゃないことが多い。独占欲や性的な魅力といった、それ以外のなにかを描いているんだ。

 それでぼくは“愛”という言葉を曲の中で考えなしに使うのはやめよう、と決意した。そういう条件反射的な行為は意識的に排除しよう、とね。そのきわめつけが〈愛することの動詞〉だろう。この曲は実のところ、私小説的な作家のジレンマに切りこんでいるんだ。ぼくはそういった手法をどんどん排除していったし、基本的には交配の儀式をうたっている、いわゆるロマンテイックな歌も――ぼくにいわせれば、こびへつらいの歌だけど――なくしていった。だからその手のことを書かないとなると、もっとほかのテーマを探すしかなくなってくるんだよ」

ティーヴ・ヒレッジ《L》

[初ソロを自己プロデュースしたヒレッジは]

次のレコードには客観的な、それでいて自分に共鳴してくれる耳がほしいと思っていた。ユートピアとの近作をふくむ、トッドの音楽的アプローチに感銘を受けていた

(略)

ヒレッジとパートナーのミケット・ジローディーは、レイクヒルにあるトッド宅の敷地を散歩しながら、ニュー・アルバム《L》のレコーディングに備えた。

(略)

 ヒレッジのアーティスト性には敬意を払いつつも、トッドはこの英国人を奇人中の奇人と評し、「少しばかり狂気じみたところのある、風変わりで独特な男だった」といかにも好ましげにふり返る。「彼はホークウィンドとかゴンクとかの、平気で六時間ぐらいジャムりつづける、すごくヒッピーっぽいバンドの出身だった。たぶんぼくがやったレコードをいくつか聞いて、ぼくのことを同志のように感じていたんじゃないかな。ただし実際のぼくがレコードのぼくよりもずっと懐疑的で、皮肉っぽい男だということには気づいていなかったらしい。

(略)

 ヒレッジはヒレッジで、ぜひともトッドの「スタンプをレコードに」押してほしいと願っており、当時は自分のバンドがなかったため、バックにユートピアを起用したいという申し出をトッドから受けたときには、「ワクワクすると同時に、誇らしい気持ちになった」と言う。

(略)

 一方でトッドは、ヒレッジがどれだけ奇人じみていたとしても、音楽に関しては明確かつ明快で、それでいてプレイの「楽しさ」も決して忘れない男だったとふり返る。「長々とジャムるのが大好きなんだ。でも行き先を見失うようなことはなかったし、完成形に関しては、かなり確固としたイメージを持っていた。いろいろと変わった道具を使っていたし、用語も自己流でね。ナイフの柄のような古い銀器っぽい道具をギターにスライドさせたりしてたよ。

(略)

 「ミケットはスティーヴよりずっと背が高かった」とトッド。「でも声はすごくか細くて、きついフランス訛りで『変わってるわぁ』というのが口癖だった。なにを見ても『変わってるわぁ』だったけど、ぼくらからしたら、あのふたりのほうがよっぽど変わってたよ」

「ミケットは驚異的な波動の持ち主だ」とヒレッジ「彼女はぼくのパートナーであり、共作者であり、共謀者なんだ。シンセサイザー奏者でもあるけれど、《L》ではあまりプレイしていない。エレクトロニクス関係は、大部分ロジャー・パウエルが受け持っていたからだ。だがレコードからも彼女の存在ははっきりと感じ取れる。かなりの曲でヴォーカルを取っているし(略)

曲の選択にも深く関与しているからだ」

(略)

 大半の曲はセッション前に、自分とジローディーでアレンジを済ませていたと語るヒレッジだが、最終的なアレンジには、当然のように、とくにサウンド・デザインの面で、トッドの影があることも認めている。ヒレッジはとりわけ、まだ発売前だったトッドの真新しいイーブンタイド・ハーモナイザーを気に入り、〈イッツ・オール・トゥー・マッチ〉では、ドラムのミックスをまるごとこの機材に通した。

(略)

 トッドはまた、月がある位相に入っているときに限ってレコーディングをする(略)あるいはベッドを特定の方角に向けるといった、ヒレッジのこだわりもほほ笑ましく思っていた。「スティーヴは風水師の先駆けで」とトッドは笑う。「とにかく神秘的な男だった。ニュー・エイジっぽいしきたりをいろいろ守ったりしてね。スタジオのそばを流れる小川のほとりでふたりとも全裸になり、演奏する彼のとなりで彼女がヨガをやるなんてこともよくあったし」

(略)

トッドは、たしかに楽しいレコーディングではあったけれど、といって決して大きな反響を呼ぶようなアルバムではないだろう、と思っていた。「ところがそれがイギリスで、大絶賛を浴びたんだ」とトッド。「そしてそれまでの彼のレコードとは比較にならないほどのヒットを記録し、そのおかげで彼は何年も、スターの座に留まっていられたんだよ。

ミートローフ《地獄のロック・ライダー》

 一九七三年に『モア・ザン・ユー・ディザーヴ』というミュージカルを書いたジム・スタインマンは、その現場で[ミートローフに出会った]

(略)

