熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

 
熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

 

編者解説

まず、巻末の編者解説から先に

意見や利害の異なる多数の人々が社会集団を作り、長い期間にわたって運営していく必要にせまられたとき、しばしば私たちは二通りの方法を活用してきた。(略)

一つは(略)集団の分裂や解体を防ぐために共有しておくべきことがらを書きとめ、他の決定に優先して守っていくというやり方。もう一つは、新しい取り決めが必要になるたびに合議にはかり、オープンな議論を経た決定には誰もが(個人的には反対であっても)従っていくというやり方である。――「国家」という政治社会の運営にあてはめるなら、いうまでもなく前者は立憲主義の方法、後者は民主主義の方法だ。(略)

両者はそれぞれよく似た困難を抱えてもいる。(略)
司法を担う人々は選挙で選ばれたわけではない。しっかりとした民主的基盤をもたない彼らの判断に、人々はなぜ従わねばならないのか。(略)

他方、民主主義の擁護者は、政治的な討議と決定そのものへの不安をいつも惑じていた。多数派の専制と少数派の排除・抑圧、集団的な熱狂、公益とかけ離れた妥協や利害調整に陥ることなく、立法機関は公正で思慮のある決定を下せるのか。

(略)

本書の著者、キャス・サンスティーンが一九九〇年代はじめに司法ミニマリズムと熟議民主主義という旗印を掲げて登場したとき、彼もまた、立憲民主制の可能性と足場を見定めようとするこの企ての伝統に加わっていたといえる。
 憲法解釈の手法について、彼は「広くて深い」裁定(略)を避け、コモン・ロー的な類推解釈を用いて一つひとつの具体的な紛争解決に専念していこうとするミニマリズム的な姿勢こそが、これまでの裁判所のふるまいに合致するし、利点も多いのだと主張した。また民主主義については(略)共和主義の理念に根ざした熟議民主主義の構想、政治参加者の相互批判と相互学習に力点をおく民主主義のとらえ方を強く擁護した。

(略)

 しかしサンスティーンの本領は、むしろそのあと、発揮される。彼はやがて、それまで擁護してきた自分の見解の弱点をすすんで認め、その価値を相対化する議論をみずから精力的に展開しはじめたのである。
 曰く、ミニマリズム憲法問題に取り組む裁判官が全面的に受け入れるべき解釈手法ではない。重要な政治的局面で裁判官に態度表明を控えさせ、深刻な不正の存続を許してしまう場合があるからである。またそれは、司法機関に余計な負担や責任を負わせないという口実のもと、それを裁判所以外の部門――たとえば熟議の過程――におしつけてしまうかもしれない。

(略)

 また熟議という方法も、いつでも必ず望ましい政治的決定をもたらしてくれるわけではない。(略)

内輪だけの閉鎖的な議論では、全体の流れを覆すような情報が提供されにくく、そこに水を差すような異論の表明も抑えこまれがちになる。参加者はつい、互いに受けのいい話ばかりを披露してしまいやすいのだ。このとき熟議は、たんに参加者の思い込みを補強し、いっそう極端な方向へとエスカレートさせるだけの装置になりかねない。

(略)

 とはいえ、彼は司法ミニマリズムと熟議民主主義の理念や理論を放棄したわけではない。彼はただ、これら特定の理論の擁護や推奨から、複数の理論の使い分けをうながす。

(略)

いついかなるときでも無条件に望ましい手段というものは存在しない。そして、憲法解釈の理論も民主主義の概念も、私たちが自分たちの社会のためのよりよい決定をするための道具にすぎないのであって、万能の手引きのように思い込むべきではないだろう。 

 第1章 熟議のトラブル?

集団極化 

 集団の構成員が互いに重要な点で似通っていると考えている場合、あるいは彼らを結びつけるなんらかの外的要素(たとえば、政治的立場、居住地域、人種あるいは性別)が存在する場合、集団極化の度合いは高まる

(略)

他と不和を生じている集団の構成員たちは、集団の内部だけで会話する傾向があり、それによって自分たちの怒りを煽り増幅させ(略)凝り固まった見方をするようになる。

(略)
 ティムール・クランは、国際的に広く生じている「民族化」現象について調査した。(略)民族紛争の要因は、長年抑えられていた恨みが呼び起こされたことにではなく、評判カスケードにあったというものである。その過程では、民族性を確認する行動に加わらないことに対して評判上の制裁が与えられ、その要求は、時間とともにカスケードに加わる人が増えるにつれて、厳しいものになっていく。人々はまず、民族衣装を身にまとうことを求められる。次に、儀式に参加し会合に出席することを求められ、さらに、他民族と距離をおくことを求められる。このように、「民族性の色濃い活動にともなう恐怖や敵意は、そのもともとの原因から生じたのではなく、民族化から生じた可能性がある」。

