『リア王』の時代・その2

前回の続き。

『リア王』の時代:一六〇六年のシェイクスピア

『リア王』の時代:一六〇六年のシェイクスピア

 

寵臣といちゃつくジェイムズ王

 一六〇六年新年の祝賀は、国王にとっても国王一座にとっても、祝日にはならなかった。(略)

王が暗い気分になるのも無理はなかった。命を狙われてもだいじょうぶだったということで政治的に有利な展開になったものの、この小康状態がいつまで続くかわからなかった(略)
 議会はますます聞く耳をもたなくなってきたものの、少なくとも一か月以内に召集されて統合をどうするか議論することになっていた。金遣いが荒くて財政的に問題のある君主に補助金を出すかどうかの決議もなされるはずだ。イングランドにいるカトリック教徒らをあまりに厳しく取り締まりすぎると、また王の命を狙われるかもしれなかった。かといって寛容すぎると、国教忌避を厳しく取り締まる法案を通したがっている下院を敵に回して、やはり命を狙われるかもしれなかった。さらに面倒なことに、王妃アンが、ルター派プロテスタントとして育ったにも拘わらず、カトリックに改宗してしまい、外面を保つためにプロテスタントの祭式に参加していた。国内問題だけでも手がつけられないのに(略)

イングランドカトリック信徒の行く末を心配したローマ教皇パウルス五世が対抗処置に出ると警告してきたのだ。

 クリスマス前のその日曜日の陰鬱な食事のあと、ジェイムズ王は、「激しくお怒りになり」、憂鬱な沈黙が爆発的憤怒となった。

(略)

教皇が私を破門するというローマからの急使があった。カトリックどもは、私が信仰の自由を認めないかぎり、私を廃位し、命を奪うと脅すのだ。こうなったらやつらの血でこの手を染めざるを得まい。

(略)

 ジェイムズ王はこの調子で一時間続けた。(略)

[ヴェニス大使]モリーノは、仲間のカトリック信徒の苦境を慮って、こう本国に報告した。「聖職者の逮捕のニュースばかりあり、まだ大多数は隠れているにせよ、役人の仕掛ける罠に不安は禁じ得ない。すでに逮捕された者も多く、死刑になると思われている。そして、次期国会ではカトリックに厳しい対応がなされるであろう」。(略)

[さらに王は亡きエセックス伯の息子とサフォーク伯の娘]と結婚させて未だ膿んでいるエリザベス朝時代の古傷を癒そうとしていた。十代の恋人たちの犠牲的な統合によって、遺恨ある家族同士が一つになるのであるから、これはジャコビアン版『ロミオとジュリエット』だ。(略)

[モリーノは]そんなことをしても焼け石に水であるというのが大方の意見である」と記した。

(略)

 シェイクスピアの時代の結婚について広く信じられていることとは裏腹に、十代の結婚は稀であり、十代で結婚しても性的関係を結ばないほうがよいと強く考えられていた(まだ成長中の体には危険であり、特に少女が出産するのは常に危ないとされていた)。当時のイングランドの平均結婚年齢は、男女を問わず、およそ二十五歳だった。同盟関係を固めたり男子の世継ぎを確保したりするために幼い子供を結婚させるのは、一握りの富裕な貴族の話だ。
 法的に結婚が認められたのは、男子が十四歳、女子が十二歳だった。それゆえ、アーサー・ウィルソンがのちに記したように、エセックス伯とフランセス・ハワードは「結婚するには早すぎるが、結婚できる年齢」だったのである。二人の肉体が結ばれるのは延期され、若きエセックス伯は荷物をまとめて長い大陸旅行へと出かけ、花嫁は実家へ戻された。二人とも配役された役どころをじょうずに演じてみせて、幕引きとなったのだ。
 ジェイムズ王自身は、後悔していたかもしれない。前年のクリスマス・シーズンに、二十歳のフィリップ・ハーバートを、オックスフォード伯の十七歳の娘スーザン・ドゥ・ヴィアと結婚させたばかりだった。寵臣ハーバートは人目もはばからずジェイムズ王といちゃつき、王は明らかに心を惹かれていたのだ。一六〇四年の元旦に、ハーバートは緑の野に立つ種馬を描いた儀式用の盾を手にして王の前に現れた。王がその意味を尋ねたところ、若者は「これに乗れるのはアレグザンダー大王ほど偉大なる者のみです」と、誘いをかけるかのように答えた。王はその仄めかしの意味を理解し、ダドリー・カールトンが報告するところによれば、「この青二才(仔馬)を馬屋へ送るぞと陽気に脅かした」。ジェイムズは花嫁とも冗談を交わし、「もし王妃がいなければ、あなたを結婚させずに自分のものとしていたのに」と言ったという。仮面劇が結婚による貞節を言祝ごうが言祝ぐまいが、王の欲望はまったく別のところにあったのだ。

