情報時代の見えないヒーロー【ノーバート・ウィーナー伝】

 

「ボストンの神童」

[1906年《ワールド》誌で11歳の「ボストンの神童」「アメリカ史上最年少大学生」として紹介される]

[父の英才教育により]ノーバートは八歳にして、代数、幾何、三角法を、紙の上でではなく、頭の中の目でおぼえた。ほとんど写真のような記憶力を育て(略)

後にMITの同僚に語ったところでは、その年、「私は世界を勉強しなおした。私の頭は完全に開かれた。それまで見えなかったものが見えるようになった」

(略)

 その頃、ノーバートにいちばん影響を及ぼしたのは、父の友人で、ハーヴァードの有名な生物学者にして草創期の神経生理学者、ウォルター・キャノンだった。キャノンは、アメリカでX線を診断や治療の医療用に用いることを説いてまわった。神経系が生まれつきもつ、差し迫った脅威や目の前の危険に対する、「闘争か逃走か」の反応にその名をつけ、説明した。一九二〇年代には(略)「恒常性」という言葉を作った。(略)

何年か後、キャノンの原理は、ウィーナーの新しい科学の中心的な教義となる。

 ノーバートは、キャノンの実験室へ行き、そこで目をみはるような新しい科学装置を見て、すっかりとりこになった。ノーバートの子どもらしい動物学や植物学への関心は、キャノンに究極のお手本にして第一人者を見いだし、高まる電気への関心は、実験や実用的応用という新たな出口を見いだした。

(略)

 一九〇三年の春、[父の]レオは(略)ボストンの出版社から、トルストイの著作を英訳するという契約を一万ドルという報酬で結んだ。

(略)

一九〇九年の春、ノーバートはわずか三年で大学を(略)優秀な成績で卒業していたが、権威あるファイ・ベータ・カッパ会の会員には選ばれなかった。「子どもの頃の天才では、将来この名誉に値するかどうか、疑問」があるからだと言われた。ノーバートには、この侮辱が骨身にこたえた。「このとき初めて、自分が奇形児と考えられているという事実を思い知り、自分の周りにいる人々の中には、私の失敗を待ち受けている人々がいるのではないかと疑いはじめた」。

(略)

「出だしが早かった子どもは、自分の一生分のエネルギーの元手を早くに使い、失業者になったり精神病院に入れられたりしなくても、その後はずっと二流に落ちぶれる運命にある」。

 この展望はノーバートにつきまとい、もうじきに失敗して死んでしまうという辛い感覚でノーバートを満たした。(略)

「世界で最も際立つ少年」は、目を向けるべき場所もなく、語るべき相手もいなかった。(略)

 一四歳という壊れやすい年齢で、ハーヴァードでの、プレッシャーのかかる大学院生活の始まりにあたっては、最高の出だしとはいいがたかった。

バートランド・ラッセルに学ぶ

[1913年、十代で哲学博士になりイギリスのケンブリッジへ]

私はラッセルがとても嫌いです……この人には嫌悪感を抱きます。……氷山のような人です。ラッセルの頭は、鋭くて冷たく、狭い論理的な機械を思わせるもので、万物を整った小さな、言うなれば、縦横高さ三インチほどのまとまりに切り分けております。自分の数学的分析を、プロクルステスのベッドのように事物にあてはめ、自分の体系からはみ出るものは切り詰め、足りないものは引き延ばしております。

(略)

 反感は師弟のどちら側でも深まった。同じ週にラッセルが友人に書いた手紙では、「ウィーナーとかいう神童」を非難している。

 

この青年はおだてられてきて、自分が全能の神だと思っている――この学生と私の間では、どちらが教えるかについて、いつも争っている。

 計算士

一九一六年の春は、大戦がアメリカにも迫り(略)ウィーナーはすぐに参加して、他の新兵とともに、行進やら射撃やら、兵士の技能の訓練を受けた。好意的な教官の助けで、一級射手(狙撃兵)にも取りたてられたが、「自分の視力では、立っている小屋の群れの中のひとつにさえ当てることはできぬ」ことをよくよく知っていた。

(略)

訓練が終わると、将校としての採用は却下された。

 輝かしい学歴があっても、大学の世界で就職する見込みはほとんどゼロだった。(略)

