前回の続き。

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道
- 作者: ダニロドリック,柴山桂太,大川良文
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2013/12/20
- メディア: 単行本
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十九世紀関税史の決定的な瞬間
よく十九世紀は自由貿易の時代だったと考えられているが、この時代に一貫して貿易開放政策を取り続けた大国はイギリスだけである。
(略)
十九世紀関税史の決定的な瞬間は、一八四六年、イギリスがナポレオン戦争期に課した穀物輸入の関税を廃止した年にやってきた。いわゆる「穀物法」をめぐる都市と農村の対立は、十九世紀初期のイギリスの政治闘争の中心にあった。
(略)
[穀物法における対立は]実際には、来たるべき時代のイギリスとその繁栄を誰が支配するかをめぐる戦いであった。著名な雑誌『エコノミスト』はこの時代の産物である。穀物法反対を広めるために創刊され、自由貿易の見方を大衆に広めたが、その役割は今日でも引き継がれている。結局、日の出の勢いだった産業資本家が勝った。彼らは知識人と、産業革命の力を味方につけたのだ。
ひとたび穀物法が廃止されると、イギリスは当時の支配的な経済大国だったので、他のヨーロッパ諸国も従うべきとする圧力が高まった。(略)
十九世紀前半のアメリカとイギリスは、政治制度が違っていたが、ある一点で共通していた。関税論争が、国内政治の中心に位置していたのである。(略)
奴隷を所有する南部の経済は、たばこや綿花の輸出を中心に成り立っていた。(略)南部の繁栄は国際貿易に依存していた。[初期工業に依存する]北部は、イギリスに追いつくまでは、輸入からの保護を求めていた。
(略)
アメリカの経験が興味深いのは、自由貿易は決して「進歩的」な政治上の動機によって進められるものではない、という事例だからである。優れた政治学者ロバート・コヘインが記しているように、「市場の論理の追求は、長い目で見れば悲劇的な結果をもたらした。産業も多様化せず、工業化も進まなかった南部の経済に与えたインパクトは致命的だった。(略)奴隷制はすっかり定着し、南北戦争はますます避けがたいものになった」。(略)十九世紀アメリカの自由貿易は社会的・政治的制度としての奴隷制をますます強化し、強固なものにした。(略)
自由貿易と「良き政治」はいつも手を携えているわけではないのだ。
[南北戦争で北部が勝利に向かうにつれ貿易保護が強まった]
(略)
十九世紀末ヨーロッパの保護主義の結果は、自由主義者にとって逆説に満ちている。経済史家のポール・ベロックが記しているように、一八九〇年以降きわめて急速に貿易量が増えているだけでなく、所得も増えており、特に貿易障壁を引き上げた国で顕著なのである。南北戦争後のアメリカと同様、この経験は、自由貿易と経済成長の単純な関係にいっそうの疑問を投げかける。
(略)
イギリス以外のヨーロッパでは、イギリスの輸出攻勢に高関税による報復を望む「フェアトレーダー〔公正貿易を望む人々〕」からの圧力が強まったが(略)[イギリスだけは]自由貿易のイデオロギーが公の議論を圧倒的に支配(略)
イギリスの工業の強い地位が、関税をどちらかといえば意味のない、余計な政策にしたのである。
(略)
先進国の自由貿易は、共有されたイデオロギーと国内の政治的利害の、困難で脆いバランスの上に成り立っていた。その他の国の自由貿易は、たいていは外部からの強制であった。
(略)
十九世紀のグローバリゼーションで貿易が急拡大したのは間違いないが、巷間言われるほど自由貿易に根ざしていたわけでもない。帝国主義(略)は貿易を促進したが、それは宗主国による剥き出しの力の誇示に根ざしたもので、言葉の真の意味で「自由貿易」を代弁していたとは言いがたい。しかもイギリス以外の主要国では、自由主義は国内の貿易政策に限られた勝利しか記録しなかった。一部の国(例えばアメリカ)は、本当の意味で自由貿易政策を取り入れなかった。他の国(ヨーロッパの大陸国家のような)では、二、三十年のうちに先祖返りして保護の水準を引き上げた。(略)
輸送革命や所得の上昇のおかげで、グローバル化は大幅に進展した(略)しかし、このグローバル化は、危なっかしく脆い制度の柱、とても再現できないような前提条件の集合に寄り掛かっていたのだ。
