ジョン・ケージ伝 その3

 前回の続き。

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

 

デュシャン

 一九六五年の末、ケージはマルセル・デュシャンと喜ばしい友情関係を始めた。

(略)

[70代半ばの]デュシャンは結婚し、アメリカ国民となった。妻のアレクシーナ――ティーニーとして知られていた――は(略)以前はアンリ・マティスの息子と結婚していた。

(略)

[チェスを教えてもらうために週に一、二度会うように]

ケージは夫妻に乾燥キノコをあげた。(略)

デュシャンはふざけて、ケージのチェコスロヴァキア・キノコ協会の新しい会員証にサインした。(略)

[ケージはそれを]現代上演芸術財団に寄付した。財団はそれを五〇〇ドルで売った。

(略)

「我々はいい仲間なんです。精神的に共感していますし、同じように物事を見ています」と[デュシャン]

(略)

 ケージはいつもデュシャンの手法と関心に同意していたわけではない。彼は《音楽的誤植》におけるデュシャンの偶然性の使用は、どちらかというと面白みに欠けると思った。「私にとって興味のないことがあまりにもたくさん起こりすぎるんです。たとえば紙片がくっついてしまうこととか、帽子を揺する動作とか」。カダケスでのあるとき、デュシャンは彼とティーニーと一緒にサルバドール・ダリを訪問するようケージを説得した。ダリは近くのポート・リガのくっつき合った一群の漁師小屋に住んでいた。ケージはダリの絵画が嫌いで、絵と同様に個人的に画家も嫌っていた。ダリは彼らに巨大な絵を見せたが、ケージはそれを「下品で情けない」と思った。そしてこの芸術家はしゃべりにしゃべった。「まるで王様でもあるかのようだ」とケージは言った。彼はデュシャンがなぜダリを崇拝するのか、理解できないと思った。

(略)

 ケージはチェスを魅力的だと思い、やがて真剣にゲームをするようになった。しかし、レッスンを「ただの口実」として使っていた時期には、「チェスをやっているのではなくて、ただマルセルと一緒にいたんです」と言っていた。デュシャンもそのことは感じていたらしい。というのは、ケージがあまり熱心にやらないので、不機嫌になることがあったからだ。

(略)

[ケージがバカな負け方をしたとき]デュシャンは「怒り狂って」、「勝ちたいと思ったことはないのか?」と怒鳴り、部屋から出て行ってしまった。

六〇歳 

 六〇歳に近づくと、ケージはしばしば疲労感を訴えるようになった――「一〇年前のようには体調がよくないんです」。書き物をするときには、眼鏡をかけなくてはならず、「眼鏡を外したときにはコウモリみたいに目が見えなくなって」しまった。またさまざまな痛みや傷に苦しんだ――圧迫神経、敗血症、ものもらい、流感、足の血行の低下、背中の筋肉の痙撃(「四つ足で這い回らなくちゃなりませんでした」)、皮膚炎、そして最悪にも「関節炎!痛みがどんどん増している――滑稽なくらいだ」。

(略)

ある友人がペヨーテを試してみるように勧めた。かつてケージはカリフォルニアで二本のマリファナ煙草を吸い、ハシシも一服吸ったことがあった。しかし彼には何の効き目もなかった。「麻薬が私に興味を持ってくれないんです」と彼は言った。

(略)

健康のために庭をつくり始めた――「私のはじめての庭!」と彼は叫んだ。「ハーブ、トマト、レタス、にんじん、ズッキーニ」。また引き続きキノコを採集し、料理した。サスカチュアンでキノコ狩りをしていたときには、森のなかで迷子になった。助けを求める声は人の耳に届かず、彼は一人そこで一夜を過ごし、ジープ、犬、ヘリコプターを含む五〇人の捜索隊によって見つけ出された。
 ケージ自身が食生活以上に変わった。それまではいつもオーソドックスな服装をして、ヒゲを剃り、スーツとネクタイで公の場に登場していた。「私の全体的なイメージは、黒のスーツに白のワイシャツ、黒のネクタイ、短い角刈りでした」。いまや彼は色あせしたブルーのジーンズとデニムのワークシャツ、ときにはデニムのワークジャケットを着るようになった。櫛を入れていない黒っぽい髪が耳にかかり、肩まで延びていた。唇の輪郭は、たっぷりとはやした灰色の口ひげと胸骨まで垂れた灰色のあごひげの陰から、やっと見えるほどだ。二人の老人がつくったスペイン製の安もののズック靴を履くようになっていた。

