トッド・ラングレンのスタジオ黄金狂時代

ナッズ誕生、レコーディングを学ぶ

 一九六七年に結成されたナッズは、ビートルズに対するアメリカからの解答になりたいというトッドの願望から生まれたバンドで、地元フィリーのヴォーカル・ハーモニーと、トレンディなUKポップの“派手やかさ”、そしてザ・フーヤードバーズのようなよりヘヴィなバンドの興奮を併せもっていた。

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トッドが関心を持っていたのはライヴよりもレコーディング活動だったので、彼は喜んで生まれたばかりのナッズを保育器に入れ、オリジナルのレパートリーを固めていった。しかし曲づくりを進めるうち

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「(略)ローラの音楽を発見したんだ」とトッドは語る。「メジャー・セヴンスのコードとか、オーギュメントやサスペンドのヴァリエーションは全部彼女の影響だよ。とくにピアノで曲を書くときは、四音のコードのほうが、ずっと響きがよく聞こえたんだ。でも曲を書いてる途中で、『ローラ・ニーロみたいにしたい』なんて考えることはない。あの当時のぼくはそれよりも、自分らしいサウンドを懸命に探していた」

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一九六八年、バンドはようやくアトランティックの子会社、SGC (スクリーン・ジェムズ・コロンビア)と契約し、デビュー・アルバムをレコーディングするためにLAに飛んだ。スタジオはIDサウンド、またの名をアイヴァン・デイヴィッド・サウンドという狭苦しいスタジオで、サンセットにほど近いラブレアに建っていた。とうとうレコードがつくれると身震いするような気分だったトッドは、その手順のすべてを学ぶ気まんまんでスタジオに入った。

 「その時点では、プロデュースのことなんてなにひとつ知らなかった」と彼は言う。

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ぼくらはイギリス人のプロデューサーを希望していた。イギリスっぽい音のレコードにしたかったからさ。ぼくらが希望したのはジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのレコードをプロデュースしたマイク・ヴァーノン、いや、実際にはエンジニアのガス・ダッジョンに来てほしかったのかもしれない。プロデューサーの仕事はたいていの場合、セッションをきっちり終わらせることだってことに、当時のぼくらは気づいてなかったからね。とにかくサウンド第一で、「なんであのレコードはあんなに音がいいんだろう?」ということしか考えてなかった。でもそれはもしかすると、エンジニアの腕だったかもしれないんだ!ほんとならプロデューサーじゃなくて、エディ・クレイマーみたいな男を探すべきだったんだよ」

 残念ながらイギリス人は見つからず、彼らはシャドウズ・オブ・ザ・ナイト、カウント・ファイヴ、H・P・ラヴクラフトらのレコードをプロデュースしていたビル・トラウトで妥協した。

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「古いタイプのプロデューサーで(略)セッションを長引かせないようにすることしか考えてない。それだけが仕事なんだよ。(略)ぼくらがレコーディングをしていたときも、彼はコントロール・ルームでずっと業界誌を読んでいた」

 トラウトはほとんど家にいない父親のような存在だったため、トッド・ラングレンはこの機を捕らえ、プロデュースの技術を実地で覚えながら、レコーディングに自分好みの色をつけていった。(略)

プロデューサーはミックスを一日か二日でチャッチャッと終え、そのままとっとといなくなった。それで『もうあいつはいない。だったらこの隙にミックスをやり直して、もっとオレたち好みのサウンドにしてやろう』と考えたんだ。エンジニアはぼくらが卓に触ってノブとかをいろいろいじりはじめても、ぜんぜん文句を言わなかった」

 コンソールを自由に使わせてもらったトッドは、周波数制御の世界をはじめて経験した。以前からテクノロジーと音楽に魅了されていた彼は、レコーディングの意味をさらに深く掘り下げることになった。「当時のコンソールは(略)可変パラメトリックイコライザーもついてなかった。ぼくは実際にノブを回して、音が変化するのを経験するまで、コンソールがなんの役に立つのか、これっぽっちもわかっていなかった。

