建築史的モンダイ その2

建築史的モンダイ (ちくま新書)

建築史的モンダイ (ちくま新書)

  • 作者:藤森 照信
  • 発売日: 2008/09/01
  • メディア: 新書
 

茶室は世界にも稀な建築類型である

 現在につながる茶は(略)鎌倉時代禅宗の僧たちが中国から入れた。(略)

今日の茶道からみると、ずいぶん無骨で、簡単で、いってしまえばただグイと飲むだけ。

 ビタミンCの補給とか、眠気ざましとか、覚醒作用とかが期待されたのだろう。

(略)

精神的、文化的なエリートの習いとして喫茶ははじめて日本に定着したのである。

(略)

彼らの赤子のようにナイーブな肉体と脳神経細胞にとって、覚醒剤そのものであったにちがいない。喫るとえらくハイになることができた。(略)

 そんな薬効顕かなるブツを、時代の遊び人たちが放っておくわけがない。

 その名も「バサラ大名」たちである。

(略)

 仲間が集り、茶を飲むのだが、ただ飲んでもつまらないから、出された茶の産地を当てて楽しむ。産地当てだけではつまらないから賭けをする。バクチとしての茶にほかならない。当時、これを闘茶と呼んだ。(略)

美術品それも舶来の超高級美術品を賭ける。

 バサラ大名として名高いのは佐々木道誉(高氏)で、道誉は派手なファッションをまとって都大路をのし歩き、朝廷に対しては乱暴狼藉の限りを尽くしているが、同時に和歌、連歌に秀でる当代一の文化人でもあった。歌だけでなく絵画や陶磁器にも目が利き、明国から続々と入ってくる唐物と呼ばれた美術品を買い付け、自慢していた。

(略)

会所と呼ばれる部屋で、闘茶は行われていた。(略)

南の庭に面して設けられ、三間四方の九坪を基本とする。これを九間[ここのま]と言う。

(略)

[もうひとつの別の場所が]

文学性と精神性を求める隠者たちや世捨て人たちが都の郊外に建てて住んだ草庵である。(略)

四畳半の囲炉裏で湯を沸かし自分で茶を点てて喫んだ。

(略)

日本の家のなかに、まず九間が出現し、ついで四畳半が取り込まれた。

(略)

やがて、会所で行われていた闘茶の時代が終り、茶は賭け事でなくなり、ふつうの文化的楽しみとして茶会(茶寄合とよばれた)が開かれるようになる。

(略)

九間の会所にはじまった茶の空間は四畳半の茶室に行きついた。

(略)

会所の茶会での闘茶と草庵の一人茶が合流した。少数の客を招き、主人が茶を点てて深く味わいながら、道具と書画を鑑賞する。寂びた文学性と精神性は草庵から、芸術鑑賞と茶の深い味わいは闘茶から

(略)

四畳半は、中心に火を置くと、四人が入ることができる。火の周りに四人が座す。起きて半畳寝て一畳。四人が寝そべることもできる。四角形の中に四つの起臥が納まる。

(略)

[会所では]使用人が別室で点てて運び、給仕した。

(略)

草庵は独居だから、囲炉裏の前に座って自分で点てて自分で喫むしかない。道具の選択も、室内のしつらいもすべて自分でやる。そして、そこにたまに親しい友が訪れるとなると、友の顔を思い浮べて茶碗を選び、花を切り、軸を掛け、とっておきの茶を出して、歓待する。心から歓待する。

 こうした草庵の一人茶のあり方が、四畳半の茶室にも導入された。招く側と招かれる側ははっきり分れており、亭主は一人、客は一人もしくは数人。茶の空間は一人の亭主が設定した世界であり、少数の客はそこに入って亭主の世界を味わう。

茶室における炉の存在とは

[茶室開きをやる煎茶家元が“炉は切ってくれるな”と注文]

炉は煎茶のカタキ。

(略)

 まず、抹茶が入ってきた。(略)

 では、煎茶はいつどこで発生したのか。

(略)