(略)

『シカゴ・デイリー・ニュース』紙では、「ブルージーンのグル」、『アート・フォーラム』誌では、「ヒッピーの農夫」みたいだと言われた。

 「メソスティック」

 七〇年代の早い時期に、ケージはその関心を作曲から著述へ[移した。内容も、音楽についての出版から]

詩やフィクション、そして言葉そのものに移っていた。

 この移行は、彼自身が「メソスティック」と呼ぶ、語彙を編集した詩の考案によって特徴づけられる。

[各行の一文字を大文字にして縦読みを導入]

(略)

 驚くべきことに、ケージはチャンス・オペレーションを彼の文章にも適用した。進行中のシリーズ『日記、いかに世界を改良するか(かえって事態が悪化するだけ)』では、『易経』を使って、一回について何個の単語を使うかを決定し、毎日どれだけの量の日記を書くかを決めた。

(略)
芭蕉の俳句の翻訳を試みた。標準的な翻訳は次のようなものである。「The leaf of some unknown tree sticking on the mushroom(知らぬ木の葉がキノコにくっついている)[松茸や知らぬ木の葉のへばり付く]」。ケージはこの翻訳を次のように再構成した。「That that's unknown brings mushroom and leaf together(知らぬものがキノコと木の葉を結びつけ)」。しかし、彼は自分がつくったより禅風のヴァージョンを好んだ。「What leaf? What mushroom?(何の木の葉か?何のキノコか?)」。彼はまたドイツ語、スペイン語、その他の言語からも翻訳を行なった。というか、より正確に言えば、ディック・ヒギンズが「類似音翻訳」と呼ぶもの、すなわち何らかの外国語による詩を音の類似した英語に直して疑似翻訳したものを、いじくっていた。

チェス

[デュシャンとの付き合いで始めたが]

一〇年後、彼は磁石つきのチェスのセットを持ち歩いていた。(略)

ボビー・フィッシャーの良き指導者でもあるジョン・コリンズのレッスンを受け始めた。「ボビー・フィッシャーの先生なんです!」とケージは語気を強めて言った。

自然食療法

[65歳]いまなお関節炎に悩まされ、手首が膨らみ、親指が曲がっていた。歯を痛めたせいで、右目に影響が出ていた。(略)敗血症のため、左足のつま先を動かすことができ[ず、身体を傾けて歩くように]

(略)

[74年、占星術師]は「私の食生活を変えさせる型破りな医者」によって助けられると予言した。この話はケージの隣人のオノ・ヨーコがある日、車で彼のそばを通りかかったときから始まる。彼の手首が膨れ、歩行に困難をきたしているのを見て、彼女は車を止めて彼と話をし、シズコ・ヤマモトという日本人の医者にみてもらうようにと強く言った。ケージが「マッサージ師、栄養土」と呼ぶこの人は、ケージに毎週指圧を行ない、厳格な自然食療法を行なわせた。それは、「自然の穀類、野菜、木の実と種をとり、果物、レモン、アヴォカド、チーズ、ワイン、肉はとってはならないが、魚と鶏肉は稀にとっていい」というものだった。「ショック状態」に陥ったケージは、最初この療法はとても難しくてできないと思った。(略)

