ボブ・ディランの生涯・その3

前回の続き。

レナード・コーエン

[『セルフ・ポートレイト』が酷評され]
 ボブ・ジョンストンはディランのプロデューサーを下ろされた。ボブは何も理由を言わなかったが、ジョンストンがレナード・コーエンのツアーにヨーロッパに同行したころから溝ができていたらしい。(略)
ジョンストンはロン・コーネリアスとチャーリー・ダニエルズをバックバンドに使って、レナード・コーエンとアルバムを二作つくった。コーネリアスはディランとコーエンにはたがいにライバル意識があったのだと信じている。ふたりともユダヤ人の詩人ソングライターで、おなじような層をターゲットにしていて、コロンビア所属だった。その夏、ボブがフォレストヒルズでおこなわれたコーエンのコンサートを見にいったとき、彼らのライバル関係があきらかになった。その日はひどい雨降りで、屋外でのショーはうまくいかないと思ったコーエンはむっつりしていた。ボブが見に来ていると言われたコーエンは「だから何?」と応じた。ボブは楽屋を訪ね、ふたりはぎこちない会話を交わした。「まるで毛を逆立てた二匹の猫みたいだった」とコーネリアス。「『何だってんだよ』と片方が言うと、『だれだってどこかにいないわけにはいかないからな』『おや、そうかい?お前はどこにいるんだい?』てな具合だ」。コーネリアスはボブが、どちらのアーティストとやっていくのか、プロデューサーとバックミュージシャンたちに選ばせたがっていると感じた。(略)
彼とチャーリー・ダニエルズは話し合って、コーエンとのツアーを選んだ。彼らふたりも、ボブ・ジョンストンも二度とディランと働くことはなかったが、それはおそらく単なる偶然ではないだろう
(略)
 アル・クーパーが『新しい夜明け』を完成させるべく、自分のバンドメンバーをつれてプロデューサーとして乗り込み、アップビートな歌詞とタイトルにマッチした軽さをアルバムに与えた。

『ラスト・ワルツ』

 ザ・ローリング・サンダー・レヴューのように、『ザ・ラスト・ワルツ』もコカインで動いていた。「根深くどっぷりつかっていた」とコンサートの一部で詩を朗読したマイケル・マクルーアは言う。(略)楽屋にはコカイン吸引用の白い部屋があり(略)ニール・ヤングは鼻から白い塊をぶら下げたまま「ヘルプレス」を歌いに舞台に出てしまった。プロデューサーたちはハリウッドの光学会社に頼んで、あとでフィルムの映像からその白い塊を取り除いてもらわなければならなかった。
 舞台に上がる直前になって、ボブはプロデューサーに自分を撮影しないようにと告げた。実際、七台のカメラ全部を舞台とは反対の方向へ向けろと言った。そう要求したのは、自分のフィルム[『レナルド・アンド・クララ』]がまもなく公開されるからだった。マーティン・スコセッシはあやうく心臓マヒを起こすところだった。ボブなしでは、映画は成り立たない。何人もが列をなしてボブの楽屋に哀願しに来た。(略)
映画のためにではなく、ザ・バンドのために考えなおしてほしいと、代表団はボブにすがった。とうとうボブは演奏予定の四曲のうち、二曲だけを撮影していいと許可し、自分の要求がちゃんと守られているかどうか、舞台に人を配して監視させることにした。
 「ルイス(ケンプ)はぼくの隣に、マーティン(スコセッシ)にはビル・グレアムがつけられた。いつ撮影していいか、いつがだめかを舞台上で監視するために、だ」と『ザ・ラスト・ワルツ』のプロデューサー、ジョナサン・タプリンは言う。ボブは、オープニングナンバーの撮影許可を出していなかった。それで、映画にはボブが舞台に登場するシーンが写っていない。撮影は「いつまでも若く」からはじまった。それから気まぐれにボブが一曲目の「連れてってよ」を弾きはじめた。タプリンによると、ルイス・ケンプはどうしてよいかわからず、「ヘッドライトに立ちすくむシカ」のように凍りついてしまったという。「彼はぼくを見て言った。『カメラを止めろ!カメラを止めろ!』。ビル・グレアムが彼の上着をつかんで怒鳴った。『黙れ、出て行け』とマーティンが叫んだ。『撮りつづけろ!つづけるんだ』」。こうした混乱のなかから、最高の音楽ドキュメンタリーが生まれたのだった。