第3章 司法ミニマリズムを越えて 

浅さと狭さ

 むずかしい決定を迫られると、人はミニマリズムの方に傾きやすい。(略)一つの大きな決定を下すよりも、複数の小さな決定を積み重ねたがるのである。

(略)

裁判官は、しばしば浅い根拠をもった判決を好む。それは、根本的な問題について合意がない場合でも、多様な人々が合意できるような結論と論拠を生み出せるからである。

(略)

 ミニマリストの裁判官はまた、狭い法的判断を好み、あえて危険を冒して当座の問題以上の事柄に踏み込もうとはしない。

(略)

 浅さと狭さはきわめて異なった概念であることに注意しなければならない。たとえば、浅いけれど広い決定を考えることができる。人種隔離をつねに禁止しつつ、それがなぜ不正なのか、なんら深い説明を与えないような見解がありえよう。逆に深いけれど狭い決定というものも考えられる。たとえば、言論の自由の原理についての大がかりな理論を展開しつつ、そこから特定の政治的異議申立てに関する検閲だけを禁止するような場合もありうるだろう。無論、浅くかつ狭い決定もあるし、広くかつ深い決定もある。

空虚さ、浅さ、概念的下降

人々が憲法理論について合意できない場合でも、憲法的実践や憲法上の権利について合意にいたることは多い。言い換えれば、うまく機能している憲法秩序とは、完全には理論化されていない合意を通じて問題を解決しようとするものなのである。

(略)

個別の事案については厳しい対立があるのだが、抽象的な理念自体は皆に受け入れられている、といった場合がしばしばあるのである。だからこそ、憲法が暴力の教唆やヘイト・スピーチを保護すべきかどうかをめぐって対立している人も言論の自由という一般原理を受け入れられるし、憲法が同性関係を保護すべきかどうかをめぐって対立している人も差別は誤りだという抽象的原理を受け入れられる。

(略)

そもそも、憲法というものが制定できるのもこのためなのである。憲法制定者は抽象概念の具体的意味について対立していても、抽象的原理自体については合意できる。しかし、このような抽象概念は、具体化されなければならないその内実についての合意が成立していないので、空虚であると思われるかもしれない。
 だがこの空虚さには、実際問題としてこれ以外の形で合意を実現できないというプラグマティックな理由があるのである。詳細な合意を作り上げようとすることは、論争的すぎるかもしれない。

(略)

合意を進めるための最良の方法は、一般的な規範だけを述べておき、後の人間がそれに適合するような形でその内実を埋められるようにすることだろう。

(略)

抽象的な問題――たとえば「平等は自由よりも重要なのか?」とか、「自由意志は存在するのか?」(略)について対立したり、そもそも答えが見出せない場合に陥ったりすると、問題を非常に個別具体的なレベルまで落とし込むことで合意を促進できることがよくある。つまり概念的下降を試みるわけだ。(略)

基本的な問題について沈黙することが(略)対立の収束を生み出す装置として機能しているのである。つまり、沈黙が建設的な力をもっているのだ。完全には理論化されていない合意は、立憲主義と社会的安定性を達成するための重要な源泉なのである。そしてそれはまた、人々が互いを尊重する方途でもある。

実践における収束

奴隷制やジェノサイドが間違っていること、政府が政治的異議申立てを抑制してはいけないこと(略)

なぜ正しいのか正確にはわからなくても、われわれはこれらが正しいと知っているのである。

(略)

なぜその原理が法として受容されているか正確には説明できなくとも、政府が宗教的行為を罰するのは違法であると裁判官は知っているだろう。

 不完全な理論化の利点

 [三つ目に]社会的論争を調停する際、完全には理論化されていない合意は、対立が続くことによって生じる政治的費用を削減する(略)

もし憲法実践に参与する者たちが大きな理論と関わりあわなければ、個別の事案において敗れても、その者が失うものはずっと少なくなるだろう。彼らは個別の決定においては敗者であっても、それは自身の世界観の敗北を意味しない。彼らは、また別の機会に勝利するかもしれない。彼ら自身の理論が許容されないものと決定されたり、否定されたわけではない。

(略)

 四つめに、完全には理論化されていない合意がとりわけ価値をもつのは、ある社会が長きにわたって道徳的進化、進歩を追求している場合である。たとえば平等の領域について考えてみよう。(略)

完全に理論化された判断では、こうした事実や価値観の変容に対応しきれないだろう。

(略)

平等をめぐる論争では性的志向や年齢、障碍などにもとづくさまざまな差別が、人種差別と同じく禁じられるべきだとして次々に取り上げられてきたのである。完全に理論化されていない合意は、新しい事実や観点に対して開かれているという点で大きな利点がある。