村井邦彦の時代・その2

前回の続き。

細野晴臣

[村井談]
「[ルー・アドラーが来日時]日本のさまざまな音楽を聴かせたら『このベースすごくいいよ』とハリー・ホソノを絶賛して、僕も同じ思いだったので、凄く嬉しかった。(略)
細野君の音楽の幅の広さと、独自のセンスがとても好きだったから、もっと自由にやって欲しいと思って、プロデューサーとしてアルファと契約しようと話した」
一方の誘いを受けた細野はこう語る
 「村井さんは英語で『I can do anything for you』と話してきた。当時プロデューサー契約というシステムは日本にはまだなくて、スタジオミュージシャンの僕らには、とても新鮮でした。そこでアドバンスで月いくらとか具体的な話をいただいて、僕はそのとき村井さんの視野はやっぱりアメリカなんだろうなと感じました。何より彼の尊敬するアーメット・アーティガンやジェリー・モスは僕も好きなアメリカのレコードプロデューサーですから、そういう方向なら音楽的には自分と同じだと思ったんです。村井さんはやることが早いから、年が明けたらアメリカで発売出来るレコードをつくろうと、そこからいろいろと始まったわけです」
(略)
[77年1月、細野は村井とともにLAへ。結婚を機に、荒井由実松任谷正隆がアルファを離れ、次のヒットメイカーとして]
 その可能性と海外戦略を託されたのが細野だった。村井も細野もLAで新しいアルバムの構想を練りながらアルファの新たな方向性を模索していた。
(略)
[村井談]
「二人のあいだで約束したのは、ビジネスは僕で、音楽は細野君という役割分担だった。契約してはじめて細野君と話したことは『全世界で売れるものを一緒につくろう』というのがスタート。それが共通の思いでした」

YMO

エンジニアの吉沢典夫が当時を振り返る。
 「スタジオAでも電子音楽は使っていたけど、YMOではシンセサイザーがアコースティックと融合して、こんなに違和感がなくアコースティックの音と調和するのかとびっくりしました。
(略)
僕のなかで美しく煮詰められたのがチャンキーミュージック」や「川の流れに乗ってユートピアヘ行こう。川にはチャンキー・クルーズのイエロー・マジック号が君たちを待っている」という文章のプレスリリースが関係者に配られた。
 アルファの社員たちは、チャンキーミュージックは何となく理解できたが、YMOのレコーディングにまでは理解が及ばず、我が道をゆく細野の言動に付いていけないと感じる者も多かった。新しいことの知識が豊富な川添象郎でさえYMOのサウンドには「こりゃなんだ?」と戸惑いを見せている。
 周囲と同様に困惑を隠せない村井について、細野がこんなエピソードを話してくれた。
 「村井さんは、全部任せてくれたけど、最初は僕たちが何をやっているかわからなくて困ってたんですよ。スタジオに何度か見に来て、あるときは僕たちのレコーディングを中断させて、『フュージョンって、いいよね!』とか言って自分の好きなレコードをかけたりして、まあ、ある種のプレッシャーですよ(笑)。『そんなのやめてさあ』みたいなことも言っていましたから。最初のころ村井さんはイエロー・マジック・オーケストラってチンプンカンプンだった。そして僕らもよくわからないまま、まあやってみようかなっていうレベルで1枚つくったんです。そのころはテクノをやっているって意識はなかったし、そもそもまだテクノなんて言葉もないしね」
(略)
400人ほどの客席にトミー・リピューマとアル・シュミットが座った。ステージでは主役のニール・ラーセンより前にYMOが登場した。(略)
 「アルファレコードでの最初のお披露目ライブがフュージョン・フェスティバルというので、そうか自分たちもフュージョンなのかもしれないなと、そのくらいの気分で出ました。でも、今までにないことをやっていたので、演奏したら客席からは拍手じゃなくてどよめきが波のように伝わって来て、これは違う反応だなと、そのときにいけるんじゃないかなと僕は思った。(略)トミー・リピューマがえらく反応してくれて、僕たちの価値が急に上がっちゃったんです。(略)周りの環境が奇跡的に動いてくれてうまくいくことになっちゃったんですね」