金のために世界ツアー

[125万ドルを注ぎ込んだ映画は公開即打ち切り]
『ロサンゼルス・タイムズ』紙上で、ボブは素直に語っている。「かなりの借金がある。この二、三年はよくない年だった。映画にたくさんの金を注ぎこみ、大きな家を建てて……離婚もした。カリフォルニアで離婚するには莫大な金がかかる」
 損失を埋めるため、ボブはジェリー・ワイントローブのマネジメント・スリー社(略)と契約して、利益の大きいワールドツアーをはじめた。そして日本を皮切りにオーストラリア、ヨーロッパ、アメリカ国内をまわり、78年のうちに114回のコンサートをおこない、二百万人近い観客を集めて、二千万ドルを売りあげた。「事実上、魂を売り渡すことに同意したのだ」と[ツアーの制作監督]パトリック・スタンスフィールドは言う
(略)
1978年のツアーは、基本的にはなつかしのヒット・ショーになった。日本のプロモーターが希望する演奏曲目を書いてテレックスで送ってきたのだ。ボブは、ギターテクのジョエル・バーンスタインに命じて、書店で『ボブ・ディラン全詩集』を買って来させた。「それを見ながら、長いあいだやってなかった曲を演奏した」とバーンスタインは言う。

改宗

 1978年後期のツアー中に、ボブがイエス・キリストへの信仰に熱を入れだした兆しが見えていた。(略)
ボブはファンが投げてよこした十字架を拾い、それを首にかけるようになる。それからすこしして、ボブは、彼がのちに「特別の洞察と感覚」と呼んだものを得る。ひとつ部屋のなかに、たしかにイエス・キリストがいると感じる経験をしたのだ。バスのなかで、隣の席に座っていたビリー・クロスがのぞくと、ボブはスピリチュアルソングらしい曲――「スロー・トレイン」だった――を書きつけていた。(略)
本格的にキリスト教に改宗するきっかけをつくったのは、いっときガールフレンドだったメアリ・アリス・アーテスのようだ。
(略)
新曲はどれも宗教色の濃いもので、ボブは最初、それをキャロリン・デニスに歌わせて録音するつもりでいたが、自分でレコード化することにした。(略)
プロデューサー、ジェリー・ウェクスラーは歌詞の宗教的内容に驚き、彼にも聖書の教えを説こうとするボブに困惑した。そして「きみが相手にしているのは、62歳のユダヤ人で、しかも確信的な無神論者たぞ。さっさとアルバムにとりかかろう」とたしなめた。
(略)
[ボブは]野次を気にとめていないようだった。彼は、特別な音楽につき動かされていた。シンガーたちはすすり泣くような声をあげていた。(略)
「音楽的に、ボブが高く昇っていくことが何度もあった……この世ではないところにね」とジム・ケルトナーは言う。二曲目の「アイ・ビリーヴ・イン・ユー」に入ったとき、ケルトナーは自分が泣いているのに気がついた。
(略)
 ボブのスピリチュアル・コンサートに対する批判は、初めてのエレクトリックツアーの狂乱の日々よりもすさまじかった。エレクトリックサウンドはフォーク純粋主義者を怒らせたが、宗教はすべての人の気にさわった。ボブは「それまでライヴで演奏したことのある曲はひとつも演奏しないツアーをした。それはかなりすごいことだと思った。ほかに、そういうことをしたアーティストはいないと思う」と言っている。たしかにそのとおりだったが、評論家の多くは彼をあざけりの対象にした。
(略)
 一部の人間は、ボブのキリスト教信仰は、商業上の理由からだと考えた。たとえば、ローリング・ストーンズキース・リチャーズは、ボブを「利潤[プロフィット]の預言者[プロフェット]」と呼んだ。また[ボブと会った]ロニー・ホーキンズは(略)「このレコードを売ったあとは、無神論者に変身して、何も信じちゃいない連中にレコードを売る気なんだな」。ホーキンズはしわがれ声で笑いながら、ボブにそう言った。ボブは喜ばなかった。「やつは笑わなかったよ。ただおれを見ただけでね。だが、やつのつもりはわかっていた。むこうだって、おれがそれを見抜いているのはわかっているさ。やつはレコードを売っていた。それが商売なんだ」
 しかし、ホーキンズの醒めた見方が正しいとは思えない。自分が歌う内容をボブが心から信じているのを、あらゆる徴候が示していた。(略)
『セイヴド』が売れなかった[64年以来の低ランク]だけでなく、ツアーのチケットも売れなくなりはじめた。
 コンサートに来た者は、テレビ伝道師のように説教をするディランを見せられた。(略)
売れ行き不振のため、ツアーの最終日のコンサートはキャンセルされた(略)
[ボブはジェニファー・ウォーンズを録音に誘った]
ボブのキリスト教改宗が公になったころ、ウォーンズはレナード・コーエンとつきあっていた。「レナードは家のなかを歩きまわって、手をもみながら言っていたの。『わからない。こんなこと理解できない。どうしてあの歳になってイエスのほうに行ってしまうんだ?………イエスに行くなんて理解できない』って。レナードは、ボブとのあいだに一種の同朋意識を抱いていたの。(略)ボブがクリスチャンになったことは、レナードの世界を大きく揺さぶったと思う」。ウォーンズはボブの誘いに応じ、ランダウン・スタジオで新曲を聞くことにした。
(略)
 「エヴリ・グレイン・オブ・サンド」の歌詞は、ボブの信仰がおだやかなものになったことを示していた。(略)
[秋のツアーに]ボブは、ファンが聞きたがっているだろう曲を演奏曲目に入れた。しかし、それでもコンサートの評判は改善せず(略)
ボブはこの古い友人[ゲスト参加したマイク・ブルームフィールド]がとても気に入って、バンドヘの参加を求めた。ブルームフィールドは「二週間ほしい。身辺をきれいにしてツアーに参加をする」と返事した。悲しいことにブルームフィールドは、ツアーに出られる状態まで立ちなおることなく、三ヵ月後にドラッグの過剰摂取で他界した。
[さらにジョン・レノンが凶弾に倒れ、ボブは次に、自分とミック・ジャガーがやられると考えた]

ショット・オブ・ラブ(紙ジャケット仕様)

ショット・オブ・ラブ(紙ジャケット仕様)

