『リア王』の時代・その3

前回の続き。

『リア王』の時代:一六〇六年のシェイクスピア

『リア王』の時代:一六〇六年のシェイクスピア

 

アントニークレオパトラ

 かりにシェイクスピアが『ジュリアス・シーザー』の続編を書こうと考えていたとしても、その頃起こっていた事件のためにアントニー没後の政治性とクレオパトラとの関係を掘り下げるのはあまりに危険になっていた(略)

[『アントニークレオパトラ』を]執筆してまもなく、グレヴィルは原稿を焼き捨て、写しも残さなかったため、どれぐらい広く人に読まれたのか、シェイクスピアがその劇のことを聞き及んでいたのかもわからない。

(略)

 グレヴィルが原稿を焼き捨てたのには理由があった。『アントニークレオパトラ』を書いてわりとすぐに、エセックス伯がアイルランドの叛乱の鎮圧に失敗して許可なく帰国したうえ、帰ってきた伯爵がいきなりエリザベス女王の部屋に飛び込むという事件が起こったのだった。女王の寵臣であった(そして愛人でもあったと噂された)エセックス伯が女王の御前に出たのはその日が最後となった。自宅監禁に処せられ、役職をとりあげられたエセックス伯は、一六〇一年二月に僅かの仲間とともにエリザベス女王に対して謀叛を起こして捕らえられ、その月の下旬に処刑された。

(略)

現状では、ローマの没落兵士とエジプト女王の情事についての劇は(略)[エセックス伯と]女王との関係を書いているのは明らかと看做されてしまうとグレヴィルは気づいたのだ。(略)

老いていくクレオパトラとそのカリスマ的な恋人の軍人の物語を語るのはあまりにも危険すぎた。

(略)

 グレヴィルはエセックス伯と親密な関係にあったにも拘わらず、依然としてエリザベス女王から死ぬまで信用され、報酬を受けていた。だが、ジェイムズ王の時代になると、宮廷での影響力は衰え、王から遠ざけられて苛立っていた。エリザベス女王が亡くなって七年後、欲求不満のグレヴィルがついに『アントニークレオパトラ』を葬り去った経緯を語ったとき、その劇の政治的意味合いは変わってしまっていた。時が経ち、善良なる女王ベスを懐かしく思う気持ちが高まり、グレヴイルが破棄した劇は、今振り返ってみれば、このスコットランドの王が露骨にえこひいきをしすぎていることを暴くのに役立つのである(ジェイムズ王と違って、エリザベス女王は「どんなに立派な人がいても、寵臣扱いをして酒の取引を独占させたり国事を任せたりしなかった」とグレヴィルは書いている)。この過去を再び訪れることで、かつてはスキャンダラスだった『アントニークレオパトラ』の物語を何か高貴で英雄的なものにできるのではないかとグレヴィルは願った。

デンマーク王訪英

[1606年王妃の弟デンマーク王クリスチャン四世が八艘のオランダ艦隊と訪英]

一行はセオバルズに四日滞在したが、クリスチャン王はどういうわけか、かんかんになってグリニッジのアン王妃のもとへ(最初は驚くべきことにジェイムズ王を置いて)帰ってしまった。

(略)
二人のあいだの軋轢の原因は、男らしい活動の発想が違っていたとか、たった一日の狩猟で十二頭の馬が殺されたことにクリスチャン王が苛立ったとかいうことではなく、ジェイムズ王がアン王妃に対して無神経すぎることをデンマーク王が怒ったことにあった。

(略)

 スポーツマンである義弟と比べられるのはしかたなかったが、ジェイムズ王はその度に嫌な思いをすることになった。ジェイムズ王は、『アントニークレオパトラ』のアントニーに警告する予言者の「あの人と一緒に何かの試合をしたら、必ず負けます」という台詞に眉をしかめたかもしれない。クリスチャン王には勝てなかったからだ。とりわけ輪型の的を馬上から槍で突く競技でクリスチャンと争ったときの負けは忘れがたいものだった

(略)