形式化し幕府や朝廷とつながる茶道を批判し、高雅な文化性と市民的自由を求める茶の流派として煎茶が出現したのが江戸中期

(略)

煎茶の家元がカタキとするということは、利休が完成させた侘び茶の草庵風茶室の本質は、その空間的核心は炉にあるのではないか。

(略) 

 冷静に考えてみれば、一坪強の空間にわざわざ炉が切ってあるなんてヘンだ。

(略)

[侘び茶は]広い座敷をわざと狭くするのと併行して、炉を切ることを始める。

 炉を切るには二つの意味があったと思う。一つは、主人が自ら点てる。使用人に運ばせるのはやめ、主人が点てて客に出すことで主・客だけの場が生れる。しかしこのためならコンロの持ち込みでもよかったはずだ。侘び茶にも風炉という移動式の炉があって、冬は炉、夏は風炉と使い分けている。

(略)

上を見上げれば、ススケた丸太梁がクログロと架かる。(略)都市の上層の家の中で、炉やカマドのある台所だけは農家の作りになっていたわけである。

(略)

 炉があって火がある空間としての台所は、田舎の農家へとつながり、農家の建築はさらにさかのぼると縄文時代の竪穴住居へと抜ける。

(略)

利休は、茶室に確信犯として火を持ち込んだ。そのために炉を切る必要があった。お茶という上流階級の洗練された文化的行いの中に、利休は、火を投げ込んだのである。

ガラスは「石」でありえるか? 

産業革命。手吹きから機械吹きへと変わり、[ガラスの]大量生産が可能になる。(略)

[しかし]建築家の反応は意外に鈍く、窓を少し広げる程度にとどまり、ガラスをテーマにして果敢なデザインを展開したりはしなかった。

 ガラスと真正面から取り組んだのはイギリスの植木職のおやじのJ・パクストンである。鉄筋コンクリートを発明したのはフランスの植木職のモニエおやじであったが、今度も建築家は植木職人に遅れをとってしまった。

 植木職人出身のパクストンは、植民地から運ばれてきたヤシの木をはじめとする珍しい熱帯植物を冬も育成しようと企て、安価に出回りはじめたガラスに注目し、鉄骨の骨組の間に板ガラスをはめ込んで今日の温室を作り上げる。これが一八四〇年頃のこと。(略)

一八五一年にはその名も水晶宮と呼ばれる史上に名高い万博会場をロンドンに完成させ、ガラス建築の無限の可能性を技術上も表現上も明らかにしてみせるのだが、建築界の反応はごく一部を除いて相変らず鈍い。

(略)

イデオロギーが邪魔した。

 一九世紀の建築家の頭んなかには、美の典範として、ギリシャ、ローマやらゴシック、ルネサンスやらがギッシリ詰まっており、ガラスの入る余地なんてなかった。(略)

[ようやく]

一九一四年、ケルンにその名も〈ガラスの家〉が作られる。設計したのは、日本人にはなじみの深い若き日のブルーノ・タウト

(略)

 日本でのタウトは二重に誤解されていると言わざるをえない。一つは、“桂離宮の発見者”という伝説。 いくらなんでもこれは間違いで、タウトなら理解するだろうと当時の京都の若い建築家たちが日本上陸翌日に案内し、予想通りに喜んでくれただけのこと。日本のタウトファンのもう一つの誤解というか無理解は、タウトの世界建築史上での仕事についてまるで知らないこと。桂離宮の啓蒙よりもっと重要な決定的業績を残しているのである。

 それが〈ガラスの家〉。

(略)

タウトには申し訳ないが、模型を見るまで、パクストンの温室との本質的な差をちゃんと認識していなかった。

(略)

 模型を見て驚いたのは、まず、色。温室のように透明ガラスがはまっていると思っていたが、間違いで、黄色を中心に青や赤や紫の色ガラスが使われ、室内には色付きの光があふれていた。原始人でなくとも、一歩中に入れば、極楽じゃないかと疑うほど。鉄の回り階段をグルグル回りながら、五彩の光の中を上昇してゆくのである。

