中国革命を駆け抜けたアウトローたち

中華民国時代(1911〜49)

[これまで民国時代の]軋みや混乱の原因を、すべて帝国主義列強の中国侵略や植民地化に押しつける論法がまかり通ってきた。(略)
[筆者はそれが]中国の社会システム自体にすでに内在していたと考えている。
(略)
中国の人口増加は止むことがなかった。基本的にこれまで人工の増加を抑制してきた、王朝交代期の破局が、明末清初を最後になくなったことが大きい。(略)
中国では二千年来均分相続が続いている。猫の額ほどの農地であっても(略)きれいさっぱり分けてしまえば、もう義務は果たしたのだ。(略)
またたく間に勃興し、あっという間に衰亡していくのが、中国の、特に華北の家なのである。(略)
 農村には大量の余剰人口が滞留し(略)そこからはみ出した人々は、集市(市場)、城鎮へと向かい、街道を往来してあぶく銭にありつき、口を糊することになった。
(略)
 民国時代の38年間(略)ほとんどの中国人がなんらかの機会に、自分が住む村を一時または長期にわたり離れざるを得ない状況に見舞われた。水害、旱害といった自然災害以外に、彼らを追い立てたのは、軍閥うしの混戦であり、国共の内戦であり、日本軍の侵略であった。(略)
 この時代、兵士はいとも簡単に土匪(匪賊)に成り代わった。土匪もまた、勢力拡張に努める軍閥の招きで容易に正規軍に編入された。兵匪一体であった。(略)
土匪の存在自体が、民国という社会の亀裂の深さ、危機の深度を表している(略)
一説によれば、[4億の民に]土匪の数は500万と言われた。

土匪と緑林

 樊鍾秀一家は河南から陜西の洛川へ移住し、なんとか荒蕪地を耕して暮らしていた。河南からの移民は日頃よりよそ者として馬鹿にされていた。ある時、土匪の頭目に妹を嫁に出さなければ、村を焼き払うと脅され、怒った樊鍾秀は仲間五人で土匪の巣窟を襲い、頭目以下一味を退治してしまう。樊鍾秀とその仲間は、いちやく河南移民の英雄となり、彼らに推され自衛組織をつくる。武器は当然のごとく土匪の所から持ち帰ったものを使用することになった。が、よそ者の武装は、土着の者には脅威であり、強い反発を招いた。郷紳と民団(自警団)そして官府、それらともども、樊の一党に、銃器および土匪から奪った財物を差し出すよう命じた。さらに官府に出頭し、今回の事件について罪を認めるよう圧力をかけた。これは逆に河南移民の反抗意識を激化させ、事態の悪化をもたらした。樊とその仲間は、部隊の拡充をはかるとともに、民団の襲撃を退け、さらに近隣に巣くういくつかの土匪を消滅させた。1914年、白朗が陜西に進攻する直前には(略)地方軍閥にとって無視できない存在となった。
 このような樊鍾秀の一連の行為も義挙であり、彼もまた緑林の好漢と呼ぶにふさわしい人物と見なすことができる。だが、彼を敵視した地方の役人たち、郷紳層や民団は、彼を匪賊としか見なそうとしなかった。それゆえ、白朗軍の陜西襲来にことよせ、樊一党を白朗の余党と見なし、一挙に殲滅をはかろうとした。が、樊鍾秀も地方軍閥の間を縫い合従連衡をはかり、何とかその狙いを封じ、生き延びることに成功している。
(略)
緑林とは、山林や沼沢に集まり、官吏や土豪に対抗した武装集団や群盗を指す。
(略)
 緑林も土匪も結局のところ、アウトローであり、無頼の徒には違いない。だが、緑林は大義を掲げる[(富める者から奪い、貧しい者にほどこす)]。(略)
それゆえ、統治者にいかに悪しざまに言われようと、民衆の支持を勝ち得ることができたのだ。また、外敵、異民族の侵入の際、衆を集めて抵抗すれば、無頼もまた緑林である。1931年の満州事変以後、東北の馬賊たちの多くが日本軍に抵抗し、善戦したが、彼らも抗日緑林と呼ばれている。
(略)
[彼らはアウトローになる以前から]他人の不幸や他人が不公平に晒されていることに我慢ができない、正義感の持ち主、硬骨漢だとされることが多い。
 では、土匪とは何か。(略)日本風に言いえば、やくざと野盗と山賊を合わせたような輩である。(略)
 緑林と土匪(略)その差は思ったほど大きくはない。まず、緑林といえども食わねばならない。義挙をなすにも仲間が必要であり、また義挙が成功し、その名を慕って大勢の無頼が集まってくれば、彼らを食わせなければならない。近隣の富戸に迫って拠出させているうちはいいが、それも尽きれば、事情を知らない遠くの町や村にまで出かけ、金銭や食糧をやみくもに取り上げてくることになる。
(略)
[一方]いかに非道をなす土匪といえども、根城にしている村や隣村にはしばしば恩恵を与え、官兵の取り締まりに対する備えにしている。彼らも土匪呼ばわりされることは好まないし、むしろ自ら緑林を名乗り、なにがしかの大義を掲げ、それを実践している振りぐらいはするものである。
(略)
 皮肉な言い方をすれば、緑林とは身内や近隣以外にも、貧乏人や弱い者を略奪の対象としなくなった土匪だ、ということもできる。そして抗日緑林は、中国人、特に日本軍に協力しない中国人を略奪の対象としなくなった土匪だということになる。

