日中戦争 古屋哲夫

日中戦争を外側から処理するために、イギリスを圧迫するという政策は、ついにアメリカを敵対的な関係の当事者に」、オイルマッチで火事配信男を見ている気分に。

日中戦争 (岩波新書 黄版 302)

日中戦争 (岩波新書 黄版 302)

なぜ「事変」なのか?

当時の政府においても軍部においても、中国に対する宣戦布告が実際に必要だという考え方が主流になったことは一度もないといってよい。そしてそれは、当時の日本の戦争指導者の意識においては、中国に全面戦争を仕かけなくても日本の目標は達成できる、したがって宣戦布告は不必要であり、望ましくもないものととらえられていたことを示すものであった。たとえば、盧溝橋事件当時における陸軍の最強硬派ですらも、中国に対する「一撃」を加えることを主張していたのであって、全面戦争を予想していたわけではなかった。つまり、「支那事変」との呼称が決定された当時には、全面戦争にいたらない軍事的一撃で達成されるはずの戦争目的が考えられていたに違いないのである。
 そしてその「一撃」は、盧溝橋事件を処理するための「一撃」なのであるから、事件処理の過程のなかに、それによって達成される「目的」がかくされていたとみなくてはなるまい。

解決条件としては、現地でさえ十分な調査もしていないこの段階で、事件の責任は中国側にあるときめこみ、中国軍の衝突現場付近からの撤退、中国側責任者の処罰、中国側の謝罪、同種事件の再発を防止する保障などを(略)中国の現地機関に承認させる、というのが、日本側のいう「現地解決」なのである。

 要するに日本側が「現地解決・不拡大」というのは、中国側が、こうした特殊な内容をもつ 「現地解決」を認めれば、事件を拡大しないという条件付不拡大方針なのであり、逆にそれを認めなければ、今まで認めてきたものを拒否するという理屈に合わない「暴戻」な態度であり、うちこらしめ「膺懲」しなければならないという拡大方針に転ずることになるのであった。盧溝橋事件以後の事態が、一見日本側の受け身にみえるのは、そこに、これまで積み重ねてきた侵略方式の保持という側面が存在するからにほかならない。
 要するに、日中戦争がとらえにくいのは、現実には全面戦争へと向う戦争の拡大にあたって、これまでの、現地政権の分離と傀儡化をめざす「現地解決」の成果を確保し、なし崩し的侵略方式を継続するという、いわば全面戦争を回避する形での戦争目的が立てられていたからであった。そしてこの問題が、日中戦争を盧溝橋付近での日本軍への発砲事件に始まると考えたのでは、全く見えなくなることは、もう繰り返すまでもないであろう。

満鉄付属地

[ロシアからの]譲渡を中国側に認めさせた「満州に関する日清条約」では(略)満鉄の利益を保護するため、満鉄と並行する幹線や満鉄の利益を害するような枝線を建設しないことを要求し、これを清国政府の声明として会議録(秘密)に記録させたのであった。(略)日本側の拡張解釈を可能にするような多くのあいまいな部分を含んでいることが特徴であった。たとえば並行線禁止問題にしても、満鉄とどれだけの距離と角度を持つものを禁止すべき並行線とみなすのか、また満鉄の利益を害する枝線とはどのような種類のものを指すか、などについて、具体的な規定はなく、また一度も論議されたこともなかった。(略)
[この]拡張解釈によって、日本側が最大の利益を引き出したのは満鉄付属地であった。(略)
[ポーツマス講和条約には]ロシア政府は「長春・旅順間の鉄道及び其の一切の支線並びに同地方に於て之に付属する一切の権利、特権及び財産」を日本政府に譲渡する、というこれだけの文面しかない。この「一切の権利、特権及び財産」というわずかな文言のなかに、鉄道付属地とその経営権に関する問題もすべて含まれているというわけである。(略)
 つまり、ロシアが付属地の行政権を排他的に掌握していたから日本も同様な行政権を有するはずである(略)
ロシアは鉄道があれば付属地をつけたのだから、日本も、ロシアの権益と関係ない安奉線にも、当然鉄道付属地をつけることができる、というのが日本のやり方であった。実際には条約上の権限の解釈などとは無関係に、ロシアから受けついだ付属地のうえに、日本が獲得した土地をどんどんとつぎ込んで、日本の満鉄付属地がつくられていったのであった。
(略)
信夫淳平著『濁蒙特殊権益論』の表現をかりれば「(略)恰も大蛙を呑んで腹を膨らませた蛇を幾十頭となく繋ぎ合せたような形で、言わば瓢箪形の長大な地積」であった。(略)
このあいまいな根拠の上に築かれた付属地社会のなかに、満州事変前には約20万人の日本人が住みついていたのであった。

