路地の子 上原善広

路地の子

路地の子

  • 作者:上原 善広
  • 発売日: 2017/06/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

屠殺

 牛が引きずり出されると同時に、為野はいつものように、何のためらいもなく勢いよくハンマーを眉間に叩きこんだ。
 「ここで可哀そうや、思たらアカンで。動物やから、牛もそれがわかってすがってくる。そうなったら手元が狂って打ち損じる。その方が余計に可哀そうや。だから一発で極めたらなアカン」(略)
一瞬のためらいは、失敗したときに牛が猛烈に暴れる結果を招く。だからノッキングは、とばの中でも経験豊富な職人に任される。
(略)
 檻に入れられた牛の中には、最初から嫌々とクビを振り、興奮しているのがいる。そういうとき為野は、牛の頭をよくなでて、自らの手を舌で好きなようになめさせてなだめる。そして静かに牛の目に手をやってつぶらせると、不意にハンマーを打ちおろす。
 もろに眉間を打たれた牛は、一瞬で失神し、脚を宙に浮かせドッと崩れ落ちる。途端に左側面の檻状の扉が開けられ、倒れた牛はザーッと音を立てながら職人たちが待つ解体場へと滑り落ちていく。
(略)
第一工程の職人が、ノッキングで開けた眉間の穴へ、ニメートル以上ある籐の棒を刺し込んでいく。こうして脊髄の神経を破壊すると、牛はもう大きくは動かなくなる。(略)
 籐で神経を切り、脚の動きが止まるか止まらないかのうちに、次の職人が首の動脈を素早く切り開く。
(略)
 牛が吊り下げられると、次の職人が駆け寄り、頚椎を探りながら皮一枚残して頭部を切断する。
(略)
牛はようやく完全な肉塊となる。(略)
巨大なノコギリを持った職人二人によって、背骨を真ッ二つ、縦半分に切断された肉塊は、さらに真横に切断して四等分される。
 とばの作業というと、最初のノッキングや、皮剥ぎの見事さがよく引き合いに出される。
 確かにこの二つはベテランが担当し、とりわけ皮剥ぎの見事さは素人衆からも感嘆される、花形の持ち場といってよい。しかし当時は、この手作業による背割りもかなりの技術が必要だった。

骨粉工場

路地ではただ「骨屋」と呼ばれていた。
 工場の仕事は、前日までに集めておいた牛、豚などの骨を処理するところから始まる。昼過ぎになると、作業を中断してとばなどに出向き、その日に割られた牛の頭蓋骨などを引き取るのである。(略)
 無造作に木箱に放りこまれた骨や脂身は、まだ新鮮だから、えもいわれぬ美しい純白だった。
(略)
 工場に戻ると、骨に付いた肉をナイフで削ぎ落としていく。きれいに掃除すると、ボイラーに骨を放り込んで焼きを入れていく。
 集荷した骨や脂身は、できるだけその日のうちに処理するが、量は何十トンとあり、集荷は日曜を除いて毎日なので、処理が追いつかなくなることも珍しくない。
 夏場は、骨に付いた肉がすぐに腐りはじめ、アンモニアのような臭気が立ち込め、作業員の目が痛くなるほどだった。そのうえ雨が降ると、骨に付着した肉が腐り、腐った脳みそが頭蓋骨から漏れてウジがわく。その腐臭は1キロ離れていてもわかるほどだった。
[悪臭と重労働で]当時「骨屋で三ヵ月もてば、どんな仕事もできる」と言われたほどだ。(略)
[だが骨屋は儲かった。骨粉の需要が高まり、脂身や骨からの油は石鹸の原料になった]
だからこの骨を集める権利も、路地の特権の一つであった。

「人権が金になる」、更池と向野

 戦前から更池では他の路地よりも肉商売が盛んで、学歴がなくても食うに困らなかったため解放運動が遅れたが、逆に、向野は商売で遅れをとっていたがゆえに、水平社運動に積極的に取り組んだといえる。(略)
 水平社運動以来、「人権が金になる」と思った者は、少数ながら存在したことを思えば、向野には“先見の明”があった。商売で出遅れていたからこそ、「人権の季節」という時代の波にうまく来ることができたのだ。
 それゆえ大阪の路地では、向野にだけカワナンなどの全国レベルの企業が出ることになる。(略)
 更他の住民が「運動が金になる」と気づいたときには、すでに遅かった。

独立して店を構えることにした上原龍造[著者の父]は同和対策による無利子の融資を市役所に申し込んだが、解放同盟を通してくれと言われる。だがそこを仕切っていたのは中学の時に牛刀で殺そうとした武田剛三、アイツにだけは頭は下げたくない。