ヤマモトはまた、ケージが水と砂糖のとりすぎで肥満になっていると言い、癌になると警告して彼を脅した。
 ケージはヤマモトの助言と警告を真剣に受け入れた。すると彼の健康はたちまち改善に向かった。(略)すぐに体重は一四ポンド減った。ヤマモトにみてもらってから一ヶ月後、つま先は動くようになり、以前膨れていた手首はもう腫れなくなった。目の痛みは消えた。乳製品、砂糖、肉をやめたおかげだと、彼は思った。彼のとる基本的な食事は玄米大豆になり、それに調理した野菜やワカメの入ったみそ汁がついた。そうするように言われたわけではなかったが、ハーブやスパイス、レモン汁を使って、うまみを増した。ときにはごま油でキノコを炒め、たまり醤油を加えた。「ありがたいことに、キノコはOKなんだ」。砂糖が入っているのでワインは止めたが、ウォッカ、ウィスキー、ときにはビール――つまり穀物からつくられる飲み物――を飲んだ。しかし体重がふたたび増え始めると、ビールも止めた。あるとき彼は毎月最後の数日間、絶食することに決めた。
 ケージは深鍋、平鍋、その他の道具を買って、自然食の調理法を極め始めた。「私はいまや日本人っぽい自然食の料理人です。そしてそれを楽しんでいます!」。友人たちも手伝った。(略)

ジョン・レノンも自然食の料理本を六冊送ってきた。

石への情熱 

 一九七二年の『キノコの本』のフランス語訳の表紙をデザインしてほしいと頼まれたときに、ケージの石への情熱は始まった。(略)

一五個の小さな岩の輪郭線を示した表紙をつくることにした。二〇年前に訪れた京都の寺院、龍安寺の岩と砂の庭に置かれた岩がこの数だったのである。彼はすぐに世界中の石を集めるようになった。

(略)

[15個の小さな石の]形態を印刷しようとして、彼はドライポイントで石の周りをぐるりと描いたが、結果は面白くなかった。「すると、複数性に訴えるという考えが浮かびました。一五個の石のそれぞれの周りを、一五回描くのです」(略)

見てすぐに面白く、長い間見ていると、だんだんと面白さが増していき、前には気づかなかった何かが次々と現れてくる――と彼は思った。
 次の二年間にわたって、ケージはこの一五個の石で、少なくとも三種類の異なる版画のシリーズを生み出した。(略)

このシリーズの次の各々の版画ごとに、彼は石の周りを描く回数を増やしていった。(略)最後の版画で、彼は回数をRの三乗にした。すなわち一五×一五×一五ないし三三七五回である。輪郭線は長方形の画面を、暗いィバラのように絡み合った円の網で埋め尽くした。

(略)

 ケージは石への関心を音楽としても実現した。彼は自分が音の上での対応物、すなわちドローンを楽しみ始めているのに気がついていた。「植物が私を石に導いてくれました。そしてその石が今度は私を、防犯ベルのような固定した音に導いてくれるのかもしれません。実際に防犯ベルの音を私は楽しみ始めています」と彼は思いをめぐらせながら述べている。屋外の騒々しい交通の音を楽しむことに加えて、屋内の冷蔵庫や加湿器の変化のないブーンという音を聴くのが楽しみになった。屋外と屋内のノイズを一緒に聴くと、「彫刻みたいな、あるいは空間を明確にする」働きがある、と彼は述べた。
 この種の耳の楽しみの徴候は、ある時期のケージに現れて、いくつかの方向から強まっていった。ソローが電線のドローンをそれまでに聞いたいちばん美しい音楽だと思ったことを、彼は知った。感覚を持つものも持たないものも、あらゆる存在が宇宙の中心にあるという仏教の考えは、自然の一部として「すべての音は注目に値する」ことをケージに示唆した。ラ・モンテ・ヤングのおかげで、彼は長くて動かない、揺らめく単一音に関心を持った。また彼はマルセル・デュシャンの「音楽の彫刻」という概念を意識していた。「音楽の彫刻」とは、ケージの定義によると、「空間のさまざまな地点から生じる、変化しない音」を理論的に構造化したものである。いま彼が興味を持っているのは、「連続した音、日常の環境にあるドローン、そして音響彫刻というアイディア」だ

(略)

ソロは石を表し、伴奏は熊手でならされた庭を表す。ケージは石の輪郭を一部だけ描き、曲線をひとつもしくはそれ以上のソロの楽器で演奏させて、音がひとつのピッチから次へと滑らかにグリッサンドで移るようにした。オーケストラがソロの伴奏をする場合は、各メンバーは単一音を選び、演奏全体に渡ってドローンで演奏する。打楽器だけがソロの伴奏をする場合は、ひじょうに不規則なリズムで拍を刻む。「私は人間の知性がリズム・パターンを分析できるようになってほしくないのです」とケージは説明した。そうして生まれた、むせび泣くようなグリッサンドと、断続的に金属にぶつかる木の音とのコラージュは、重々しく不気味な美しさを醸し出す。
 長く続くドローンのノイズをさらに探求して、ケージはデュシャン風の音響彫刻と龍安寺のドローン音楽の電子版もつくった。

