ジョン・ケージ伝 その2

 前回の続き。

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

 

アール・ブラウン

 ケージはトラックのひとつのグループについて作業し、ブラウンは、その向い側で、別のトラックを担当した。トラックを構成するために、それぞれがまず『易経』に伺いをたてて、一六のカテゴリーのひとつから音を選択する。それから、封筒からそれに対応するテープの切れ端を取り出し、それを『易経』が決定した長さ(持続)に、磁気を除去したカミソリの刃を使って正確にカットする。カットの形は重要で、音のアタックとディケイに大きく作用する。再度『易経』に伺いをたてて、カットの「傾斜」を決め、ほとんどのテープの裂片を短刀のような角度に切る。こうして形を揃えた裂片(略)スプライシング・テープでとめられ、くっつかないようにタルカムパウダーで擦られた。(略)

繋がった裂片は、堅い磁気テープにコピーされた。

(略)
あるときフェルドマンがケージとブラウンに、テープの四分の一インチに、それぞれ一六分の一秒の長さの音を、正確に一〇九七個入れられるかどうかとけしかけた。そもそも困難を好む気質のケージは、それを試み、やり遂げてみせた。

(略)

 録音した音で利用できるもののなかから、ケージは最終的に約三五〇個を使った。『易経』が多くの録音を繰り返すように決定したため、《ウィリアムズ・ミックス》の音の総数は二〇〇〇を少し越えるくらいになった。何の音なのかを聞き分けるのは難しく、一番長いものでも一秒をわずかに越える程度である。(略)

作曲家のラリー・オースティンはこの曲を精密に研究し、自動車のクラクションの音、カラスがカーカー鳴く声、ジャズ・ピアノのソロ、ハンフリー・ボガードの声を聞き分けた。

(略)

ケージ自身が要約して述べるところによれば、「いまや音の全領域で作業できるようになったのであり、楽器のピッチや音色、音量の制約を受けることはなくなった」。

沈黙

 ケージの《ウィリアムズ・ミックス》の制作を中断させた第二の要因は、さらにより演劇的で挑発的だった。彼は全面的な沈黙による音楽を作曲したのである。彼はこの考えを一〇年以上も温めていた。一九四〇年に、彼は雇用促進局の娯楽部門のリーダーとして働き、サンフランシスコ病院を訪れる子供たちを楽しませる役目を指示されていた。しかしながら、患者の邪魔にならないように、音をたてることは禁じられていた。これが「沈黙の曲の始まりだったかもしれない」とケージは考えている。彼はこのアイディアにさまざまな形で、繰り返し戻っていった。ハンス・リヒターの映画『金で買える夢』(一九四七)のために書いた五分間の音楽では、二小節の音楽の後に、二小節の沈黙を七回置いた。

(略)

[翌年の講演で]

「途切れることなく沈黙が続く曲を作曲して、ミューザック社に売ることです。三分か四分半の長さになるでしょう。それが『缶詰』音楽の標準的な長さですから」と述べている。

(略)

[ハーヴァード大学の無響室]で何か起きたかを、彼はしばしば語っている。彼は二つの音を聞いた。ひとつは高く、もうひとつは低い音だった。この部屋は音を吸収するのになぜ音が聞こえたのか、とサウンド・エンジニアに聞いた。(略)答えはこうだった。「高い音はあなたの神経系統が働いている音です。低い音は血液が循環している音です」。

(略)

 何年もの間、ケージは沈黙の曲を作曲することを控えてきた。真面目に受けとられないだろうと思ったからである。しかしながら、一九五二年、《待ちながら》の作曲がその始まりとなった。《待ちながら》は三分半のピアノ独奏の曲で、一分半の沈黙で始まり、二〇秒の沈黙で終わる。この年のもう少し後に、彼を突き進ませたのは、ブラック・マウンテンでロバート・ラウシェンバーグのオール・ホワイトの絵画を見た体験だった。それらの絵画は、「無で充満した造形」を表している、と彼は言う。ケージは、ふつうの白の家屋用ペンキをローラーで塗った、完全に空白のキャンバスを体験したときに、何を感じたかを思い起こしている。「ああ、そうです。私がこれをやらなくてはいけなかったのです。さもなければ、私が遅れてしまいました。さもなければ、音楽が遅れてしまいました」。ラウシェンバーグの塗られた空白は、彼に「どうなろうと、その道を行く勇気」を与えてくれたのである。
 この道がケージを《四分三三秒》(略)の作曲へと導いた。彼はここでも偶然性の手法を用いた。(略)

