ビートルズはどこから来たのか 和久井光司

ビートルズとディランがつくったロック」みたいな内容なので、そういうタイトルにした方がディラン・ファンも購入して売れ行き倍増な気がするが……。

1965年

ディランが『追憶のハイウェイ61』を、ビートルズが『ラバー・ソウル』をリリースした65年後半こそ、ヒット・シングルに影響されずにアルバムを売ることができる“新しいポップ・ミュージック=ロック”が誕生したときなのである。(略)
[日本ではディランのレコードはまだ一枚も出ていない]

追憶のハイウェイ61(紙ジャケット仕様)

追憶のハイウェイ61(紙ジャケット仕様)

「フォーク」の新しさ

高校に通っていたころは、リトル・リチャードを真似たスタイルでロックンロールを唄っていた彼が、なぜウディ・ガスリーに痺れ、フォーク・シンガーを目指したのか
(略)
ビートルズ以前のロック/ポップを聴くと、ビートルズの「新しさ」をリアルに摑めるようになりますよね。(略)
[ではなぜそのように、ディラン以前のフォークを聴いて、ディランの「新しさ」を掴もうとしないのか]
「ディランはロックンローラーよりもフォーク・シンガーの方がカッコいいと思った」ということが、あまり語られていないために、50年代の「フォーク」にもあった新しさ、つまり「ポップ性」や「ルーツ・ロック性」にまでは、なかなか目が向かないからなんです。
(略)
60年代に、50年代型の「ロックンロール」とは異質の「ロック」をつくったのはビートルズとディランでしょう。(略)
「ロックの概念」を打ち立てたのはビートルズとディランだけだった。

「マウンテン・ミュージック」

バンジョー、ギター、ヴァイオリンなどの弦楽器を使ったバンド形態は、19世紀末にアパラチア山脈[の炭鉱地帯]で形成されました。これがカントリー&ウエスタンの初期の形、「マウンテン・ミュージック」です。
 バンジョーの原型はアフリカから持ち込まれたバンジョール、ギターの原型はメキシコのバホ・セスト(略)
ヴァイオリンはケルト移民が持ち込んだものに間違いなくて、ちょうど南北戦争のころからの、新移民と呼ばれる世代は、19世紀初頭までに南部に入植したケルト移民よりも、質の高いケルト・ミュージックを持ち込んだ
(略)
アイルランドの人たちでした。音楽好きの彼らは、黒人がより早いテンポの演奏や、より激しいダンスを好んだのに合わせて、ケルト民謡をアメリカ的に変化させていきます。
 おそらくケルト移民よりも黒人の方が炭坑にとどまれる期間が短かったんじゃないかと思うんです。だから、マウンテン・ミュージックは白人のカントリーに発展した。
(略)
19世紀の終わりから20世紀の前半に、移民と奴隷によってつくられていったのがアメリカのポピュラー音楽なんです。(略)
アメリカの黒人音楽はケルト移民の文化があってこそのものだった。2拍4拍にアクセントがくるアフター・ビートや、I-IV-Vの3コードでペンタトニック音階のメロディも、アフリカの音楽にはなかったもので、ケルト移民がいなければアメリカの黒人音楽はああはならなかったんです。

スキッフル・ブームというネジレ

[米国でプレスリーが登場する前に、英国ではロニー・ドネガンによる]スキッフル・ブームというネジレが挟まったことで、英国のロックンロールはアメリカのそれとはまったく違ったものになります。
(略)
ギターがいないのが英国のトラッド・ジャズの特徴です。誤解を怖れずに言えば、ブルースやR&Bの要素は希薄だったんですね。だから、モダン・ジャズ的な方向には行かなかった。
(略)
[英国トラッド・ジャズを牽引していたクリス・バーバー達は]ニューオリンズの音楽を研究し、それを英国的に発展させようとしたんですが、52年にケン・コリヤーがニューオリンズを訪れた際に、ストリートでカントリー・ジャグ・バンドを目撃したことが、英国のスキッフルを生むんです。(略)
瓶の口を吹いたり、盥に立てた棒に張った一本の縄を弾いてベースの代用としたり、洗濯板をパーカッションとして使ったりするジャグ・バンドが、カントリー・ブルースを演奏するのが面白いと思ったようです。(略)
「ギターを弾きながら唄うシンガーに、日用品を楽器にするバンド」という取り合わせは、コリヤーの想像を超えていた。(略)
[帰国後、ショウにスキッフルのコーナーを設けようとしていたところ]に現れたのが、スコットランドから来たロニー・ドネガンでした。当時の英国にはギターを弾きながら唄うシンガーなんてほとんどいませんでしたから、バーバーはドネガンにレッドベリーの曲などを唄わせて、英国独自のスキッフルをつくるんですね。