ゼネラル・エレクトリックの工場で面接を受けた。ここでは数学の知識が、この会社のタービン部門での技師見習いとしての出発点を与えてくれた。学界からはほど遠かったが、仕事はまさに求めていたもので、戦争に貢献するチャンスであり、同時に応用数学、熱力学、この仕事に関するわかりやすい工学の技能を勉強する機会でもあった。

(略)

[息子がただの工場労働者になるのを恐れた父が]無理矢理「恥をしのんで退職届」を出させた。(略)

[代わりに]『エンサイクロペディア・アメリカーナ』の専属ライターの職を確保した。(略)

それは高級な単純作業だったが、ノーバートが驚いたことに、事典の威厳のある文体には慣れており、それで短い文を書くのは楽しかった。執筆項目について地元の図書館で調べ、資料を丹念に照合した(もっとも、後に本人が認めているところでは、いくつかの項目については、「まったくのでまかせ」だった)。

(略)

その後戦争が襲ってきて(略)

有名な数学者でプリンストン大学数学科長のオズワルド・ヴェブレンから至急電報が届いた。ヴェブレンは、アメリカ陸軍アバディーン試験場の責任者に任じられていた。(略)自分の指揮の下に、集められるだけのアメリカ人数学者を招集し、アメリカ軍が、激しくなる欧州戦争に参戦したときに必要不可欠な、大砲の射程表を計算させていた。

(略)

 突如として、よりによって数学者という、周囲の一般の人々からは、「役にも立たない記号をいじっている」と思われている、抽象的きわまりない学者が、国防の鍵を握る役割を得た。

(略)

 しかし、ヴェブレンと数学者部隊がすぐにわかったことは、紙と鉛筆、不正確な計算尺、初めての機械式卓上計算機を使った古い計算方法では、時間がかかりすぎ、数学的にも限界があって、近代戦争の細かい必要には合わないということだった。それに、二〇世紀に初めて登場した新兵器、空飛ぶ機械に乗った若い命知らずの兵士に対抗するには、この計算はほとんど役に立たなかった。

(略)

 第一次大戦中のアバディーンは、第二次大戦のときのニューメキシコ州ロスアラモスに匹敵するところで、数学に優れた人物が、老いも若きも、未曾有の使命感と仲間意識で集まった場所だった。

(略)

ウィーナーは(略)自分の「計算士(コンピュータ)」という重要な役割の中に喜びを感じていた。コンピュータとは、アバディーンでの戦時中の仕事を助けるために採用された男たちと少数の女たちにつけられたあだ名だった。 

 「ウィーナー測度」

[川の流れの]泡立つ様子がウィーナーの思考を浮揚させ、数学の難問を引き出した。

 

絶えず質量が変動する波の研究を数学的な規則性におさめるにはどうすればいいであろうか。無秩序の中に秩序を発見することこそが、数字の最も濃密なところではなかろうか。(略)

 

ウィーナーは、川がざわざわと波立つのを掌握しそうな式をいじりはじめた。(略)

ウィーナーが自分で「波動問題」と呼んだものは、数学者や科学者には、乱流というやっかいな現象として知られていた。(略)

G・I・テイラーの乱流に関する草分けの研究は、後にカオス理論という科学を刺激することになる。(略)

ルベーグ積分という、フランス人のアンリ・ルベーグが、点や曲線が散らばった複雑な集合の大きさを測るべく、数年前に考えていた統計学的方法の研究にも乗って、ウィーナーはこの難問をこじ開けにかかった。

 ウィーナーにとって、数学者の棚にある在庫品――点と曲線――は、しぶきとなった水滴や、川で跳ね上がる水のようなものだった。平均と近似という単純な統計学的方法、無作為の、あるいは不確実な出来事を解析するための数学でいちばん基本的な方法と、ルベーグの新しい、もっと手の込んだ統計学的方法を使って、複雑な経路を描くことを試みた。(略)

 その採求は、二〇世紀初頭にジョサイア・ウィラード・ギブスが立てた、物理学の成長中の分野へと導いた。

(略)

統計力学という、自身の新しい学問を打ち立てた――蒸気機関の中の水分子など、でたらめに動いている微粒子のふるまいを分析するための、数学の道具一式である。

 一九〇二年に出た、ギブズの『統計力学の基本原理』は、三世紀以上にわたって西洋の科学を支配していたニュートン的な世界観に大きな一撃を与えた。(略)

ギブズの力学は、物理的宇宙に偶然あるいは「確率」という新たな要素を注入し、それを分子レベルで事象を支配する原理として確立した。(略)