 もう一つ驚いたのはガラスブロックの存在で、一階の外壁にグルリと積み上げられているばかりか、二階の床もガラスブロック。

(略)

[なぜ色付きガラスとガラスブロックなのか]

“ガラスを薄い石として見ていた”

から、と私は推測している。

(略)

二〇世紀の建築家は、ガラスを前に、一つの問を問われた。ガラスとは、そこに何もないと考えるのか、それとも、水晶のような透明な薄い石があると考えるのか。

(略)

 タウトとミースの答は、ガラスは石の一つ。グロピウスの答は、ガラスは何もないと同じと思った。

 ガラスは水晶のような透明な石と同じと考えたタウトは、ガラスの実在を視覚的に明らかにするため、色を付けた。色付き水晶のように。

(略)

タウトの石としてのガラスは、ミースに引き継がれ、ナチスに追われてアメリカに渡ったミースは、水晶のように透明でありながら味わい深いガラスの超高層ビルを作りあげる。同じくアメリカに亡命したグロピウスは、一見ミースと似ているが、薄味で深みの感じられないガラスの超高層ビルを手がける。

 日本の超高層ビル の大方がどっちの系統に属するかは言うまでもない。

奈良の都に煉瓦が!? 

 幕末に開国して西洋館が入ってくるまで、わが日本列島には煉瓦造の建物はなかった、ということになっている。

(略)

[だが、煉瓦自体は]

一度、入っているのだ。それ奈良の都に。戦後、平城宮の遺跡が発掘されるようになってはじめて明らかになったのだが、宮殿の主要な建物の基壇に使われていた。

(略)

 奈良の都に中国から煉瓦が入ってきた時、一緒にもう一つ日干し煉瓦も入ってきたのではないかと疑っている。

(略)

法隆寺の近所を歩いていた時、戦前に造られたとおぼしき崩れかけた作業小屋の壁に日干し煉瓦が積まれているのに出くわした。ちゃんと四角に成形されていない大きなダンゴ状のシロモノだが、これも日干し煉瓦にはちがいなく

(略)

[さて]

どうして、日本の建築は木造一本槍になってしまったのか。世界的に見るときわめて特異な現象というしかないのだ。

 ギリシャのかの神殿のスタイルが木造起源であることから分るように、地中海沿岸地域は元々は木造だったが石造へと変った。ポルトガルとスペインは大航海時代に船用の木を伐りすぎて森を亡ぼし、木造建築を捨てざるをえなかった。イギリスは、産業革命の初期に製鉄用木炭を得るためとロンドン大火の後に不燃の煉瓦造建築を推進するため、森を食い尽くした。

(略)

 世界の建築の変化は、木造から煉瓦、石造へと決っているのに、どうして日本だけは煉瓦が根付かず木造を続けたのか。

打放しコンクリートの父

 日本の戦後建築界は打放しと共にあった。(略)

[磯田光一さんは二十年近く前]

打放しコンクリートが日本の私小説の伝統を終わらせた。と断言しておられた。たしかに、硬く乾いてザラザラした打放しの肌には、湿った私小説のとりつく島はない。

 二〇世紀後半を象徴するといってかまわない打放しは、しかし、長い鉄筋コンクリートの歴史の中では、最後に生れた鬼っ子みたいなものなのである。(略)ずっと、コンクリートは石や煉瓦やタイルで包まれるのが決りだった。

(略)

コンクリートのままでは肌はザラザラボコボコ、そして何より顔色が悪い。灰色なのだ。こんなもんを誰が表に出すか。

(略)

突破口を開いたのは理論だった。理屈の力。二〇世紀に入ると、機能主義、合理主義、科学主義が叫ばれるようになり、実用性を持たない装飾的なものが建築から取り除かれてゆく。まず脱ぎ捨てられたのは、やれギリシャだゴシックだルネサンスだといった歴史的スタイルで、次がウネウネクネクネしたアール・ヌーヴォーなどの装飾。

(略)

 理論に背中をどつかれて、アバンギャルドな建築家たちが、様式と装飾を捨てた後にも、どうしても脱げない最後の一枚がコンクリート構造には残った。打ち上げた後、ザラザラの地肌に白い漆喰を薄く塗らないと落ち着かない。