オン・ザ・ロード

[『オン・ザ・ロード』を欧州のミュージシャンに広めたのは欧ツアーに出た]ランブリン・ジャック・エリオットとデロール・アダムズだったようです。(略)
アラン・ローマックスとピート・シーガーが、英国のトラディショナル・フォーク界の重鎮であるA.L.ロイドやイーワン・マコールと交流を持ったことも、実はスキッフル・ブームヘの布石だったんです。54年ごろからローマックスとピートの妹ペギー・シーガーは英国のラジオでフォーク専門の番組を持っていたんですが、英国勢のレギュラーだったイーワン・マコールとペギーが結婚したこともあって、英米のフォークの人的交流は加速しました。
(略)
「ホーボー」のイメージが強いふたりの演奏は、アメリカのレイルロード・ソングを英国に広めることになったスキッフル・ブームのあとにはピッタリだったんでしょう。エリオットとアダムズはカウボーイ風のヴィジュアルで意識的に「アメリカ」をアピールしたようです(略)
ウィズ・ジョーンズは、「デロールはリーヴァイスのジーンズの尻ポケットに、いつもペイパーバック版の『オン・ザ・ロード』を差していた。それはポーズだったと思うんだけど、ロンドン勢はみんな“これがアメリカの本物か”と感心して、憧れたんだ。実際カッコよかったからね」と私に教えてくれました。その話をトニー・シェリダンにすると、彼もロンドンでエリオットとアダムズのステージを観たと言うではないですか。そして、「オレたちにとってのバイブルは『オン・ザ・ロード』だった」「ジョン・レノンハンブルクのクラブの薄暗い楽屋でもケルアックやギンズバーグを読んでいるようなヤツだったんだ」という興味深い証言をしてくれたんです。

ポールの弟、ギンズバーグ

ポールがギンズバーグに興味を持ったのは、弟マイクの人脈からの影響だったことは間違いなさそうです。(略)
 マイクが部屋で[恋人の]シリアから借りた『ボブ・ディラン』を聴いていると、ギグを終えたポールが帰ってきました。午前1時ごろだったそうです。ポールはさっそく興味を持って、「それは誰?」と訊きます。けれど、しばらく聴くうちに「雑音だな」と言い出して、否定的な見方しかしない。マイクが「ぼくも最初はそう思ったけど聴いてると良くなってくるんだ」と言っても、「くだらないね」と相手にしなかったらしいんです。ところが63年になると、ポールはすっかりディランのファンになっていた。マイクが兄の最初の反応を指摘すると、ポールは「それはジョンが言ったんじゃないか?」とシラを切ったというんですから彼らしいですよね。けれど、マイクがポールに一目置かれるようになっていくのはこのころからです。
 なぜならマイクは、すでに自分の道を歩き始めていたんです。コント作家兼俳優を目指していたジョン・ゴーマンが、詩人のロジャー・マゴーフやエイドリアン・ヘンリの協力を仰いで主宰していたイヴェント集団「マージーサイド・アーツ・フェスティヴァル」に誘われたマイクは、詩の朗読、コント、バンドの演奏、絵画展などを一緒にした、そのアメリカ型の「イヴェント」を面白いと思い、仲間に加わりました。そして、ゴーマン、マゴーフと「ザ・スキャッフォルド」を結成します。これが62年のこと。
(略)
 [民放のABCで始めた「リヴァプールのある太ったレディのオール・エレクトリック・ショウ」が]評判となって32週まで延長され、スキャッフォルドは思わぬスターになるんです。(略)
並行して詩人としても活動していたロジャー・マゴーフは(略)64年ごろからギンズバーグと親交を持つように