同和利権

老廃牛をヤミで関東方面に売りさばいた時は、現地でバレて神奈川県警が大阪まで事情聴取に来たこともあったが、しらばっくれてやり過ごした。しかしこうしたセコイ商売は先がないし、信用を失いかねない。
(略)
利にさとい龍造は解放同盟が押さえている行政の窓口にこそ、さらなる飛躍のきっかけがあると見抜いていた。つまり同和利権をとることこそ、さらに店を大きくする必須の条件だと感じていたのだ。
[解放同盟分裂時に共産党入りした味野友映が龍造に近づく]
(略)
「龍ちゃん、更池にな、他にも解同に入ってない奴おるやろ」
「でもそれは、オレのほかには創価学会の連中くらいなもんでっせ」(略)
「学会員でも何でもええねん。そいつらまとめて、組合つくるんや」
(略)
[味野は同和利権の温床、輸入牛肉割当に狙いをつけた。国の役所を動かすには右翼が一番、誰ぞ知ってるか]
「福岡に皇国社いうのがあんねんけど(略)
「それやッ。そこは明治からある古い右翼や。その人、すぐに呼べるか」
「旅費出すからて頼んだら、来てもらえると思いまっけど……」
(略)
[味野から資金を借り]組合を結成すると、そのまま東京の農林省に出向くことになった。上京した右翼とは東京で落ち合い、総勢六人になった。味野は来なかった。
 普通なら門前払いだが、そこは味野が手をまわして共産党の代議士に頼んであったので、すぐに役人と面会することができた。そこで組合と皇国社の名刺を差し出すと、すんなり輸入牛肉の割当が決まってしまった。
(略)
[大阪に戻ると味野は龍造を右翼系極道「新同和会」の杉本昇に紹介]
「キタの事務所って、極道でっか」
「違うがな。ワシがそんなとこ連れていくかいな。これから新同和会の杉本さんを紹介するから」(略)
味野は「極道ではない」と言うが、扉には「新同和会」と、金色の文字に菊の紋が入った表札が掛かっている。
 龍造はそれを見て「共産党が右翼に行くって、極道とこ行くよりおかしいやないか」と思った
(略)
「今は、解同が窓口一本化しとる。これをワシら潰そうと思うて、味野さんとも共闘しとるんや」

カワナン

[杉本は龍造に「グリーンビーフ事件」による]「カワナンと農林とのつながり」を説明し始めた。(略)
昭和48年、畜産振興事業団の判断ミスで、輸入した大量の牛肉が大阪南港に陸揚げされたままグリーンビーフ、つまり腐って緑色に変色してしまった事件である。(略)
カワナンはすべてを買い取ることで、農林省に恩を売った。こうして役所とのつながりができたカワナンは、輸入牛肉を優先的に回されるようになったのだ。損して得とれの典型的な手法だった。
 杉本は「これは最初からカワナンが仕組んだこと、というのがワシの見立てや」と言う。
 「農林をつついて、大量に輸入させた張本人は川田萬や。つまりマッチポンプやな。証拠はないけど、カワナンやったらそれくらいやるやろ」(略)
 そしてこの夜、杉本は、龍造に新同和会への加入を勧めた。
 「上原さんが入ってくれたら、新同和の南大阪支部長まかせたい思うてます。一緒に窓ロ一本化、つぶしましょうや」
(略)
[川田萬から会いたいと言われ]
「もしかして、まだ武田剛三のこと、根に持っとんのか」(略)
「ワシが剛三と豊さんに話とおすから、もうちっと我慢でけへんか」
「ニイさんがそう言ってくれるのは嬉しいんです。オレさえ頭下げとったらすむ話やいうのもわかってます。せやけど、こればっかりは更池の問題でっさかい」
「ワシが言うても、我慢でけんか」
「オレかて、もう後には引けませんねや」
「そうか。しかし、この絵かいとんのは共産党の味野やろ」
(略)
共産党と右翼か。あんたらしい言うたら、あんたらしいけどな。まあ、ええわ。味野とはどうせ一戦交えなアカンことやしな。せやけど龍ちゃん。自分で操っとる思うても、逆に操られとることもあるんやで。それだけは気ぃつけや」
[味野は「窓口一本化は法律違反」と市議会に圧力をかける。杉本に呼び出された川田萬、ただの利権屋と見くびり手ぶらで出かけると、杉本は山口組武闘派黒澤組の若い衆を引き連れていた。拳銃を出した杉本は市議会での窓口一本化糾弾に「おたくと解同が一切、口出せへんていう言質が欲しいんですわ」と脅す。要求をのむしかない川田]
(略)
 屈辱に耐えた川田は[極道にしておいた弟を連れ](略)数日後には神戸に向かった。(略)
 やがて山口組五代目組長となる渡辺芳則と川田萬が「まんちゃん」「ナベちゃん」と呼び合う仲だという噂が広まる(略)
建設業などあらゆる業種に進出し「川田コンツェルン」と揶揄され(略)全国で事業を展開する川田は、これからも各地で同様のトラブルが起こるであろうことを想定した。そうなると日本最大の極道である山口組のトップこそ、自分に相応しい。(略)
 こうしてカワナンは山口組トップのパトロンとなり、以降、川田萬に直談判できる者はいなくなった。表向きは同対法という国の法律、裏では山口組という裏社会のトップがついたことで、警察や検察でさえ川田には手を出しかねるようになったのだ。

平成3年頃からバブルがはじけ、牛肉の消費が落ち込み、あっという間に上原商店は傾く。カワナンも苦しいなか男気で1億5千万貸してくれた。だが苦難はつづく。狂牛病が業界を襲い、さらに時限立法だった同和対策法が平成14年で失効。国からの支援がなくなり、税務調査が入るように。BSEの渦中でカワナンは勝負に出る。輸入牛肉を国産と偽り補助金を詐取。

[同対法失効による]金の切れ目が縁の切れ目である。(略)利権にまつわるありとあらゆる情報が役人などから漏れだし、批判報道が相次ぐことになる。
 その中心となったのが、カワナンの川田萬の同和スキャンダルだった。
 カワナンによる牛肉偽装が発覚し、川田が逮捕されると、世間の非難は川田に集中する。
 実際は大手の業者も同様のことをやっていたのだが、ターゲットは川田に絞られた。同和利権を快く思っていなかった役人などのリークが相次ぎ(略)[メディアによる批判の中心にいたのは共産党の重鎮であった味野友映]
味野は宿敵の写真をざっと並べて言い放った。
「どれでもええから持っていってや。一番人相が悪いの、選んだってやッ」
ここにきて時代は大きく変わった。同和タブーの崩壊である。