(略)

建築界に広く影響を与えるような打放しを世界ではじめて試みたのは、

 オーギュスト・ペレ

にほかならない。打放しコンクリートの父として二〇世紀建築史に輝くフランスの建築家である。

 はじめペレおそるおそる打放しをはじめている。一九〇三年完成のパリのフランクリン街のアパートの建設にあたり、骨組はすべて鉄筋コンクリートで作り、そのうえをアール・ヌーヴォーのタイルでおおうのだが、テラスなどのごく一部にコンクリートをムキ出しにした。(略)

意識的だったかどうかは分らない。なぜなら、全面打放しを実現するのはそれから二十年も経ってからなのである。(略)

一九二三年、パリのル・ランシー教会が完成する。タイルや石もない。すみからすみまで打放し。打放しコンクリートの堂内に、ステンドグラスからの光が差し込んで、灰色の地肌を五彩の色で染めてゆく様子は、今思い出しても心にしみる。見事な建築である。

(略)

[だが]なかなか後続建築家が現れない。孤立するペレ。ペレに学んだ建築家としてはル・コルビュジエが知られるが、この二〇世紀建築の横綱も(略)その革命的意味を理解できない。誰がペレのバトンを継ぐのか。

(略)

歴史のグラウンドを眺めていると突然、場外から一人の人物が飛び出してきた。(略)

日本からやってきた若い建築家(略)アントニン・レーモンドである。

(略)

[日本の二〇世紀建築は]

大正期の堀口捨己、昭和戦前のレーモンド、そして戦後の丹下健三、この三人を軸として歴史は流れている。

 レーモンドは一八八八年、チェコの田舎町に生れた。(略)

プラハで建築を学んだ後、アメリカに渡り、大正八年、フランク・ロイド・ライトのスタッフとして、帝国ホテル建設のため来日する。工事途中で、ライトとケンカ別れして独立し、以後、第二次大戦中をのぞいて、建築家としての生涯のほとんどを日本で過ごすことになる。

 レーモンド事務所で働いた建築家としては前川國男吉村順三など戦後の日本の建築界をリードする面々がおり、さらに、前川のところからは丹下が出、丹下のところからは磯崎新槇文彦黒川紀章谷口吉生などが出ることを思うと、日本の二〇世紀建築の最大の人脈はレーモンドから発したといっていい。

(略)

 二三年にパリでペレが初の打放しを完成させ、翌年、東京でレー モンドが自邸を打放しで仕上げた。

(略)

世界の打放しの開拓者二人は、しかし、そう自信たっぷりというわけではなかったようだ。(略)

自信がなかった証拠に、ペレは単価が高い仕事が入るようになると、大理石なんか貼って仕上げているし、レーモンドも、自邸の後しばらくはまた昔式に戻ってしまう。

 一時は日和るが、レー モンドは十年のブランクの後、再び取り組み、後から参戦したル・コルビュジェと並んで、一九三〇年代の世界の打放しをリードしてゆく。

(略)

レーモンドは、どうしてあれほど素早くペレの打放しに反応することができたんだろうか。私は日本の伝統が利いていたと睨んでいる。

(略)

日本熱はますます高じ、その魅力をどう現代建築の中に生かせばいいのか考えるようになる。彼が感じていた魅力の一つは、木という素材の扱いで、欧米とは異なり、ペンキやニスを塗ったりせず、地肌をそのまま見せて仕上げとする。材料が本来持つ素材感の魅力。おそらくその魅力に感づいていたから、それも外国人ゆえにきわめて意識的に知っていたから、ペレの打放しの意味がただちに理解できたにちがいない。

 戦後になるが、レーモンドは、打放しの魅力は素材感にあることを語り、さらに、近代的工業材料のなかでは打放しコンクリートだけが大地と親和性を持つと述べている。

本野精吾、 打放しは型枠の表現

 戦後になって、レーモンドの弟子の前川國男や前川の弟子の丹下健三らによって、すでに述べたように打放しは花盛りとなり、衰えは見せるものの、現在の世界のアンドーにまでいたる。(略)

