グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

三つの選択肢から、民主主義と国家主権をハイパーグローバリゼーションよりも優先する道を採るべきと著者。

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

 

 序章

[97年著者が『グローバリゼーションは行き過ぎか?』を出してすぐ、アジア金融危機が発生]

「グローバリゼーション推進派のシンクタンクから、グローバリゼーションを警戒せよと唱えるハーバード大教授の本が出版された」。そして、本当に注目を集めることになったのだ!

 だが、なんと言うことだろう。私は事態を完全には理解していなかったのである。私の本は金融市場の危機には関心を払っていなかった。(略)

私が焦点を当てたのは、あくまで自由貿易労働市場に与える負の影響や、社会政策にもたらす困難であった。私が憂慮したのは、アウトソーシングが不平等を悪化させ、労働市場のリスクを倍加させ、社会契約〔政府と市民社会の関係〕を損なうという事態である。

(略)

これらの軋轢は、より広範囲の社会的プログラムや、よりよい国際ルールによって管理される必要がある。私がこの本を書こうと決めたのは、同僚の経済学者たちがそのような関心をあざ笑ったからであり、公の場で生産的に議論を戦わせる機会がなかったからである。当時、私は自分の見解が正しいと信じていたし、今ではほとんどの専門家が、私が述べた見解に近づいていると信じている。しかし金融グローバリゼーションの負の側面は? 当時の私のレーダー・スクリーンには映っていなかった。
 アジア金融危機の後、数年にわたって私は金融グローバリゼーションを研究した。(略)

金融グローバリゼーションは、起業家の資金調達を助け投資家のリスクを上手く分散するはずだった。最も便益を得るのは発展途上国である。(略)

しかし事態はその通りに進んでいない。いいパフォーマンスを挙げている国――中国が典型だ――は、外部から資金流入を受けていないどころか、豊かな国にお金を貨してさえいる。国際金融市場への依存度が高い国は、結果が思わしくない。

(略)

アジア金融危機は結局のところ、「金融資本が国の内外を自由に移動する場合、政府が通貨価値を維持しようとするのは危険である」という見解に従うものである。

(略)

誰もが彼らの失敗を責め、システムの厳格さに順応できなかったと非難する。ところが中心国が[サブプライム危機に]呑み込まれた時には、システムを非難し、修正すべきだという。二〇〇八年の巨大金融危機が、ウォール街をなぎ倒し、アメリカを他の主要国に対して謙虚にしたことで、改革に向けた新しい熱意の時代が始まろうとしている。(略)グローバル資本主義は維持できないのではないか、という真剣な疑問が生まれているのだ。

(略)

一国の国内市場が、規制や政治制度によって支えられているのに対し、グローバルな市場経済を支えている制度的基盤は極めて弱いものだ。[公正取引委員会セーフティネットもない]

(略)

 政府の力が一国内に限定されているのに対し、市場経済は世界規模で広がっていることが、グローバリゼーションの欠点につながっている。(略)

政府に力を与えすぎると、保護主義や自給自足経済に陥ってしまうし、市場に自由を与えすぎると(略)不安定なものとなってしまう。

(略)

この本を通じて、私は二つの単純なアイデアに基づいてこれまでとは別の物語を提示しようと思っている。最初のアイデアは、市場と政府は代替的なものではなく補完的なものだということだ。よりよく機能する市場が欲しいのであれば、よりよい政府が必要となる。市場経済は国家の力が弱いところではなく、国家の力が強いところで最もよく機能するのだ。二つ目のアイデアは、資本主義は唯一無二のモデルに従って形作られるものではないということだ。経済の繁栄と安定は、労働市場、金融、企業統治社会福祉など様々な領域における様々な制度の組み合わせを通じて実現することが可能なものだ。国家は、これらの制度の組み合わせの中から自身の必要性や価値観に基づいて様々な選択をする――いや実際に国家にはその権利がある。

(略)
この本の読者は、世界経済の原理的な政治的トリレンマ――民主主義と国家主権、グローバリゼーションを同時に追求することは不可能だ――と私が名づけた概念をまず理解することになる。もしグローバリゼーションをさらに推し進めたいのであれば、国民国家か民主政治のどちらかをあきらめなければならない。もし、民主主義を維持しさらに進化させたいのであれば、国民国家か国際的な経済統合のどちらかを選ばなければならない。そして、もし国民国家と国家主権を維持したいのであれば、民主主義とグローバリゼーションのどちらをさらに深化させるか選択しなければならない。

(略)

 民主主義とグローバリゼーションの両方を進めていくことは可能だとしても、そのときには、われわれがかつて見たことがないか、あるいは近いうちに経験しそうもないとてつもなく野心的な世界規模の政治共同体の創造を必要とすることになるだろうということを、私の唱えるトリレンマは示している。そのためには、世界規模の民主主義によるルールづくりが必要となるだろう。