彼は一組の手作りのカードに持続を書き、カードをシャッフルし、並べた。まるで音符を扱っているように、ふつうの五線譜にランダムに持続を書き入れた。「曲をつくるような感じで行ないました。音がないということを除いて」と彼は言う。タロットで決定した短い沈黙を繋ぎ合わせることによって、彼は各楽章を構成した。「ばかげているように思われるかもしれないけれど、私がやったのはそういうことでした……少しずつ積み上げていったら、四分三三秒になったんです」

ピエール・ブーレーズ

現代フランス音楽のスターになりつつあったブーレーズは、ケージの作品をフランスで演奏するようにし、熱心に擁護した。ケージの二台のピアノのための作品を誰かがビバップだと批判したときには、「怒りで顔を真っ赤に」して「考えられるかぎり最悪の侮辱を返しました」と彼はケージに言った。ケージはブーレーズの作品をアメリカで演奏する機会をつくろうとしたし、また彼の作品を公演旅行に持っていった。「教えを広めるんです」と彼はブレーズに言った。ケージはパリヘの手紙に「おおいなる愛情を込めて」と署名し、「君にまた会う以上に望ましいことはありません」とつけ加えている。

(略)

[三年後、ようやくNYを訪れることになり]

ケージに再び会って「ずっとべちゃくちゃしゃべる」ことができると思うと、彼は嬉しくなり、こう言った。「クリストファー・コロンブス万歳!」。(略)
ニューヨークの音楽関係の報道機関は、二人の主要な作曲家を比較し、ブーレーズについてはあまり好意的でなかった。(略)『トリビューン』はケージの「本当の詩」とブーレーズの「混沌」を対照的に扱った。
 こうした批評が前兆となった。ブーレーズの滞在は、彼自身とケージ、そしてケージのニューヨーク・スクールの違いを、ますます明瞭にしていった。アール・ブラウンによると、「ブーレーズは会ったとたんにフェルドマンが嫌いになり、またフェルドマンもブーレーズを嫌いました」。実際、ブーレーズがフランスに帰った後、ケージには彼から六ケ月以上も音沙汰がなかった。そしてやっともらった手紙には、二人の間のやっかいな問題点があげられていた。「私は偶然性を完成された作品の構成要素として認めません――またこれからも認めないと思います」とブーレーズは書
いていた。音列技法を発展させることによって、ブーレーズは音楽の可能性を広げたいとも思っていた。「しかし偶然性に関しては、そうした考え自体が耐えられません!」とブーレーズは書いた。
 この手紙の後は、ブーレーズとケージが手紙をやり取りすることはほとんどなくなった。(略)

ブーレーズはフランスの百科事典のために、ケージについて生彩を欠く項目を書き、彼を「音の領域の研究に長けている」と特徴づけた。ケージはダートマス大学の聴衆に、ブーレーズは「物事を音列的に見たために目が見えなくなっている」と述べた。
 破局がやってきたのは、ブーレーズの小論「骰子」が『ヌーヴェル・ルヴュ・フランセーズ』に掲載されたときだった。ブーレーズは偶然性の使用を「知的な悪魔」として非難し、その実践者を「卑しいペテン師」と呼び、彼らの偶然性の手法への傾倒を「強迫観念」「麻酔中毒」と述べた。明らかにケージと『易経』を念頭に置いて、ブーレーズはまた「数的選択のフェティシズム」をけなした。そして、かわりに「演奏に偶然性をとり入れる必要性」を設けることによって、音楽作品に偶然性の基本的な形態を認めることを提案した。たとえば、二台のピアノの作品で、ひとつのピアノのパートに固定したテンポを指示し、アッチェレランドのような可変的なテンポを指示したもうひとつのピアノに重ねると、両者の組み合わせが確実に「アレアトリーな出来事」を生む、というのである。作曲家は厳密によく考えたうえで作曲するが、「制約内での置換」は許容する。
 ケージはこの小論を個人にたいする侮辱だと思い、激怒した。「ブーレーズはいま偶然性を広めようとしていますが、それは彼独自の偶然性でなくてはならないのです」とケージは不満を述べた。(略)