ライヴ・アット・ザ・クイーン・エリザベス・ホール1968

ライヴ・アット・ザ・クイーン・エリザベス・ホール1968

  • アーティスト: スキャッフォルド,マイク・マクギア,ロジャー・マッゴー,ジョン・ゴーマン
  • 出版社/メーカー: ミュージックシーン
  • 発売日: 2016/03/25
  • メディア: CD
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ロックの「1965年起源説」

[ビートルズの成功で]「ブリティッシュ・インヴェイジョン」が始まり、英国バンドは次々にアメリカを体験するわけですが、実はみんな、行ってみるまでアメリカの音楽界の現実を知らなかった。ローリング・ストーンズが初めてチェス・スタジオを訪れたとき、マディ・ウォーターズが壁を塗りに来ていたという有名なエピソードがありますが
(略)
突きつけられた「リアルな歴史」に英国バンドは愕然としたことでしょう。ブルースやロックンロールが商業音楽としては「終わっている」という現実は、アメリカで人気が出た英国バンドにとっては最も怖ろしいことだったはずです。
 前述のとおり、ヒット曲はないのに、書いた曲が他人にカヴァーされることで大作家とみなされるディランを目の当たりにしたビートルズは、「アルバムを作品として売る」ことを考え始めます。一方、レコーディングもライヴ録音に等しいディランは、「ステージが最新の作品」であることを表明していくんです。
 66年5月の英国ツアーで、まだホークスと名乗っていたザ・バンドと、「ライヴが命のロック」を形にしたディランは、7月29日にバイク事故を起こして前線から消えます。
 ビートルズは『リヴォルヴァー』で、「アルバムに焼きつけるロック」を完成させたものの、8月の北米ツアーを最後にライヴを諦めるわけですね。
 双方とも自滅のような格好になりましたが、ロックンロールとは別物の「ロック」が形になり始めてからたった1年で最初の沸点に達したことは、後続のミュージシャンに希望を与えたと思います。すぐさまロックのサブ・ジャンル化が起こったのがその証拠でしょう。[サイケ、ハード、プログレッシブなどに細分化]

ラテン

[プレスリーは出たが、米音楽界の主流は相変わらずフランク・シナトラ他]
この時代の新しいスターは、56年の<バナナ・ボート>でカリプソを大ブームにしたハリー・ベラフォンテでした。彼のアルバム『カリプソ』は31週に渡って全米チャート1位に居座ったんですから、カリプソ・ブームはロックンロールの比ではなかったということでしょう。当時の「大人」のトレンドは、カリプソからラテン音楽全般に視野を広げていくことだったんですね。(略)
[ビートルズがラテンをカヴァーしたのも]単なるロックンロール・バンドではない「幅」を見せるためだったはずだし、ジョージ・マーティンもしばらくは彼らのラテン趣味を「変化球」として使います。(略)
佐藤良明先生が「64年ごろまではポップスにおける重要な変化球として存在していたラテンのマナーが、ビートルズアメリカ制覇あたりから急速に消えてしまった。それは彼らの功罪かもしれない」とおっしゃっていたんですが、鋭い指摘ですね。

“バンドとしてのビートルズの重さ”