(略)

私の選択を言わせてもらうと、民主主義と国家主権をハイパーグローバリゼーションよりも優先すべきだと思う。民主主義は各国の社会のあり方を守るための権利を持っており、グローバリゼーションの実現のためにこの権利を放棄しなければならないのであれば、後者をあきらめるべきなのだ。

(略)

各国政府がそれぞれの政策を実行する余地のある国際ルールの薄い層がよりよいグローバリゼーションなのだ。(略)

われわれは最大限のグローバリゼーションではなく、賢いグローバリゼーションを必要としているのである。

巻末の訳者[柴山桂太]あとがき、を先に。

 本書の核となるアイデアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。昨今の新自由主義的な風潮の中で、市場と政府は対立関係にあると考えられることも多いが、本書はそれが明確に間違いであると指摘している。

(略)

本書の「トリレンマ」に従うなら、今後の世界には三つの道がある。(1)グローバリゼーションと国家主権を取って民主主義を犠牲にするか、(2)グローバリゼーションと民主主義を取って国家主権を捨て去るか、(3)あるいは国家主権と民主主義を取ってグローバリゼーションに制約を加えるか、である。
 新自由主義に共鳴し国内改革とグローバル化の推進を唱える経済学者は(1)を、欧州統合の実験に代表される二十一世紀のグローバル・ガバナンスに期待を寄せる政治学者は(2)を選ぶのは想像に難くない。(略)

著者が期待を寄せるのは、(3)の道だ。自由貿易のもたらす便益を認めつつも、グローバリゼーションを「薄く」とどめることで、世界経済に安定を取り戻そうというのである。
 国境線の持つ意味がますます小さくなり、政治も経済も文化も国家という単位を脱ぎ捨ててグローバルに融合していくはずだと考える人にとって、国民経済を強化するという選択は歴史の逆行のように思えるだろう。だが、本書が示すように、歴史はそう単線的に進んでいない。過去三百年の歴史を振り返って分かるのは、国民国家の成熟や民主主義の進展もまた歴史の止められない歩みであり、それらを犠牲にしてグローバル化を進めるのは理想的でも現実的でもない、ということだ。
 もちろん、(3)の選択が実現されるには、いくつもの困難がある。たとえば著者は、民主主義の進展に新興国の持続的発展の鍵を見ているが、国家が直面する難題に民主主義がつねに正しい答えを導くわけではないのは、先進国の経験を見ても明らかだ。国家主権と民主主義に基づくナショナル・ガバナンスの強化は、国家間の対立を深めて今よりも世界経済を不安定にしてしまうかもしれない。(略)

 だが、難しいのは(1)や(2)も同じことだ。本書で示されたアルゼンチンの事例や、欧州統合の事例は、新自由主義的な発展戦略や、グローバル・ガバナンスの実現がいかに障害に満ちているかを明らかにしている。民主主義がどんなに危なっかしいものであったとしても、民衆や利益団体の強い反対を抑えてまでグローバル化を進めれば、政治体制が不安定化するのは当然である。(略)

世界経済が不安定化すると国家意識はますます先鋭化して出てくるというのが歴史の教訓でもある。

 ルールのあるところ、誰かがそれを強いている

 王の勅許で、ハドソン湾会社は事実上の政府になった。広大な領域を管轄し、原住民を有無を言わせぬやり方で支配した。この会社は、戦争を行い、法を可決し、司法権を行使した。言うまでもなく、ルパート・ランドの毛皮取引の唯一の裁定者であり、原住民との交易で価格や条件を設定した。十九世紀には独自の紙幣さえ発行し、支配地の法貨となった。この会社による領土支配は一八七〇年までおよそ二百年続き

(略)

 カナダの毛皮取引は比較的小規模だった。ハドソン湾会社は、拡張的な重商主義システム、すなわち十七世紀と十八世紀の長距離交易システムの、ほんの脚注に過ぎない。

(略)

 長距離交易を行う会社は、たいていがハドソン湾会社と同じやり方で独占権の勅許を受けていた。(略)

 最も有名なのが、イギリス東インド会社

(略)

独自の軍隊、戦争の遂行、条約の締結、貨幣の鋳造、そして司法権も持っていた。インドでの支配権を拡大する中で、ムガール帝国と何度も武力衝突し、地方領主との連携をすすめた。東インド会社は、輸送、灌漑、公教育への投資など、幅広い分野で公共的機能を担った。ついには、税金も集めることになった。

(略)

貿易と支配の深い絡み合いは、現代人の目には時代錯誤に見えるだろう

(略)

 今日、われわれはアダム・スミスの強い影響下にある。『国富論』は重商主義的な思考と実践に対する正面攻撃であった。(略)

経済が花開くのは、市場が政府の管理から自由になった時だと、彼らは信じている。競争は、独占よりもずっと経済的利益を最大化する。(略)