金本位制、いかに自由貿易が社会的緊張を作り出すか
十九世紀のグローバル化を左右したのは、貿易体制というより、金融や通貨の体制だったという方が真実に近い。すなわち金本位制である。
(略)
金本位制のルール下では、国内の信用状態を変える貨幣政策を、政府は好き勝手に変更できない。
(略)
現実には、中央銀行はいくつかの抜け道を持っており、事情に応じて金本位制の「ゲームのルール」から離脱した。特に貿易赤字国は、外国からそれを補う民間の資本流入がある時には、金利の上昇を遅らせるか、避けることができた。しかし、こうした資本流入による「安定化」を利用できるかどうかは、金平価への中央銀行のコミットメントに決定的に依存していた。市場は、政府がどんな状況に直面しても、最終的には金平価を防衛するはずだと確信していた。それが、当時の中央銀行のあるべき行動だという信念体系があったからである。金本位制の維持は、金融政策の絶対的な優先事項であった。
(略)
金本位制は、一八七〇年代にたびたび挑戦を受けた。(略)[金の不足で]信用の引き締めやデフレーションがヨーロッパでもアメリカでも起きた。最も打撃を受けたのは、農民であった。というのも、金利上昇に商品価格の下落が追い打ちをかけたからだ。金銀複本位制への回帰を求める声が多くなった。金銀複本位制だと、政府が銀を貨幣にしてマネーサプライを増やすことができる。アメリカでは暴動が絶頂に達した。(略)
中央銀行の態度は頑なで、金本位制を守った。最終的に金本位制を救ったのは、南アフリカでの金鉱山の発見である。一八八六年以後、マネーサプライは増え、デフレは終わりを迎えた。
(略)
歴史上、いったん破産した国がやがて国際金融市場に再参入する事例はいくつもある。ここからいくつかの推論が導かれる。第一に、借り手が国際的な返済義務をデフォルトするのは、払う能力がないからだけでなく、単に払う意思がないからかもしれない――こちらの方がずっと敷居が低い。第二に、このことを踏まえて、合理的で将来を見越した銀行や債権保有者は、国際的な貸付に消極的になるか、高いプレミアを課すことになるだろう。その結果、短期的視野に基づいた貸し出しと、その後の国家破産を繰り返す、ブームとその崩壊のサイクルがやってくる。国際金融市場は、支払いを強制する信頼できるメカニズムなしには育たないのだ。
(略)
金本位制と金融グローバル化は、自由貿易の場合と同様、国内政治と信念体系、そして第三者の強制の独特の組み合わせによって可能になった。大衆政治が自己主張を始めたことで、これらの力が弱まった時、国際金融も弱まった。一九三〇年代に金本位制が最終的に崩壊したことで、この組み合わせの脆さがはっきり示された。
(略)
一度でも変えれば、また変えるだろうとマーケットは判断する。これは経済学の問題である以上に、倫理の問題だ。彼ら純粋主義者にとって、旧平価での復帰は「資産を持ち、信用を持ち、イギリスとその通貨を信頼している世界中の人々に対する、イギリス国民の道義的責任」であった。(略)
銀行家が、きつい薬の処方箋を書くのは、歴史上最初でも最後でもない。(略)彼らもまた「健全な経済学」だと考えられているものの側に立とうとしたのである。(略)
[賃金と物価は高どまり、輸出産業は大打撃、失業率は二〇%、スト拡大]最終的に一九三一年九月、イギリスはふたたび金本位制を離脱した。旗振り役だったイギリスが離脱したことで、金本位制の時代に終わりが近づいた。フランクリン・ローズベルトは一九三三年にアメリカを金本位制から離脱させた。
(略)
彼らの本能とは裏腹に、中央銀行とその政治的支配者は、一九三〇年代になると、景気後退と高い失業率がもたらす政治的な帰結に無関心ではいられないと理解した。(略)
大量失業の政治的帰結に耐えることと、金本位制をあきらめることの間の選択で、民主的に選ばれた政府は後者を選ぶだろう。民主主義は、金本位制の絶対視と両立しないのだ。
次に経済学の第ニラウンドで、これがとどめの一撃を刺した。ひとたび金融市場が、金兌換への政府の信頼性に疑問を持ち始めると、それが不安定化の力となった。政府はいまや、投機筋の格好の攻撃対象となった。市場に少しでも歪みが生じそうなら、投資家は国内通貨を売って外国通貨を買い、資本を国外に逃がしてしまう。もし平価が維持されるなら、彼らはただ取引を逆にするだけで、何も失わない。しかしもし通貨が切り下げられれば、彼らは資本を呼び戻して、自国通貨を安い価格で大量に買い戻して大金を稼ぐことができる。(略)