[『アンソロジー』を聴いて]バンド経験のある人たちは、「ビートルズも特別なやり方をしていたわけではなかった」と、むしろ親近感を抱いた。(略)コードや歌詞も決定ではないところから、演奏してみて決めていくのがバンドだからです。そういう意味では、初期のビートルズは実にバンドらしいバンド
(略)
 私はクラウス・フォアマンに会ったときに、マンフレッド・マンのメンバーとして活躍した時代をどう思っているか、と訊いてみたんですが、クラウスは苦々しい顔をして、「オレはあのバンドは好きじゃなかった。ヒットは出していたけど、売れそうな曲をつくって、わかりやすいアレンジにして、売れそうなタイミングで出すことばかりを考えているバンドだったから、ベーシストって立場でそこにいると、ちっとも面白くないんだ。オレはハンブルク時代からビートルズのそばにいたから、バンドっていうのはみんなビートルズみたいなものだと思ってた。ところがそうじゃない。レコードを出すようになったり、ヒット曲が出たりすると、売れないことが不安になるんだな。それでおかしなことになる。どうやったら売れるかわかるなら、みんなそうするだろ?狙って売れることもあるから一概には言えないけど、売れるか売れないかなんて十中八九は“時の運”だよ。自分が楽しくない想いをしてつくったものが売れても、ちっとも嬉しくない。マンフレッド・マンがオレに教えてくれたのはそういうことだけだ」と答えました。
 クラウスが言うには、ビートルズストーンズはどんなに売れても、作品をつくることに関しては「あくまで自分たち主導だった」そうです。(略)
リヴォルヴァー』のジャケットだって、ジョンがオレのアパートまでやってきて、“これまでになかったようなものにしてくれ”って言っただけだった。だからオレは、“いずれにしてもコラージュにしたいから4人がバラバラに写っている写真を集めてくれ”って頼んだんだ。それだけ。彼らは何だって、そうやって自分たちでつくっていた。だからいろいろなことを知っていたし、知りたいという欲も半端じゃなかった」
(略)
[97年に]クラウスに改めて“バンドとしてのビートルズの重さ”を教わったように感じた私は、それまでとは違う耳で『BBC』や『アンソロジー』を聴くようになりました。
 そうすると、ビートルズの“人力の凄み”がわかってくる。誰かの一言からリズム・アレンジが変わっても、ポールとリンゴはすぐに対応します。ただ合わせるんじゃなくて、ヴォーカルの弾みに対してベストなリズムのポイントを演奏で示してくる。ヴォーカルの弾み感というのは歌詞や声の抜けによっても変わってきますから、一曲の中でも均一ではないんですが、ベースやドラムがそこにいちいち合わせてしまうと曲のリズムは一定ではなくなってしまう。だから小編成のバンドでは、全員のリズムがピタッと合っていることの方がむしろ稀で、微妙なズレがグルーヴになっていたりするんです。

日本盤ジャケの影響

 それまで、欧米ではレコードに歌詞をつける習慣はなく、歌詞を知りたい人はシート・ミュージックを買っていた。(略)
 ビートルズは来日時に東芝から日本盤のレコードをプレゼントされたんですが、シングルのジャケットがきれいなことと、歌詞がついていることにビートルズは驚いた。けれど、日本で聴き取られた歌詞には間違いがたくさんあった。由々しき問題だ、ということになった。(略)
[世田谷キヨシさんは]『サージェント・ペパーズ』の裏ジャケに歌詞が刷られることになったきっかけではないか”と、私にメールをくれたんですが、まさしくそう、だと私も思います。ついでに言えば、その後の最初の英国盤シングルだった〈ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー/ペニー・レイン〉に英国では初めてピクチャー・スリーヴが付いたのも、日本盤のシングルの影響だったんじゃないでしょうか。
 ジャケはともかく、そこに歌詞を刷ってしまうというのは音楽ビジネスを根本から覆すことになった。(略)アルバムの全曲の歌詞をジャケットに刷ってしまえば、譜面の売上が激減するのは目に見えていた。ビートルズはシート・ミュージックの売上から入る印税よりも、自分たちが書いた歌詞を正確に伝えることの方を重要視したんです。

