現れる存在―脳と身体と世界の再統合 アンディ・クラーク

人間という推論器は分散認知エンジンである

[テトリスで画面上のブロックを回転させて形状を把握し嵌め込める場所を想定した方が、脳内で仮想のブロックを回転させるより速くて確実]
 このように、世界は単なる外部記憶以上の機能をもっている。世界が提供する場では、特別なクラスの外部操作によって、個々の脳に与えられる問題が規則正しく変換される。ちょうど、アインシュタインが空間と時間という独立した概念を統一的構成概念(時空)で置き換えたように。
(略)
われわれはシムテム手帳をもった、とても賢い移動ロボットだ。われわれの賢さは、問題解決のタスクを単純化する目的で、能動的に環境を構造化し、操作する能力にある。
(略)
われわれの脳は身体のコントローラーとして、(ときに厳しい)現実世界の中で、動いたり働きかけたりしながら進化してきたのだ。そのように進化した組織ならばきっと、自分がコントロールする行為や干渉とは相補的な計算リソースを発達させているだろう。(略)
脳を設計した目的は、世界に対する操作を繰り返し活用することができるように、設備を充実させることなのだ。(略)
 では、心はどこにあるのか。本当に「頭の中」なのか、それとも、いまや心はいささかだらしなく、世界の中に広がってしまったのだろうか。この質問は、一見すると奇妙だ。なぜなら、意識と経験の座はあいかわらず個々の脳なのだから。だが、理性についてはどうだろうか。思考しているのは脳だ。しかし、思考の流れと推論の適応的な成功には、外部リソースとのあいだで繰り返される相互作用が決定的に重要だと、いまやわかったのである。(略)相互作用によって、入力は変換され、捜索は単純になり、認識は助けられ、連想想起が促され、記憶を肩代わりされ……という具合に。だからある意味、人間という推論器は本当の分散認知エンジンである。われわれは特定の計算タスクを実行するのを、外部のリソースに求める。ネットワークでつながったコンピュータが、特定のジョブを実行するのをネットワーク上の他のコンピュータに頼むのと同じだ。(略)私は提案したい。思考の流れや、理性的な反応を生み出す功績を、個々の脳が独り占めしてはならない。脳と世界は協同している。そのあり方は、これまで思われていた以上に豊かで、それは計算と情報に関わる必要性が原動力になっているのだ。

間接創発創発的集合現象

[ビールを買うことを忘れないため]
ビールの空き缶を玄関マットに置く。次の外出のときに、その缶につまずいて任務を思い出す。あなたが使ったのは、ここまで読んできたならもうおなじみのトリックだ(第3章を思い出そう)。現実世界のある側面を、オンボードモリーの不完全な代用品として利用している。事実上やったことは、環境を変化させることで、自分自身に対して何かを発信することである。このように、環境を使って行為を促し、シグナルを送るトリックは、私が間接創発と呼んでいるたくさんの例に登場する。
 シロアリの巣作り行動を取り上げよう。(略)巣作り行動は「スティグマジーアルゴリズム」として知られる仕組みでコントロールされている。(略)
すべてのシロアリが泥玉を作り、それを初めのうちはランダムに積んでいる。しかし、泥玉にはシロアリがつけた化学物質が残っている。シロアリは、この化学物質の跡が一番強い場所に自分の泥玉を落とすのを好む。そのため、新しい泥玉は古い泥玉の頂上に積まれやすくなるが、そのことによってさらに誘引力は強くなる(そう、おなじみの展開だ!)こうして柱が形成される。(略)このプロセスが続くと、柱の頂上がたがいに傾斜してきて、アーチができる。その他一連のスティグマジー効果によって、しまいには、小部屋、空洞、トンネルからなる複雑な構造ができあがる。この拡張されたプロセスのどこにも、巣の計画を表現したり、計画に従っているところはない。建築のリーダーの役割をするシロアリはいない。(略)自身の活動が生み出した環境を通してしか、話し合う術はない。このような、環境に基づく協調は、言語による記号化や解読を必要とせず、記憶に負荷をかけることもない。そして、「シグナル」はそれを発した個体が、別のことをするためにいなくなったとしても、残っているのである。

