メイキング・オブ・サージェント・ペパー ジョージ・マーティン

以下《ペパー》=「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」。

メイキング・オブ・サージェント・ペパー

メイキング・オブ・サージェント・ペパー

〈ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァ

 私が初めてそれを聴いたのは、1966年11月の冷たい風が吹きすさぶ夜だった。我々はアビー・ロードの第2スタジオにいた。ジョンはアクースティック・ギターを抱えて、私の目の前に立った。これは彼が私に新曲を披露してくれるときのいつものやり方だった(略)
 イントロのふたつのコードに導かれて、曲は星のような輝きを持ってくり返す旋律に入っていった――“目を閉じれば楽に生きていける……”あの鼻にかかった素晴らしい独特の声がかすかに震え、胸にしみ入る。私はすっかり魅せられた。恋に落ちてしまった。「どうだい?」ジョンは歌い終わると、ひどく神経質に聞いた。(略)
「すごいよ、ジョン。本当にすごい歌だ。これをどういうふうにしたいんだい?」
 「それを教えてくれるのがきみだろ!」と、ジョンは笑いながら私に返してきた。実は今になって、あのときこう言えていたら、と思う。つまり、今聴いたままの歌で十分だ、と。あのときのまさに初めて通して聴いた音をテープに録音して、それを発売したかったと、どれほど残念に思ったことか!
(略)
 このセッションでジョンはアクースティック・ギターを受け持ちたがった。それで、メロトロンはポールが引き受けることになった。(略)
いつもどおり、ジョンがヴォーカル・レコーディングのスピードを変えてくれと言いだした。私は彼の声をどんなときでも素靖らしいと思っていたのだが、彼はいつも、自分の思いどおりに“改良”するために、声をひずませたり歪めたりしてくれと、私に頼んだ。そこで我々は彼のヴォーカルをオーヴァーダブするとき、テープ・レコーダーの電源の周波数を通常の50ヘルツから53ヘルツに切り替えた。これを通常のスピードで再生すると、声が半音下がって、より温かく、よりハスキーに聞こえた。
 それは神秘的な夜だった。我々はみんな、新しいアルバムの冒頭部が気に入り、一夜明けた金曜の早朝、疲れてはいたが十分満足して家路についた。
 しかしながらその週末の間も、豊富な想像力は活発に働きつづけ、我々が月曜日のセッションに集まったときには(略)改善案が山のように用意されていた。(略)
“目を閉じれば楽に生きていける……”という始まりではなくて、“きみを連れていこう……”というコーラス部分からの始まりにするというのだ。
 それはとてもよい移動だった。というのは、これによって聴き手は即座に詞を理解するからだ。抽象的なコメントで始まる代わりに、非常に魅惑的な旅の共有を聴き手は迫られる。それはまるでジョンが裏通りでつかまえた人びとをパーティに誘っているかのようである。しかし、それでもやはりイントロが必要だった。ヴァースで使われているコードをいじり回していたポールが、音の反復進行を思いついた。それはまったく歌のコードそのままだったのだが、アルペジオ・スタイルに発展させていた。
(略)
[テイク7をマスターとし全員アセテートのデモを持ち帰った。一週間後、ジョンが満足できないと言い出し]
彼は、ストリングスとブラスを使いたがり、そのためのスコアを私に書いてくれと言ってきた。
 翌週の12月8日、木曜日、新しいリズム・トラックを録るためのセッションが準備された。(略)
[クリフ・リチャードの新作映画プレミアから]ジェフと私が戻ると、第2スタジオでは静かな暴動が起きていた。(略)自分たちだけで“珍しい”リズム・トラックを付けたら、さぞ楽しいにちがいないと考えたのだ。彼らは手当り次第に何でも打ち鳴らした。(略)三流のターザン映画のような騒ぎだった。ジョンとポールはボンゴを叩きつけていた。ジョージは大きなケトルドラムを叩き、ときどきそれにポールが加わった。ニール・アスピノールはひょうたん型のヘラを、マル・エヴァンスはトロンボーン、ジョージの友人、テリー・ドーランはマラカスを、といった具合だ。別の誰かはフィンガー・シンバルをチリンチリン鳴らしていた。そして誰よりもリンゴが、いつもの自分のドラム・キットでこの不協和音をまとめようと、男らしく頑張っていた。(略)
ジョンの声が粗削りなビートに合わせてはっきりと聞こえた――“クランベリー・ソース、クランベリー・ソース……”なぜクランベリー・ソースなのか? ま、いいではないか。クリスマスも近いことだし!(略)
人々の耳には“クランベリー・ソース”ではなく、“アイ・ベリード・ポール(ポールを埋葬した)”と言っているように聞こえたらしい。

