“殺し”の短歌史・その2 土岐善麿、寺山修司

前回の続き。

“殺し”の短歌史

“殺し”の短歌史

その記録性を巡って / 森本平

貧しさに汽車にひかれて人は死ぬ、わが死ぬことをさても思はず。
弑さねばならぬこころにころしたる、その一途なる血の快さ。
(略)
彼女の死体の流れて来た夜の河岸をそのとき僕がさまよつてゐたら
町はづれのカフェの片隅にこまごまと書いてゐたのを遺書と知つたものはない
(略)


 もともと自然主義は、「遺伝」という視点をもって人格形成をとらえようとしたゾラのように、当時の先端の科学を武器に、社会や人のありようを考察しようとする試みだった。しかしそれが日本に取り入れられるにおいてはかなりの変質を起こし、偽悪的要素を含んだ自己告白の色彩の強い私小説へと流れていくこととなる。啄木の評論を読むと、彼は自然主義の本質的な科学性をかなり正確に理解していたように思われるが、客観的な眼差しをもって、自分の、更には人間の負の部分を見据えた上での告白は、必然的に、悪、狂気、そして〈殺し〉などを詠っていく可能性を孕むこととなろう。「へなぶり歌」などと称される啄木の初期作品は、実のところ、先に引用した善麿の歌と共通するような黒さがしばしば顔を覗かせる。


森の奥より銃声聞ゆ
あはれあはれ
自ら死ぬる音のよろしさ


どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな


(略)
 こうした歌の世界は「猟奇歌」の夢野久作や、その「猟奇歌」を評価した寺山修司とも確実に繋がっている。


この夫人をくびり殺して
捕われてみたし
と思ふ応接間かな


殺すぞ!
と云えばどうぞとほゝゑみぬ
其時フツと殺す気になりぬ

善麿と大杉栄

 ひと顆の梨のしづくにうるほせしその喉はいまは息は通はぬ
(略)
 うしろより声をもかけず殺したるその卑怯さを語りつぐべし


 「友の惨死」と題された一連で、大杉栄の死が詠われている。一首目の「梨」は、連行される前に伊藤野枝が梨を買っていたという甘粕正彦の供述によっているのであろう。(略)
四首目は、甘粕が大杉の後ろにまわって首を絞めて殺したという判決に基くか。(略)
冷水茂太は、『評伝 土岐善麿』において、罹災時に関する歌や朝鮮人虐殺に関する歌から平和な生活の歌までを紹介した後、特にこの一連のみを取り上げて、「地上」の歌の中では一番多くの行数を割いて記している。(略)


[大杉とは]善麿が『生活と芸術』を廃刊したあとは、自然と遠ざかっていたが、そのころ大杉は持ち前の自由奔放な恋愛や生活ぶりで、社会主義者仲間からも不信を買って、多くの同志から見放されていた時代だった。(略)
 善麿と大杉はその性格が全然正反対であって、積極行動者の大杉は『生活と芸術』時代の善麿の社会主義者としての行動的臆病さを冷笑したりしていたのであるが、いまこの事件で、日本が生んだ偉大な社会主義革命家の無残な死に対して、善麿は一友人の死という以外に、大きな怒りがこみあげてくるのを、こらえることができなかったのである。


 この文章に従えば、善麿はこみあげる怒りに突き動かされてこれらの歌を詠んだことになるが、果たしてどうなのか。起承転結をもった連の構成といい、橘宗一の取り扱いといい、いたって知的な要素を感ぜざるをえない。決して直情的に怒りや悲しみをばら撒いているわけではないのである。そもそも、『改造』における「地上」では「友の惨死」の歌は出てこない。歌集の段階で付け加えられたものである。
 引用した冷水の文中にもあるように、大杉の死とその発表とにはタイムラグがあり、善麿がその段階で歌を作ることはありえない。(略)
大杉の死にあたって善麿が抱いたであろう悲しみや怒りを否定するつもりはないが、作品の成立自体については、関東大震災の記録的意味合いから落すべからざる大事件として作品化された可能性が高いのではないか。

木村久夫とカーニコバル島スパイ事件 / 福島久男

[木村久夫は]カーニコバル島で激戦を生き延びて終戦を迎えた。しかし、戦犯とされ、シンガポールチャンギー刑務所で刑死する。
(略)
 今、私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んでいくのである。これで世界人類の気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。
(略)
[敗戦後、スパイの取調べ・処刑で]斎旅団長以下三十名が逮捕監禁された。(略)
 木村久夫は、一貫してかれらを「ぶった」こと、また、「ぶった」ためにかれらが死に到ったことを否定した。
(略)
私は生きるべく、私の身の潔白を証明すべく、あらゆる手段を尽くした。私の上級者たる将校連より、法廷において真実の陳述をなすことを厳禁せられ、それがため、命令者たる上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の判決を下された。これはあきらかに不合理である。〔……〕また事件そのものの実状としても、命令者なる将校連に責めがいくべきは当然であり、また彼らが自分自身でこれを知るがゆえに、私に事実の陳述を厳禁したのである。(略)
きけ わだつみのこえ』での木村久夫の手記は、「真実」を述べることを厳禁された事実を語っている。
(略)
[判決は]斉藤海蔵中佐に無罪が宣告された。(略)斎俊男陸軍少将には死刑が下された。「あなたのこの裁判における立派な態度はかねてより敬服せざるをえない」として名誉ある銃殺刑が告げられた。
 木村久夫たち実際取調べを行なったもの五名に対しては、「あなたたちはまさに殺人者、慈悲も人間性もない殺人者というべきである。あなたたちがいないほうが世の中はよくなる」として絞首刑が宣告された。(略)
命令者グループからは斎少将一人に死刑が下され、取り調べ実行者から五人もの死刑者が出たのである。
 この「カーニコバル島事件」の裁判は、刑の軽くていいはずの者が重くなり、重要な役割の者が軽くなっており、俗に「抽選裁判」と呼ばれている。
(略)
 「私の仏前および墓前には、従来の供花よりも、「ダリヤ」や「チューリップ」などのはなやかな洋花を供えてください。これは私の心を象徴するものであり、死後はことにはなやかに明かるくやっていきたいと思います。おいしい洋菓子もどっさり供えてください。私の頭に残っている仏壇は余りにも静かすぎた。私の仏前はもっと明かるいはなやかなものでありたい。仏道に反するかも知れないが、仏になる私の願うことだからよいでしょう」。手記のこの部分は何度読んでも涙にさそわれる。
 木村久夫のうたは、私の確認した限りでは十四首ある。
(略)
友のゆく読経の声をききながらわれのゆく日を指折りて待つ
かすかにも風な吹き来そ沈みたる心の塵の立つぞ悲しき