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 スタジオで「イコライザーをいじくった」おかげで、楽器の組み合わせと音質との関係がより明確に理解できるようになった

ベアズヴィル・スタジオ、ザ・バンド

[アルバートグロスマンは]ウッドストックの近郊に、ベアズヴィル・スタジオを建てたばかりだった。(略)

グロスマンはマイケル・フリードマンに新スタジオとレーベルのスタッフ探しを任せていた

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「最初はトッドのことを気に入ってなかったし、才能があるとも思っていなかった」とフリードマン(略)「でもわたしはトッドをよく知っていたし、彼のことは基本的にプロデューサーとして推薦した。あのころからもう、スタジオでは光っていたからね」

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「最初にレコード・プロデューサーになったとき」とトッド。「思ったんだ、『もうステージとはおさらばして、この仕事一本で行こう』とね。

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[ザ・バンドウッドストックで迷惑をかけた地元住民のためにフリー・コンサートをやりレコーディングして『ステージ・フライト』にするつもりだったが、断られたので、ウッドストック・プレイハウスをそのまま使い、無観客で録音することに。エンジニアとして参加したトッドが、自分にとってかわろうとしているのではとジョン・サイモンは脅威を感じ]

メンバーの中にも、トッドを嫌っているやつがいたからだ。とりあえずリック[ダンコ]はそうだった。あとリチャード[マニュエル]はどうでもいいという感じだったし、ガースはひたすら自分の世界に入りこんでいた。だから雰囲気が落ち着くまでには、しばらく時間が必要だったね」

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[トッドも]行き当たりばったりののんびりしたペースは、多くの場合、水に油だったと認めている。「なにを決めるにも、全員で相談するんだ。おかげでレコーディングは永遠に終わらないし、とくにミキシングがはじまるとひどかった。一応はリハーサルをして来るんだけど、全員の気持ちをひとつにして演奏させるのが、とにかくひと仕事でね。(略)

トッドがいようといまいと、当時のザ・バンドには暗雲が立ちこめていたとロバートスンはふり返る。「とにかく気を逸らされることが多すぎたし、ドラッグの実験も盛大に進行中だった。あと、これが三枚目のアルバムだというプレッシャーもあった。(略)

トッドはけっこうやんちゃなタイプだから、ガース・ハドスン流の音楽づくりにはかなり長いこと馴染めなくて、「このおっさん、どっか悪いのか?」って感じだった。

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 「まる一日かけて」とトッド。「やるのはせいぜい10テイクかそこら。リヴォンはときどき舞台に積んであった幕の下で寝入ってしまって、そうなると誰にも見つからなかった」

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 リヴォン・ヘルムとトッドのあいだで高まりつつあった緊張が、ある日、ついに頂点に達した。(略)ガース・ハドスンのことをうっかり老いぼれ呼ばわりしてしまったせいで、ヘルムがドラム・スティックを手に彼を追いかけ回したという話がまことしやかに伝わっている。「たしかに追跡劇はあった」と語るロバートスン

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 一方でトッドは記憶にないが、じゅうぶんありうる話だと結論づけた。「たしかに」と彼は笑う。「ガースはちょっと、サンタクロースみたいなルックスだったからね。でもそれ以上に問題だったのは、彼のナルコレプシーだ。おかげであまりテイクが録れなくて……ガースはすぐにうとうとしはじめるんだよ。だからいつも『起こすべきか? それとも寝かせておくべきか?』と思い悩んでいた」

 トッドをクビから救ったのは、メンバーで唯一彼を支持するロバートスンだった。

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 「あの劇場でベーシック・トラックを録る作業は」とトッド。「正直、けっこう退屈だった。ベアズヴィル・スタジオで録ってもよかったんだけど、あそこはまだ完成していなかったからね。録音が終わったあとで、録音車の機材を全部、ベアズヴィルのスタジオBに移設したんだ」