満蒙特殊利益論

[第一次世界大戦に参戦したアメリカは極東では日本に妥協的態度を示し、石井・ランシング協定では]
日本の中国における特殊権益を承認するという事態がおこっている。(略)
 しかし同時に、中国の独立と領土保全の尊重と、商工業に対する機会均等主義の支持がうたわれているのであり、それと矛盾しない特殊利益とは何かとなると、首をかしげたくなるが、満州治安維持の要求などは、この公文によりアメリカの支持を得られるものと期待されたことであろう。なお1922年のワシントン会議終了後、アメリカはこの公文の廃案を提議し、日本は、日本の中国における特殊利害関係は、外交文書で明示的に認めると否とにかかわらず存在するとして、廃棄に同意したのであった。
 ともかく、一時的にせよ、特殊利益がアメリカによって承認されたことは、満蒙特殊利益論を日本の世論のなかにも広く根づかせるうえで大きな役割りを果したといえよう。特殊利益、特殊権益、特殊地位などの用語は、その意味内容はあいまいなままに、政界にもジャーナリズムにも広範に普及してゆくようになるのである。
(略)
 ロシア革命で日露協約のパートナー・帝政ロシアを失い、ワシントン会議における太平洋方面に関する四か国条約の成立によって日英同盟を廃棄され、孤立した日本は、もはや二一か条要求にみられるような、露骨な権益要求をもち出すことは不可能になっていた。
 そして第一次大戦後には、そうした情勢の変化に対応して、いわゆる中国本部の問題については列国と協調しながら、満蒙問題はこれと切り離して独自の関係を維持しようとする、新たな方式があみ出されてきた。それは、中国が軍閥割拠のありさまとなり、満州張作霖軍閥が形成されてきたという条件を基礎とするものであり、関東軍が独自な政治勢力に成長してくるのも、この新たな方式を基礎としてのことであった。

「満蒙」の秩序維持が「自衛に」

[反日化する中国の大衆運動は]民族自決主義の世界的風潮を背景としながら、ロシア革命や朝鮮独立運動と相呼応するような様相を示し(略)[それに対抗し]
満州反革命的・親日的に安定させることによって、日本に向う革命運動・民族運動の波動を断ち切ろうというわけであり(略)
日本の援助をうけた張作霖が中国中央に進出することは、中国本部に対する列国協調を破壊し、また中央の混乱を満州にもち込むことになると考えられた。
 この中央から離れて、満州の支配を安定・確立せよ、という要求は、やがて「保境安民」という言葉で表現されるようになるのであるが、それが中国から分離された満州というイメージを生み出すことは必然であった。
[しかし張作霖満州だけでは軍隊を養えず、日本の説得を無視し、たえず中央進出を試み、中央での戦乱が満州に波及するおそれが]
奉天軍敗走の可能性が強く感ぜられるようになると、武器供与の如き段階をこえて、「自衛」の名目のもとに一挙に日本軍隊の出動によって治安を維持するという構想が生み出されてくるのであった。それに用うべき軍隊は、「関東軍」としてまさに現場に存在していた。(略)
「満蒙に於ける秩序の維持」は、日本の同地域に対する利害関係、「朝鮮の統治上」とくに重要視している問題であり、したがって「自衛上必要と認むる場合には機宜の措置」をとる、というのである。いわば中・朝・ソをにらむ戦略高地としてとらえられた「満蒙」の秩序維持は、ついに「自衛」にかかわる問題とされるにいたったのであった。
(略)
[郭松齢軍の反乱で張作霖は半狂乱で下野を決意したが、関東軍が付属地の外側に広大な戦闘禁止区域を設定したことで、復活。郭軍を打破]
 この一連の過程のなかで、関東軍のなかには、満蒙治安維持の主役としての意識が広がっていったにちがいない。関東軍から満蒙政策に関する意見書が次々と出されるようになるのはこれ以後のことである。(略)
 単なる鉄道守備隊であったはずの関東軍が、満蒙治安維持の主役にのしあがってきたとき、日本は、日中戦争への一つの曲がり角を曲がってしまったように思われるのである。