『ショット・オブ・ラヴ』

デイヴィッド・ゲフィンはボブに、[スプリングスティーンを手がけていた]チャック・プロトキンを使ったらどうかとすすめた。(略)
ボブは当然、ライブレコーディングを好んだ。しかし、その方法をとるほかのミュージシャン(略)とちがい、ボブはへッドフォンをしない。したがって、ボブが自分の声を聞けるようにスタジオのなかにモニターを置かなくてはならない。するとフィードバックの問題が起こってくる。またボブはとんでもない時間に仕事をした。「ハート・オブ・マイン」の最初の録音は午前四時におこなわれた。「ふたりが帰り、ひとりは眠っていた。午前四時にそんなことをしているなんて、だれが考える?」。ボブはひとつの曲を二、三回演奏しただけで飽きてしまうことが多かったし、自分のヴォーカルに満足すると録音がうまくいっているかどうかに関係なく、それで終わりにしてしまうことが多かった。おかげでプロデューサーは全体のサウンドを修正するためリミックスの問題を抱えることになり、しかもボブはもとのトラックに変更を加えるのを嫌った。自然なサウンドを求めていたのだ。オーヴァーダブもいやがった。ボブが前触れもなく、楽器をピアノに替えて「エヴリィ・グレイン・オブ・サンド」をはじめたとき、プロトキンはヴォーカルのマイクが立っていないのに気がついた。この重要曲を録音する唯一のチャンスかもしれないのがわかっていたから、プロトキンは急いでそばに行き、ボブが歌うあいだずっとマイクをボブの口の前に差しだしていた。結局、それがただひとつのテイクとなり、アルバムに収められた。
 ボブの奇妙な癖がミュージシャンたちを困らせることもあった。どのセッションミュージシャンよりも多くボブのレコーディングに参加しているジム・ケルトナーも、そういう経験をしている。ボブは、まるで歌をビートからひきはなそうとするように、ギターをわざとドラムからはずして弾き、戦いを挑むかのようにケルトナーをにらみつけた。「ボブは昔からずっと、ギターとドラムの拮抗を意識していた。緊張をつくりだそうとしていたんだ」とケルトナーは言う。このこともまた、荒々しさや鋭さというボブが好む要素を音楽につけくわえた。
(略)
リンゴとのセッションにも、ボブは何時間も遅れてやってきた。そして彼が着いたころには、リンゴがロニー・ウッドやほかのミュージシャンといっしょにジャムをしていて、スタジオはパーティのような雰囲気になっていた。ボブはそのまま仲間に入って歌い、そしてくだけたヴァージョンの「ハート・オブ・マイン」が録音された。
(略)
プロトキンがいちばん手こずったのがミキシングだった。彼は昼夜を徹して、曲を鮮明にするミキシングをして、できるかぎりよい音のレコードをつくろうとした。しかし、それはボブが求めるものではなかった。「ミックスについて、ひとこと言わせてくれ。きみは音をきれいにしすぎる。これではドゥービー・ブラザーズみたいな音になっている」とボブは言った。プロトキンはボブに、『スロー・トレイン・カミング』はよくできたレコードだったじゃないかと話した。(略)ボブは「ああいうレコードはつくりたくなかった」と言った。その結果、『ショット・オブ・ラヴ』は、基本的にはラフミックスを集めただけのものとなった。