戦間期のイギリスの運命が示しているのは、金本位制のような厳格な通貨・金融ルールは現代の経済や政治と上手く折り合わない、ということだ。(略)
この教訓は、一九九〇年代にもう一度思い起こされることになる。
(略)世界経済は古典的な「自由主義」秩序から飛び出してしまった。しかし、それに代わる、居心地のいい別の選択肢はまだ現れていない。
(略)
「古典的秩序の支持者は、国際的な経済連携を優先するには、社会改革や国家建設、国民の要求は後回しにすべきだと議論していた」。ひとたび議論に負けると、水門が開いた。共産主義はグローバル経済を押さえ込む社会改革を選び、世界市場から自らを閉ざした。ファシスト諸国は国民連帯の道を選び、ヨーロッパや新興国で経済ナショナリズムの波をつくった。
(略)
[国際経済の要求と国内的な社会集団の要求をうまく妥協させるには]
いかに自由貿易が社会的緊張を作り出すのかを、よりよく理解しなければならない。
経済学者の自由貿易に関する表と裏
[経済学者にレポーターを装って、自由貿易はいいことかと尋ねるなら]
「そうそう、自由貿易は素晴らしい考えだよ」と経済学者は即座に言うだろう。ひょっとしたら、次のようなことも付け加えるかもしれない。「自由貿易に反対する人々は、比較優位の原理を理解していないのか、(労働組合のような)特定の圧力団体の身勝手な利害を述べているのかのどちらかだよ」。(略)
[次に学生を装い]国際貿易理論に関する先進的なセミナーに参加してもらい、その指導教授に同じ質問をしてもらおう。「自由貿易はいいことですか?」(略)
[今度は簡潔な返答はない、教授は]
「“いいこと”とはどういう意味ですか?」と尋ね返すかもしれない。(略)
「このセミナーの課程の後半でわかってくるでしょうが、講義で扱う理論モデルのほとんどで、自由貿易は特定の集団に利益を与える一方で他者に損失を与えるのです」。このことによって聞き手が失望しているように見えたら、彼女はさらに話を広げるだろう。「しかし、ある条件の下では、受益者に課税して損失を受ける者に対して補償することができると仮定することによって、自由貿易は、すべての人の福祉を改善する可能性を持つのです」。
いまや、経済学者はその問題に対して興奮し始めている。彼女はこう続けるだろう。「私が「ある条件の下で」と言ったことに注意してください。その条件を並べ挙げることはいい試験問題になるでしょうから、私がその条件を要約する時には、注意を払ってくださいね」。(略)彼女が並べ挙げる前提条件のリストは、次のようになるだろう。
輸入自由化は、完全な形ですべての製品と貿易相手について行わなければならない。そうでなければ、輸入障壁の削減は、特定の商品の間の代替性や補完性に関するとても複雑な潜在的構造を考慮しなければならない(そういうわけで、一国あるいは少数の貿易相手との特恵貿易協定は、この前提条件を実際には満たしそうにない)。問題となる貿易障壁以外に、ミクロ経済学で言う市場の不完全性があってはならない。もしあったとしても、市場が機能しないことから生じる相互作用が、あまりにも経済にとって不利なものであってはならない。自国経済は、世界市場において「小国」でなければならない。そうでなければ、自由化は「最適関税」から離れる方向に進められてはならない。経済はほぼ完全雇用状態でなければならない。そうでなければ、財政金融当局は、総需要を自由に管理するために有効な手段を持たなければならない。自由化に伴う所得再分配効果が、社会全体にとって望ましくないと判断されるべきではない。もしそうであるならば、十分低い超過負担で補償できる租税移転の仕組みがなければならない。貿易自由化が、財政収支に対して悪影響を及ぼしてはならない。もし及ぶのであれば、財政収入の損失を埋め合わせるための適切な代替的手段がなければならない。自由化は政治的に持続可能なものでなければならず、それゆえに、経済主体が自由化からの逆行を恐れたり予想したりしないように、十分信頼できるものでなければならない。
もはや、教授は実に自己満足している様子を見せている。(略)