南京政府樹立と「現地保護」

日本で若槻内閣から田中義一内閣への政変がおこなわれていたちょうど同じ頃(略)
蒋介石が反共クーデターによって南京政府を樹立(略)
南京政府軍が徐州に迫ってくると、田中内閣は、山東省に居住する日本人を保護するとの名目で出兵に踏み切ったのであった。
 それは当時「現地保護」と呼ばれたやり方であり(略)[若槻内閣の幣原喜重郎外相]だったら、軍隊を現地へ送るより、在留日本人の方を安全な場所まで引揚げさせたにちがいないと考えられたのである。しかし両者のちがいは、たんに居留民保護の方法というだけの問題ではなく、国民革命全体にどう対応するのかという問題にまで及ぶものであった。
 すなわち、幣原外交の場合には、国民革命によって中国が統一されることは、動かし難い勢いであるとみて、むしろその統一の勢いを支持しながら、その性格を日本にとって望ましい方向に導くことを主眼として政策が進められていた。具体的には、蒋介石の反共政策を支持し(略)日本の満蒙権益を認めさせる(略)
 もちろん反共派の共産派に対する勝利は、田中外交にとっても望ましいことにはちがいなかった。しかし田中外交の場合には、その反共派が主導権を握ったにしても、国民革命軍という軍隊によって、満蒙が外から占領されることを拒否する、という点に政策の最重点をおくものであった。組閣直後のすばやい山東出兵は、このような軍事的発想を物語るものといえよう。
(略)
[張作霖爆殺による外交破綻で田中内閣が総辞職するまでの一年間]
満蒙における日本の権益や関東軍の地位が弱まるかもしれないという不安が、陸軍中央部に、指揮命令系統にとらわれない横断的結合を急速に拡大することになった

実現しなかった政策転換

37年5月頃には、民間からも、中国との直接の関係はしばらくそのままにして、幣制改革の成功以来中国への影響を強めつつあるイギリスと提携して、中国との関係を間接的にでも改善すべきだとする意見が唱えられるようになってきた。そして外交レベルでも、6月4日林内閣に第一次近衛内閣が代り、再び広田外相が登場した直後、イギリスから中国幣制維持のための共同経済援助の申出があると、外務省内には、この機会に日英協調を実現すべきだとする動きが広まってきた。中国駐在の川越大使も、この際イギリスの主導権を認めて対華借款に参加し、満州事変以来の「対支根本方針の急転回」をなすべきであるとする長文の意見を具申してきた。しかしこの電報が外務省に到着したのは7月6日午後であり、日本は「急転回」のいとまもなしに、翌日には盧溝橋事件に引きこまれてゆくことになるのであった。