シーナ&ザ・ロケッツ

[ロケッツがコステロの前座で出たら]
「あっ、鮎川君だ」と聞き覚えのある声(略)[前列に]高橋幸宏が座っていた。(略)
[5年ほど前、サンハウスサディスティック・ミカ・バンドと共演していた]
その日は楽屋にも来てくれて『お茶でも飲もうよ』と誘ってくれて、初めてゆっくり話をしました。(略)
幸宏さんが僕らのことを細野さんに、おもしろいグループがいるよと伝えてくれたんです」
(略)
 鮎川は78年12月紀伊國屋ホールで行われた「アルファ・フュージョン・フェスティバル」の楽屋を訪ねた。
 「はっぴいえんどのころから細野さんは別格です。ドキドキしてたら、いきなり2週間後ぐらいに『六本木のピットインでYMOをやるからゲスト出演はどうか』と聞かれ、二つ返事やった。(略)
赤坂のスタジオでのリハーサルで、ギターに渡辺香津美さんがいて大巨匠の前ではビビったけど、ステージではそのころ夢中だったキース・リチャーズレスポール5弦ギターで、『俺は行くぞ!』という気持ちで演奏しました。その日に細野さんが、アルファの契約担当の方に僕らをアルファに欲しいと言ってくれたんです」(略)
[演歌系のレコード会社・エルボンレコードでアルバム録音中]
 契約書も交わしていなかった鮎川が移籍をほのめかすと、アルバム制作費の一部を請求された。請求書を見るとその多額さに困惑し、鮎川は数日前に会ったアルファの契約担当者に相談の電話をかけた。
 すると「我が社ですべて対処しますので、すぐにこちらに入りませんか」という返答だった。「ぜひアルファで細野さんと自分たちのロックをつくりたい」と鮎川は願いを込めて受話器を置いた。

村井退社

 1985年。
 村井は自分が起こした会社とはいえ、アメリカの撤退の責任をとり退社することを決意した。それまで名曲の数々が染み込んだスタジオAに社員たちが集合すると、その前で「僕は、今日で会社を辞めます」と話した。そのときのことを、エンジニアの吉沢は、
 「僕らは結局村井さんが好きで仕事をしていたから、これで終わったと思った。編成会議で村井さんは、僕のカラーじゃないと言って、最初からやり直しとか、村井さんからのやり直しの指示は何度もあった。でもそれを僕らは求めていましたよね。そうじゃなきゃまわりも認めないし、ファンの期待も裏切ることになるから」
と語った。その場には居合わせなかったが細野はこういう
 「僕は30歳までに何か出来なかったら音楽を辞めようと思っていた。音楽を続けさせてくれたのはやっぱり村井さんですから、とにかく残念でしたね。アメリカの事業が失敗しちゃったなと、もうちょっと何か出来たかなという悔しい感じがありました」
[その2年後、マイケル・J・フォックス主演『ファミリータイズ』がきっかけで、ビリー&ザ・ビーターズのデビュー曲「もういちど…」が全米1位に]
「あと2年か3年続けられる資金があれば、もうちょっと様になっていたんですけどね」と[村井]

At This Moment

At This Moment

  • Billy Vera & The Beaters
  • ポップ
  • ¥200
朝まで待てない

作詞家とのエピソードで今でも覚えているのは、モップスの『朝まで待てない』(略)僕と阿久悠さんが赤坂のホテルにカンヅメにされて、僕はメロディが出来て一足先にそこを逃げ出した。阿久さんは残って徹夜することになって、まさしくそのときのことを『朝まで待てない』って書いた(笑)。

朝まで待てない

朝まで待てない

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