  • 匿名的な「殺し」の時代へ

森本平を中心に / 森井マスミ

花、女、旗、
それから、血!
砂漠に落つる日
海に漂う戦さの跡の波。  (ノートより)


 「一人の歌人をもって、ひとつの時代の青春を代表させることができたのは石川啄木までだったのではなかろうか?」と寺山修司は語った。彼はつづけて、「このノートに、明治後期の青年たちが、なだれこんできた「近代」とどのように対決し、どのように苦渋にみちた表情で〈時代閉塞〉の中に曲折していったかを見出すことは容易である」とも述べている。
 この四行に示されているのは、芸術、恋愛、革命のための流血、国家のための戦争である。新しい時代のエネルギーと、青年のロマンをたたえたそれらは、啄木の存在を激しくつき動かしたに違いない。そして同様に「閉塞」した今日から、啄木が生きた時代を振り返るとき、そこにたしかに感じられるのは、「閉塞」と背中合わせの希望であり、夢をたくすべき未来の存在である。しかもその希望や未来は、先の「死」の可能性と切り離すことのできないものである。なぜならそれは逆説的ながら、「死」の可能性を排除して、希望というパースペクティブは成立しないからである。


大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり  石川啄木『一握の砂』


 寺山はこの歌の作られたのが、「北海道在住時代ではなく、東京は本郷の菊坂の金田一京助の下宿であった」ことを示して、「啄木の『一握の砂』が、自分の「死ぬこと」までを主題にしながら比較的客観的な表現法をとっているのは、これらの歌が、過去の複製化によってつくられたものだからである」と述べている。
 ここで寺山が批判しているのは、啄木が「つねに自らの生を活性化するための装飾語として「死」を歌い続けてきた」ことであり、さらに寺山はそれを、啄木が「「家」の死、あるいは母との離別、結婚の解体」について一度も語ることがなかったこととあわせて、「明治後期の自立者の「甘え」の表出である」と述べている。
 たしかにこの批判は的を射たものであり、寺山自身がくり返し、家出と母離れを説いていたことは周知の事実である。しかし先に述べたように、近代において「生を活性化するため」に「死」が歌われることは、ある意味構造的な帰結であり、むしろ興味深いのは、啄木の時代にあって「家」と「死」が、近代のパースペクティブにおいてその機能を十全に果たし、そこから歌が生まれていたことである。
 寺山は、「恋と革命の挫折」を理由に縊死した岸上大作を、啄木と比べている。「啄木の歌の方に、より一つの時代を代弁しようという気概が感じられる」と寺山はいっているが、ここでもまた寺山は、「家」との関係において岸上を批判している。具体的には寺山が、「デモをやるより、親子問題を克服したらどうだ?」「まず、家への疑いからはじめることが、君の国家論ではないのかい?」と岸上を「挑発」しているのだが、その寺山が「そのあまりにも短歌的だった一生には、いささか閉口した」と語る岸上の最後の歌は、〈かがまりてこんろに青き火をおこす母と二人の夢作るため〉であった。
 つまりこの歌が示しているように、寺山のことばは岸上には届かなかったのであり、結局のところ彼の「死」は、革命のための「死」とはかけはなれたものであった。そして岸上は、革命と「死」を文学化したに過ぎず、彼にとって「家」は断ちがたい紐帯として、啄木同様、歌の源泉であったといえる。
 寺山は「行為と実践とのちがい」について、次のように述べている。
詩人もまた他の文学者たちと同じように行為者であるべきだが実践してはならない。たとえば本気でデモの効果を信じ、世直しのための実践活動家になってはいけないのである。〔……〕/私はこの六月の不幸な歴史の傷痕を、他の人たちと頒ちもっているが、実践者にならないからいま芸術家なのだ、というくやしさと誇りをもっている/〔……〕歴史をかえていくのは革命的実践者たちの側ではなく、むしろくやしさに唇をかんでいる行為者たちの側にあるのだから。
「この六月の不幸な歴史」とは、新安保条約調印に反対する全学連主流派によるデモが、東大生樺美智子という死者を出したことであり、その半年後の十二月、岸上大作は自殺した。いずれも一九六〇年のことである。
(略)
寺山が見据えていたものは、革命という「実践」によっては、「家」をはじめとする制度を解体できないという現実である。だからこそ寺山は、「家出のすすめ」を語り、街頭劇という「行為」によって、「一メートル四方一時間国家」を現出させ、演劇を契機とする現実の構造の解体を試みていたのである。

森本平集 (セレクション歌人)

森本平集 (セレクション歌人)

歌集 町田コーリング (開耶叢書)

歌集 町田コーリング (開耶叢書)