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ウッドストック・プレイハウスの雰囲気は、ボブ・ディランの親友(略)ボブ・ニューワースが訪問したことで、一時的とはいえ活気づいた。(略)彼が先ごろ書店で出会い、その詩作に多大な感銘を受けたという内気な若い女性がつきそっていた。その女性の名前はパティ・スミスといった。

(略)

[パティ談]

たしか〈メディスン・マン〉をやっていたと思うんだけど、ボビーはブラブラしていたほかのミュージシャンたちとしゃべりに行ってしまって、その時作業していたのは、トッドとロビーのふたりだけだった」

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「当時のわたしはマリファナもなにもやってなかったし、トッドも少なくともあのころは、ドラッグにまるで無関心だった。彼の仕事ぶりを見ているのは楽しかったし、夜がふけていくうちに、少しずつ言葉を交わすようになって、共通のルーツがあることがわかったの。わたしの祖父母は、彼が生まれ育ったペンシルヴェニアのアッパーダービー出身だったのよ。彼は優しかったし、とてもきれいな顔をしていた。そしてわたしたちはふたりとも、はぐれ者タイプだった。“壁の花”と言ってもいいわ。彼はあそこにいた人たちの、だれともフィットしていなかった。我が道を行くタイプだったし。わたしたちはどっちも人見知りなほうなんだけど、あの晩は朝までずっとしゃべりどおしだったわ」

 ロバートスンに言わせると、トッドが《ステージ・フライト》に果たした最大の貢献は、キャリアのむずかしい時期にさしかかっていたザ・バンドの姿をありのままに捕らえたことだった。「トッドはいわば、音のポラロイドを撮っていたわけだ。

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舞台裏の状況が、そのまま音に出ているんだ。このレコードにごまかしはいっさいない」

 だがロバートスンの賞賛にもかかわらず、ザ・バンドは《ステージ・フライト》の最終的なミックスを、トッドだけでなく、イギリスの高名なプロデューサー、グリン・ジョンズにも依頼した。

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トッドがウッドストックでやった初期のミックスは、ちょっと場当たり的すぎるというのが全員の共通した意見だった。それでもっと上手い、プロっぽいミックスが必要だということになったんだ」

 トッドによると、それは一部にベアズヴィルのコントロール・ルームがまだ使いこなされていなかったこと、そして一部にはレコードのサウンドについて、グループのコンセンサスができていなかったことが原因だった。「どういう音を鳴らすのか、まだ誰もよくわかっていないスピーカーでミキシングをしていたんだ。しかも『よし、これで決まりだ』と言える人間が、だれひとりいないという状況だった。けっきょくぼくがマスター・テープを持って、イギリスに飛ぶ羽目になって。グリン・ジョンズは自分がいちばん仕事をしやすい、お気に入りのスタジオをブッキングしていた。でもぼくにしてみれば、まるっきりなじみのないスタジオだ。トライデントかどこかだったと思うけど――しかもスピーカーはぼくの嫌いなタンノイでね」

 ふたりのエンジニアは別個に一リールずつミキシングをすすめ、終わるとリールを交換するというやり方で、それぞれにアルバムを完成させた。トッドはザ・バンドのもとに二セットのテープを持ち帰った(略)

 「最終的には」とロバートスン。「トッドのミックスも一部使ったけれど、全体としてはグリンのほうが曲をうまく捕らえているという意見が強かったので、彼のミックスが多くなっている。でも大部分のサウンドをプリントしたのはトッドだし、だから少なくともぼくに関するかぎり、違いは些細なものでしかなかったね」

 

 

ソロ・デビュー

火急の問題だったのは、ソロ・アーティストとしてのサウンドをどう確立するかということだった。(略)

「メロディはちゃんと取れたし、ナッズのセカンドでは何曲かでうたっていた。でも曲を最初から最後までうたいきるリード・シンガーになるには、別種のスタミナが必要だ。スタジオでは好きなだけテープを止めて、息を整えることができる。だからいちばん気をつけたのは、音を外さないようにすることだったし、当時はダイナミック・レンジもまだあまり広くなかった。結果として《ラント》の時のぼくは、基本的にほかのシンガーの真似をしていたし、独自の声と言えるものはまだなかったんだ」