党に消された緑林

なぜスメドレーが取材した1937年の朱徳は、雷光飛を土匪と呼んだのであろうか。(略)
 1930年の「流氓問題」に関する決議が転機であった。(略)
以前は「同じように虐げられている緑林の兄弟たちよ」と、革命の呼びかけの対象であった存在は、それ以後、革命部隊から排除されるべき、動揺つねなき危険な階層、ルンペン・プロレタリアートの一部と見なされ(略)ほとんどが土匪に分類されることになった。その反面、歴史上の緑林たちの多くが農民蜂起の指導者と祭り上げられるようになる。
(略)
 共産党創立以前の革命運動、農民蜂起が成功しなかったのは、党が存在しなかったからで、勝利のためには党の正しい政策、方針に沿って実践し、党の指導に従わなければならないとする、党至上主義、党万能論のもとにおいては、陳勝呉広以来の農民蜂起のスタイルや『水滸伝』をなぞったような緑林好漢のイメージは、払拭や排除の対象であり、それらがもし党内に残っているならば、徹底的な「改造」の対象となった。

会党

[土匪・緑林と同じアウトロー集団の会党、幇会、白蓮教系結社]
[白蓮教系の]ような民衆宗教結社とは別に、宗教性のないアウトロー集団がある。(略)
[無頼の徒が結社の性質を帯びるようになったのが宋代以後]
 明代になると、遊民層の増大により、無頼の結社が多数見られるようになる。特に中葉以後、商業の発達が著しい南方において、「打行」なる無頼の結社が結成され、武器を持ち、復讐や暗殺を請け負ったり、監獄を襲ったり、縄張りを求め互いに抗争を繰り返した。「打手」と呼ばれた彼らは、互いに鶏の血などをすすって盟を結び(献血拝盟)、組織秘密の墨守を誓ったといわれる。
 そのようなアウトロー集団のなかから、秘密結社天地会が生まれる。(略)
「反清復明」を掲げ、異民族である清朝の支配に挑戦し続けた。(略)
秘密結社、会党の近現代の革命運動に与えた影響はきわめて大きいものがある。(略)
 民衆自身が反乱や抵抗のための組織をつくろうとすれば、特別な訓練なしに誰もが組織し得たということのなかに、秘密結社(秘密宗教結社を含めて)の大きな影響をみることができる。(略)数百年にわたるその活動の継続は、民衆のなかに、その闘いのスタイル、地下組織の維持、蜂起の方法などについて、得難い遺産を残すことになった。
 1920年代後半、インテリ中心のひ弱な革命団体であった中国共産党が、突如直面した国民党の厳しい弾圧のなかで、何度も挫折を味わい、多くの犠牲者を出しながら、何とか態勢を建て直し、ともかくも地下活動を維持できたのも、この遺産の継承抜きには考えられない。

