愛しのジャズメン 小川隆夫

愛しのジャズメン

愛しのジャズメン

マルサリス兄弟とバスケ

背の小さなウイントンの方がブランフォードより数段うまい。(略)
ウイントンもブランフォードも中学と高校でバスケット・ボールの選手だったことを明かしてくれた。それもプロを目指していたというから驚きだ。ブランフォードは高校のときに膝を痛めて選手になるのを断念し、ウイントンは背が低かったため大学のドラフトにかからず、兄同様に泣く泣く諦めた経歴の持ち主だった。それで仕方がないからもうひとつの夢でもあったミュージシャンになろうと決意したというのだから、ますますもってびっくりさせられる。
 その上、高校時代のウイントンはジャズよリクラシックのほうが得意だった。ところがクラシックではいつも自分より下手な白人の生徒がコンクールで優勝することに嫌気がさして、それなら差別されないジャズで頑張ってみようと思ったという。

オスカー・ピーターソンナット・キング・コール

 「知り合ったのはニューヨークに出たあとだから、五〇年代の初めだった。(略)
わたしたちのトリオはドラムスではなくギターを入れた編成だった。これは少し前に流行っていた組み合わせなんだ。あの時代にギター入リのピアノ・トリオは珍しいものになっていた。だから、それが共通しているのも互いのマイナス・ポイントになると思った」
 コールもピアノを弾かせれば相当なテクニシャンで売っていたし、ピーターソンも歌をうたわせればやはりクルーナー系の渋いのどに特徴があった。つまり、ふたりはそっくりさんだったのである。そこであるとき話し合いがもたれることになった。
 「どちらが提案したのか忘れたが、なんとなくこのままじゃまずいという雰囲気になっていた。そこでナットと会ったときに、これからはどちらかがピアニストでどちらかがシンガーに絞って活動しないかという話になった」
(略)
[そこで年上のコールに決めてもらった]
(略)
[56年コールは『ナット・キング・コール・ショウ』で国民的人気者に]
「しまったと思ったのがそのころだ。シンガーのほうが一般的にアピール度は高い。そちらを選べばよかったと何度思ったことか」(略)
その顔を見れば本気でないことはわかる。
(略)
[コールが死去した際には『ウィズ・リスペクト・トゥ・ナット』を発表]
コールのおはこをピーターソンが歌う。そのヴォーカルは、声も含めて節回しまでまさにコールそっくりである。
(略)
ただし、ピーターソンはこれを最後にヴォーカル・アルバムは作っていない。
「それがナットに対してわたしが示せる敬慕の念というものだよ。(略)

ギル・エヴァンス

ギル・エヴァンスは本当におひとよしだった。
「こんなにいいひとが、どうしてこれまで無事にニューヨークで暮らしてこれたんだろう」
(略)
「わたしがきちんとギャラとか印税とかをもらっていたら、もっと裕福な生活ができたと思うよ。でもお金にうるさいことをいっていい生活ができても、いまの幸せは得られていないだろうね」
(略)
 この話をしてくれたころ(82年)のギルは、日本でいえば生活保障みたいなものを受けていた。なにしろほとんど仕事をしていなかったのだから仕方がない。(略)
完璧主義者のところがあって、納得できない仕事は引き受けない。(略)
[83年から週一の]ライヴが始まって、晩年のギルはようやく才能に見合う収入を得るようになった。
(略)
[当日リハーサルでもオーケストラを前に譜面を手直し、いくつかの譜面を抜き出してサウンドチェックした音を聴いて]
メンバーの譜面台を覗きながら鉛筆でなにやら音符を書き加えていく。(略)
[初日になっても譜面は完成せず]休憩時間も一所懸命に手直しをしている姿には恐れ入るばかりだ。
(略)
 しろうとのぼくにはどう違うのか、その差がよくわからない。(略)参加していたマーヴィン・ピーターソンに聞いたところ、アンサンブルがかなり違うものになっていたとのことだ。
(略)
[ギルが生活のためにピアノを売ったことを知ったマイルスが]
黙ってピアノをプレゼントしてくれた。それもスタインウェイのフル・コンサート・モデルで、添えられたカードにはこう書かれていた。
「これを売ったら承知しないぞ」