 トッドは自分が決して根っからのパフォーマーではないと認め、ほかのアーティストをプロデュースするときと、自分自身のプロデュースをするときでは、アプローチに大きな違いがあると語る。「ほかの誰かをプロデュースするときは、あらかじめ大部分の曲を書き上げてきてもらうようにしている。スタジオに入ったら、すぐ演奏できるような状態でね。でも自分がアーティストの時は、もっとインタラクティヴなプロセスになる。つまりスタジオを、というかスタジオの役目を果たしてくれるもの(略)を、パフォーマンスの足しにしているんだ」

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「ぼくにとって、この仕事のポイントはアーティストに足りない部分を見極めることなんだ。たとえば曲や歌詞が足りなかったら、やむなくぼくが代わりに書き、クレジットはアーティストにやってしまうこともあるし(笑)。でも自分のレコードをつくるときは、あまりプロデューサーっぽく考えない。それよりは流れに任せる感じだね」

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「ひとりの作業は大部分が足し算の作業だ。(略)

バンドとの作業は引き算の作業で(略)みんなのアイデアを削っていって、いいものだけを残す。ひとりで曲づくりをするのは、ぼく個人の内的なプロセスだ。すごく基本的なリズム・パターンとかベースラインとかからはじめて、そこにいろんな要素を重ねていくうちに、やがてより完成されたサウンドに進化していく。これはいわゆる、試行錯誤じゃない。最初から、ある程度全体像は見えているからだ。でも具体的に歌詞がどういう内容になるか、わかっていることは滅多にないから、『これがコーラスで、これがヴァースだ』とはまだ言えない。音楽の中でさまよいながら、融合のきっかけになり、行き先を教えてくれるなにかが生まれてくるのを待っているんだ」

キラキラしたサウンド

[ジェイムズ・ロウ談]

わたしがトッドとやったほぼすべての仕事に共通する特徴は、どの音もすごく高音域を強調したEQがかけてあることだろう。よそで人に聞かせると、よく『このレコード、どうしちゃったんだ?』と言われたものだよ。すごくキラキラしたサウンドだったからだ。アナログ・テープの時代には、最終的なミックスをマスタリングに持っていくと、ディスクに移す段階で、音の活力がかなり削がれてしまった。そしてそれをラジオで放送すると、さらにエッジのない、くぐもった音になっていた。だからトッドは全部をブライトでキラキラした音にすることで、その埋め合わせをしようと考えたんだ。低音域をあまり上げなかったのは、ちょっとこっちのツメが甘かったかもしれないが。ベースのトラックはあったけれど、さほどファットなサウンドじゃなかった。全部がブライトでキラキラしてたから、そういう風にすると合わなくなってしまうんだよ」

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トッドはすぐさま、バックグラウンド・ヴォーカル用に自分の声を何重にも重ねる技をマスターした。「その手の作業はコントロール・ルームでやった」とロウはふり返る。「中まで引っぱってきたノイマンのU87か67を――ディスクリート回路を使ったマイクで、当時のトッドにはまさに打ってつけだった――コンソールからぶら下げてね。トッドは座ったままバッキング・ヴォーカルをうたい、時にはなにも聞こえないんじゃないかと思えるぐらいソフトなうたい方をした。でも四つのトラックを合体させて再生すると、それはもうみごとなハーモニーに仕上がっている。何年もたって、スタジオでケニー・ロジャーズと顔を合わせたとき、トッドと一緒にレコードをつくった話をしたら、「あの男は史上最高のバックグラウンド・ヴォーカリストだぜ」と言われたよ」