“打放しは日本のお家芸

なのである。二〇世紀前半はフランスがリードし、後半は日本がリードした。

 ここでレーモンドからアンドーにいたる栄光の歩みの陰に隠れた一人の建築家のことも書いておこう。京都の本野精吾。

(略)

 レーモンドが打放しの自邸を東京に造ったのと同じ年に、本野もコンクリートむき出しの自邸を京都に造っている。にもかかわらず長いこと注目されずにきたのは、そのむき出しのコンクリートが打放しじゃなくて、ブロックだったからだ。かくいう私もなんだブロックかと軽く見ていたが、実物を訪れて驚嘆した。ブロック造の安っぽさはまるで感じられず、打放しの兄弟のように目に映る。

(略)

 その五年後に手がけた鶴巻邸(現・栗原邸)を訪れてまた驚いた。もちろんコンクリートむき出しなのだが、打放しでもブロックでもなく、コンクリートの表面を皮一枚削っているのだ。皮一枚下の砂利とセメントが露出し、それがコンクリートの表情となっている。こんなヘンなコンクリート仕上げはこれまで見たことも聞いたこともない。コンクリートそのものの材質感をどう表現するかというモダニズム建築のテーマに対し、本野精吾は試行錯誤を繰り返しながら、しかし結局打放しという正解には行き着けなかったのである。

 と、一昨年、あるシンポジウムの席上、本野精吾論をレーモンドとからめて展開した。すると、会場から手があがる。誰かと思いきや、日建設計の林昌二さん。戦後モダニズムの推進者の一人で、建築界の長老格。

「打放しをコンクリートそのものの表現と言っていいのでしょうか。あれは、型枠の表現ではないか。打放しに収束しなかった本野精吾の努力の方がむしろ正解に近いのではないか」

 コンクリートを論じて、これほどショッキングな見解に出くわしたことはない。たしかに(略)杉板を使えば杉の木目がきれいに写し出されるし、現在の合板型枠でも金属型枠でも事情は変らず、型枠の継ぎ目やセパ跡(略)がくっきり浮き出る。だからこそ、建築家は重要な壁面デザインとして型枠の並びを決めるし、型枠大工も注意深く合板をカットし、組み立てる。ノコギリの刃の乱れ一つが跡として浮き出てしまうのが打放しなのである。

柔構造か剛構造か、それが問題だ! 

 日本でも超高層ビルを作ろう、という計画が起こったのは今から四十五年前の昭和三二年

(略)

十階以上になっても地震に大丈夫なことを証明してもらわないといけない。で、白羽の矢が、建築構造学者の武藤清に立つ。(略)二十四階建ての構造計算を、タイガー計算機というソロバンに毛が生えたような手回し式計算機でせっせとやってみたのだった。(略)

一階の角柱の太さは一・八メートルになる。柱と柱の間(梁間、スパン)は七メートルの設定だから、実際に使えるのはわずかに五・二メートル。エジプトのファラオの神段ではあるまいに、面積一坪もの柱が林立するオフィスになってしまう。

 これでは何のために作っているのか分らない。頓挫。

 鉄筋コンクリートの柱と梁でガッシリ頑丈に作ろうとすればどうしてる柱だらけになる。なぜ超高層の先進国アメリカに倣って鉄骨造で検討しなかったんだろう。じつはアメリカ流の鉄骨造に対してはトラウマ(心的外傷)があったのだ。

 (略)

大正期、アメリカの鉄骨構造に倣い[作られた丸ビルと郵船ビル](略)構造を担当したのが武藤の恩師の佐野利器、内田祥三の一党(略)かくかくしかるべき寸法の鉄筋が必要と、施工を引き受けたニューヨークのフラー社に伝えるのだが、フラー社はそんなに太いものは不要と答える。日本には地震があって……と主張しても、風の揺れしか想定しないニューヨークの技術陣には遅れた国の技術者の杞憂としか思えない。(略)[NYから届いた]鉄骨の包みを開けてみると、日本の主張は通っていなかった。(略)