[学生が]「それでは仮にこれらの条件が満たされれば、貿易自由化は、経済のパフォーマンスを向上させ、経済成長率を引き上げるのでしょうか?」「いや、違う!」と教授は答えるだろう。「誰が成長について話をしましたか?これらの条件は、実質的な総所得の水準が増加するための前提条件に過ぎないのです。成長について何か確かなことを言うのは、より一層困難なことなのです」。自己満足げな笑みを浮かべて、彼女は次のような説明をするだろう。
技術進歩が外生化されており、かつ再生産可能な生産要素に関して収穫逓減が仮定されている標準的モデル(例えば、新古典派成長モデル)では、貿易障壁は、長期(定常状態)における産出量の成長率に全く影響を与えないとされている。このことは、市場の不完全性の存在に関係なく真実です。しかし、定常状態への移行過程においては、成長に影響を与えるかもしれない(このような移行過程における影響は、貿易によって長期的な産出水準がどのような影響を受けるのかによって、正にも負にもなり得る)。再生産可能な生産要素について収穫逓減を仮定していない、もしくは学習効果やその他の内生的な技術進歩を考慮している内生的成長モデルにおいては、貿易障壁の削減は世界全体の産出量の成長率を引き上げると推定されている。しかし、初期の要素賦存状況や技術の発展水準によっては、成長率が低下するような国が現れるかもしれない。このような結果が生じるかどうかは、比較優位の力によって成長を生み出す部門や経済活動に資源が向かうか、あるいは遠ざかるかによる。(略)
教室で教えていることと一般の人々に喧伝していることとの違いに直面する時、経済学者は、身振り手振りしながら様々な議論に逃げ込もうとする。その時に聞けそうなことは、ほぼ丸々このようになるだろう。
1 実際問題として、自由貿易は、技術進歩と同様に、長期的にほとんどの人々を豊かにするだろう2 たとえ貿易が混乱を生み出すとしても、それに対する最も優れた対処法は、貿易の制限ではなく他の政策によるものだ
3 たとえ損失を被る人がいたとしても、その人々の損失を補償した上で、すべての人々に利益を与えることは可能であるはずだ
4 自由貿易に対する支持は、経済学の範囲を超えている。これは、誰と取引するのかを選択する人民の自由に関わる道徳的なものだ
5 貿易に反対する見解は十分広く行き渡っている。われわれの仕事は別の側面を示すことだ
6 貿易に関する注意事項を述べると、それを自身の目的のために利用しようとする保護主義者たちに悪用されてしまうだろう
ブレトンウッズ体制
歴史的経験は、国内のニーズとグローバル経済の要請が衝突する場合、最終的には前者が勝利を収めることを示している。ケインズとハリー・ホワイトは、このことを無視して全体を台無しにするリスクを負うよりも、このことを受け入れて安全弁を組み入れた方が望ましいということを理解していたのである。
(略)
戦後の国際経済体制に対するアメリカの貢献で最も注目に値することは、多国間主義――無差別の基本原理に基づく国際組織によるルールの設定――だった。これは、その場限りの関係性よりも法律尊重主義を好むアメリカの嗜好、ニューディール改革によって現れた規制国家の思想、および米国と国際組織の利害を結びつけることによって国内の孤立主義者と対峙したいというフランクリン・デラノ・ローズベルト大統領の願望を一部反映したものだった。
(略)
GATTは大成功を収めた!
(略)
次のことに留意しなければならない。GATTのやり方は、グローバリゼーションの実現を一気に狙ったものではなかったのである。(略)
完全な自由貿易の実現ではなかったのだ。
(略)
[農業、サービス分野(保険、銀行、建設、電力等)は自由化交渉除外。一旦自由化された製造業も、競争圧力に直面し、即座に保護政策を受け入れた]
工業国にとってさえ、GATTルールには巨象が通り抜けることができるほどの大きな抜け穴があった。優れた法律事務所にとって、GATTのアンチダンピングやセーフガード条項による保護貿易措置を獲得することは、割に合う業務だった。
(略)
これらの特徴から見ると、GATTは明らかに不完全な国際機関であった
(略)
GATTの目的は、決して最大限の自由貿易を実現することではなく、各国が自由に政策を行うことと両立する形での貿易量の最大化を達成することだった。その意味で、GATT体制は見事な成功を収めたのだ。
(略)
国内の政策課題がしっかりと優先されていたために、GATT体制は、成功すると同時に、自由貿易の論理からどんどん逸脱することになったのだだった。
次回に続く。