現実世界とリアルタイム性への主眼

 タスクは現実世界の言葉によって同定される。入力は物理量、出力は行為である。行動は、生物学的に現実的な時間枠内に制約される。
 分権的解決に対する意識
調和のとれた知性的な行為が必ずしも詳細な中心計画を必要とするとは限らない。ありがちなのは、大局的に知性的な行為が、複数のより単純な相互作用の結果生じることである。相互作用には、個体や構成要素、そして、ときには環境が関わっている。
 認知と計算についての拡張された見方
計算プロセスは(しばしば)空間と時間の広がりをもつと考えられる。そのようなプロセスは、個体の頭の外にまで拡張され、外部の支えを使って達成される変換操作を含む場合がある。さらに集合的問題解決の状況においては、外部の支えに複数個体の頭と身体とが含まれる場合がある。
(略)
このように、周りにとめどなく漏れ出し続けているという、きわめて締まりのない認知の見方をとるとして(略)
この過剰な認知リベラリズムは、心についての真正の科学としての期待を無意味なものにしないだろうか。
(略)
 自己同一性についての問題
そして結局のところ、個人とはどういうものなのか。もしも認知プロセス、計算プロセスが、皮膚と頭蓋骨でできた境界をせわしなく、縦横に行き交っているとすれば、それは個人の自己同一性が、相関を保ちながら周りの環境へと漏れ出していることを意味するのだろうか。それほど神秘的でないにしても、それは個人の脳や生命体の個体が、科学の対象としてふさわしくないということを意味するのではないだろうか。そうだとすれば実に受け入れがたい結論だ。
(略)
 コネクショニスト(人工ニューラルネットワーク)革命は、初めの三つの特色に狙いを定め、それを次で置き換えた。
記憶はパターンの再創作である
問題解決はパターン補完とパターン変換である
認知はもっともっと分権的なものである
(略)
このように身体と世界を真剣に取り上げることで、たくさんの重要な現象に創発主義の視点が持ち込まれる――それは、適応上の成功というのは身体・世界・脳の複雑な相互作用に備わるのであり、皮膚と頭蓋骨によって閉じ込められた内部プロセスだけに備わるのではないとみなすことである。

進化の背景

 自然に進化したシステムは、たびたび指摘されるように、人間がデザインしたとすれば絶対にそうはならないやり方で機能している。これにはいくつかの理由がある。一つの理由は、進化による解決策は分散したものになりがちだということで、その実例はたくさん見てきた。もはやおなじみのポイントは、人間がデザインすれば、必要な機能をすべて一個の環境から独立した装置に直接組み与えられた問題を解決するのに対して、進化は、有機生命体あるいは装置と環境とのあいだに境界があるという制約をいっさい受けない点だ。そのため問題解決はすぐに、有機生命体と世界のあいだ、あるいは有機生命体の群れのあいだにまたがって分散したものになる。進化は、本当の意味で問題の見通しを立てないからこそ、目隠しにとらわれずに安上がりの分散した解決策を見つけることができるのだ。
(略)
 けれどもこのことは、自然のデザインには要素分解の原理が働かないという意味ではない。ただ自然選択によるデザインが示す要素分解は、非常に変わっている。それは進化的全体論の制約を反映した要素分解である。(略)複雑な全体システムは通常、進化的な時間に沿って累積的に発達するもので、その多様な中間形態はそれ自身、生存と自己複製能力をもったロバスト[頑強]な、全体システムでなければならない、というものだ。
(略)
 たとえば、一説ではわれわれの肺は魚の浮袋をもとにして進化したといわれている。浮袋とは水中の環境で動きやすくするための気嚢である。そして今日われわれが胸膜炎や肺気腫に感染しやすいのは、浮袋の適応のなごりだと言われている。それを受けてリーバーマンはこう述べている。「浮袋は論理的には泳ぐための装置としてデザインされた――それは呼吸のためのルーブ・ゴールドバーグ的な(複雑すぎる)システムとなっている」。
(略)
細胞遺伝学者のフランソワ・ジャコブは進化を、エンジニアではなく修繕屋になぞらえている。エンジニアはまっさらな状態で、新しい問題に対する解決策を一からデザインする。修繕屋は既存の装置をもちだして、新しい目的に使い回そうとする。修繕屋の作るものは、エンジニアには最初は意味不明かもしれない。(略)
[それを理解するには]進化プロセスそのものを人工的に再現してみることだ。