(略)
ボブが理由をあきらかにしないまま、これらの曲[「アンジェリーナ」「カリビアン・ウィンド」]の除外を決めたせいで、『ショット・オブ・ラヴ』はすぐれたアルバムになりそこねたのだった。

グレイトフル・デッド

 グレイトフル・デッドはボブの音楽を愛していた。(略)したがって1987年夏、ボブといっしょに短期間のスタジアムツアーをすることが決まったとき、メンバーたちは大喜びした。しかし、事態は思ったようにはいかなかった。
(略)
[たっぷり時間をかけ何百曲とリハーサルをしたが]
ツアーの幕が開いたときには、うまくいかなかった。「まったくリハーサルをしていないのもおなじだった。ボブがつくった曲目リストには、リハーサルでやった曲はほとんど入っていなかった」とウィアは言う。おまけにボブはキーをまちがえて演奏したし、自分のつくった歌詞を忘れているようでもあった。表向きには、背中が痛んで体調が悪いとされていた。(略)酒を飲みすぎているという噂もあった。(略)
[デキのよかった7/12の録音をライヴ・アルバムに収録したかったがボブが拒否]
かわりに、それより演奏のよくないコンサートから曲が選ばれた。ジェリー・ガルシアはアルバムのミキシングの打ちあわせのためにポイントデュームヘ行き、ボブが安物のラジカセでテープを聞いているのを知って驚いた。ミキシングについて、ボブは自分の声が高すぎると言った。「どうしろって言うんだ。撃ってやろうかと思ったよ」、ガルシアは仲間たちの前でそう怒った。結果的に、ボブの声は小さく抑えられ、そのせいで歌詞が音楽に飲みこまれて、もぐもぐ言っている印象が強くなった。(略)
[二年後デッドのコンサートに登場]
デッドの曲しか演奏しないと言い張った。しかし具合の悪いことに、ボブはデッドの曲の歌詞を知らず、散々な状態で5曲やったあと、メンバーに説得されて自分の曲を歌った。ステージを下りるとき、デッドのメンバーのひとりは「いったい何しに来たんだ?」と怒っていた。
 しかし、ボブは大いに楽しんでいた。そしてつぎの日、グレイトフル・デッドのオフィスに電話をかけ、バンドに入れてくれと言ってきた。彼が本気であることを強調したので、バンドは投票をした。ウィアはつぎのように言う。「ぼくは賛成したが、彼のことがあまり好きでないメンバーがひとりいた。あいつがいなければ、バンドに入れていたと思うよ。きっと一時的なメンバーとして入れていた」。グレイトフル・デッドのような既存のバンドヘの加入まで考えたことからも、ボブがソロアーティストとして成功を維持することのプレッシャーに耐えかねていたのがわかる。
(略)
[95年のジェリー・ガルシアの死に]
ボブはショックを受けた。そしてガルシアの葬儀に参列し――ほかの故人となった友人たちに対しては、したことがないことだった――、広報担当者を通じて追悼の辞を発表した。
(略)
[99年フィル・レッシュとジョイント・ツアー]
皮肉なことに、ボブ・ウィアによれば、1989年、ボブの加入に反対票を投じたのはレッシュだった。