英国トラッドを学習したディラン

ファースト・アルバムには2曲しか収録されていなかったオリジナル曲が一気に増え、ソングライターとして注目されるようになったのは、コロンビアからの前払い金で西4番街にアパートが借りられたことと、62年暮れから63年初頭にかけてロンドンに滞在し、英国のトラディショナル・ナンバーを学習してきたことの成果でした。
(略)
[英国フォークの大御所達はダミ声を邪道とし、いい顔をしなかったが]若手は熱烈にディランを支持、彼らが唄う英国のトラディショナル・ナンバーに興味を持ったディランは、マーティン・カーシーとつるむようになったんです。帰国したディランは、カーシーに教わった〈スカーバラー・フェア〉をもとに〈北国の少女〉を、〈ロード・フランクリン〉をもとに〈ボブ・ディランの夢〉を書くなど、トラディショナル・ナンバーのメロディにオリジナルの歌詞をつけることで曲を生んでいく術を身につけていくんですね。
(略)
 『フリー・ホイーリン』が出たときに、カーシーやナイジェル・デンヴァーを驚かせたのは、作者のクレジットがすべて「ボブ・ディラン」となっていたことだったそうです。英国ではトラディショナル・ナンバーのメロディを借りた曲は“Trad. arranged by”と表記されるのが普通だったため、「ディランは英国の曲を盗んだ」と批判され、英国フォークの支持者からは嫌われたというんですね。
 ところが『フリーホイーリン』は英国でも売れた。(略)
スキッフルのオリジネイターを求めてアメリカン・フォークを聴いている層もいた。そういう人たちは、英国のロックンロールはしょせんはアメリカの真似、と思っていたんでしょうね。だから、クリフ・リチャードにも、シャドウズにも、ビートルズにも靡かずに、アメリカ産の“本物”を聴いていた。アレクシス・コーナーやジョン・メイオールはまさにそういう人ですから、63年の段階ではビートルズをそれほど評価していません。(略)
[ビートルズをただのアイドルとする音楽通は]アメリカの公民権運動を引っぱるディランをヒーローと認めた。当のビートルズも『フリー・ホイーリン』を聴いて、「ディラン、ヤバイだろ」ということになっていたんです。

ブルース・ロックを揶揄したジョン

 ギターのリフや長いアドリブを特徴とするハード・ロックこそが“ポップとは違うロック”とする風潮が強まってきたところに、ジミヘンが登場したんですから、ブルース/R&B/ソウルといった黒人音楽と、ポップ/ロックのあいだにあった垣根など取っぱらわれたわけですね。(略)
ビートルズが『サージェント・ペパーズ』と格闘しているあいだに“ギター・ヒーローの時代”は始まっていたんですよ、少なくとも英国では。クリームやジミヘンの衣装を見れば、アメリカ西海岸のサイケデリック・ロックを意識していたのがよくわかるし、ただヒッピーっぽいだけではなく、そこに“スウィンギン・ロンドン”のオシャレ感を加えたカッコよさが英国的だったことも納得できるはずです。
 それはさておき、ブルース・ロックです。
 クラプトンがジョン・メイオールと意気投合したのは、デッカの若手プロデューサーだったマイク・ヴァーノンがふたりを引き合わせたからでした。(略)
ヴァーノンはクラブトンの代わりにピーター・グリーンをブルース・ブレイカーズに入れ、グリーンの人気が高まると彼にフリートウッド・マックを結成させる。ブルース・ブレイカーズにはミック・テイラーをあてがいます。そしてフリートウッド・マックと、新たに見出したチキン・シャック(略)デッカでプロデュースしたサヴォイ・ブラウンを“ブリティッシュ・ブルースの三羽がらす”として売り出して、68年にブルース・ロック・ブームを起こすんですね。
 ちょうどビートルズがインドに行っていて不在だったときにフリートウッド・マックの人気が爆発したんで、ジョンはヴァーノンの仕掛けを知って怒った。いまさらシカゴ・ブルースの真似をして……という想いもあったようですが、本来は裏方の人間が音楽で何かを仕掛けるのをジョンは嫌いますから(略)で、皮肉をこめて〈ヤー・ブルース〉を書く。
[ストーンズの「ロックンロール・サーカス」での]セッション・バンドに“ダーティ・マック”と名づけ、〈ヤー・ブルース〉を演奏しますが、ストーンズのこの映画がお蔵入りになってしまったので、ブルース・ロックヘの揶揄と、ポールヘの反感をバンド名にこめたことは、幸か不幸か知られませんでした。でもジョンは、翌年の『アビイ・ロード』にマックの〈アルバトロス〉を真似てつくったという〈サン・キング〉を残していますから、ブルース・ロック勢の動向はちゃんと押さえていたんでしょう。
(略)
ラバー・ソウル』のセッションで唯一アウトテイクになった曲が〈12バー・ブルース〉という、ビートルズには珍しいベタなインスト・ブルースなのは、65年の段階で彼らがブルース・ロックを気にしていた証拠だと思います。

次回に続く。

Albatross

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英吉利の薔薇(期間生産限定盤)

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