反英意識の高まり、そしてアメリカ登場

イギリスに対する問題は、すでに38年の夏から、日本側の呼び方でいえば、「防共協定強化」という形で、具体的に論議されてきていた。(略)
[ドイツは防共協定を]ソ連のみでなく、イギリスやフランスをも対象とする軍事同盟に改定することを提議(略)
徐州作戦から帰国して陸相に就任したばかりの板垣征四郎中将は、6月17日近衛首相に提出した「支那事変指導に関する説明」と題する文書のなかで、「今次事変は事実上、在支欧米勢力打倒の端緒」であると性格づけるとともに、さらに「防共協定の強化と対米善処とに依り、蘇(=ソ連)英を牽制し支那抗日政権の欧米依存政策を打破するを要す」と述べているが、その基底になっているのは、ソ連やイギリスは蒋介石を援助して、日本の戦争遂行を妨害しているという見方であった。(略)
ドイツの提案に賛成する陸軍と、ヨーロッパでのドイツと英仏との戦争に自動的にまき込まれることを避けようとする海軍・外務当局との対立が次の平沼内閣までえんえんと続いた。[あげく、ドイツがソ連と不可侵条約締結](略)
驚いた平沼内閣はドイツとの交渉を打切り、「欧州の天地は複雑怪奇」という有名な首相談話を残して総辞職してしまった。
 このときちょうど、ソ満国境ノモンハン付近で[関東軍敗北](略)
このノモンハン事件は、むしろ中央の意図からはずれた関東軍の独走であり、6月の北支那方面軍による天津のイギリス租界封鎖事件の方が重要であった。(略)
 日本側の不満は、直接には英租界が抗日分子の活動の拠点になっているというものであったが、より根本的には、イギリスが日本の華北金融支配に協力しないという点に向けられていた。すでにみたように、日本は華北占領後、中国連合準備銀行を設立し、連銀券を発行して国民政府の法幣の流通を禁止したのであるが、イギリスはこの政策に協力せず、天津租界では法幣が堂々と流通し、租界内の金融機関も連銀への現銀拠出に応じようとはしなかった。
(略)
この間、日本国内では、6月にはすでに右翼団体が反英宣伝にのり出しており、7月に入ると各地でイギリスを非難する市民大会やデモ行進が組織され、市議会での決議もあいつぐという有様となった。(略)[378件の市民大会(85万名)]街頭デモ行進には40万名を上まわる参加者があったとされている。これらの動きは多分に陸軍の煽動により、警察も公認するという官製運動の性格の強いものであったと思われるが、7月15日には朝日・毎日・読売などの新聞社に同盟通信社を加えた計10社が、イギリスは「援蒋の策動」をあえてしているという共同宣言を発表して、この動きに呼応していた。(略)
[有田・クレーギー会談では、イギリス側が譲歩したが、法幣の流通禁止問題で交渉は完全に行き詰まる]
このときイギリスの立場を支えるべく、アメリカが乗り出してきたのであった。(略)
[7月26日]アメリカ政府は日米通商条約を破棄すると日本政府に通告した。(略)
日中戦争を外側から処理するために、イギリスを圧迫するという政策は、ついにアメリカを敵対的な関係の当事者に引き出してしまったのであった。(略)
日本にとって、日米通商条約の破棄は、租界における法幣問題などとはくらべものにならないような重大事であった。