(略)

 シェイクスピアはジョンソンの仮面劇を観て衝撃を受け、まずまちがいなく『ヒュメナイオスの仮面劇』の本を入手しただろう。(略)

つい数年前、エリザベス女王治世では(略)シェイクスピアの劇は宮廷でのクリスマス期の目玉となっていた(略)

ところが、シェイクスピアの新作は今や、クリスマス期に上演される大量の劇に押しのけられそうになっていたのみならず、宮廷仮面劇の壮大さと比べても色褪せて見えていたのだ。

 つい数年のあいだに、どうしてシェイクスピア作品は真打ちから前座へ落ちてしまったのだろうか。

二枚舌、曖昧表現、心裡保留

 『マクベス』より以前、「二枚舌」という語は、シェイクスピア劇に一度出てくるのみだ。

(略)

 「エクィヴォケーション」はもともと珍しい学術用語であり、十六世紀のイングランドでは数十冊の本でしか用いられておらず、それもたいていは宗教論で、戯曲や詩や物語で用いられたことは一度もなかった。

(略)

 ところが、一六〇六年にシェイクスピアがこの語を用いたときは、もはや誰もが知っている言葉となっていた。ほとんど一夜にして、国民にショックを与えるキーワードとなり、シェイクスピアが執筆中の『マクベス』で強力な光を放ったのだ。もはや無色透明な語ではなく、「あることを言いながら実は別のことを意味して真実を隠す」という意味で理解されるようになっていた。シェイクスピアは、観客がその意味で理解するとわかっていて、マクベスに「決意がぐらつきだした。真実のように嘘をつく悪魔の二枚舌だったのではないか」と言わせている。

(略)

[この急激な変化をもたらした]文書には、数年前にカトリックの囚人が性的暴行を受けて転向することがなければ決して書きとめられることはなかったであろうと思われる危険な議論が記されていた。

(略)
[火薬陰謀事件で連行され獄死したフランシス・トレシャムら]を尋問したのは、サー・エドワード・クックだ。
 クックは頭脳明晰で虚栄心に富み、情け容赦なく(略)「少なくとも七年ごとに偉大な人物を破滅させなければ気がすまない」という男だった。(略)火薬陰謀事件の首謀者たちをやっつけられればさらに自慢の種が増えることになるわけだ。

(略)

 捜査官たちが見つけたのは(略)誓言をしながら嘘をつく方法を特にカトリック信者に教える二枚舌論だ。クックは自分が見つけたという手柄を明確にするために(あるいは証拠としてきちんと扱われるように)その文書の見返しに、何をどこで見つけたのか次のように注意深く書き込んだ。(略)エドワード・クック記す」。

(略)
 クックがこの論文から学んだのは、イエズス会士は曖昧表現に四通りあるとしていたことだ。第一の単純な方法は、わざと曖昧な表現を選ぶやり方。自宅に神父を泊めていても、神父は「私の家におりません(lyeth not in my house )」と言って否定してよい。なぜなら「おりません(lyeth not)」にあるlieという動詞は「嘘をつく」の意味にもなるので、「神父は私の家で嘘をついていません」は真実だからだ。第二の方法は、重要な情報の省略。たとえば、自分は友人の家に食事をしに行ったのですと言って、食事をしたほかにカトリックのミサを開いたことは伏せておく、など。(略)

第三の方法は言葉と所作を交ぜて用いる。「権力側が捜している人物はどこにいるのか」と尋ねられたとき、「こちらのほうには来ません」と言いながら、袖のなかでこっそり別の方を指さす。(略)