ジャコ・パストリアス

[奇行が目立ちだした83年頃に知りあった。50人でいっぱいになるライブ・ハウスで]
クインテットを率いて思いのたけをぶつけるように一心不乱に音楽を創造していた。(略)
[客席には真剣に耳をかたむけるギル・エヴァンスの姿。彼はジャコに提供したアレンジ]譜面を返してもらうため店にきていた。しかし演奏が凄かったのでついつい最後まで聴いてしまったと、いかにもギルらしい真面目な側面を覗かせていた。
(略)
彼はあまりにも純粋すぎたのだと思う。そのためずいぶん傷つくことも多かったようだ。噂とは異なり、ジャコはいつだってひと懐っこい笑顔で誰とでも接していたし、理不尽なこともいわなかった。
 ただ、ときおり示すエキセントリックな一面が感情の複雑さをうかがわせ、天才が持つ狂気のようなイメージを連想させた。
(略)
 たとえ酒に溺れ呂律が回らないときでも、音楽への研ぎ澄まされた感性は微動だにしなかった。麻薬を常用していたときですら、決して頽廃的な感情にとらわれることなく明日に希望をつないでいたのである。
 最後にジャコと会ったのは八六年の暮れ(略)
[マイク・スターンとのデュオ、店の方針でスタンダード中心]
悲しいことにジャコは脱け殼以外のなにものでもなく、演奏への執着心が空回りしているだけだった。
 休憩時間に言葉を交わしても一方的に自分のことしか喋らず、落ち着きのなさは、心の中で取り返しのつかない大きな障害が起こっていることを物語っていた。それでも、そうした姿に接して壮絶とか悲壮とかいった思いはあまり浮かばなかった。たしかに変わり果てた姿を見るのは辛い。けれど、ジャコはこうして自分なりに心の均衡を保っていたのである。誰にも侵しがたい世界にいたのだ。

ソニー・ロリンズサキソフォン・コロッサス』

ロリンズの口から出たのが、「あのアルバムにさえ満足していない」という意味の言葉だった。(略)
 「わたしはあのレコーディングにドナルド・バードを加えるつもりだった。ところがプレスティッジは予算がないといって、わたしとリズム・セクションだけで録音したんだ」(略)
サキソフォン・コロッサス』は、クインテットでのレコーディングになるはずだったというのか!(略)
 「その後、ブルーノートで録音した『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』も、最初はドナルドを加えたクインテットで何曲か録音している。結局、音楽的な理由でカルテット編成になり、最後はピアノも外してベースとドラムスとわたしの三人でレコーディングすることになった」
 こちらは内容の出来から後悔はしていないが、ロリンズは常にもうひとりのホーン奏者と組む編成を好んできたという。
 「ひとりじゃ不安だ」
 この巨匠にしてこの言葉である。 

チャーリー・ワッツ

ワッツの口からハンク・モブレーソニー・クラーク、ホレス・パーランなど、外国のファンがあまり話題にしない名前が出てきたのには驚かされた。(略)
理由は簡単だ。『スイングジャーナル』誌の定期購読者だったのである。
 日本語で書かれているから記事は読めない。けれど写真を見れば、だいたいどんなことが書かれているかは想像できる。各レコード会社が出している広告を眺めるのも楽しみなんだとワッツはいう。だから来日した際も、同誌の広告やレヴューを見てチェックしたアルバムのリストを示し、それらのCDがどこで買えるのか、逆に質問攻めにあったほどだ。
(略)
[最高のサックス奏者は誰とミックに訊かれ、ワッツがロリンズと答えたことで『刺青の男』で起用]
「(略)できれば一緒にセッションがしたくて、スタジオにはドラムスも用意しておいたんだ。ところがどうしても切り出せない。躊躇していたら、さっさと楽器を片づけて帰ってしまった。あれが最初で最後のチャンスだったと思うと残念でならない」