工事は始まり、郵船ビルと丸ビルは大正一二年、完成する。

 そしてすぐ、関東大震災が襲った。どうなったか。(略)

駆けつけると、外壁のテラコッタは落下して路上にはじけ飛び、ビルの中は内装がはがれ落ちている最中。(略)

ぼう然としていると、老齢の曾禰達蔵は、「死にどころです」と言い残して、重要箇所のチェックのため、ホコリが立ち込めて入口から噴き出すビルの中に飛び込んでいった。桜井さんは足がすくんで動けないまま唸った、「さすが白虎隊の生き残りはちがう」。曾禰は若き日、白虎隊に加わり、会津で戦った過去を持つ建築家だった。

(略)

 丸ビルは、関東大震災の少し前に起った“東京地震”で大きな被害をうけ、大補強をした直後にまたやられた。

 鉄骨造は壊れないものの、全体として柔らかく、グラグラ揺れて外壁や内部の仕上げや配管がダメになってしまうという地震国ならではの思わぬ欠点があったのである。

(略)佐野はもう一つ痛い目にあっていた。若い頃、明治四三年に、日本最初の本格的鉄骨ビルとして構造を担当した丸善ビルが、関東大震災でアメのようにクニャリと潰れてしまった。耐震の工夫はちゃんとしたのに、むき出しの鉄骨が火災により溶けてしまったのである。

(略)

 東大の佐野、内田(略)早稲田の内藤多仲ら当時の日本の建築構造学のリーダーたちは(略)厳しい教訓をえた。人知にはかぎりがある。明日は、何が起るかは分らない。

 この時受けたトラウマは、生きているかぎり続く。

(略)

 内田は、日本の超高層ビルを鉄骨だけで作ることに最後まで不安をぬぐえず、弟子の武藤清が鉄骨の霞が関ビル(昭和四十三年)を推進するのはしぶしぶ認めたものの、自分が指導する東京駅前の東京海上ビル (昭和四十八年)の建設にあたっては、鉄骨を鉄筋コンクリートでくるむ構造を採用している。

(略)

鉄骨造で地震にどう対応すればいいのか。ここで柔構造の理論が登場する。

(略)

武藤さんは、日本最初の超高層ビルを柔構造理論で実現した功績で文化勲章をもらうが、その時、新聞記者のインタビュー記事のなかで、五重塔に学んで柔構造を思いついた、と語っていた。(略)

まことにいい話だが、武藤さんが自分からそのように説明したとは思えない。

(略)

なぜなら、私がかつて建築史家としてお話しをうかがったおりには、けっしてそのような俗耳向けの説明はしなかったからだ。

 ゆっくり変形することで地震力を吸収するという理論は、霞が関ビルはおろか東京駅超高層化計画よりもずっと前の関東大震災の直後にすでに主張されはじめていた。佐野・内田の一党が、鉄骨造から鉄筋コンクリート造へと大きく舵を切ったちょうどその時に(略)柔構造の鉄骨造の方が地震には強いという真正面からの反対論が主張されたのである。

(略)

海軍の技術陣にその人ありとうたわれた土木構造学者の真島健三郎。(略)日本の鉄筋コンクリート構造の開拓者として知られ、その発言はあだやおろそかにはできない。海軍の真島と建築界を牛耳る佐野・内田一党との間で、柔剛論争と呼ばれる論争が起き、大正から昭和にかけて十年近くにわたり激しい議論が交わされる。そのなかで、武藤は、佐野・内田門下の最有望な若手として、昭和六年、その名もズバリ「真島博士の柔構造論への疑い」と題する論文を発表した。

 霞が関ビルの計画にあたり五重塔に学んで柔構造理論を思い付いた、などというのは、ジャーナリズム上の作り話なのである。

 武藤は、東京駅超高層化計画の失敗の後、剛構造から柔構造へと柔軟に転じ、タイガー計算機を回して構造計算を行い、昭和四三年、無事、本邦初の超高層ビル(三十六階・百四十七メートル)を完成させたのだった。