日本プラモデル六〇年史 小林昇

日本プラモデル六〇年史 (文春新書)

日本プラモデル六〇年史 (文春新書)

 

 マルサン

[アメリカ出張の際にプラモを仕入れてきた柴田幹雄は開発を命じられる] 

後にプラスチックモデルを作るにはモックアップと呼ばれる木型が必要だとわかるのだが、その時はとりあえず手許にあるラベール社のノーチラスをそのまま石膏で型取りして、雌型の基を作ることにした。(略)[そこから]切削工具で金型に直接彫っていくのだ。いわゆるデッドコピーである。[当然著作権侵害]

[金型製作で150~200万かかるのにひと月の売上が15万と苦戦。そんなときフジ日曜午前10時の30分枠の話が。宣伝費はひと月250万。勝負をかけて『陸と海と空』を開始すると番組終了後デパートの売り場に子供が殺到。4点でスタートしたラインナップが最終的に40点に]

オリジナルの商品以外に、アメリカのモノグラムのキットをデッドコピーしたりして品数を揃えた。

戦記物ブーム

[『0戦太郎』から続々]

 なぜこの時期、これだけ戦記物がブームになったのか(略)

昭和二七年のサンフランシスコ講和条約の発効により(略)GHQの施政下では認められなかった太平洋戦争中の様々な情報が溢れ、それが少年雑誌にも反映したという説がある。

(略)

零戦や隼などのキットは(略)大いに売れたのである。

 少年週刊誌とプラスチックモデルは密接に関連しあいながら、ともに成長していくことになる。

 動くことへのこだわり

動くことへの製作者側のこだわりはかなり強いものがあった。ニチモの江田信太郎は最初の伊号潜水艦を作るにあたり、「ゴム動力ではあるが、動くものにしたい」という強い意志があったと後年述べている。(略)

 この特色は欧米のプラスチックモデルには無かった日本独自のものだった。(略)

 日本のプラスチックモデルが開発と同時に「動く」という方向へ向かったのは、ひとつにはマブチモーターの存在が大きく影響している。

(略)

神林久雄は山田模型で伊号400の「自動浮沈装置」という仕掛けを開発し、特許を取得した。 

 驚愕のマルサン倒産

  怪獣ブームで我が世の春を謳歌していた筈のマルサンが昭和四三年[倒産](略)スロットレーシングのブームの際に、過剰な設備投資をして、それが負担になっていたとされる。(略)

ウルトラセブン』の放映も終了(略)怪獣ブームの終了を見越して[次々と版権はとったが当たらず](略)

工場は当時プラスチック玩具に参入しようとしていた学研に居ぬきで譲渡され、[金型の一部はニチモへ、ノーチラスは童友社へ]

ミニ四駆

[RCカーの成功で勢いづいたタミヤ、社是でアニメキャラモデルを禁じていたため、低学年を対象にした簡単に組み立てられるミニ四駆を開発、しかし惨敗。田宮社長は]

アニメ作家の大塚康生に意見を求めた。大塚からは「真面目すぎる、スケール的に忠実な実車は子どもにとって必要ない。もっとデフォルメされた、子どもの視線に合わせたモデル作りをしなさい」とアドバイスを受けたという。

 その路線で開発された「コミカルミニ四駆シリーズ」(略)

大塚がデザインして六〇年七月に発売された「ワイルドウィリスJr.」はヒットとなったが、まだシリーズ全体を底上げしていくには程遠かった。

(略)

[子供の要望を取り入れたスピード主眼のレーサーミニ四駆が「コロコロ~」とのメディアミックスもあり大ブームに]

田宮俊作氏インタビュー

 入社すると同時に私は一人で企画部という部署を作り、新商品の開発に取り掛かりました。(略)

この頃の主力は木製の艦船模型です。(略)

艦船模型をスケール(縮尺)で統一するべきだと主張したのですが、専務と大激論になったことを覚えています。専務は、模型は箱のサイズに合わせればいい、スケールなど気にしなくていいというのです。私がねばってねばって、とうとう専務が折れてくれました。懐かしい思い出です。

(略)
[最初にプラモを買った時は]

「えっ、こんなの模型じゃない」と思いましたね。(略)どの部品も表面がつるつるとしてきれいで、角も見事な曲線が付いている。木製模型というのは、材木をある程度おおまかに切った部品しか入っていません。それを自分でカンナやカンナヤスリで削って、形を出していく。プラスチックモデルではそんな加工が必要ない。つまり模型を作る人が手を出す余地がほとんどない。部品を接着剤で付けるだけ。だからこんなの模型じゃないと思ったわけです。
 そう思ったのはちょっと嫉妬心があったのかもしれません。木製模型とは段違いの完成度でしたから。これは時代の流れが変わるぞという思いがしましたね。

(略)

[パンサータンクを作る時に]

マブチモーターと単二乾電池が入る大きさということで設計していくと、偶然1/35のサイズになった。それからずっと1/35です。

(略)

 実はプラモデルは実物を単純に縮小しても、それらしく見えないのです。それなりのデフォルメを加えなくてはいけない。車だったら少し車高を低くするとか、飛行機ならばエンジンカウリングから風防にかかる部分を少し強調するとか。そういう工夫があって、零戦はそれなりによく出来たと思って発売しました。
 すると発売間もなく、日本航空界の泰斗である木村秀政[から銀座の料亭に呼び出され、恐る恐る出向くと](略)

木村さんの他に龍角散本舗の藤井康男社長、木村屋パンの木村泰造社長がいらっしゃって、「田宮さん、よく素晴らしい零戦を作ってくださいました」とお褒めの言葉を頂戴しました。藤井さんも木村さんも根っからのプラモデル好きとして知られていました。

(略)

[サーキットカー大ブーム]

日本のメーカーも続々と参入しました。でも見ていると、日本製のキットの多くがアメリカのものの真似だったり、ひどいものではデッドコピーまでありました。(略)[国産プラモ発売]から七、八年経つのにまだこんなことをやっている。それには落胆しましたね。
 それでタミヤでは「時間がかかってもいいから、アメリカ製に負けないようなオリジナルなものを作ろう」と企画部員にはっぱをかけました。

(略)

アメリカ製に勝つには、コーナリングの性能を良くすることだという考えに辿り着き、当時カメラに使われていたボールベアリングを車軸に採用し、後輪にコイルスプリングのサスペンションを使用しました。シャーシは敢えて重い真鍮を使い、安定性を出すようにしました。(略)

[こうして発売されたタミヤ製が速さで圧倒し]アメリカ製のキットは消えていきました。[しかし、間もなくブーム終焉]