 ジャズとロック

[ サン・ラと共演した]ときには、それほど溶け込んだわけではなかった。ジャズは嫌いではなかったが、またけっして好きだというわけでもなかった。そのわけは、ジャズの規則的なビートと即興の使用にあった。

(略)

コルトレーンの〈至上の愛〉の録音を聴いたときに、彼はこうコメントした――「この音楽にはまったく興味がわきません」。
 しかしながら、ケージはジャズの世界ではよく知られており、そこでもいくらか評価されていた。

(略)

[ケージはVUの]ジョン・ケイルに会い、彼に感銘を与えた。実際、ロックが音楽シーンに登場したとき、ケージはジャズよりもロックの方が好ましいと思った。「ジャズは線的な形式です。ロックはそうではない。すべてが混在しています――素晴らしい」と説明した。ケージはまた、ロックの爆発するような大きな音量が大いに規則的なビートをぼやけさせ、またロック・ミュージシャンがさかんに電子機材を用いていることを好ましく思っていた。ところがジャズは「その伝統にこだわっています」と彼は言う。

(略)

コニー・アイランドでは、エジプトのキルトを身につけ、胸をはだけたアシスタントが舞台上でサン・ラの先に立ち、大きなエジプト十字と煙をあげるお香を入れた聖杯を運んでいった。袖を銀で飾った紫色のチュニックを着て、肉付きのいいサイケデリックな外見をし、髪も下顎の髭もオレンジ色に染めたサン・ラが、それに続く。彼はヤマハのデジタル・シンセサイザーの前に座り、推進力のあるジャズのドラミング、激しいトランペットのリフ、段階的な爆発音を耳障りな電子音で混ぜ合わせて解き放った。

 服装も音楽もまったく対照的に、デニムを着たケージは、自らの音によるテクストのひとつ、おそらくは『空っぽの言葉』の第三のレクチャーを朗読した。彼が穏やかにゴロゴロと喉を鴫らし、うめき声をあげ、シラブルを混ぜ合わせたテクストを朗唱する間、聴衆は敬意を表して、静かにしていた。(略)

ケージとサン・ラが舞台で共演したのはたった一度だけで、それも短い間だった。しかし最後に、慈善公演の聴衆は大きな歓声と口笛、拍手で二人を讃えた。

(略)

サン・ラはかつて「書かれていようと話されようと言葉は音楽だ」と書いたことがある。彼自身とケージの違いがどのようなものであれ、彼は二人の実験が対のものだと考えていた。「私たちはともに同じことについて、つまりある意味で、幸福について語っているのです」と彼は言った。

思いがけないことに、ケージは裕福になろうとしていた 

アートサーヴィスはケージの数多くのコンサートや講演のために、引き続き契約や旅行の手続きを行なっていた。コンサートや講演で、ケージがもらう報酬はよくなっていた。たとえば一九八五年には、バックネル大学で演奏をし、二日間に渡ってクラスを教えた報酬として四五〇〇ドルを、サン・アントニオでの講演と演奏で五〇〇〇ドル、カナダのアルバータの美術学校に一週間滞在して六〇〇〇ドル――加えて旅費と必要経費――を受けとった。(略)
 ケージの数多くのスコアのうちいくつかはよく売れた。彼の楽譜の専属の出版社、C・F・ペータースとは、好ましい関係を保っていた。

(略)

 ケージの七〇歳を祝って、ぺータースは『ジョン・ケージ読本』を出版した。

(略)

 演奏料とスコアの販売に加えて、ケージは録音についても、利益の得られる新しい販路を見つけた。それは一九八三年に、ニューヨークの通信販売で「モード」と呼ばれるレコード会社からやってきた。モードは輸入ものや見つけるのが難しいレーベルを専門に扱っていた。そのオーナーで二六歳のブライアン・ブラント(略)はケージの音楽のすべての録音とリリースに着手したのである。