ハービー・ハンコック自伝 その3

前回の続き。

コカイン、LSD  

 マイルスはドラッグの問題を抱えていたことで知られているが、私の知っているかぎり、それが理由で仕事に現れなかったことはない。私がクインテットで演奏し始めたころには、すでに彼はヘロインの悪癖を断ち切っており、その後もけっして手を出さなかった。しかしマイルスは、私も含めて当時の多くのミュージシャンがそうだったように、コカインをやっていた。六〇年代のニューヨークでコカインを吸っていないミュージシャンを探し出すことは、干し草の山のなかから針を見つけるようなものだった。コカインはアルコールと同様、たやすく手に入った。

(略)

[ドラッグで逮捕されると“キャバレー・カード”が取り消しになり仕事ができなくなる]

これは人種差別の臭いがする政策だと考える人が多かった。黒人ミュージシャンの多くが麻楽中毒だったからだ。

(略)

 私はニューヨークに来てすぐにマリファナを吸ったが、あまりいい気分にならなかった。だが初めてコカインを試したときは気に入った。マリファナをやると動作が緩慢になり、ぼんやりした気分になったが、コカインはエネルギーと明確な意識を与えてくれた、またはそう思い込ませた。コカインをやると、感情が活性化され、気持ちが解き放たれ、物事の核心に迫り、音楽を深く掘り下げることができるようになる、とミュージシャンの多くが感じていた。私もときどきそう感じることはあったが、ほとんどの場合、私がコカインをやるのはたんに気持ち良くなるからだった。実際のところ、ドラッグをやってマイルスとともにステージで演奏することなど不可能だった。音楽性があまりにも高かったので(略)本来の純粋な自己を保たなければ演奏できなかった。

 同じ理由で、マイルスと演奏するとき、私は酒を飲まなかった。

(略)
[ヴィレッジ・ヴァンガードで知り合ったビョルンというスウェーデン人にLSDを何度も勧められ、ついに決断]

ビョルンがアパートにやって来て、まるでサイケデリック・ツアー・ガイドのようにすべてをセットアップした。「どんなレコードが聴きたい?」と彼は訊いた。「あんたはこれからハイになるけど、ぼくがぜんぶ面倒を見るから大丈夫だ」。私は二十枚ほどのアルバムを選び出したが、ビョルンはそのなかからジョン・コルトレーンアナーキーなレコードを含む何枚かを取り除いた。コルトレーンはそのころフリー・ジャズに傾倒していた。「これは初めてトリップするにしては激しすぎるサウンドだと思う」とビョルンは言った。それから彼は自分がもってきた数枚のレコードを取り出した。インディアン・フルートのレコードだった。彼によると、LSDのトリップにはそんな音楽が相応しいとのことだった。

(略)

LSDは液体だった。初期のサイケデリック時代には、LSDは液体でしか手に入らなかった。彼は適切な量をオレンジジュースの入ったグラスに注ぎ、かき混ぜた。

(略)

ジュースを飲んで二時間ほど経ったころ、私はすっかりハイになった。マリファナやコカインをやったときとはまったく違った感覚だった。

(略)

間もなく壁が動きだし、天井に生き物が現れた。いくつかは人間のように見えたが、すぐに形が変わった。カラフルで奇妙な生き物だったが、何なのかはよく分からなかった。それからアパートが汽車になった。(略)玄関に向かって歩いていると、とつぜん周りがジャングルになった。

(略)

私はピアノを目指して進んだ。トリップしているあいだにピアノを弾くのは素晴らしいことだと思ったからだ。しかし鍵盤がUの形にねじ曲がっており、どうやって弾いたらいいか分からなかった。(略)

ビョルンは、私がトリップしていた十時間ほどのあいだ、レコードをかけ、静かに座って、ずっとそばにいてくれた。

(略)

[一度経験しただけで満足したが、半年後、研究所でやらないかと誘われ]

“うーん、本拠地に行ってみるのも悪くはないな”と私は考えた。

 ミルブルック研究所は広大な敷地に立ち並ぶ納屋や建物からなっていた。(略)途中、偶然ドクター・リアリーと出会った。私たちは短い挨拶を交わした。彼はそのあとどこかに行ってしまった(略)