ディジー・ガレスピー

[45度上向きトランペットの逸話を披露しようと言われ、淑女が座って曲がったという定番ネタですねと内心思っていたら]
こちらの考えを見透かしたのだろう。ガレスピーはウインクをしながら、「君が知っている話とは全然違うと思うよ」といったのである。(略)
「シカゴのジャズ・クラブで演奏していたときだ。そこはギャングの巣窟のような店だった。(略)明らかにジャズ・ファンではないそのスジのひとが[一番前に座った](略)。それでもわたしはいつもどおり演奏していた。一番高いGの音を吹いたときは、顔をしかめて耳をふさいでいたっけ。(略)
[その男が休憩中にやってきて]《頼むからそのやかましいトランペットを一○○ドルで売ってくれないか?》」(略)
彼は喜んで楽器を差し出す。
 「するとどうしたと思う?その男はわたしの目の前でトランペットを思い切り曲げてしまったのさ。呆然として見ていたわたしにそれを返してくれて、手に握らせられたお金もポケットに押し込んでくれた。もちろん一○○ドルはいただいたさ。ところが楽屋に戻ってそのトランペットを吹いてみると、以前より音がよく聴こえるじゃないか。それはそうだ。ラッパの部分が耳に近づいたんだから。それに曲げられたおかげで、前かがみになって吹くときのバランスもよくなった。それでメーカーに注文して、別のトランペットをこの角度に改造してもらったんだよ」(略)
[ぞくぞくしながらその話を聴いたが、家に返って冷静に考えると、これも淑女ネタ同様、眉唾くさい]
真相についてはこちらが遠慮して聞くチャンスを逸がしてしまった。

デクスター・ゴードン

ヴィレッジ・ヴァンガード」のバーで、オーナーのマックス・ゴードンから紹介されたのが始まりだった。
「ボンソワール、ムシュウ」
 なんとゴードンはフランス語で語りかけてきた。フランス生活の名残だろうか。(略)目はとろんとしていて、腰つきも怪しい。(略)レミーマルタンを立て続けに注文(略)ステージの演奏はそろそろ佳境に入ってきた。
 するとゴードンがやおら足元に置いてあったケースを開けて楽器を手にする。これで吹けるのだろうか?と思う間もなくふらふらと立ちあがり、なんとか客席をかき分けてステージにたどり着く。(略)
 しかし次の瞬間(略)客は驚くべき光景を目撃する。ほとんど崩れ落ちそうな姿勢を取りながら、ゴードンが見事なプレイを繰り広げたのだ。体こそタコのようにくねくねしていたものの、出てくるフレーズは勢いに溢れ、アイディアも豊かで発展性に富んでいる。朗々とした響きはお馴染みの《ゴードン節》である。
 しかし一曲が限界だった。(略)メンバーに抱えられてぼくのとなりに再びすわった。
 何度こういう光景に接しただろうか。(略)
たいていの晩は自分のギグが終わると別のジャズ・クラブに出向き、そこでまたレミーマルタンをあおりながら飛び入りをする。
 こんなときはいつもアパートまで送らされた。とはいえ、これは嬉しい役目でもあった。これの繰り返しがゴードンの思い出の中では一番強烈なものとして、ぼくの心に残っている。アル中に近かったけれど、いつまで経っても失わない色気と演奏に対する執着。(略)
 タクシーの中で、意識はなかったかもしれないが、ゴードンは古い歌を鼻唄交じりによく歌っていた。それが明け方のマンハッタンでひと気が失せたストリートと不思議な調和を帯び、いまもぼくの心の中にある種の情景を浮かびあがらせてくれる。

ハービー・ハンコック

[87年「マウント・フジ・ジャズ〜」宿泊ホテル、ピアノを弾き始めたハンコックを若いピアニストが取り囲み見つめる。やがて「一緒に弾こう」と提案。リニー・ロスネスに]続く生徒はベニー・グリーンだ。曲はハンコックが即興的に始めたブルースになった。ブルージーな演奏が得意なグリーンだけに、オーソドックスなフレージングでソロを二コーラス弾いてみせる。そのフレーズを崩しながら、ハンコックが気品に溢れたブルースに変化させていく。ブルースでもこんなに上品な演奏もできるんだと無言のうちに示しているようなプレイだ。グリーンはそれに感激して、思わず「グレイト」と呟いている。
 気がつくと、周りにはピアニスト以外にもミュージシャンが集まっていた。そばにあった椅子をドラムスに見立てて手で叩いているのはラルフ・ピーターソン・ジュニアだ。誰かが隅に置いてあったベースをケースから出して弾き始める。これでピアノ・トリオの体裁をなすようになっだ。
 ハンコックのピアノ教室はさらに続く。次は若手ではないが(略)フリー・ジャズ的なプレイを特徴としているドン・プーレン(略)
 ハンコックがジャズ・ロック調のビートを提示する。それに乗せてなにか弾いてみろというリクエストだ。(略)
ハンコックと一緒に弾けるのならと、色気を出したのだろう。そのリズムを無視して、フリーで強力なタッチのフレーズをもの凄いスピードで弾き始めた。それでもハンコックは自分のペースを保ち、泰然とジャズ・ロック調のビートを刻んでいる。しばしかみ合わないプレイが続いていくうちに不思議な調和が生まれてきた。ビートも違えばテンポも違う。それなのに、いつの間にかふたりのプレイがぴたりと合うようになっている。これがジャズの面白さだ。それを至近距離から見られるとは、なんと贅沢な体験だったことか。

