中国革命を駆け抜けたアウトローたち・その2

前回の続き。

紅槍会

 兵匪や土匪から、いったいどうやって村を守ればよいのだろうか。(略)
結局は村を本当に守ろうとしている村の働き手が主体となった武装組織をつくる以外にはなかったのだが、それを作りあげる方途がなかった。というのも、中国の村は日本の村のような共同体ではなかった。村内の連帯感でさえ、その都度あらためて作り出さなければならなかったのである。どうやってその連帯感、村人どうしの信頼感を作り出すのか、それは至難の技であった。(略)
 1920年代初め、河南に生まれ、その後山東、河南、直隷(河北)を中心に、華北諸省に野火のごとく広がった紅槍会は、その答えの一つであった。(略)
[1914年に捕らえられた文満堂は]符を呑み、「刀槍不入」(刀も槍も通さない)の身体を作り上げるという義和団以来の呪法を有していた
(略)
[1916年県城を攻略した硬肚会は]北米の左道術士が符呪を修得し銃砲に抗することを教えたところ、集まるものが多く、ついに乱を起こした、とされている。(略)
術士が、壇を設け神仙を祀り、呪符を信徒に授け、それを焼き、或いはそれを吐服し鍛錬を施せば、刀や銃弾を通さない不死身の身体を得ることができる。義和団も紅槍会もこの点については同じ作法、手続きを踏んでいる。
(略)
この左道をもって作り上げた村ぐるみの自衛組織、それが紅槍会であった。(略)
[彼らの赤い房をつけた槍から紅槍]
 紅槍会運動の波及は、教祖や布教師が村々を周り、次第に信者を獲得していくという広がり方ではなく、寨首もしくは村の有力者が外から老師を招き壇を設けることで広がっていった。老師を呼んだ側は会首、堂主と呼ばれており、会衆である村民を実質的に指導し、土匪との戦闘において指揮を取ったのも彼らであった。
(略)
その強さはまず、民団とは違い彼らが村の遊び人からではなく、村人そのものであることに由来する。一戸につき一人壮丁(会員)を出すことを義務づけ、無頼の徒が多数を占めるのを防いでいた。次にはやはり、呪法の効果を無視することはできない。老師の呪法は農民の闘志を思いきり鼓舞するのに大いに力があった。(略)
入会した者は、貪財、姦淫、殺人を禁じ、呪符の秘密を守らねばならぬ。これを犯した者は教師の譴責を受け、鬼神の冥罰がある。(略)敵に向かう時にはまず符を呑み、呪文を心の中で唱え、大きく息を吹き込んで一気に敵に向かって直進する(長野朗『支那兵・土匪・紅槍会』)。
 紅槍会が無敵を誇っていた頃は、銃弾をものともせず突き進んでくる衆徒たちが一斉に放つ「ハーッ、ハーッ」という呪声を聞くだけで、土匪はおびえ、逃げ腰になったという。(略)
 ここで重要視したいのは、老師と呼ばれる術士とその会衆の関係である。これは普通我々が想像するような意味での、宗教家とそれに帰依した信者との関係ではない。というのも、個々の紅槍会の実権は老師を招いた寨首、会首が握っており、老師はほとんどの場合、霊的な権威を有していても、紅槍会を代表する存在ではない。
(略)
 よそ者の術士は、よそ者[ゆえ](略)ニュートラルな存在であり(略)村人にとっては、霊的指導者の前では、村の実力者も貧農である自分も平等であり、神に生死の誓いを立てるということに意義を見いだす。

中国の村

[日本の戦国時代は]村がまとまり何とか自衛をはかっていた。そこでは、村外の匪と気脈を通じ、村が匪の襲撃を受けても自分たちだけはその害を免れるなどといったことは許されなかった。(略)運命共同体なのである。(略)
[裏切れば]その後村にとどまることができないのはもちろんのこと、若者を中心とした武力によって仕返しされ、命を失うことになっただろう。
(略)
 中国の村は共同体ではない。運命共同体ですらない。危機は、それぞれの家が利害得失を計算して打開をはかるしかないのである。守るべきはまず家であり、村は普通守るべきものだなどとは思われていない。だが、1910年代後半、土匪が村を襲い始め、村の総力をあげなければ、人も家も生きていけない時代が到来した。一体どのようにして村を団結させるのか、村人の間に連帯感を充溢させるのか、しばし途方にくれることになった。河南の村々に、山東の術士が訪れ、硬肚の術を教えるようになったのは、ちょうどそんな時期であった。(略)
信仰というよりも、宗教的外皮ともいうべきものであり、この信仰共同体の外皮を村に被せることこそが、連帯意識を醸し出す仕掛けとなっている。村の共同性とか連帯といったものを人間の力によってではなく、豪紳や地主によってではなく、神意として引きだそうというのである。それほどまでしなければ生み出せず、またそこまでしてもなお維持するのが難しいのが、中国の村の連帯なのである。