建物には、すでに私が知っている三人のミュージシャンが来ていた。(略)

ミルブルックでは、トリップが始まると、腕が無数の虫で覆われているのに気がつき、ぞっとした。まるで腕に生えている毛が黒い虫に変身して這い回っているかのようだった。それらは払い落とすことができなかった。

 バッド・トリップについて警告されていたので、パニックに陥ってはいけないことは分かっていた。トリップはいったん始まると止まらなかった。そのため、怖気に支配されると、苦悩と恐怖が何時間も続くことになる。そこで私は(略)自分の感情を分析し始めたのだ。(略)

[いないはずの虫が見えるのは、自分がハチ恐怖症だからだ。それに立ち向かわなければならない]

変容した意識のなかで、私はハチと仲良くなれると考え、興奮を覚えた。

(略)

不思議なことに(略)その日以来、私はハチが怖くなくなった。

〈処女航海〉と初めての映画音楽

 私が作ったあらゆる曲のなかで最高の作品(略)はもしかしたら生まれなかったかもしれない。飛行機のなかでアイデアを書き留めたナプキンを失くしてしまったのだ。

(略)

 私たちはハリウッドで三日間を過ごし、クインテットのニュー・アルバム『ESP』のレコーディングを行なった。(略)〈エイティ・ワン〉を録り終えたあと、ミキシング・ルームでプレイバックを聴いた。最後にフェイド・アウトするところで、とつぜん飛行機のなかで書いたリズムを自分が弾いているのが聴こえた。「待ってくれ!」と私は録音エンジニアに言った。「いまのところをもう一度聴かせてくれ――あれを書き留めたいんだ」。

(略)

 もともとそのリズムをジャズの曲に採用するつもりはなかった――テレビのコマーシャル・ソング[男性用オーデコロン]に使おうと思っていたのだ。

(略)

 ニューヨークに戻った私はコマーシャル・ソングを書き始めた。最初のコード、二番目のコード、三番目のコードと書いていったが、そこで行き詰ってしまった。そのあとどのように続ければいいのか、アイデアが浮かばなかった。(略)

[諦めてベッドに行くと妻のジジが言った]

「ハービー、起きなさい。完成するまで寝ちゃだめよ。今日中に終わらせなきゃ!」(略)

[再度ピアノの前に座り]

もう一度三つのコードを弾いた――そしてとつぜん答えが分かった。最初の二つのコードを最後のコードにすればいいのだ。(略)曲の構造をらせん状にするのだ。

(略)

 広告会社はこれに多少手を加え、ドラムスを省き、ベースのラインをタンゴ風にした。こうしてコマーシャルは完成(略)だが、そのアイデアは私の頭から離れなかった。

(略)

[ジャズ作品として録音することに]

まだ曲名を思いついていなかったので、マスターにはたんに“TV-CMソング”と記載されていた。これは私にとって重要な曲だと感じたので、時間をかけてでも適切な曲名を付けるべきだと考えた。(略)

[家を訪れた妹のジーンと友人に聴かせると]

ジーンの友人が「なんだか水を連想するわ(略)最初の曲は航海のような感じだわ。処女航海ね」。私は叫び声をあげ、手を叩いた。それだ!

(略)

 それは私にとって特別な意味をもつ曲になったし、いまもそうだ。ソロ・ピアノをやるときはかならずこの曲を演奏する――一曲だけしか演奏しない場合はかならずこの曲を選ぶ。 

プラグド・ニッケル(Vo.1+Vol.2)

プラグド・ニッケル(Vo.1+Vol.2)

 

 プラグド・ニッケル

一九六五年十二月(略)

クインテットで演奏し始めてから一年以上が経過しており、バンドとしての結束力は高まり、お互いに気持ちよく共演できるようになっていた。(略)

[だが]私たちにはリスクを冒して挑戦する要素が必要だった。(略)

シカゴへの機内で会話の口火を切ったのはトニーだった。「おれに考えがある」と彼は言った。「アンチ・ミュージックをやるんだ」。(略)

[だがプラグド・ニッケルに入ると]ライヴ・レコーディング用の機材がセットされていた。「ああ、まずいな」と私はトニーに言った。「あれはやらないほうがいいかな?」。(略)だが恐れを知らないトニーは言った。「何を言ってるんだ。もちろん、やるぞ」