さまざまなヴァリエイションの中からどのパフォーマンスを選ぶか、ジョンはなかなか決められなかった。そもそも初めてこの歌を録音したテイク1をジョンが捨ててから、ずい分時間が経過していたが、この期におよんで彼は、スローで瞑想的なヴァージョンにするか、熟狂的でパーカッシヴな最強チーム、チェロとブラスを入れたテイク20にするか、悩みはじめたのである。(略)
「どっちも好きなんだ。このふたつをくっつけよう。テイク7から始めて途中からテイク20に移り、華やかに終っていこう」
 「すごいね!」と私は答えた。「ただし、問題がふたつほどある。まず、ふたつのテイクはキーがまったく違う、音質も異ればテンポもまるで違う。それ以外は何も問題はないよ!」私の皮肉に対してジョンは、大人が子どもをなだめるときのように寛容な笑みを浮かべた。「なあ、ジョージ」と、彼は簡潔に言った。「きみなら絶対できるさ、そうだろ?」そして彼は私に背を向け、去っていった。私はジェフ・エマリックのほうを見て唸り声をあげた。
(略)
 我々は有能な専門家たちを召集した。彼らは恐竜ほどの大きさもある洗たく機のような機材を運びこんできた。“周波数変換機”である。このバルブ・パワーのモンスターは送電幹線につなげられ、1秒間に50サイクルという通常の周波数を上げたり下げたり変換した。彼らがどうやってそんなことができたのか、私に聞かないでほしい。いまでも謎だ。私に言えるのは、作業を進めていくうちに発熱してきて、なおも続ければ火花を散らして爆発していたかもしれないということだ。だが、我々にはこれしかない。電源を入れた。私たちは編集をごまかすために、サウンドが変わる個所を捜した。そして、きっかり1分たったところにそれを見つけた。
 あの編集はとても目立ってしまった、と私は感じているのだが、誰も気づいていないらしい。ジョンは結果に大喜びで、それを最終的な歌として受け入れた。
(略)
 破棄したり録音し直したりしたものはたくさんある。〈ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァ〉のファースト・テイクがいい例だ。あれは素晴らしいテイクだったが、すべて捨ててしまった。今なお、あれ以上のものはないかもしれない。さらにはまた、オーケストラ・ヴァージョンの終りの部分は、リズムがひどすぎて使えなかった。あれだけ苦労して編集したにもかかわらず、最初から最後まで完全にひとつにまとまったテイクを作ることができない。そうなれば答は明白である。ビートが狂ってくる前にフェイド・アウトするのだ。つまり、私の好きなちょっとした部分を捨てることを意味する。その部分には、トランペットとギターの見事な演奏が入っており、また、ジョンがでたらめにメロトロンを演奏して作り出した音の滝も含まれていた。それはエネルギーにあふれた部分で、私はそれを残すことに決めた。
 そこで我々は、唯一可能な方法を実行した――リズムが狂いだす直前で歌をフェイド・アウトし、聴き手にこれで終りだと思わせておいて、再びフェイド・インして栄光のフィナーレを迎える。

デモ、オーディションの回顧

 レコーディングの質はぞっとするようなものだった。それだけでなく、このビートルズと名乗る連中は、その当時でさえ古臭く聴こえるような通俗歌謡[「オーヴァー・ザ・レインボウ」「ベサメ・ムーチョ」etc]をたて続けに、ただ機械的に演奏しているだけなのだ。(略)
 当時のイギリス・レコード産業の通念がそうであったように、ブライアンも、甘くささやくようにうたわれるバラッドこそが成功への道を約束するものだ、と信じていた。そこで彼はビートルズに、そういったタイプの歌をデモ・テープ用に録音することを強要した。(略)
「よくありませんね」と私は言った。「何というか……」私が口ごもっていると、ブライアンは突然売り込みを開始し、ビートルズをほめちぎった。「いつか」と彼は目をぎらぎらと輝かせて私に言った。「彼らはエルヴィス・プレスリーより大物になります」(略)
私は何かを捜し求めていたが、それは私だけのクリフ・リチャードだったのだ。私は常々、アビー・ロードの同僚である[クリフを手がけ成功している]ノリー・パラマーを羨ましく思っていた。(略)ビートルズは私の金のガチョウになってくれるだろうか? 疑わしい。にもかかわらず、決断しがたい何か、興味をそそる何か――少なくとも新しさ――があった。
 「どうだろうか」と私は言った。「彼らに会えば決断もできると思うんだが、彼らをロンドンに連れていらっしゃい。そうしたらスタジオに入れてテストしてみよう」
(略)
 彼らが演奏している間、私は考えていた。「誰が一番いい顔をしているか。誰が一番いい声をしているか」私が捜していたのは、新しいバディ・ホリーとクリケッツ、新しいクリフ・リチャードとシャドウズだったのだ。私は彼らをグループとして見ていなかった。ポール・マッカートニービートルズか、それともジョン・レノンビートルズか。このふたりのうちのどちらか、それだけは確かだった。ピート・ベストはジェイムス・ディーンのようなかげりのある、とびきりのハンサムだったが、一番外向的でなかった。それに彼のドラム……不安が残る。(略)
 やがて彼らは〈ラヴ・ミー・ドゥ〉を演奏した。(略)[ジョンが]あの一風変った独特の鼻にかかったほとんど平担なセカンド・ハーモニーを付けたのである。そのとき突然、私は思い当たった。私が聴いているのはグループなのだ。私は彼らをグループとして受け入れ、グループとして作り上げていくべきなのだ、と。この独特のハーモニー、ユニークな音のブレンド――これがセールス・ポイントだ。