真に社会を揺るがしたのは第四の方法だった。当時のイングランドの著述家たちが「心裡保留」と呼ぶもので、思っていることと口にしたことが食い違っているのだが、相手には食い違っているとわからないという方法である。たとえば「ジェラール神父を……見かけていません」と言うとき、心のなかで「巧みに作られた隠れ場所に隠れていらっしゃるところを」と付け加えるといった具合だ。質問している相手にはこちらの心の中まではわからないが、確かに神が心の中をご存じであると信じるなら、それは嘘でないと言えるかもしれない。だが、これが嘘でないなら、何が嘘だろうか。数年後、心裡保留の意味がよく理解されたとき、法廷は、誰もがやってみたがりそうなこんな教義がまかり通ってしまえばいかなる混乱をきたすかと恐れて、「この邪悪な教義をしっかりつぶさないと、社会は成立しなくなる。こんなものが人々の心に根づいたりしては、誠実さも真実も信用もあっという間に崩れ、きちんとした社会は崩壊してしまう」と指摘した。
 このように真実も信用もない絶望的な社会観が示されるとき、二枚舌を使うマクベスが統治するスコットランドがまさにそういう社会になっていることを思わずにはいられまい。そこは、言葉が意味を裏切り、正直なやりとりが不可能となった悪夢の世界だ。マルカムが仲間のスコットランド人マクダフに、信用したいができないと言っているのはそういうことだ。

(略)

[ガイ・フォークスによる火薬陰謀事件は]もはや一握りのカトリックの不満紳士たちが国王の死を謀った事件というより、その計画を可能にした邪悪な思想の問題となっていたのだ。謀叛人なら内臓を抜き、斬首し、四つ裂きにできたが、思ったことを口にしないという心の謀叛を根絶やしにすることは難しかった。

悪魔憑き

 シェイクスピアは、エドガーが悪魔憑きの狂人を演じる場面を書く際にハースネットの『途轍もない教皇派のまやかしに関する報告書』を利用したので、この本は『リア王』の貴重な種本として広く認められてきたが、『マクベス』の種本としてはめったに議論されてこなかった。しかし、『マクベス』においてシェイクスピアがハースネットの議論――人間が悪に走るのは悪魔的なもののせいだと(略)誤って看做されてきたこと――をさらに深く追求していることは明らかである。

(略)

 シェイクスピアがハースネットから影響を受けたことが最もはっきりわかるのは(略)

カトリックの司祭たちのせいで自分は悪魔に憑かれてしまったと信じた十代の女性使用人フリズウッド・ウィリアムズについてのハースネットの説明を利用したところである。台所で働いているときに転んでお尻を傷つけ、その後も痛みが治まらず、司祭たちにそれは転んだせいではなく悪魔の呪いなのだと言われた少女の話である。「治す」ために、少女は悪魔祓いをされ、めまいがする薬を飲まされ、脚にピンを刺されたり、釘を呑まされたりした。釘はすぐに口から出されたが、トリックに気づかない目撃者たちは仰天した。

(略)

 あるとき、司祭に回廊に連れてこられた少女は、そこに「新しい首吊りの縄と二本のナイフ」があるのを見た。(略)

[あえてそれが見えないふりをする司祭]

少女はあとで「悪魔に憑かれた人が縄で首を吊るかナイフで自殺するように、悪魔が回廊に置いたのだ」と教えられた。この話で真に悪魔的なのは、二枚舌を使う司祭のあざといやり口である。

(略)

 悪魔に憑かれているのではないかという疑念は、マクベス夫人をどう解釈するかに関しても問題となる。

(略)

 夫人は深淵から恐ろしい悪魔を呼び寄せるが、夫人に取り憑き、夫妻を破滅させるものは、結局夫人の中からやってくるのである。

 人が悪事を働くときに何に憑かれているのかについて安易な表現を避けるシェイクスピアは、まさに時代に即した劇を書いた。火薬陰謀事件の余波のなか、当時の人たちは、あれほどの悪魔的犯罪はいったいどうして生まれたのかと考えていた。

地上の地獄

 だが、二枚舌に関する門番の台詞はそれ自体が曖昧表現となっている。(略)

ガーネットが陰謀に関与したという政府側の主張を多くの人は確かに受け入れたものの、自分のためではなく「神様のために謀叛を働いた」信心深い人物であるから寛大な処置をすべきだと考える人たちもいたのだ。強要され、拷問すら受けて二枚舌を使ったかもしれないが、「神様には二枚舌は使えなかった」というのは、そのようなつらい状況で心裡保留をするときに胸の内に何があるか神様にはおわかりだからである。
 この場面設定も問題だ。悪魔の手先のつもりでいる酔っ払いの門番の言葉をどこまで真面目に受け取るべきか。

(略)