 かつての君主と現在の君主を比べることは、ハリントンもグレヴィルもわかっていたように、命懸けの仕事だった。そして、アントニークレオパトラについて書くことは、最初グレヴィルが理解して今シェイクスピアが理解したように、どうしても政治的、時事的にならざるを得ず、扇動的なところもあった。それゆえ、シェイクスピアの新作が、シェイクスピアの英国歴史劇ほどはっきりしたことを書けないのはしかたのないことだった。とはいえ、この新作は、エリザベス朝時代とは変わってしまったジェイムズ王朝時代の暮らしについて、曖昧ながらも強力で洞察力に富むことを示している。

(略)

 『アントニークレオパトラ』は、古代の歴史を語り直す際に、かつてローマに住んでいた偉人たち――ジュリアス・シーザーポンペイ、ブルータス、キャシアスといったすでに亡き者たちと、やがて同様に過去の人物にならんとするアントニーとそのエジプト女王――に対して、この劇の明らかな勝者であるオクテイヴィアス・シーザーとを対置させている。後者はかなり小物となり、自分で戦うよりは他の者を戦闘に送り込み、巧みな計略によって世界制覇を狙い、征服した敵を引き連れて凱旋する夢を見、自分より先に死んだ偉人の埋葬を利用して自分の株を上げようとする。
 シェイクスピアにとって、ハリントンにとってと同様に、武勇に優れたクリスチャン王の艦隊のこの夏の来訪は、当時の多くの人たちが感じていたことを象徴する事件だったのではないだろうか。つまり、エリザベス朝時代は過去のものとなり、アルマダ艦隊を打ち破り、アイルランドを征服した世界は消え去り、そこに大勢いた今では死んだか処刑されたか投獄されてしまった実物大以上の傑物――エセックス伯はもちろん、サー・ウォルター・ローリー、女王の強力な顧問バーリー卿(ソールズベリー伯の父)、亡くなったばかりのマウントジョイ卿、そしてもちろんエリサベス女王自身――もまた、つまらない人間(特にジェイムズ王)に取って代わられてしまったのだ。(略)

アントニークレオパトラ』は、ノスタルジアの悲劇であり、エリザベス朝時代を懐かしむ政治的作品なのだ

エリザベス再埋葬

 エリザベス女王は、その長い治世が終わりに近づいたとき、高価な墓で自らを記念碑化する必要を感じなかった。一六〇三年に亡くなったとき、ウェストミンスター寺院の祖父ヘンリー七世の墓に埋葬され、テューダー朝の最初と最後の王が肩を並べることになった。しかし、ジェイムズ王はエリザベス女王を別のところに埋葬する計画を立てていた。

(略)

一六〇六年の再埋葬は、複雑な歴史修正主義のためになされた。

(略)

 王位に就いて三年経ってなお、イングランド歴代の君主のなかでスチュアート朝がどう位置づけられるのかいまだに不安を感じていたジェイムズ王は、ヘンリー七世からの血を継いでいるからこそイングランド王座に就く権利があるのだから、エリザベスもヘンリー七世の正当な後継者とわかる場所に埋葬すべきなのだ。一六二五年にジェイムズが死んだときも、もちろんヘンリー七世の礼拝堂に埋葬された。それ以降は、ヘンリー七世からの系譜は分かれている。

(略)

ジェイムズは二十四年前にピーターバラで埋葬された母親を掘り返し、一六一二年にウェストミンスター寺院に、エリザベス女王の墓の約三倍もの費用をかけた贅沢な墓を建てて埋葬し直したのである。母親をその天敵であったエリザベスの反対側に置くことで、ジェイムズは自ら勝者と敗者を一つにする偉大な和平調停者の立場に立ってみせた。カトリックプロテスタントテューダー朝の女王たちの宗教的不和を象徴的に和解させたというわけである。

(略)