「彼は清々しい人ですが、あまり賢くはありません。彼の新鮮さは、知識の欠如からくるものです」とブーレーズは述べた。

 「キノコ」部門でクイズ番組出演

[ミラノ滞在一ヶ月、批評家から酷評されたが、米クイズ番組「二倍かゼロか」のイタリア版]「いちかばちか」に「キノコ」部門で出ることに。

[4回賭けに勝ち、2000ドル獲得。そこからさらに満額8000ドルに挑戦]

ケージさん、アトキンソンの本にあがっている二四種類の白胞子のキノコの名前をあげてください。(略)

 これは実は難しい挑戦だった。

 ところが驚くべきことに、ケージはこれらの種類の名前を言っただけでなく、それらをアルファベット順に挙げていった。

(略)

ブラーヴォ、ケージさん」。ボンジョルノはケージに、ミラノに住むのか、それともアメリカに帰るのかと聞いた。ケージは、家には帰るけれど、私の音楽はここに残ります、と答えた。

(略)

[イタリアの評判が伝わり本国でも「ヘンリー・モーガン・ショー」と「私の秘密」に出演]

視聴者には文字で知らされる「彼の秘密」とは、自作の音楽作品をいまから演奏する、ということだった。(略)

スタジオの聴衆は、ケージが使おうとしている楽器のリストをスクリーンで見るなり、どっと笑い、拍手した。それらは水差し、鉄パイプ、ガチョウの笛(略)炭酸水の入ったサイフォン瓶、五台のポータブル・ラジオ、浴槽、そしてグランド・ピアノだった。

(略)

楽器の間を歩き回り、圧力なべからシューっと蒸気を出し、サイフォンやミキサーなどを次々と演奏していき、ミラノと同じと思われることをやった。

(略)

[キノコの識別講座を始め、長年活動停止していたニューヨーク菌類協会を復活させ、講演会を開き]

乾燥した標本を大学のコレクションに送り、他のキノコ収集家と手紙のやりとりをし(略)協会の新聞を発行し、収集したものを調理し、料理を食べた。(略)キノコの見本をニューヨークのフォー・シーズンズ・レストランに売った。 

Early Electronic & Tape Music

Early Electronic & Tape Music

 

 

電子音楽に再注目

 一般の聴衆や多くの一般的な報道機関が、相変わらずケージをプリペアード・ピアノの考案者としていることに、彼は頭を悩ませていた。「それは一〇年前の私がやっていたことです。聴衆はいつも一〇年遅れているんです」と彼は一九六一年にインタヴューアーに答えている。実際、プリペアード・ピアノの作品は、彼には「明らかにありきたり」に思え始めていた。

(略)

一九六〇年のはじめ、彼は新たな創意とより進歩したテクノロジーを用いて、ふたたび電子音楽に注目し始めた。

(略)

 ケージは、ミューザックのスピーカーとテープを、ロビーの監視に使われているTVカメラに繋ぐよう提案した。カメラの前を通り過ぎる人たちや、エレベーターに出入りする人たちが、光電子のセルを作動させ、〈スターダスト〉や〈恋の気分で〉のようなミューザック好みの曲のテープが流れる。しかし、ロビーに送られる際に、音楽は電子的にフィルターにかけられ、音は破壊される。「ただ人が部屋を通り過ぎるだけで、中央では粉々になったミューザック以上のものが鳴る」、とケージは想定した。

(略)

セルは決して同じように作動しないため、曲はつねに異なる形で混ぜ合わされることになる。リッポルドはケージのプランを勧めたが、パンナム・ビルのオーナーがこの案を退けた。

(略)