 この劇における最も重大な曖昧表現は、マクベスとバンクォーが最初に魔女たち(略)と出会う場面で起こる。最初の魔女がマクベスを「グラームズの領主」と呼び、二人目が「コーダーの領主」と呼びかけ、三人目が「やがて王となるお方」と呼ぶ。それからバンクォーに「王を生みはするが、ご自身は王にならぬお方」と言う。どれも嘘ではないが、重要な情報を告げていないという点で二枚舌になっている。(略)

二枚舌のせいで、『マクベス』の対話を理解するのは精神的に疲れることになる。観客は――二枚舌を使うイエズス会士と話をする役人同様に――言葉どおりの意味なのか、そうでないなら、心裡留保によって隠されていることは何なのかを理解しようと努めなければならない。

(略)

 『マクベス』のおけるシェイクスピアの最も強烈な洞察は、そのような悪弊の広まった状況では(略)悪のみならず善もまた二枚舌を使うと見抜いていることだ。(略)

火薬陰謀事件のあとでは疑いの文化が根付き、もはや元には戻らなかった。『マクベス』の後半では、最も尊敬されるべき人物たちでさえ、誓っておいて嘘をつき、道徳を地に落としている。

検閲 

 ジェイムズ王にとって暗殺未遂の脅威があって最もよかったのは、財布の紐を握っている国会が安堵して、喉から手が出るほど欲しかった収入を王に与える決定をついに下してくれたことだ。

(略)

 この春のもう二つの政策は、シェイクスピアにもっと直接的な影響を与えただろう。第一は[1606年制定された](略)“役者の罵声禁止令”だ。(略)

 ロンドンの演劇界は、なぜこの法制が進められてしまったか重々承知していた。(略)[二月に上演された王妃祝典少年劇団]『馬鹿の島』のせいだ。(略)統合問題の扱いのことで、政府を怒らせてしまったのだ。

(略)

激怒した下院議員たちはこれを機会に、冒涜を取り締まるべしと行動を起こしたのだ。
 それからは、神様、キリスト、聖霊、あるいは三位一体の名をふざけて、あるいは冒涜して口にした役者は、十ポンドもの罰金を科せられた(年収の約半分)。これ以降、シェイクスピアの劇に「神」は出てこない。施行を促すために、この法令は、罰金の半分は国庫に入れられるが、あとの半分は違反を通報した者の懐に入ると定めていた。シェイクスピアがこれから書く劇だけでなく、すでに書いた劇についても法令は適用された。登場人物は「神かけて(by God)」とか「何と(by Load)」とか「まあ(by my troth)」とか言ってはいけないだけではない。俗に多用される誓言――神の傷にかけて誓う「畜生」、神の血にかけて誓う「くそ」、神の足にかけて誓う「ちぇ」といった、マキューシオ、ハムレット、リチャード三世、フォールスタッフ、エドマンド、イアーゴーらがよく用いてその性格づけの一助となっていた何気ないキリスト教徒の感嘆詞――は、今や舞台で口にすることを禁じられたのだ。門番が二枚舌野郎のことを「神様のためなんて言って謀叛を犯しやがって」と言う台詞や

(略)

などは、グローブ座で二度と聞かれることはなかった。これこそ四十年後に劇場を閉鎖するに至るピューリタンの厳格主義の最初の表れだった。
(略)

一六〇六年の前に出たクォート版では、オフィーリアの墓地でハムレットがレアーティーズに「畜生、何をするか見せてみろ」となじる台詞が、一六〇六年よりあとに出たフォーリオ版では「さあ、何をするか見せてみろ」に変わっている。『オセロー』でイアーゴーが初めて口をきくときの「畜生、俺の話を聞こうとしないじゃないか」と怒鳴るように言う慰めの台詞はカットしなければならず、フォーリオ版では「だけど、俺の話を聞こうとしないじゃないか」と泣き言を言うような台詞になってしまっている。この調子であちこち失われるのだから、全体的な喪失は大きい。

(略)

登場人物を創造しにくくなったのみならず、場面設定にも影響が出てきたのだ。(略)キリスト教文化ではなく異国ないし古典世界に設定した方が面倒が少ない。(略)『アントニークレオパトラ』であり、『コリオレイナス』、『ペリクリーズ』と続く。

(略)

[禁止令で]罰金が発生した記録はないが、その必要はなかった。『馬鹿の島』関係者が投獄され、その劇団から王室の保護が剥奪された以上、メッセージは明瞭に伝わっていた。(略)
それよりも強烈に効いたのは最後の法令の方だった。十一月五日の大騒動を受けて、政府はイングランドにいる国教忌避者たちを取り締まらざるを得なくなった。