ジェイムズ王はエリザベス女王をどけようとして、新たな注意を女王に向けてしまった。王の思惑は、寺院のなかにあるさまざまな墓に意味のある関係を持たせることだった。ところが、エリザベス女王の像のイメージはやがてその文脈から飛び出して、ジェイムズ王の目的とは裏腹に、独り歩きをしてしまったのだ。数十年後、トマス・フラーはジェイムズ王がエリザベス女王のために建てた墓の彫刻が国中の教区の教会を飾ったことを記している。「いきいきとしたその絵は、ロンドンじゅう、そしてほとんどの地方の教会に描かれ、どの教区も女王の墓の面影を誇りにした。それも当然であり、臣民一人一人が心の中で、女王の死を悼む記念碑を建てていたのである」。

(略)

エジプト女王クレオパトラの人物像や、この劇に漲るノスタルジアは、亡くなったエリザベス女王に対してイングランドじゅうの人たちが感じ始めていた心境の変化の影響を受けていたことほまちがいない。
 シェイクスピアは、エリザベス女王の治世の最後の十年間に宮廷に呼ばれることも多くなり、虚栄心に富み、強気で、才気煥発で、粗野で、ふざけ好きで、勇敢で尊大といったさまざまな気分の女王を目にしていたことだろう。だが、クレオパトラの場合と同様に、最も大切なのは、どのように記憶されるかだった。ゴッドフリー・グッドマン主教は、十七世紀の最初の数年を思い返して、エリザベス女王崩御の頃に人々は「老婆の治世にたいていかなりうんざり」[していたが、ジェイムズ王治世下](略)

我々がスコットランド式の政治を経験し、スコットランド人を軽蔑し、憎み、嫌ったところ、女王が思い返されるようになった。その記憶はかなり拡大され、華やかなものになり、女王を想っての説教がなされ、人々は喜んだのだ」。 

少年劇団の衰退 

 十一月まで執拗に続いた疫病は、老人よりは若者に残酷な被害をもたらし、地方営業で赤字を埋め合わせていた成人劇団よりも少年劇団に打撃を与えた。つい数年前、成人劇団の優位が少年劇団に深刻に脅かされたとき、『ハムレット』のなかでシェイクスピアは、「子供」が「今や売れっ子」となって、諷刺劇で「大人の芝居を扱き下ろす」と書いていた。一六〇六年の長期の疫病は、少年劇団のなかでも最も有名だったセント・ポール少年劇団をだめにしてしまったようで、この劇団はその年の劇場閉鎖が解かれても復活しなかった。

(略)

[さらに]「神を称えて賛美歌を歌う者がそのような淫らで罰当たりな仕事に従事させられるのは不適当で見苦しい」がゆえに、少年聖歌隊から少年俳優を募ることが禁じられたのである。(略)

この禁令により、劇団が長いあいだ頼っていた才能の補給線が完璧に断たれてしまった。

(略)

少年劇団のために劇を書くのを好んできた大胆な若手劇作家たちは、今や流れが変わったと気づいたことだろう。そして一六〇六年こそ、自分たちの才能を発表するのに最もふさわしい代表的成人劇団として、若い劇作家たちが国王一座を選んだ年なのだ。

(略)

それまで少年劇団専属だったその他の新参の劇作家たち(略)は、やがてシェイクスピアの劇団に乗り換えていった。

(略)

 こうしたことのシェイクスピアヘの影響は計り知れなかった。伝記作家たちは、シェイクスピアの作風の変化を作者の心理状態のせいにしてきた(つまり、喜劇やソネットを書く時はシェイクスピアは恋に落ちたり失恋したりして、落ち込めば悲劇を書き、『ハムレット』を書いたときなどは嘆き悲しんでいたということになる)。確かに作家の思いは執筆に大きく影を落とすだろうけれども、四半世紀にわたる執筆活動のあいだにシェイクスピアが感じていたことについて我々は実は何一つ知らず、ただ作品から逆に憶測しているだけなのだ。むしろわかっているのは、一六〇六年にネズミがもたらした災害でシェイクスピアの作家生活が大きく変わり、その劇団も変貌・刷新し、競争が減って、シェイクスピアが相手にする観客の質が変わり――それゆえシェイクスピアの作風が変わり――有能な音楽家や劇作家との共同作業ができるようになったということなのだ。それもこれも、シェイクスピアも命の危険を感じた疫病のせいである。 