その確率論的手法が判定するのは、与えられた時点で運動している一個の粒子などの物体がどうなるかではなく、一定の物理的条件下で、個々の粒子、あるいは粒子群が、集団的にどうなりそうかということだ。

(略)

 ヨーロッパの原子論派の研究や、原子よりも小さい水準で見えてくる新しい「量子」力学で、統計力学は目立つようになる。MITでは、新人講師のウィーナーが、ギブズの確率論に、別の実用的な用途を見ていた。ギブズの式に、投射物を点と考えたとき、あらゆる大きさと種類の物体がたどる、「空間の中の確率が高い経路」を計算する新しい道具を見いだした。

(略)

[ウィーナーは]アインシュタインブラウン運動に関する有名な論文のことを思い出し

(略)

次の一歩を進めた。ブラウンの跳ねまわる花粉粒子に、まったく次元の違う複合度を見た。ウィーナーは、アインシュタインが一九〇五年当時には知らなかったギブズの統計的原理を使って、ブラウン運動の一個の粒子がたどる、確率の高い経路と、そのようなありうる経路の一族全体の確率を記述し、計算しにかかった。

(略)

ブラウン運動にかかわる個々の粒子ではなく、粒子群について確率の高い軌道を記述するウィーナーの新しい式は、確率論の大きな前進となり、「ウィーナー測度」と呼ばれ、後には、ヒルベルトやその弟子たちがゲッティンゲンで用いた新しい語法では、「ウィーナー空間」と呼ばれたりするようになった。

「一般調和分析」

 ウィーナーは次の学問上の課題を見つけた。大学の電気工学者がやってきて、電気信号の伝送に関する理論と実技に高まりつつあった必要について、助けを求めてきたのだ。

(略)

一八九五年には、イタリアのグリエルモ・マルコーニが、見えない電波を使って、モールス符号の通信文を送り、一九一四年には、最初の「無線」による音声のメッセージが放送された。

 一九二〇年には、産業革命が通信文の電送と合体した。新しい装置は、発明、通商、人間の経験、あらゆるところで新しい領域を開きつつあったが、驚いたことに、この新しい技術を支える、確固とした科学はほとんどなかった。電子そのものの正体がますますわからなくなっている時代に、電子信号の流れが世界中をかけめぐっていた。

(略)

当時の技術者が使えた作業上の規則と技術的な方法の主体は、一八八〇年代に、イギリスの変人科学者にして数学者、オリヴァー・ヘヴィサイドが考案していた、わかりにくい、独特の「演算子法」というものだった。その雑然とした理論と公式で、遠距離電話通信は成り立っていた。今や、MITの技術者は、ウィーナーに、ヘヴィサイドの「新しく強力な通信技術」の下に、ウィーナーがブラウン運動の粒子と経路について得たような、堅固な科学的基礎を敷くよう訴えていた。

(略)

フーリエは、フーリエ級数と呼ばれる数式の列を考案し、これによって、拡散する熱の波や複合的な波を、扱いやすい、単純で規則的な正弦波の和に解剖できた。

 フーリエのすっきりと簡潔な波動方程式は、「調和分析」という新しい分野を立てた

(略)

[ウィーナーはフーリエ変換を]電磁放射の波にあてはめた。これがウィーナーの天才のなせるわざだった。電線や真空管の空間を流れたり、アンテナから放送されたりする、目に見えない不規則な電流を、振動するにいろいろな種類の波があると見た。(略)

その新しい正確な式は、あらゆる種類の連続的な波の動きにあてはまり、電気工学者が世界中で取り組んでいた、電信のキーのオン・オフによる信号や(略)電話やラジオの通信文の音声のような、もっと不連続的な問題にもあてはまった。

(略)

 ウィーナーの新しい「一般調和分析」という計学的な方法は、一九二〇年代に少しずつ発表され、ブラウン運動や確率論に関する研究と合わさって、情報時代の新しい学問すべてについて基礎を敷いた。ところが、ウィーナーのいちばん重要な成果は、本人の言葉で言えば、アメリカの数学者と技術者の間では「死産」だった。その電子に関する品への貢献が認識されるには、その後十年がかかり、電気工学者がその新しい調和分析の方法の実用的な用途を把握しきって、電子信号を、かつてない正確さで作って制御するようになるまでには、さらに十年かかることになる。

(略)

[その間にもポテンシャルの理論にも関心を向け]