政府=企業の関係は、腐敗の別名だ。(略)[スミス]のビジョンでは、政府の役割は国防や所有権の保護、そして司法に限定されるべきであった。

(略)

ハドソン湾の物語が明らかにするのは、権力と経済的交換の赤裸々な結びつきだ。私はあなたと貿易したい、だから私の支配を受け入れた方がいい、という訳だ!(略)

[現在は]政府の支配や権力がもっと市場から切り離されていると考えるかもしれない(略)しかし、これは全くの間違いだ。権力は違う仕方で働いている――あまり明瞭ではない仕方で。グローバリゼーションのあるところ、ルールがある。ルールのあるところ、誰かがそれを強いている――これこそが唯一の、真の問題である。
 悪意のある権力が市場やグローバリゼーションの背後に隠れているということではない。良かれ悪しかれ、ルールはある。われわれは、市場は自らの作動に任されている時にうまくいく、というアイデアを捨て去らなければならない。

市場を支える制度 

 には、三つの種類がある。互酬や信頼をベースとした長期的関係、信念体系、そして第三者の強制力である。
 第一のものは、時間をかけて繰り返される相互行為から協力関係を創り出す。例えば、サプライヤーが顧客をだましたりしないのは、将来の仕事を失うのを恐れるからである。(略)

関係を築くことで、信頼は増進し、もっと大きな事業を考えることができるようになる。こうした相乗効果は、いかなる法体系にも違反を防止する組織にも依存していない。法体系などが未整備な途上国では、この第一の制度が優位を占めている。
 第二に、交易は信念体系、あるいはイデオロギーによって支えることができる。果物商が腐った果物を旅行者に売らないのは、「それが間違っている」からだ。どの国も勝手に関税を引き上げたり、資本移動を制限しないのは、「それが物事のあるべきやり方ではない」からだ。(略)

広く行き渡った規範に逆らうと、自分たちのコミュニティ――部族、カースト、宗教団体、民族集団、あるいはこのケースでは「国際社会」――から排斥されるかもしれないのだ。(略)

 繰り返される相互行為やコミュニティの規範は、市場がローカルで小規模の時に最もうまくいく。(略)

しかし経済が成長し、地理的な移動性が高まるにつれ、明白で広範囲に適用できるルールヘの要求や信頼できる強制力が重要になってくる。資本主義の下では、市場をガバナンスする公式の制度を幅広く揃えた国のみが、豊かになる。

(略)

これらは「第三者の強制」の制度である。ゲームのルールを強制するのは公式の、典型的には統治機構である。あなたが税を支払うのは、よき道路や学校を欲するからである。(略)

ごくわずかな例外を除いて、経済が発展した国ほど、公的部門が消費するリソースの割合が大きい。政府が大きくて強いのは貧しい国ではなく、先進国の方なのだ。

(略)

市場は、頑丈な政府の制度によって支えられている特、最もよく発展し、最も効率的に富を生むのだ。市場と政府は補完的であり、過度に単純化された経済学の説明にあるような、従属的な関係にはない。

(略)
ある日、私は研究室の椅子に座って、保守系の政治家が「小さな政府」を叫んでいるにもかかわらず、なぜ公的部門の縮小は難しいのか考えていた。そんな時、イェール大学の政治学デイヴィッド・キャメロンの論文が目にとまった。(略)
国際市場にさらされた国ほど、政府は大きくなる傾向にある。(略)

 これは直観とは大きく食い違う推論だ。普通は、政府による介入がない場合にのみ、市場は栄えると考えられているからである。(略)キャメロンの主張は、それだけではなかった。豊かさが同程度の国々で公的部門の規模が違うのは、経済に占める貿易の重要度の違いから説明できるという議論だったからである。

(略)

経済が国際市場からの圧力にさらされると、人々はリスクヘの補償を求めるようになる。そして政府は(略)広範囲のセーフティネットを構築することでそれに答えようとするのだ。(略)

市場がもたらすリスクや不安から人々を保護することで、市場の正統性が失われないようにしなければならないのだ。
[サブプライム危機で]なぜ世界経済は、一九三〇年代の大恐慌と同じ保護主義の崖に落ち込まなかったのか。この何十年で、産業社会は社会的保護(略)の仕組みを確立してきた。そのおかげで(略)露骨な保護主義への要求が和らげられてきたのである。福祉国家は、開放経済の裏返しとしてできた。市場と国家は、様々な仕方で補完的な関係にあるのだ。

(略)
よく機能する市場経済はすべて、国家と市場、自由放任と介入の組み合わせである。その組み合わせは、それぞれの国の選好、国際的な地位、そして歴史的な経路に依存する。しかしどんな国も、公共部門が実質的な責任を負うことなしに発展することはできない。

次回に続く。