 ファースト・セットが始まる前、ロンとウェインを入れて――マイルス抜きで――打ち合わせをした。二人ともそのスタイルでやることに賛成した。(略)

盛り上げるべきところで静かに演奏して勢いを削いだ。トニーも同じように(略)バスドラムを思い切りキックすべきところでシンバルをそっと叩いた。私たちはまた曲が徐々に静まるところで、逆に激しさを強めた。

(略)

 予期したとおり、マイルスは何も言わなかった。彼はいつもとは違うことが起こっているのを誰よりも早く察知したはずだ。しかし彼は私たちに訊かなかったし、私たちも彼に告げなかった。彼はそれを受け止めていつものように演奏した。彼のプレイは最高だった。そしてウェインも素晴らしかった。私は演奏しているあいだ、ずっと手探り状態だった。(略)

[ひどいサウンドだろうとプレイバックは聴かなかった。17年後レコード化されたときもすぐには聴かなかった]

左手を使うのを止めろ 

『マイルス・スマイルズ』のレコーディングの最中、彼は「ハービー、左手を使うのを止めろ」と言った。

(略)私は左手を脇に垂らした。そのため右手によるラインしか演奏できなくなった。(略)

[左手によるハーモニーがつけられないため]演奏のなかにたくさんのスペースが生じてしまう。それこそマイルスが求めていたことだった。

 最初のうち、スペースを埋めるためについ左手を使いたくなるのを我慢しなければならなかった。だが、しばらく経つと曲がそれまでとは違って聴こえるようになった。右手は本能的に新しいラインを紡ぎ出していた。自覚していなかったが、私はオーソドックスなリズムとハーモニーに捉われすぎていた。つまり、右手が左手に頼りすぎていたのだ。左手を使わないことによって、私の右手は自由に動かせるスペースを得た。それはまさに天啓だった。

(略)

[レコーディング後も]私はライヴで左手を脇に垂らしたまま、右手だけで演奏し続けた。クインテットに在団しているあいだ、私たちは何度となくそのような大胆なアプローチに挑戦し、飽くことなく新しいアイデアを探求していた。

 『欲望』

[ミケランジェロ・アントニオーニから映画スコアの依頼があり初めてのファースト・クラスでロンドンへ]

試写がスタートした。映画のシーンはすべて美しかったが、内容はさっぱり分からなかった。(略)

“まいったな。何だ、これは?”(略)いったいどうやって書けばいいのだろう?(略)

[制作会社の用意した五つ星ホテルのスイートで数週間贅沢な生活、スウィンギング・ロンドンのセレブパーティ三昧。]

 私は核心に踏み込んで質問した。「この映画が何を語っているかについて、スタッフの人たちはみな異なった意見を持っているようだ(略)あなたの頭のなかにある考えを正確に知っておきたい」(略)

 しかしアントニオーニはこう言った。「どの解釈も正しい。私はいくつかの出来事をつなぎ合わせた。見る人は、それが何なのか、自分なりに解釈することができる」。

(略)

「アービー、芸術とは何だと思う?」(略)

 私が答えに苦しんでいるのを見た彼は、私に代わって自分で答えた。「芸術などというものはないんだよ」と彼は言った。「個々に絵画、音楽、彫刻などがあるだけだ。それが受け取る側の心に響くか響かないか、ということなんだ」。そして少し間を置き、こう付け加えた。「芸術なんてものはない――あるのは作品だけだ」

(略)

 最良の音楽はリスナーを刺激し、その創造性に働きかける。そしてリスナーに独自の解釈を生み出させ、ストーリーの一部になりたいと思わせる。自らを解き放つことは容易ではない。しかし映画においても音楽においても美術においても、制約から自分を解き放つことによって、アーティストと観客双方の前にまったく新しい地平が立ち現れるという真理を、アントニオーニは私に教えてくれた。私は自分の音楽においてそれを推し進めようと思った。(略)

[ロンドンのミュージシャンの水準が低く満足のいく録音ができない。映画会社としては税金の関係上イギリス連邦のミュージシャンでなければまずい。カナダのミュージシャンで録音すると嘘をついてトロントに行き]