幇会とマフィア

 幇会の幇とは助けること、すなわち相互扶助を意味する。(略)仲間となったものは特別な間柄であり、たとい仲間が善人であろうと悪人であろうと、誓い合った仲であれば仲間を助けることがすべてに優先する。また、仲間と誓い合ったことは、親兄弟にも秘密にしなければならない。そして、仲間を助けなかった者、仲間を裏切った者、秘密を漏らした者は、もっとも重い制裁を受けることになる。(略)
[閉鎖性を増し、他の同様な組織に対し攻撃性を増す]
不法な取引により巨大な富が手に入る大都会では、それぞれの幇会の浮沈をかけ、殺し合いが繰り返される。その典型が青幇、紅幇であり、そのレベルになれば、マフィアと同義語になる。(略)
[土匪との違い]
土匪とは土着の盗匪であるように、そのテリトリーは農村にある。それに対し幇会は、水運や陸運に携わる労働者の仲間組織に起源を持つように(略)その成員の供給源は都市に集まる寄る辺なき人々、都市貧民である。

人質商売

土匪稼業と連行・誘拐と身代金の取り立ては切っても切れない関係にある。一度銃を携えて仕事に出かければ、少なくとも数人は連行してきて身代金を取り立てるのが通常の稼業であった。(略)民国時代の誘拐は、子供ばかりでなく、大人、老人まで、年齢には関係なかった。(略)
 連行した人質は肉票と呼ばれた。(略)いずれ金に換わる人間の形をした金券というほどの意味であろう。人質を殺すことを撕票という。撕は破る、裂くという意味だから、これは字義通りである。(略)
[十数人はざら]村(柵や土壁で囲まれた村)や城鎮などを攻め落とした時がもっともすさまじく、少なくて数十人、多い時は数百人、稀には千人を越えるケースもある。
 連行・誘拐で目立つのは学校が襲われるケースである。(略)匪首王友邦は数百人を連行し、貪乏人だという理由で百人以上を殺害した。
(略)
 誘拐された者は、思いきり走らされる。町や村を後にした土匪たちが、軍警の追撃をかわすために人質たちを急かせるためである。もし、身体が弱くひどく遅れがちになると、足手まといとして、容赦なく撃ち殺される。土匪の縄張りに逃げ込むと、人質を扱う土匪の小頭目が人質たちの値踏みを始める。そこで身代金を出せないほど貧しいとわかると、やはり見せしめのために殺される可能性が高い。人質たちになすすべはないのだ。
 もし人質が最初から身分のある者、金持ちだとわかっている場合、土匪の扱いはよくなる。(略)だが、ほとんどの場合、人質は人間として扱われず、時には獣以下の扱いを受ける。ひどい食事にくわえ、絶えず移動するため、けがや病気になりやすいが、そのまま放っておかれる。傷口に蛆がわいたり、病気が悪化し、衰弱死する可能性も高い。そして拷問。世の辛酸をなめつくし、やむなく土匪の群に投じざるを得なかった彼らは、人質をいびりぬく。さらに、満足に排泄させてもらえないため、時にはズボンのなかでせざるを得なくなる。厳寒の冬や灼熱の夏を、それで過ごさなければならない。
 土匪から人質の家に、法外な身代金の要求が届く。驚いた家族は、村の顔役や一族のなかの肝のすわった者に、土匪との交渉を依頼する。土匪との交渉は数回続けられ、家族がどうにか出しうる金額まで値切られる。ほとんどの場合、家族は田畑や店舗など家産をなげうって金を都合する。貧しい家では、そのために子供を売ることもある。もし、何度か脅迫状を届けても音沙汰がなかったり、土匪の心づもりをひどく下まわった回答しかない時は、指とか耳を切り落とし家族に届ける。それでも音沙汰がなければ、人質の命運は尽きたも同然であった。撕票されるか、子供の場合、売り飛ばされるかのどちらかであった。
 意外なことに若い女を人質にすることはあまりない。というのも、娘は一晩(ところによって三日)、土匪のもとで過ごすと汚されたとみなされ、世間体を気にする家族が身代金を払おうとしなくなるためであった。取り戻すとしたら夜までが勝負であったので、娘の人質は快票と呼ばれた。快とは速いという意味である。(略)張寡婦は、息子の復讐のために土匪に身を投じ女頭目になった(略)彼女はさらってきた娘たちをきちんとベッドに寝かせ、自分が見張りに立ち、さらに忍び込もうとした手下を見つけるや撃ち殺した。張寡婦の一味にさらわれた娘は日が過ぎても大丈夫であると評判をとり、張寡婦の名を高めることになった。