マリファナの影響

 〈ウィ・ガッタ・ゲット・ユー・ア・ウーマン〉が予想外のヒットを記録したおかげで、トッド・ラングレンはアーティストとしてもプロデューサーとしても大きく名を上げ、内面的にも外面的にも劇的な変化を遂げた。中でも注目すべきなのは、それまでドラッグとは無縁だったトッドが、二枚目のソロ・アルバムのレコーディングを開始するころには、マリファナで定期的に精神を変容させるようになっていたことだろう。「二〇代のはじめまでは」と彼。「完全な禁酒主義者だった。ドラッグはもちろん、酒もぜんぜん飲まなかった。ハイになった同年代の連中を見ていても、なんだかピンと来なかったし」

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 しかし《ラント》のリリースの直後[幼なじみに勧められマリファナ初体験]

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ドラッグの影響についていうと、ぼくの場合は楽しめた。でも同時に時間や空間や秩序に対する感じ方がぜんぜん変わってきた。そしてそれが《バラッド・オブ・トッド・ラングレン》の曲づくりにも、大きく影響をおよぼしてきたんだ。

 マリファナを吸ったおかげで、自分の頭が言っていることを、もっとはっきり聞けるようになった。自分自身の思考プロセスを客観化して、ある意味、内面化できるようになったんだ。ぼくは音楽的なアイデアに合わせただけの歌詞じゃなく、もっと自分が知っていることについて書きはじめた。曲づくりに関する限り、マリファナは、皮肉にもぼくの集中力を高めてくれた。マリファナをやると頭がとっちらかると思っている人が多いけど、もともととっちらかった頭の持ち主には、どうやら逆の効果があるらしい」

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依然、ローラ・ニーロの影響は感じさせたものの、今回のトッドは、単に彼女のスタイルを模倣するだけでは地き足らなかった。「最初の山を越えてわかったんだ。『本気でうたうつもりになら、自分の声でうたわなきゃダメだ』って。ぼくはもう少し自分のスタイルに合った曲を書くように心がけた。といってもまだ、シンガーとしては力不足だったけど」

 ピアノでの曲づくりを通じて、音楽的には新たな高みに達したとトッドは自負していた。「ピアノは独学だ。だからテクニック的には大したことはできない。むしろ作曲のための道具だと思っていたから、達人的なプレイヤーになることには興味がなかった。ぼくのピアノに関しては、『独特なヴォイシング』という言葉がよく使われるけど、その大半はピアノに置いた手が、たまたまそういうかたちになっていただけなんだ。ぼくはあまりアルペジオを弾かないけど、それは最小限の装飾音だけで、曲が引き立つコード進行を探すことのほうに興味があったからさ」

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「基本的な構成とコード進行ができたら、もういつでもオケが録れる。歌詞はいつもオケを録ってから書くんだけど、プレイする人間にとっては、それが問題になることもある。なにせ、ぼくがうたおうとしていることに、自分たちのプレイがうまく合っているのかどうかわからないわけだからね。それでいいんだというぼくの言葉を信じるしかないんだ」

 シンガーとしての力と限界を多少なりとも知ったことが、曲づくりにも役立った。ベーシック・トラックはごく短時間で「やっつけた」と彼はふり返る。「ベーシック・トラックを全部一か所で録ったのは、あのアルバムがはじめてだった。バッキング・ヴォーカルはかなりの部分、ベアズヴィルに戻って録ったけど」

《バラッド・オブ・トッド・ラングレン》、パティ・スミス

評論家の評価はまちまちだったが、その中ではニューヨークの新しい友人、パティ・スミスの手になる絶賛のレヴューがとくに水際だっていた(彼女は詩作の資金を調達するために、「クリーム」や「ローリング・ストーン」のようなロック雑誌に、詩的なレコード評を寄稿していた)。

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 「わたしは彼のサポーターだった」と今日のスミスは語る。「それは彼がなによりもまず、とても興味深い存在だったからよ。いつもちょっとだけ外側にいて、先に進んでいた――時にはわたしですら、まごつくこともあったけれど、同時にとてもとっつきやすかった。誰かが彼に影響されたり、彼からいただいたりしたときは、すぐにそれとわかったし」

次回に続く。