私は急いで飛行機に案り、トロントからニューヨークに向かった。ニューヨークで、できるだけ早く、ジャック・ディジョネットロン・カーターフレディ・ハバードジョー・ヘンダーソンなどの一流ミュージシャンをスタジオに集めた。レコーディングを終え、出来上がったテープの箱に“カナダ”と書き、それを携えてロンドンに戻った。手渡したテープを聴き始めたアントニオーニは、すぐに分かった。「これはジョー・ヘンダーソンかい?」と、彼は目を輝かせながら言った。「ドラムスはジャック・ディジョネットだな?」。根っからのジャズ・ファンだった彼は、楽器のサウンドとプレイ・スタイルを聴いて誰が演奏しているかを言い当てることができた。(略)

その後、『欲望』のサウンドトラック盤が発売されたとき、ニューヨークのミュージシャンの名前がジャケットに載り、すべてが明らかになったが、それまではアントニオーニと私しか知らない秘密だった。

『スピーク・ライク・ア・チャイルド』

『マイルス・アヘッド』を聴いて、感動のあまり涙がこぼれた。曲もアレンジも素晴らしかった。初めて聴いた日、立て続けに五回もそのレコードをかけたと記憶している。それまで聴いたなかでもっとも美しいレコードだった。いまに至るも『マイルス・アヘッド』は私がいちばん好きなアルバムのひとつだ。いまでもそれを聴くと目に涙が浮かぶ。

(略)

『処女航海』の次のレコードを作ることになったとき、私はギル・エヴァンスサウンドの精髄を捉えた曲を録音したいと思った。だが同じ楽器編成にはしたくなかった。私は不可能に挑戦することにした。最小限の数のホーンを使ってギルのサウンドの核心に迫ることはできないだろうか?

 ギル・サウンドの核心をなすカラーとニュアンスを捉えるためには、少なくとも六本のホーンが必要だ[が不可能に挑戦するため](略)

私は三本のホーンを使うことに決めた。

 だけど、どの楽器を使えばいいだろう?(略)私はまずアルト・フルートとフリューゲルホーンを選んだ。だがもうひとつのホーンをどれにするか、なかなか決めることができなかった。マイルスは「バス・トロンボーンだ」と言った。(略)

楽器は決まったが、どうやってアレンジしたらいいだろう?[電話でジョー・ザヴィヌルに相談](略)

 ギル・エヴァンスのアレンジに耳を凝らすと、ベースが多少カウンターメロディを弾いているように聴こえた。ギルはときおりチューバも同時に使ってそれをやっていた。ビッグ・バンドの標準的なアレンジではなかったが、その手法はサウンドに安定感を与えていた。同じような手法を使いたかったが、トロンボーン奏者にベースの役割をもたえると、パレットで使えるホーンはたった二本だけになってしまう。ギルが用いるある種のカラーは、それだけを取り出すとハーモニーがぶつかっているように聴こえるが、音楽の流れのなかではまったくぶつかっていない。彼はどのようにしてそれを実現したのだろう?

 頭のなかでいろんな考えが渦を巻いているとき、ジョーが言った。「ハービー、こうしたらどうだろう。まずピアノから離れるんだ」。彼が提案したのは、ピアノで音を出さず、頭のなかでいろんな楽器の音を聴きながらアレンジを書けということだった。「そうすれば」と彼は言った。「ピアノのラインをなぞることから逃れられる」。(略)

「それから」とジョーは続けて言った。「ホーンが演奏するラインをメロディックなものにする必要がある」。通常、メロディを演奏しないホーンには垂直的なハーモニーが施される。(略)「たとえメロディ同士がハーモニー的にぶつかったとしても」とジョーは言った。「メロディのもっている力によって衝突は避けられるだろう。つまり衝突しても衝突には聴こえないはずだ。それはある種のスパイスのように作用し、耳に心地よく響くだろう」。(略)「おれを信じろ。うまく行くよ」とジョーは言った。

(略)

おそらくリスナーの多くはこのレコードにおけるギル・エヴァンスの影響に気がつかないだろう。だが私にとってそれは明白だった。私は三本のホーンから得られたカラーをとても気に入った。いずれ自分のバンドをスタートさせるときはこんな楽器編成でやりたい、と考え始めていた。

 その日が近づいているとは思ってもいなかった。

次回に続く。