町を破る

 中国の都市は、一般に城壁を持つ。(略)町(鎮)のなかにも、城壁や「囲子(かこい)」を持つものがある。鎮には周辺の村とは異なった、マーケットタウンとしての重要な機能がある。(略)
地方の物資の集散地である城鎮が破壊されれば、地方全体の経済に致命的なダメージを与えることになる。同じ無頼の集団とはいえ、都市や都市と各地を結ぶ通商に巣くう幇会は決してそんなことはしない。(略)自分たちの首を絞めることになるだけだからである。(略)農村の無頼である土匪は(略)そんなことに頓着しない。(略)一度、攻略に成功すれば、その宝を思う存分手に入れることができるばかりでなく、日頃は田舎者を馬鹿にしている町の奴らを思う存分いたぶることができるのである。

官も匪である

 土匪の非道ぶり、残忍さを描くことにこだわりすぎているのかもしれない。ただ、このような土匪のすさまじさを理解しないかぎり、民国社会というものが、理解できないのではないかと考える。また、土匪のすさまじさの一面は、彼らが過去にされたこと、土匪になる直前までされていたことを、ただ真似しているだけであるともいえる。彼らが真似をしているのは、官であり、兵の所行である。(略)一種の仕返しをしているのだ、ということになる。(略)
[抗日戦争期、日本軍南下を阻止せんと蒋介石黄河の決壊を指示したが、結局武漢は陥落]
 しかし、それ以上に無惨であったのは、南下した黄河の濁流に覆われた地域の人々である。[河南側で122万、安徽側で300万人の被災民が出た]
九年間の黄河氾濫の間、河南、安徽、江蘇の被災地区の391万人余の住民が他地域へ流出した。それは元の人口の五分の一に達した。また、89万3千人あまりの人々が濁流に呑み込まれ死亡した。(略)
政府は被災地に対して、免税措置をとったが、地方はさまざまな名目の諸税を撤廃しようとはせず、軍事上の種々の用役や課税はかえって重いほどであった。
 被災地であっても兵役の負担は免除されず、他地へ流出した者が多数いるにもかかわらず、定額どおり割り当てられ、それを満たせない場合、やむをえず保(保甲制の単位)ごとに誰かを雇ってその場をしのぐしかなかった。(略)
 だが、このような負担も、堤防修築工事に比べれば僅かなものであった。
(略)
「流民と土匪は、災害、苛政と軍閥混戦の双子である」。誰も好んで土匪になりたい者はいない。
(略)
 官もまた匪であり、盗であった。もし大盗ならば国を盗み、その手勢を使い、合法的な装いのもと、思うがままに匪をなすことができた。それは、土匪が招撫され、正規軍の列に加われば、すぐに手に入る世界であった。もし、幸運にも地方政府でも掌握すれば、行政機構を使い、いっそう恣に振る舞うことができた。だが、小盗は誅せられるの喩えの通り、匪は匪のままであれば、いずれはその報いを受けるのだ。

兵匪一体

兵匪一体という言葉があるように、兵が廃されて匪となり、その匪が招撫され兵となる、兵も匪も同じ穴の狢であった。(略)
外国人26人、中国人200余名が人質となった臨城事件は、当時世界を揺るがす大事件となった。(略)
 外国人を人質にし、それをたてに政府と交渉したり、正規軍への改編を求めるやり方は、その前年、老洋人がすでに試していた。(略)
この二つの事件をきっかけに土匪のなかに正規軍志向が強まり、官途につくには土匪が近道などといった考え方が流布されるようになった。(略)
 民国期における無数の戦闘は、無数の敗兵を生み、敗兵は武器を持ったまま匪に転じた。さらに、給与の遅配やひどいピンハネを不満とし、脱走する兵隊が絶えなかった。彼らは徒党を組み、隊を離脱するや、やはり匪に転じた。匪から兵へ、兵から匪へ、いとも簡単に成り代わった。兵と匪、その境界はきわめて曖昧なままであった。
 それゆえ、兵と匪は互いを不倶戴天の敵などと見なすことはなかった。「戦場ではそれぞれその主のために働くが、戦場を離れればみな兄弟」というわけであり、兵と匪がなれ合うこともしばしばであった。官兵が土匪を攻める時には、空へ向けて放ち、匪軍は大量の銀元を放り出して逃走する。官軍は銀元を拾い、代わりに弾薬を落として意気揚々と凱旋する。まさに「兵匪一家」であった。

次回に続く。