全面撤兵か対米戦争か

[蒋介石の冬季大攻勢は]日本側のいう持久戦体制など、とうてい実現しえないことを意味するものでもあった。(略)
[8月には40万の]中共軍が華北全般にわたっていっせいに蜂起した、いわゆる「百団大戦」が展開され、以後、治安確保のためにも、より大きな兵力が必要とされるに至っている。結局中国大陸における兵力削減という持久戦構想の眼目はほとんど実現できずに終ったのであった。
 このような日中戦争を正面から解決する見通しは立たず、アメリカとの関係も悪化するばかりという状況のなかで、この二つの問題に同時に対処できる方策としてとりあげられたのが、東南アジア問題であり、ヨーロッパにおいて、ドイツが電撃的勝利を収めると、それは一挙に戦争政策の中心に押しあげられることになった。(略)
[39年12月]陸・海・外三相が署名した「対外施策方針要綱」には「南方を含む東亜新秩序」という新しい問題が出されていた。それは「事変解決」のための新秩序は、南方まで含まなくては成り立たなくなったということであろう。
(略)
ドイツの勝利に酔った日本の戦争指導者の眼には、国際情勢は世界再分割の方向に動いているとみえてきているのであり、そこから日中戦争も、東南アジア問題も、この世界再分割の動きに加わることによって、そのなかで解決してゆこうとする考え方が生まれてくるのであった。軍部はこのような方向の国策化を準備しつつ、新体制運勤にのり出してきた近衛文麿をかつぎあげて、政治の雰囲気までも転換させたのであった。
(略)
[日独伊三国同盟締結での]松岡外相の構想は、第二次大戦後の世界は「東亜・ソ巡・欧州・米州の四大分野」に分かれるとし、独伊の生存圈としてヨーロッパ、アフリカを認める代りに、日本は東アジアを獲得する、中間にあるソ連にはペルシャ湾方面に進出させ、場合によってはインドをその生存圈と認めることもありうる、そしてアメリカには、南北アメリカを与えて、こうした再分割に介入させないようにする、というわけであった。主要な敵は、かつてのソ連からイギリスヘと完全に転換されていた。
(略)
この構想からいえば、蒋介石政権は、ヨーロッパからアジアにいたる新秩序のなかに閉じこめられ、窒息死するはずであった。したがって、日中戦争を解決するためには、この新秩序をつくり出せばよいということになるわけであり、日中戦争は現状のまま凍結して、戦争政策の方向は東南アジアヘの進出に向けかえられることになるのであった。
(略)
支那事変処理」に関しては「第三国の援蒋行為を絶滅する等凡ゆる手段を尽して」と記されているにとどまるのに対して、「南方問題」に開しては「武力行使」の問題が提起されるに至っているのである。(略)
さらに、武力行使にあたっては、戦争の相手を極力「英国のみに局限」することに努めるが、しかし「対米開戦」を避けられない場合もあり得るとして、はじめて、アメリカとの戦争に言及してきているのである。もはや明らかに、戦争指導者たちの関心は、中国との戦争から離れて、イギリスとの戦争に向けられているのであった。
(略)
日独伊三国同盟締結、汪兆銘政権承認と、日本の政策が一つ進むごとに、アメリカの対応もそれだけ強硬なものとなってきた。アメリカと切り離して、イギリスとだけ戦争し、アメリカを枠外において世界新秩序をつくり、東亜新秩序のなかに日中戦争を解消するという構想が、現実に通用しないことは、たちまちのうちに明らかになりつつあった。そのうえ、日独伊ソ四国による世界再分割の夢は、41年6月22日の独ソ開戦によって、あえなく消え去っていった。
(略)
 41年4月から始められたアメリカとの交渉の中心は、簡単にいえば、アメリカの仲介で日中戦争が解決できるか、という問題であった。そしてさらにその焦点は、日本が中国大陸からの全面撤兵に応ずるか、どうかの問題にほかならなかった。(略)
結局のところ日本の指導者たちは、この要求[「華北・蒙疆の一定地域」への駐兵]を守り抜くために、日中戦争の外側の大東亜共栄圈に戦争を拡大していったのであった。(略)
太平洋戦争へと突入し、日中戦争は、太平洋戦争に従属した地位におかれるに至ったのであった。

忘れられた日中戦争

1945年1月、北ビルマの日本軍が撃破され、ビルマ・ルートが再開された時には、日中戦争における日本の敗北は決定的なものとなっていた。アメリカの軍需物資は大量に中国に輸送され始め、中国軍も最新の装備と、アメリカ式訓練によって改編されていった。(略)
 日中戦争がこのまま続いていたら、日本軍が態勢を立て直した中国軍に撃破されたであろうことは、この両作戦をみても明らかであった。しかし事態がそこまで進展する前に、日本の戦争指導者は、原爆で本土を直撃され、ソ連参戦という新たな衝撃をうけて降伏してしまった。日中戦争を解決するために、その外側で太平洋戦争をはじめたという順序を逆にたどるとすると、太平洋戦争の結着の次に、日中戦争の結着をつけてはじめて戦争が終るということになるわけであるが、日本の地理的な位置の故に、日中戦争での決戦なしに、戦争全体を終らせることが可能になったのであった。
 そしてそのことから、日本の戦後が、もっぱら太平洋戦争の戦後として、日中戦争を忘れさせるような形で、展開される条件が生まれてくるのであった。(略)
アメリカの単独占領は、アメリカの仲介しない日本と第三国との直接的な関係を成り立たせなくしたし、また国共内戦は、中国の側にも日本の戦後に介入する余裕を失わせるものであった。つまり日本は中国と隔離された形で、戦後をはじめたということになろう。しかも、国共内戦日中戦争の相手であった蒋介石が敗北し、台湾に逃れるという事態になると、アメリカに仲介された日中関係は、日中戦争をどう清算すべきかという観点からではなくて、台湾と北京のいずれをえらぶかという点から出発することを余儀なくされたのであった。