『アンダー・ザ・レッド・スカイ』

アル・クーパーはこのアルバムを「フード・アルバム」と呼ぶ。ボブが毎日、いつものフードつきスエットを着て現れ、セッションのあいだもフードをかぶったままでいたからだ。もともとレコーディングセッションであまり話をしないボブとのコミュニケーションがますますむずかしくなった。ボブの置かれた状況に悲哀を感じたデイヴィッド・ワズは「彼はくたびれきっているように見えた。それで彼への思いがいっそう強くなった。レコーディングをしているとき、彼が身動きをとれずにいるのだと感じたことがある。これだけ長いあいだやってきて、ずっと『ボブ・ディラン』でいなくてはならないのは重荷だろうと思ったよ」。しかし、ボブは、ボブ・ディランであることをやめるわけにはいかない。ほかのバンドの陰に隠れようとして、それに失敗したあとは、自分ひとりで深い穴からぬけださなくてはならなかった。
(略)
 『アンダー・ザ・レッド・スカイ』は酷評され、売れ行きも悪かったため、ボブはこのあと七年間、自作曲のスタジオアルバムをつくらなくなる。
(略)
 ボブの生活の核心にあるのは、孤独だった。二度目の結婚も、親しくそばにいてくれる人をもたらしてはくれなかった。バックシンガーの役目がなくなってしまえば、キャロリンにはもう、ツアーバスに隠れてホテルに忍びこみ、世界中を彼についてまわる理由がなかった。だから彼女は娘とともにターザナの家に残った。(略)
 ボブは非常に親しい友人にも、二度目の結婚についてほとんど話したことがない。そのため、それが短命[4年]に終わった事実を、彼がどう考えたかについては、知りようがない。しかし、失望と悲しみをもたらしたことにちがいはないだろう。弁護士がその問題を事務的に片づけるなか、彼はひたすらツアーをつづけた。(略)
[78年の豪華な世界ツアーとはちがい]
コンサートはほとんどが小さな会場でおこなわれ、夜のバス移動で体はくたくたになった。自家用飛行機など、あるはずもなかった。(略)
「ボブは街はずれの小さなモーテルを好んでいた。それで、おれたちはとんでもなくへんぴな場所に閉じこめられた」とイアン・ウォーレスは言う。(略)
[ホテル選択の]基準は変わっている。まず犬を入れてくれるところでなくてはならない。というのも、彼は愛犬のマスティフをつれて旅をするのを好むからだ。もうひとつ、部屋の窓を開けられるところでなくてはならない。エアコンがきらいだからだ。それ以外は、どこにいようと気にかけない。(略)
 いちばん重要なのは、どこへ行こうと追いかけてくる狂信的なファンを避けられるホテルに宿をとることだった。

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