《地獄のロック・ライター》が店頭に並んだのは(略)[《明日なき暴走》]の二年後だったため、多くの音楽家はスタインマンをなるスプリングスティーンの模倣者と見なしたが、ミートローフはそうした評価を、現在もいらだたしく思っているようだ。「ジミーは《地獄のロックライター》の曲を、《明日なき暴走》のずっと前に書き上げていた」と彼は主張する。

(略)

[スプリングスティーンのステージを観て]

『とにかくこっちに来てくれ。オレたちみたいなことをやってるやつがいる!』

[とスタインマンに電話したと、ミートローフ](略)

 「ブルースのやっていることには、すごく感銘を受けた。わたしに言えるのはそれだけだ」とスタインマン。「でもわたしには、自分の曲と彼の曲の違いもよくわかっていた。スプリングスティーンの曲はスコセッシの『ミーン・ストリート』のような赤裸々なリアリズムだが、わたしの曲はもっとフェリーニの『魂のジュリエット』に近い。もっとカラフルで幻想的なんだ」

 とはいえスプリングスティーンの成功は、スタインマンにとって、自分の壮大なミュージカル的アイデアをマス・マーケット化するためのひな形となった。(略)

[しかしレコード会社への売り込みはうまくいかず。ユートピアを脱退したムーギー・クリングマン経由でトッドに聞いてもらうことに]

トッドはひと言も口をきかず、ずっと曲に聞き入っていたとスタインマンはふり返る。「すると最後に立ち上がり、『で、なにが問題なんだ?このまますぐにレコーディングしよう』と言ってくれたんだ」

 「トッドは笑いながら聞いてたわ」とエレン・フォーリーがつけ加える。「最初から最後まで、とにかく大ウケにウケまくってた。でもその彼が、あのプロジェクトを救ってくれたのよ」

 スプリングスティーンとの疑いようのない類似性は認めつつも、スタインマンの音楽は、ユーモアの点で、ボスのひたむきなメロドラマとは一線を画していたとトッドは語る。「ジムの曲はとにかくコミカルの点でぶっ飛んでたから、パクりだとは思わなかった、それよりはもっと、パロディに近かったと思う」

 「オレたちの曲をすぐにわかってくれたのは、トッドだけだった」とミートローフがつけ加える。「彼はその場でジムと曲に関する打ち合わせをやりはじめた。

(略)

ここでレコーディングは新たな障害に突き当たる。それまで蚊帳の外に置かれていたトマト・レコードが、トッドの起用を知ったとたん、彼を解雇しないと《地獄》から手を引くと脅しをかけてきたのだ。(略)

なぜならあの会社はホール&オーツのアルバム《ウォー・ベイビーズ》を毛嫌いしていたからだ。

(略)

自分としてはあいだに入る以外に手がなかったとトッドはふり返る。「(略)アルバートのところに行って、『このレコードを最後までつくらせてくれ。そしたら最初の選択権はベアズヴィルのものだ』と言ったんだ。『もしベアズヴィルじゃ出せないということになったら、こっちで配給元を探して、経費の埋め合わせをするから』とね。

(略)

 「トッドがプロジェクトを引き継ぎ」とスタインマン。「ベアズヴィルを通じてレコーディングの経費を払ってくれたんだ。ある種、わたしたちを信じて賭けに打って出てくれたわけで、あらためて考えてみると、ほんとうに驚くべきことだったと思う。もしかすると彼はこのレコードのことを壮大な冗談だと思っていたのかもしれないが、だとすればなおのことありがたい話だろう。少なくともわたしたちは、レコーディングを再開することができたんだからね」

(略)

[ミックスが完成したが]ベアズヴィルが権利を親会社のワーナー・ブラザースに譲りたいと言いだした。(略)

[屈辱的なライヴ・オーディションを受けるもワーナーはリリースを見送り]

 およそ一〇万ドルから十五万ドルと言われるレコーディングの経費をすべて肩代わりしていたトッドは(略)支払いを待つことに同意した。

[だが三ヶ月経っても配給元は見つからず。スティーヴン・ヴァン・ザントがポポヴィッチに推薦したことで]

配給を受け持ったのは、皮肉にも、もっとも早い時期にリリースを断ったエピック・レコードだった。

《ミンク・ホロウの世捨て人》

 一九七七年におけるトッドの私生活は、控えめに言っても騒然としていた。ベベ・ビュエルとの関係は悪化し、ふたりは別居に入っていたが、この事態は彼女がおおっぴらにエアロスミスのリード・シンガー、スティーヴン・タイラーとくっついたり離れたりの関係をつづけていたせいで、なおのこと混迷化してしまう。しかも彼女はタイラーの子どもを前年の10月から身ごもっていた。

 娘のリヴが生まれたのは七月一日のことで、トッドとビュエルはその直前、せめてまもなく誕生する子どものためにと家庭生活の修復をはかった。しかしこのこころみは不首尾に終わり、九月にはビュエルが幼い娘を連れて家を出る。自分が生物学的な父親ではない「確固たる可能性」を認めつつも、トッドは娘の精神的な父親となることを決意するが、その一方で彼の生活には、カレン・ダーヴィンという新たな女性が登場しようとしていた。

