人間はガジェットではない キュレーションメディア批判

2010年の本だけどキュレーションメディア批判とかもあったり。

創造性の断片を匿名化

 匿名のブログコメント、動画を使ったつまらないおふざけ、ふまじめなマッシュアップ(略)断片的で非人間的なコミュニケーションが広がった結果、人と人のふれあいが下品になってしまった

 人間、一人ひとりは、本来、創造性の源として取り扱うべきものだ。であるにもかかわらず、商業的に集団化や抽象化を進めるサイトは創造性の断片を匿名化して提示し、その出典を不明確にしてしまう。それがあたかも空から落ちてきたものであるかのように、あるいは、地下から掘りだされたものであるかのように提示するのだ。
(略)
 最近のデジタル文化がおかしくなった主因は、人間のネットワークを細かく切りきざみ、おかゆのようなマッシュにしてしまったからだ。その結果、ネットワークで結ばれた人間より、ネットワークという抽象概念に注意が集まるようになった。意味を持つのは人間のみであり、ネットワークそのものに意味はないというのに。

情報は自由など望んでいない

 「情報は自由を望んでいる」――最近の格言だ。最初に言ったのは、ホールアースカタログの創始者、スチュアート・ブランドらしい。
 情報は自由など望んでいない――私はそう思う。
 こういうものに命があり、それ自体が思考や野心を持つかのように考えるのは、サイバネテイックス全体主義者の特徴だ。でも、情報は無生物ではないのか? 無生物どころか、人の思考から生まれたものにすぎないのではないか? 現実なのは人間だけであり、情報は違うのではないか?
(略)
 情報とは、体験を遊離させたものだ。(略)
ビットが誰かにとってなにがしかの意味を持つとしたら、それは、ビットが体験されたときにのみ起きる事象である。そのとき、ビットを保存した者と取得した者の間に文化の共通性が確立される。遊離した情報を元に戻す方法は、体験しかない。
 自由を望んでいると言われるたぐいの情報は人間の知性が落とした影にすぎず、それ自体が何かを望むことはない。望むものが得られなくても、情報が傷つくことはない。
 しかしもし、旧い宗教で神が来世を与えてくれることを望むかわりに、新しい宗教でコンピューターにアップロードされて不死となることを望むのであれば、情報が実存し、生きていると信じなければならない。そのとき、情報は生きているとの認識を強化するように、芸術や経済、法律のような人間の制度や慣習を根本的に変えることが肝要となる。そして、新たな国教のもとで暮らすことを他の人々に求める。新たな価値観が強化されるように、皆に情報を神聖視してもらう必要がある。

全体が一冊の本になる危惧

 私が嫌うデジタル文化へのアプローチでは、ケビンが示唆したように世界の本をひとつにしようという動きが進んでいる。これから10年で本当にそうなる可能性もある。グーグルなどの企業が書籍をスキャンし、クラウドにアップロードする文化デジタル化のマンハッタン計画を進めているのだ。重要なのはその先だ。クラウドにアップロードされた本にアクセスするインターフェースが断片のマッシュアップを促進するものだった場合、断片にまつわる文脈や誰が書いたのかといったことをあいまいにするものだった場合、全体が一冊の本になってしまう。今、多くのコンテンツがこのようになっている。ニュースで引用された断片がどこから来たのかわからない、誰が書いたコメントなのか、誰が撮った映像なのかわからないことが多い。
(略)
 あらゆる表現がデジタル技術で粉にひかれ、グローバルな鍋で一緒くたに煮られるようになった(略)
たしかに、そのようなツールの登場により、個人が書籍やブログなど、さまざまなものを著せるようになったという側面はある。しかし同時に、フリーコンテンツ経済や集団の力、アグリゲーターの治世で断片を供することが奨励された。表現や議論の全体として重んじられるものではなく。著作者ががんばって生みだした成果は、著作者間の境界を消す形で評価されるようになったのだ。
 世界を総合する一冊の本と、その本が破産に追いこもうとしている、一人ひとりが著した多くの書籍を集めた図書館とはまったく異なるものだ。一冊の本にしたほうがよいと思う人もいる。私のように、それは破滅的に悪いことだと考える人もいる。

クラウドの農民と領主

 昔、シリコンバレーは今よりヒッピー的で、広告を嫌う空気があった。グーグルという変わり種が登場する前のことだ。
(略)
 ところが今、広告は、到来する新世界において商業的に保護すべき唯一の表現形態だと言われている。皮肉なことだ。他の表現形態は匿名化してすりつぶし、無意味となるレベルまで文脈から切りはなすべきもの。これに対して広告のみが文脈を添えられるし、広告のコンテンツは聖域として保護される。ウェブサイトの脇にグーグルが表示する広告でマッシュアップを作ろうとする人はひとりも――くり返すがひとりも――いない。グーグルが登場したころ、シリコンバレーではこのような会話がよく聞かれた。「ちょっと待てよ。俺たち、広告をきらってたんじゃなったか?」「それは古い広告だろ?新しいタイプの広告はでしゃばらないし、なかなか役にたつよ」
(略)
 集団意識と広告の組み合わせは、新しい種類の社会契約を生んだ。その契約のもとで、ライターやジャーナリスト、ミュージシャン、アーティストなどは、知的活動や創造力の成果を断片として、無償で集団意識に差しだすことを求められる。互恵関係は自己宣伝という形をとる。文化はすべてが広告となる。
(略)
 最近、姿を現しつつある勝者総取りの社会契約にどのような効果があるのかは、学生の動向を見ればわかる。コンピューターサイエンスの優秀な学生は、その多くが知的な深みのある分野を敬遠し、ヘッジファンドをプログラムしてクラウド中央の王族に加わろうとする。(略)
一方、創造性豊かな人々――新しい農民層――は、旧メディアという枯渇しつつあるオアシスに集まる砂漠の動物という感じになってしまった。
 いわゆるフリーな考え方が浸透してしまった場合、(クラウドの世話以外の)頭脳労働で生き残ろうとすると、強欲な集団意識から身を守るため、いつか必ず、法的あるいは政治的な城のようなところに立てこもるか裕福なパトロンの保護下に入るかせざるをえなくなる。(略)クリエイティブな人々がパトロンのしがらみを解かれ、商業世界に出てゆけるようになったとき、それがどれほどすばらしいことであり、どれほど心洗われることであったのか、我々は忘れてしまっている。

オープンソースの実態は保守的

オンライン世界の先端をゆくコード――有名検索エンジンページランクを決めるアルゴリズムやアドビのフラッシュなど――は、なぜ、ほとんどが独自開発なのだろうか。絶賛を浴びるiPhoneが生まれたのは、なぜ、世界でもっともクローズドで、専制君主的管理だとさえ言われるソフトウェア開発企業なのだろうか。経験を誠実に評価するなら、オープンアプローチによって優れたコピーは作れても、優れたオリジナルを作るのは難しいと考えるべきだろう。オープンソースというのはとんがった、反体制的な響きを持つが、その実態は保守的なのだ。

商業メディア業界を飢えさせるな

無駄にするだけなら、自由に意味などない。補助的な媒体以上の役割をインターネットが果たせないのであれば(これはネットの大敗を意味すると思う)、少なくとも、養ってくれる手にかみつかないよう、できるかぎりのことをすべきである――商業メディア業界を飢えさせてはならないのだ。

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