デネット

[デネットはこう述べている]「意識的な人間の心は、進化が与えてくれた並列式のハードウェア上に非効率的に実装された、おおむね逐次式の仮想マシンである」。(略)
並列処理をするコネクショニスト的なパターン補完型の脳に、(他の何よりも)公共言語のテキストや文(覚え書き、計画、激励、質問など)を浴びせかけると、一種の認知的再組織化が起こる。それはある計算機システムが別のシステムをシミュレーションするのに似ている。計算機の場合、新しいプログラムをインストールすれば、ユーザーは(たとえば)逐次式のLISPマシンをあたかも大規模な並列式コネクショニスト装置であるかのようにして扱える。デネットが提案しているのは、彼自身言っているように、同じトリックを逆向きに使うことである。つまり、逐次式の論理エンジンのようなものを、それとまったく異なる大規模な並列ニューラルネットワークを使ってシミュレーションするのだ。
(略)
 驚くべきことにデネットは、(主に)言語を浴びせかけたことによる、このちょっとした脳の再プログラミングこそが、人間の意識(自己の感覚)という現象を生じ、そしてわれわれは行動と認知の面で他の動物たちをはるかにしのぐようになったと考えている。つまりデネットは、われわれの高等な認知スキルは、生得的ハードウェアが主な要因ではないとしている(略)
脳のさまざまな可塑的(プログラム可能な)特徴が、文化と言語の効果によって修正されるやり方が特別なためと見ている。(略)
デネットの主張は、最初のハードウェアレベルの違いがないということではない。むしろ(たとえばヒトとチンパンジーのあいだにあるような)比較的小さなハードウェアの違いによって、われわれは公共の言語やその他の文化的産物を創造し、その恩恵にあずかることができるようになるという主張である。それは小さな違いが雪だるま式に大きな認知的変化と拡大へとつながっていくことによるもので、そこにおそらく、新しい種類の計算装置の、脳内への文字どおりのインストールが含まれるのだ。
(略)
[私の見解は]一つ決定的な点で異なっている。デネットは公共の言語を、認知的道具であると同時に、脳に深刻ではあるがちょっとした再組織化を起こす源だと見ている。だが私は言語を、本質的にはただの道具として見たいと思っている(略)私は脳の変化をさまざまな外的リソースを最大限活用できるように適合するための、比較的表面的なものと見ている。

まとめ

 たくさんの魚たち、たとえばイルカやクロマグロの遊泳能力には目をみはるものがある。こうした水中動物たちは、海洋科学がこれまで作ってきたあらゆるものをはるかにしのいでいる。(略)
二人の流体力学の専門家、マイケルとジョージのトリアンタフィロウ兄弟は、興味深い仮説にたどり着いた。ある種の魚たちが並はずれた遊泳効率をもっているのは、水中という環境にある別の運動エネルギー源を利用したり、それを作り出したりする能力を進化させたためだと言うのだ。魚たちはどうやら、大小さまざまな水の渦をうまく利用することで、推進力を「ターボチャージ」し、機動力を高めている。(略)[しかも]魚は自らさまざまな渦巻きや圧力勾配を(たとえば尾を振って)作り出し、それを使って迅速で俊敏な行動につなげているのだ。
(略)
 このマグロの話がわれわれに思い起こさせるのは、生物学的なシステムは周囲の環境構造から多大な恩恵を受けているということである。環境を単に乗り越えるべき問題領域としてとらえるのは十分ではない。一方で環境は、きわめて重要なことだが、解決策に取り入れられるべきリソースなのである。この単純なことに着目すると、ここまで見てきたように、いくつかの遠大な帰結が待っている。
 何よりも第一に(略)われわれの脳は、血と肉からできた動き回る肉体の殼に都合良く貼りつけられた、身体性のない魂のためのものではない。むしろそれは本質的に、世界の構造を作り出し活用することができる、身体性エージェントのための脳である。(略)ある問題を直接いっぺんに解決することではなく、環境構造のコントロールと活用である。
(略)
第二に、われわれは身体化され社会や環境に埋め込まれた心がもつ問題解決プロフィールを、基礎的な脳のプロフィールだと誤解しないよう用心しなければならない。ただ人間が論理や科学を営むからといって、脳に本格的な論理エンジンが備わっているとか、脳は科学理論の標準的な表現である単語や文章に近い方法で、それをコード化していると決めつけるべきではない。そうではなく、論理も科学も外部メディアの使用と操作に大きく頼っている。とりわけ、言語と論理による形式化と文化的制度や話し言葉と書き言葉を使うことからくる、格納・伝達・改良の可能性にである。議論したように、こうしたリソースは脳での格納と計算の様式にとっては異質だが、相補的なものととらえるのがよい。脳は、そのような可能性を複製するために時間を浪費する必要はない。それよりも脳が学習しなくてはならないのは、外部メディアとインターフェースしてその独特の長所を最大限に活かすことである。
 第三に(略)消えたのは、脳の中の中枢執行役――特殊用途の複数のサブシステムの活動を組織化し統合する本物のボス――である。それに、考えるもの(身体のない知性的エンジン)とその世界とのあいだにあった、整然とした境界も消えた。この心地よかったイメージに変えて、われわれは内的なエージェンシーの寄せ集めとしての心のとらえ方と向き合っている。
(略)
知的なシステムは空間的時間的に拡張されたプロセスであり、皮膚と頭蓋骨からなる薄っぺらな覆いによって制限されてはいないのだと。(略)中枢執行役が退位すれば、脳の中で知覚と認知とを区別することは困難に思える。それに思考と行為のあいだにあった区分も壊れてしまう。それは、現実世界における行為が、普通は内的な認知と計算プロセスと結びつけて考えられる種類の機能的役割を、多くの場合にまさしく果たすとわかったからである。