ウェズリアンで電子音楽スタジオを計画していたケージは、「叩かなくても震動している」小さな木片の音すらも拾い上げる、高度に敏感なマイクロフォンの開発を考えていた。《カートリッジ・ミュージック》は、そうした物の内部に宿る音の解放に近いところまで行った作品である。(略)

奏者は、通常は針が入っているカートリッジの差し込み口に、鳥の羽根、タバコのパイプ・クリーナー、誕生日用のキャンドル、小さなアメリカの旗などを挿入する。五枚の重ねられた透明版による仕掛けが、いつ挿入した物体を変えるか、あるいは変えるかどうかを決定する。その物体が何であれ、突き刺し、すばやく触れ、床の上で引きずったときに、あるいは他の手段で接触したときに、音が嗚る仕掛けだ。その物体をつけたカートリッジは、スピーカーからブープ、バリバリという音、爆発音、巨大なゴロゴロいう騒音を送り出す。

(略)

《カートリッジ・ミュージック》の演奏では、椅子やテーブル、くずかごやそうした類いの音が、カートリッジと同様に、増幅器を通じてスピーカーに繋がっているコンタクトマイクをつけることによって、解き放たれる。聴衆はパイプ・クリーナーに内在する音が電子的に放出されるのを聴くだけでなく、パフォーマーがクリーナーにすばやく触れたり、スリンキーを床の上で引きずったり、マイクをつけて互いにすれ違ったり、テーブルや椅子やその他の舞台用の家具を移動するのを見物する。

(略)

[オーケストラ作品を委嘱され、天体図の上に]

星の位置や大きさ、それらが示す音符の音量を決める星の相対的な明るさ――を書き入れた。銀河を表す青い部分は、電子音のフィードバックになった。ソロは室内楽やオーケストラなど、どのような大きさのアンサンブルのなかでも演奏することができ、その長さは指揮者によって指示される。できるだけ多くの楽器にコンタクトマイクがテープでとめられることになっており、マイクから繋がった増幅器とスピーカーは、指揮者のアシスタントによって操作される。この作品が聴衆に行なったのは、「増幅や電子機器を通じて聴きたくないと思ったものを、すべて聴いてもらうことです。つまりフィードバックや音のひずみ、ガタガタいうスピーカー、ロウ・フィデリティなどです」とケージは言う。「曲自体を変質させてしまうような二〇世紀の恐怖を扱っているので」、聴き手は最終的にはこの曲を聴いてむしろ心地よく感じるだろう、と彼は思った。

(略)

《アトラス・エクリプティカリス》が大きな電子化されたアンサンブルと数台のピアノで、よく理解されて演奏されたとき、聴き手は、音がつくる巨大な、感性に訴える、穏やかな強さをもった星空の情景を耳にする。音はそれぞれ「空の星が空間にとり囲まれているように、沈黙にとり囲まれています」とケージは述べた。

(略)

一九六二年、ケージは五〇歳の誕生日を祝った。(略)

「残念なことに、ふたたび五〇歳を迎えることはないのだ」。痛風に罹っていたし、目も悪くなっていたので、電話帳を読むことができなかった。しかし眼鏡をかけることは頑固に拒否した。関節炎でよく眠れないことがあり、そのためにほとんどピアノが弾けなくなっていた。

62年、訪日

東京での最初の日には(略)九二歳にしてまだ執筆を続けている鈴木大拙を訪ねた。そして主催者たちが彼をつねに気遣ってくれ(略)

山――「キノコ刈りのために借りてくれたんだ!」――での散策まで、驚くようなもてなしを受けた。また京都では、龍安寺の有名な庭の近くにある禅寺に滞在した。

(略)

[NYでの]ケージの支援をありがたく思っていた一柳慧は、ケージの到着に先だって、日本でケージについて言い広め、不確定性について紹介し、ケージ、フェルドマン、ウォルフの作品のコンサートを企画した。

(略)

ケージのクラスを聴講したことはあったものの、登録をしていなかったオノ・ヨーコは、はじめてケージに会った後に、夫にこう言った――「あなたが求めていたのはこれでしょう?」。

(略)

 夫妻は一ヶ月におよぶケージの滞在中、ケージのために懸命に働いた。

次回に続く。