統合問題

[王は国会で]スコットランドイングランドの一体を法律でもって確認しようとしていた。(略)

統合問題はもはや先送りできなかった。これまでその代わりに何を議論していたかと言えば、反カトリック対策であり、ジェイムズ王のための助成金をしぶしぶ認可する法案であり、(略)腐敗した調達法によって収入を得る権利を王室から奪う法案を論じていたのだった。

 ジェイムズ王は国会で自ら統合を訴えるという異例の手段に出た。(略)王は九十分間、「とても長い」「雄弁」などと評価された演説を行った。これまであまりにも多く国会での妨害や遅延があったため、王はこれが恐らく最後のチャンスであり、ある程度妥協してでも、長いあいだ求めてきたものを手に入れなければならないと考えていた。

(略)

王は国会議員たちに警告した。「失敗すれば、提案をした王が愚かだったか、それに賛同しなかった国民が強情だったということになろう」。

(略)

ジェイムズ王が国会に要求しているのは無理なことではなかった。この時点で王は少なくとも途中まで譲歩しており、一六〇四年にスコットランドイングランドの理事会で調整された統合協定書に記された四つの点のみの議決を求めていたのだ。すなわち、両国間の敵意ある法律の撤廃、国境地帯の別々の法的立場の解消、経済的統合の交渉、そして帰化問題の解決である(最後の問題は、民族と法律の両方が絡むので最も難しかった)。
 こうした穏健な目標を掲げたにも拘わらず、王は屈辱的にもはねつけられることになる。歴史学者コンラッドラッセルがこの国会を説明して辛辣に記したように、「下院はそうするつもりがなくとも決議を遅らせるのが得意だが、そうするつもりになったら、完璧だった」のである。

(略)

もはや統合だけの問題ではなかったのだ。法律や民族的アイデンティティーの明確な違い、国王の権利などの問題が立ち現れると、社会的政治的な構造にほころびが見え始めた。そうした空気のなかで、ジェイムズ王を「グレイト・ブリテンの皇帝」と呼ぶ法案をを弁護する演説は、「国会で失笑を買い」、さらに不愉快な三十分の重たい沈黙が続いたのだった。 

クォート版とフォーリオ版

 宮廷で『リア王』が上演された頃は、シェイクスピアが『リア王』を書き始めた頃とは様子が違ってきていた。かつては、何らかの統合ができそうに思えていて、「王国分割」というテーマは深刻ではなくともタイムリーではあった。ところが今では、統一されたブリテン国がばらばらになる劇を見てぞっと身震いする人がホワイトホールにいそうだった。火薬陰謀事件はかつてこの王国にあった二分された忠誠に対する古い恐怖に再び火をつけ、ますます紛糾を極めてきた統合問題のせいで、政治権力の線引きについて新たな注意が払われるようになっていた。
 このような状況下で、シェイクスピアが『リア王』を書いたときにはそれほど問題とは思えなかったことが今では大問題となっていた。コーディーリアの侵略軍に加わる者は、ブリテンの統治に逆らう外国勢力を支持する謀叛人なのか。グロスターを「いやらしい裏切り者」と呼ぶリーガンは正しいのか。シェイクスピアはこの劇のオープニングの場面を書いたとき、イングランドのこれほど多くの人たちが別種の忠誠テストを受けさせられ、期待どおりの言動を拒否したら罰せられるようになるとは思ってもみなかったはずだ。シェイクスピア自身の娘スザンナが、コーディーリアのように、権力の意思に屈しようとはしなかったのは皮肉としか言いようがない。

 『リア王』の一六〇八年出版のクォート版以外に、当時のテクストがもう一つ残っている。一六二三年に出版されたフォーリオ版である。学者たちは、これら二種類のテクストのあいだに一千もの違いを見つけた。ほとんどは些細なものであるが、十数箇所は重要な異同だ。

(略)

リアの死に方が違っていたり、最後の台詞を話す人物が違っていたりして、二つの版の終わり方が激しく異なるために大きな問題となる。

(略)