(略)

そうした気持ちの乱れは、翌年のソロ・アルバム《ミンク・ホロウの世捨て人》で浮上する――謎めいたかたちでとはいえ――ことになる

(略)

[99年]トッドは、アルバム制作時における家庭内の問題を、包み隠さず語っている。(略)誰かが父親の役割を果たさないわけにはいかなかったので、自分がやることにしたと述べた。「それと同時に、ベベとは暮らしていけないこともはっきりしていた……というわけでぼくは、基本的に、名目上の父親になったんだ……リヴはメイン州で、ベベのいとこたちと一緒に育てられた(略)

ぼくの親父は八歳ぐらいで父親を亡くしたんだ。だから自分の子どもにどう接したらいいかわからなくて……子ども時代のぼくは、親父を憎んでいた。父親になるために必要な教育を受ける機会をすべて奪われていたのに、ぼくにはそれが理解できなかった。だからぼくは、そういったサイクルを断ち切りたいと思って育った。ぼくが親父に味わわされたような気持ちを、子どもには絶対味わわせたくなかったんだ」

 ミンク・ホロウ・ロードの家にひとり残されたトッドは、ありあまる時間と孤独を利用して、長年にわたるニューエイジ研究を実行に移した。

(略)

ぼくは長い時間をかけて、どうして自分の人生はこうなってしまったのかと考えた。本当はどういう風にしたいのか? そうするためにはなにをしなきゃならないのか?

(略)

トッドはひとりきりで音の洞穴に引きこもった「スタジオの世捨て人」の暮らしを送っていた。

 「アイデアを思いついたら、朝の三時でも起きだして(略)そのまま下で仕事をはじめることができた。(略)

ぼくは外部と遮断された、二四時間営業のちっちゃなシンク・タンクにいた。誰にも邪魔されないし、誰とも会わない日が何日もつづくこともあった。

(略)

ひとりでレコーディングをするいちばんの難点は、演奏用のフロアとロフトのコントロール・ルームを行ったり来たりすることだった。「エンジニアも全部自分でやるとなると、ちょっとめんどくさいことになってくる。テレコを切ったり入れたりしようとするたびに、階段を上り下りしなきゃならないからね。

(略)

ピアノのパートを三分の二まで弾いたところでしくじってしまい、仕方なくほかのトラックを開けて、失敗したところから弾きなおし、あとで全部一緒に編集することもあった。梯子を下りてピアノのところに行くまで、だいたい二、三〇秒はかかる。だからテープの余白を多めに取って、もちろん、あとでカットしていた。

(略)

 生テープを節約するために、トッドは一本のリールにできるだけ多くのテイクをつめこんだ、アウトテイクを保存することは滅多になく、たいていはその上にレコーディングしていた。「だから最終的には(略)一本のリールに、紙のリーダーをあいだに挟んで、次々に曲を入れていくことになったんだ。それとテープを自動で巻き戻すと、行きすぎて前のテイクにかぶってしまうのが怖くてしょうがなかったので、とりあえず自分を安心させるために、ぼくはいつも階段を上って、この目でテープをチェックするようにしていた」

(略)

たいていは全部頭の中でカウントを取っていたけれど、オーヴァーヘッドのマイクだけを抜き出したら、ときどきハミングしてるのが聞こえるかもしれないな。

(略)

ドラムをひとりでやっていてつらいのは、[曲が]先に進めば進むほど、しくじったときのツケが大きくなることだ。(略)そりゃちょっとは走ったり、もたったりすることもあるさ。でもそれが“オーガニック”なプレイというもんだろ、違うかい?」

(略)

 大半の曲は実際のセッションに先立って構成が考えられていたが、レコーディングを進めながらオケを「でっちあげる」ことも多かったとトッドは言う。「《サムシング/エニシング?》以降のレコードは、全部そんな感じだった。オケが完成してからじゃないと、歌詞に本腰を入れる気になれないんだ。サウンドやアレンジのアイデアはあるけれど、漠然としか決まってないし、歌詞も実際にうたうときが来るまでは、まったくついていないことが多い。それからオケに乗せてうたいだし、それにあったメロディを探す。その段階でようやく、歌詞が生まれてくるんだよ」

 この時もまた、マリファナが自分の知性を回避し、物事の核心に行き着くためのまたとない経路になってくれたとトッドはふり返る。「それがないと歌詞が書けなかったと言いたいわけじゃない。でもそのおかげで歌詞を書く作業が、格段に自動筆記に近づいた。さもないと、つまり考えすぎてしまうと、その結果にはたいていの場合、不満が残ってしまう。歌詞を見ただけで、作為が伝わってきたりするんだよ」

 トッド・ラングレンの数あるアルバムの中でも、《ミンク・ホロウの世捨て人》は、しばしばジョニ・ミッチェルの《ブルー》やボブ・ディランの《血の轍》のような私小説的といわれる作品と比較されてきた。しかし(略)

純粋な意味での自伝的な作品ではないとトッドは主張する。

次回に続く。