マイケル・カスクーナ

カスクーナとは、留学していた時代から顔見知りになっていた。ただし何者なのかは知らなかった。あちこちのレコード店で頻繁に顔を合わせていたのが彼である。本当に嫌なやつだった。この男が店にいたら、そこにはほしいものはなにひとつとして残っていない。あの髭面を見るとがっかりしたものだ。カスクーナが通ったあとは苔も生えない。
 ところが、向こうも同じことを思っていた。ぼくが先に店にいるのを見たら、別の店に行くことにしていたという。カスクーナもこちらを嫌なやつと思っていたそうだ。
 そんなふたりが、あるときマンハッタンのフリー・マーケットで鉢合わせをした。(略)
[著者が脇目もふらず箱を漁って顔をあげると、笑顔を浮かべた髭面が。カスクーナが自分のコレクションを売っていたのだ]
あとで聞いて大笑いをしたが、このときのぼくの姿が天使のようだったという。きっと鴨がねぎを背負っているように見えたのだろう。

マル・ウォルドロン

「〈レフト・アローン〉を作曲したのは一九五七年の終わりか五八年の初めだと思う。ニューヨークからロスに向かう飛行機の中だった。[ツアー中の持て余した時間、ビリー・ホリデイが〈レフト・アローン〉の歌詞が書かれた紙片を差し出してきた](略)
「目を通したわたしは深く心を打たれた。あまりに哀しい女性の物語が描かれていたからだ。それがビリー自身のことだということもすぐにわかった。個人的な歌詞を彼女がちょくちょく書いていたことは知っていた。しかし、わたしに曲を書かないかといってきたのは初めてだった。結局これが最初で最後になってしまったが。飛行機に乗っている間に、わたしは〈レフト・アローン〉のすべてを五線譜に書きあげていた」
(略)
 「ビリーと何度かこの曲のリハーサルは行なったが、レコーディングはおろか一度もひと前で歌われることはなかった。あまりにパーソナルな内容だったためだろう。彼女はわたしがつけたメロディを気に入ってくれていたが、ひと前で歌うにはためらいがあったんじゃないかな。ついに陽の目を見ずに終わってしまった」

ロレイン・ゴードン

[レコード・コレクターは男性ばかり]マニアが集まってくる店は、だから男性の客ばかりである。
 そんなところで、六〇に手が届く年齢のロレインが熱心にレコード探しをしているのだから目立つことこの上ない。しかも彼女の手元を見ると、クラシック・ジャズから最近のものまで、スタイルやアーティストを問わずさまざまなレコードが集まっている。
 「マックスにもよく話すんだけれど、ひとつのスタイルだけを聴いていたら駄目だと思うの。お店ではストレートなジャズが中心のブッキングになっている。でも、時代と共に新しいスタイルや新人も紹介しないといけないんじゃないかしら」
 ぼくが留学していたころの「ヴィレッジ・ヴァンガード」では、ほとんどビバップやハード・バップの路線上にいるアーティスト、それも功なり名を遂げた有名アーティストが中心にブッキングされていた。ぼくは内心、「このままだとやがてこのクラブも単なる名所になってしまうんじゃないだろうか」と危惧していた。(略)
 その旧態依然としたブッキングに変化が生じるようになったのは八〇年代も半ばをすぎたころからだ。アート・アンサンブル・オブ・シカゴで代表されるフリー・ジャズ系のアーティストやテレンス・ブランチャードなど若手の意欲的なプレイヤー、さらには九〇年代に入るとDJロジックといったヒップ・ホップ系のひとたちまで登場するようになったのである。
 この傾向が強くなったのは、夫のゴードンがこの世を去って以降のことである。そこにロレインのポリシーが働いていることはいうまでもない。
 「ジャズは刻々と変化していくものでしょ。そのことをわたしは肌で知っている。だって六〇年以上もこの音楽を夢中になって聴いてきたのよ。そして、いまだに一番新しいジャズがもっとも面白く感じられる。そうした音楽を紹介しない手はないでしょ?」