国教忌避者への圧力

下院の強硬派は、国教忌避者の子供は親から引き離すべきだとか、国教忌避者と国教会信徒との結婚を禁じるべきだとか主張した。(略)

[カトリック信者が]スペインの友人に送った手紙に次のように記されている。
今ある敵意や脅威はものすごく、みな殺されるか追放されそうだ。さもなければ、国会で進められている法案のせいで一人残らずやられるだろ……いずれにせよ、どんなに勇敢で敬虔な人も、恐怖に打ちのめされ、かつてあった信仰を守る自信を失っている。

(略)
さほど苛酷でない多面的な法案が採択された。(略)

聖体拝領を拒んだ者は(略)罰金を初年度は二十ポンド、二年目は四十ポンド、それ以降は年六十ポンドと増やして課すことになった。ものすごい金持ちの国教忌避者でもないかぎり、どんどん貧乏に追い込まれたわけである。(略)

[さらに聖体拝領を拒絶した者は、ジェイムズ王が正規の王であり、ローマ教皇が国教忌避者に武力蜂起させる権利がないことを]誓わないと投獄すると定めたのである。(略)[しかも]「曖昧表現や精神的な逃げや秘密の保留など一切用いずに」誓わなければならないとした。

(略)
 一六〇六年当時、国教忌避者にとって、「忠誠宣誓」を頂点とする法令は、理論上の問題であるよりも、むしろ実際的な選択を迫るものだった。

(略)

この復活祭でイングランド社会が忠臣か謀叛人予備軍かのどちらかに分けられるということは、地方の役人や教区民にとって二月の段階ではっきりしていたのである。忠誠が、新たな決まり文句なのだ。『リア王』はこの春以前に完成して初演がなされていたが、リアが冒頭の場面でケントに鋭く言う「聞け、忠誠の誓いにかけて、聞け!」という台詞を含めて、「忠誠宣誓」にまつわる議論を鑑みれば、分裂した忠誠は並みならぬ意味合いを持つ。『リア王』では、忠誠が分裂したり、多重になったりしており(略)『マクベス』と同じなのだ

(略)

失敗したミッドランド蜂起の近隣の町ストラットフォード・アポン・エイヴォンでは(略)町の人たちのあいだでいつ暴力沙汰が起こらないとも限らず、まだ旧教に固執している人たちと改革後の信仰を受け容れた人たちとのあいだに、穏やかな和解など、もはやありえなかった。かつては町全体がカトリックであったことは、礼拝堂に描かれた地獄の口の生々しい絵を見てもはっきりしていたが、そうした絵が漆喰で塗られたことは誰もが覚えており、また復元されるかもしれなかった。ジョージ・バジャーのカトリックの祈禧書や遺品の入った袋が発見されことからもわかるように、カトリック復元のために頑張っている人もいたのだ。

(略)

一五九〇年から一六一六年までの二十五年間で聖体拝領を受けなかったと非難されたのはたった三人だった。そのうちの一人はシェイクスピアの父親ジョンであり、一五九二年のことである。

(略)

[1606年の復活祭]二十一人のストラットフォード・アポン・エイヴォンの教区民が聖トリニティー教会への出席を拒んだのは、前代未聞の驚くべき事件だったに違いない。少なくとも町の三分の一は、イエズス会士を家に泊めたり、息子が神父となったりするような筋金入りのカトリックであり、シェイクスピアはこの二十一人のうちの何人かと知り合いだった。

(略)

[長女スザンナがその中にいた]

 二十二歳の未婚女性がそのように自分の意思を貫くのは大胆なことだった。

[最終的には全員が国教会を受け入れた](略)

 このためにスザンナが結婚できなくなってしまうのではないかとシェイクスピアが心配したとしたら、それは取り越し苦労だった。翌年スザンナは、三十一歳の医師ジョン・ホールと結婚した。(略)

ホールは強力なプロテスタント寄りの人間であり、カトリックのスザンナと結婚することがどういうことかお互いに承知していたはずだ。シェイクスピアがスザンナの行動についてどう感じていたか――長女を誇りに思って支持していたのか、それとも上手に立ち回らない意固地さに腹を立てていたのか、あるいはひょっとすると娘に二十ポンドの罰金を支払わなければならなくなったことを気にかけていたのか――はわからないものの、シェイクスピア作品に広くしみ込んでいる当時のイングランドの問題をシェイクスピア自身が切実に感じていたことは想像に難くない。

次回に続く。