紅槍会の衰退

 国民軍第二軍を敗北せしめたのは紅槍会であった。紅槍会の軍事力は軍閥の興亡をも左右するほど強大なものとなった。これを契機に紅槍会が、軍閥混戦に巻き込まれるようになった(略)河南紅槍会の首領に対し、民団の総団長、自治軍司令といった官位が授与され(略)たことも紅槍会を大きく変質させることになった。
 今や野心家にとって紅槍会が、昇官発財(出世と金儲け)の格好の踏み台となったのである。(略)
軍閥は、ライバルの後方に割拠する紅槍会に接近、その背後を襲わせた。紅槍会も目の前の軍閥に対抗するため、その後方の軍閥と連絡を取った。だが、紅槍会を利用し、ライバルに勝利した軍閥は、協力者紅槍会に対し民団への改編をせまり、それに逆らった場合は、すぐさま鎮圧に転じた。

共産党内部の「血の粛清」

[厳しい弾圧により共産党]内部に裏切り者や、通敵者、スパイがいるのではないか、といった疑心暗鬼が強まり[1930年以降、血の粛清が執拗に行われるように]
(略)
粛清の結果、行きついたものは、頂点には生殺与奪の大権を持つ中央代表が君臨し、その周りに少数の文章や理論を操れるインテリ出身の幹部がとりまき、後は一窮二白(貧しく知識のない)の若者の群で埋まっている体制であった。(略)
眼鏡を掛けているとインテリとみなされ、粛清されるので、目が悪くとも眼鏡を掛けることができなかったという回想も残っている。(略)
 軍幹部のほとんどが文字さえいくつも知らないぐらいの者であった。(略)党のレベルでもソビエト政府のレベルでも事情はほぼ同じであった。(略)結局、残ったものは階級的純粋さと指導者に対する徹底した服従であった。きれいさっぱり消えたものは、当初、根拠地開拓に手を結び合った現地出身のインテリと無頼の徒であった。
(略)
土地の声望あるインテリと場数を踏んだ無頼の徒との結びつきが、もっとも短期間に共産主義者の遊撃戦争を可能にしたことは疑いない。
(略)
次々に中央から根拠地に派遣されてきた幹部たちにとって、無頼あがりの幹部たちが目障りであり、原則として容認しえないことは明らかであった。彼らが槍玉にあがり、早い時期に粛清されても不思議はなかった。だが、中央派遣の幹部にとり、インテリ出身の声望ある幹部もまたひどく邪魔な相手であった。中央の路線がより極左的に、より教条的になればなるほど、現地の事情に通じ、現地の大衆に人気のある地方出身幹部は中央の正しい路線を執行する際の障害と見なされるようになる。それが最初から意図されていたかどうかは別として、根拠地草創期に活躍した革命家たちが一掃され、それに代わり、指導者に絶対服従を誓う労農出身幹部がその空隙を埋めることになった。

異姓結拝

兄弟分の契を結ぶことは「異姓結拝」と呼ばれる。(略)
 会頭や幇会のみならず、土匪緑林もまた異姓結拝の徒であった。(略)首領を筆頭に一同が並び、土匪ならば関帝関羽)を、馬賊ならば十八羅漢を拝し、香を焚き、叩頭して、互いに二心なきを誓いあう。(略)
それゆえ、党側から、土匪や緑林を安心させるための手段として、異姓結拝が利用されたことがある。
(略)
 共同体でなくなった時から、華北の村は連帯の不足に悩まされるようになった。(略)
信頼を生みだし、提供するものは、家族と天子以外にない(略)その間の広大な領域には不信のみが存在する。(略)
[敵意に満ちた社会に対し]身内の極大化は、まず子供をできるだけ多く生み、育てること、百子千孫である。(略)
[では身内のないものはどうする]話はまた異姓結拝に戻っていく。
(略)
南方の親族集団、宗族にはじき出された者たちの中から、乏しい絆を埋めるための、異姓結拝の化身、会党が誕生する。絆乏しき者たちが、会党のつきぬ温床であった。たとい貧家に生まれても利発で科挙受験にたえうるとみなされれば、宗族の支援をあおぐことができたかもしれない。(略)[会党は]表の世界とは異なった能力の持ち主の、才能を発揮する世界でもあった。多くは素寒貧の彼らが、荷担ぎやもの売りとして、集市、商路に出入りしているうちに、徒党を組み、武力を蓄えていったのも、彼ら自身がそれしか信頼のネットワークを持ちえなかったからにほかならない。信頼の権化たる関羽が彼らの信仰を集めたのも道理であった。
(略)
[清代、異姓結拝が異端とされ禁令の対象とされたのは]
[孝を中心とする]専制王朝や、支配を地域で担っている士大夫層、郷紳層にとっては、異姓結拝は異質であり、既成の秩序を脅かす存在であったからである。