 一六〇六年十二月に上演されたときの台本としてあるのが、シェイクスピアの草稿から起こされた問題含みのクォート版であるわけだが、そこには考え得るかぎりつらくて黙示録的なエンディングが書かれているのだ。

 リアが絞殺されたコーディーリアを腕に抱き抱えて登場する。コーディーリアはエドマンドの命令で殺されてしまった。リアはそれから、コーディーリアが死んでしまって永遠に失われたということを苦悩しつつ認識しながら死んでいく。

(略)

『レア王』という昔の物語では王は王座に復帰し、末娘とも和解するので、それを知っていた人はこの宮廷上演の結末に驚き、国家崩壊のイメージとその恐怖および王家の全滅は一年前の火薬陰謀の激しい幻想に似ていると思ったことだろう。

(略)
 スコットランド人が支配をするというこの展開にジェイムズ王は喜んだかもしれない(略)が、妻を失い、子供のいないオールバニ公爵には、王国刷新の希望は少ない。クォート版には、生き残った者が行進して退場するというほとんどお決まりの最後のト書きさえない。その代わりに、劇は死んだ王が殺された娘を抱き抱えて動かない静止した像で終わる。これは、数分前オールバニ公爵が「味方には各々の美徳の報いを味わわせ、敵には敵にふさわしい苦杯をなめさせる」と宣言したときに表明された敬虔さを嘲るものだ。これは暗い時代にふさわしいのかもしれないが、一六〇六年の聖ステファンの祝日に宮廷で演じられた『リア王』がここまで暗澹として希望がないというのは、この劇の長い上演史におけるどん底を示していたと言えよう。
 この劇の終わりはあまりにも暗く、あまりにも耐えがたい。フォーリオ版をまとめたのが誰であれ、その人はたじろいで、この劇の終わりを深淵から引き戻した。二つの大きな変更がなされている。一つは、劇の最後の台詞をエドガーに言わせたこと。ずっと身分の高いオールバニがまだ生きているのだから、思いもかけぬ変更である。その効果は、より若い世代に権限が与えられ、将来に希望が見えてくるということだ。フォーリオ版でなされたその他の変更もその流れを強化するものであり(略)

付け加えられた締め括りのト書もこの新しい流れを支持している。フォーリオ版では、生き残った者たちは厳かに退場するのだ。(略)

 改訂版テクストは、壊れたリアが愛する娘の死という究極の極限に対峙するのを見守る苦悩からも尻ごみしている。フォーリオ版では例の「おお」という呻きはなくなり、胸が裂けてしまえというリアの最後の叫びもなくなり、その台詞はケントの台詞になっている。その代わりにリアは、最後の瞬間にコーディーリアの唇が動き、まだ息をしているのだと信じて死んでいくことになる。

(略)

一八世紀にサミュエル・ジョンソンが「コーディーリアの死に私は非常にショックを受けたので、自分で編者としてこの劇を改訂しなければ、とても劇の最終場を読み直せなかったと思う」と語ったが、そうしたショックを受けたのはジョンソンだけではなかった。

 フォーリオ版の改訂は、観客が耐えがたいと思った部分をどんどんやわらげていく改訂の大きな流れの第一歩だった。(略)半世紀ほどたった一六八一年には、クォート版とフォーリオ版のエンディングは劇場でほぼ完璧に否定されてしまった。その年、ネイハム・テイトがシェイクスピアの『リア王』の復刻版として『リア王の物語』を出版したが、これは『レア王』にあったハッピー・エンディングを復活したのだが、それだけではなかった。なんとリアは生きていて、コーディーリアとエドガーが結ばれ、二人はリアの王国を継ぐのだ。「真実と正義は、最後には勝つのです」と、エドガーが皆に請け合って大団円となる。この改訂に微笑むのは今だからこそできることであって、そのあと一世紀半ものあいだ、役者も観客もこの方がクォート版やフォーリオ版のエンディングよりも納得がいくと考えたのである。すなわち、テイトが書き直した『リア王』は、一八六一年から一八三八年まで舞台を席巻したのだった。