O・D・ケロッグは、ポテンシャルの数学にある面白い問題に目を向けさせてくれ、これをウィーナーは自分で解くことにした。ところが、ケロッグに答えを示すと[自分のところの学生が同じ研究をしているから忘れろと言われ](略)

火花が飛びはじめた。(略)[ケロッグの同僚で]ウィーナーの昔からの大敵、G・D・パーコフは、ウィーナーに「雷を落とし」[放棄を迫ったが、ウィーナーは論文を発表](略)

この衝突で、ウィーナーは、自分の能力と、自分はアメリカの数学の舞台ではよそ者なのだという昔からの感情に向き合わざるをえなくなり、それによってウィーナーは、自分の学者としての将来について、断固とした、あれこれ言わない決意を固めることになった。

 渡欧、ボルン「波動関数統計学的解釈」

 ウィーナーは一九二二年、二四年、二五年の夏、ヨーロッパに引きこもり、旧友を求め、イギリス、フランス、ドイツの数学者との間にあらたな接触をもとうとしていた。そちらの風土の方が、自分の考えには温かかったのだ。

(略)

一九二三年、マックス・ボルンという、新しい原子理論の最先端で研究するゲッティンゲンの物理学者が、デンマークで同じ仕事をするニールス・ボーアが進めている原子構造論が正しければ、「物理学の概念体系全体を、基礎から構築し直さなければならない」ことに気づいた。翌年、ボルンは(略)「量子力学」という言葉を立て、若いフランスの物理学者、ルイ・ド・ブローイは(略)実に過激な物質観を提示した。エネルギーと熱と光と同様、物質は粒子だけでなく、波の形をとることがあるのではないかとする説だった。(略)

[同年、助教授に昇格したウィーナーは]

ゲッティンゲンに出かけた。自分の「死産」の説が、この大学の数学者の間では注目を集めていることを喜び、翌年の夏には、再びゲッティンゲンへ行った。(略)

ウィーナーは三十代に入ったところだったが、新しい量子力学を立てようとゲッティンゲンに引き寄せられていた若い聡明なスターたちの間では、神童仲間として迎えられた。

(略)

ウィーナーの調和理論は、ボルンの花形学生、ヴェルナー・ハイゼンベルクに共鳴した。(略)

一九二七年、ハイゼンベルクは、ウィーナーが「何年か前にゲッティンゲンの人々に紹介した」数学的な分析と同じ方法を用いて、かの有名な不確定性原理(略)で、同じ結論をもっと形式を整えて表すことになる。

 一九二五年の秋、ボルンは(略)ウィーナーと直接に共同研究するために、MITにやって来た。ボルンは、原子構造の行き詰まりかけた粒子モデルと、こなれない新しい波動仮説との折り合いをつけようとして、ウィーナーの助けを求めていた。二人が書いた共著論文は、量子論の前進の中での飛び石となり、「顕著な貢献」となったが、ボルンは、ウィーナーの計算を理解しきれておらず、その波の調和の根底にある概念は「消化しきれなかった」と告白している。何年も後、ボルンはその「波動関数統計学的解釈」に対してノーベル賞を受賞し、公式にウィーナーのことを「卓越した共同研究者」と認めることになる。

 真黒な鬱

ナチの長靴戦法とクーラントの大学での無礼との緊張が合体して、ウィーナーの高揚した気分は吹き飛び、神経衰弱寸前に追い込まれた。

 緊張はその発表にも明らかだった。その輝かしい学説はとりとめなく語られ、そのドイツ語はもつれ、講義はあわれみをもって迎えられた。

(略)

 マーガレットがやってくる頃には、ウィーナーは錯乱しており、自分で認めるところでは、「真黒な影」と必死に戦っているところだった。

 マーガレットにも、ゲッティンゲンで自分が入り込んだ舞台は楽しいものではなかった。自分が出会った男の悲惨なありさまに衝撃を受け、打ちのめされた――長い交際と短い新婚生活のときには見たことのなかった男だった。

(略)

ヨーロッパでの新婚旅行も、始まる前から終わってしまった。ウィーナーの真黒な鬱は、ベネチアのロマンチックな運河にも、フィレンツェルネサンスの華麗さにもつきまとった。

(略)

マーガレット・ウィーナーは、自分が思い描いていた心おどる教授夫人から根本的に方向が変わった役割に徹した。落ち込みやすい夫が国際的な科学者のスターの仲間入りする道を加速する中、その世話をし、守る役になることを誓った。

次回に続く。