1998年の著者あとがき

[1946年]再び国共内戦が勃発した時、土匪たちは一斉に国民党につき、共産党軍を攻撃した。(略)[すでに民衆の間に根をおろしていた共産党は]民衆と一体となって土匪を追いつめ各個撃破していった。(略)
 より民衆に近い公門や一貫道や同善社、在理教などの各宗派についても、国共内戦下の解放区においてすでに改宗工作が始まっている。豪紳地主に操られ、反共の砦となっていたこと、また今後は国民党の手先となるに違いないとみなされていたからであった。建国後は反動会道門とレッテルを貼られ、徹底した弾圧がはかられ、迷信としてその信仰はいっさい認められなかった。(略)
国家あるいは党中央が、地方末端まで権力を直接行使し、そのコントロールを村落や家庭のすみずみにまで及ぼし、それと引き替えに国家は、誰もが食べていけること、土地を与え、仕事を与え、結婚させ、子を生み家を成すことを保障したのである。大(略)
 改革開放路線を謳歌する今日、人々に食わせることを保障したシステムはすでに存在しない。国家あるいは党中央は、県城より下はせいぜい城鎮までしか直接権力を行使しない伝統的な統治スタイルに戻りつつある。80年代以後、徐々に古い中国が復活しつつあるようにみえる。幇会は黒社会となって中国のいたるところにはびこるようになっている。宗族は復活し、械闘もまた華々しく行われるようになっている。迷信といってよいのか、民間信仰といってよいのかわからない宗教集団が頻々と出現し、土匪まがいの行為、土匪らしきものも復活している。民国期は古い昔のことではない。人民中国の皮を一枚めくれば、民国が顔を覗かせる、そんな雰囲気である。
(略)
[「打抱不平」]つまり他人が不公平に扱われることに我慢ができず、あれこれ世話を焼くことである。それには勇気があるか、肝っ玉が太ければ十分である。(略)
 敵意や不信に満ちた世界だからこそ、「打抱不平」な人間が一目置かれたり、高い声望を勝ち得ることができる。(略)現実には、周囲から迷惑がられたり、なりそこねた者たちが嘲笑されたりしても、「打抱不平」な人間の価値は失われない。
 清代の会党を支えていたのは、このような「打抱不平」な人間たちであろう。民国期の共産主義者、とくに最も地下闘争の困難な時期に党に加わった農民の多くがこの種の人々であった。皮肉なことに新中国三十年の「理想社会」はこの種の人々を一掃した。もう首が回らないほど金に困った男が党の口利きで借りようとしたところ、党はその必要なしと判断した。困りはてた男に金を資した元資本家は、党の政策に反対し、資本主義の復活を企てたとして批判されてしまう。また、小学校教師となった青年が誰に対しても一生懸命教えて評判となった。その結果、党と大衆の支持を争っているとして恫喝を受けた。このような話は数え切れないほどである。
 国家や党中央が、飯の手当と引き替えに、個々人の心の中まで支配しようとしたシステムは破綻した。飯は自分で見つけるかわりに、善意をどう使おうとそれぞれの勝手となった。人が「打抱不平」な人間になり得る社会が少しずつ戻ってきている。が、たとえそのような社会が戻ってきたとしても、「打抱不平」な人々が明清期や民国期のように重要な役割を果たすことがでぎるのかどうか、今のところ何とも言いようがない。もし風通しのよい社会がつくられれば、歴史という舞台における彼らの役割は相対的に小さなものになるに違いない。逆にもし、不公平で抑圧的な社会が続くとすれば、相変わらず彼らの活躍する余地が存在し続けるということになろう。