英国におけるブルース、チャック・ベリーのブルース

 50年代を通してパーロフォンでの私の仕事のひとつに、このレーベルで発売可能のレコードを捜すために、あらゆる傾向のレコードを念入りに調べるというのがあった。それらのほとんどはアメリカのキング・レーベルから来た。(略)
 キングは小さなR&Bレーベルで(略)“黒人のための黒人による音楽のレコードを出すレーベル”と当時は説明された。
 ニナ・シモンのような偉大な人も、まだ無名だった頃にキングを通じて私のところに来た(略)
しかし、ビートルズについていえば、私が特に思い出すのは、ブルース・ヴォーカルやギターに忘れがたいハーモニカの伴奏をつけたサニー・テリーやブラウニー・マッギーのレコードだ。あの明るい日射しが降り注ぐ午後、初めてジョン・レノンが使い古しのブリキのハーモニカと呼んでいる“ハープ”を取り出して、嘆き悲しむような音色を吹いたとき、すぐに私の心に思い浮かんだのは、そうした人たちの粗削りで鋭い、ダウン・ホームなサウンドだった。
 私がビートルズの最初のレコードに〈ラヴ・ミー・ドゥ〉を選んだのは、たぶん、あのハーモニカの音のせいだ。彼らの自作曲であろうと、スタンダード・ナンバーのカヴァーであろうと、私をあれほど直撃した歌はほかになかった。私は、この新しい跳ねるようなアップ・ビートの歌にハーモニカを使うのは、とても独創的だと思った。確かにブリティッシュ・ポップ・ミュージックを演奏する白人少年たちが出す音としては、非常にユニークだった。
 1950年代のイギリスでは、ブルース・ミュージックのマーケットはとても小さかった。当時はまだ、黒人が占める人口の割合が低かったし、西インド生まれのレゲエやジャズを聴く傾向にあった。白人はジャズとポップを聴いていた。そういうわけで、ブルースヘの関心は低かったのだ。私自身も、パーロフォンで売るものを決める以外、あまり気に止めなかった。
(略)
 イギリスのレーベルはどこも、ブルースをジャズの一部として捉える傾向があった。それは、我が国にブルースを紹介したのがイギリスのジャズ・ミュージシャンたちだったからだ。パーロフォンは当時、ジャズ・レーベルだった。(略)
私が聴いていたキング・レコードのブルースは、もっと粗野だったが、それがアメリカの黒人ジャズなのだろうと思っていた。そして、その音楽には熱狂的な支待者がいるだろうと思いはしたものの、そこ止まりだった。
 だが、ビートルズはこの音楽をまったく違った目で見ていた。つまり、この音楽が何であれ、ジャズでない、と。実際、彼らはそれを、ジャズに対抗するものだと捉えていた。もちろん彼らがもっとも熱心に聴いていたのは、もっと身近にあったチャック・ベリーをはじめとするこの類いの音楽だった。そして彼らにとってはこれが、鋭く突き剌さるブルースだったのである。
 ベリーはあらゆる影響――カウボーイ・ミュージックの影響、カントリー&ウエスタンの影響、ゴスペル・ミュージック、それにヒルビリー・フォークの影響――を自分の音楽に取り込み、それらを混ぜ合わせて彼ならではのもの、非常にモダンなサウンドを作り上げた。つまり、彼は、都市のエレクトリック・ブルースを取り上げ、そこに彼の気の向くままに何でも混ぜ合わせ、スピードを上げ、そして、ギターもヴォーカルもドラムも何もかもどでかい音量に上げて特にバックビートを強調させたのだ。彼は新しいギターのスタイルも生み出した。(略)
 ビートルズが飛びついたのはこれだった。“純粋なブルース”と呼ばれる私が聴いていたものよりもむしろ、チャック・ベリーや彼の後に続いた人たちの形を変えたブルース・ミュージックだったのだ。ベリーと仲間たちが作り出すサウンドはとてもぶしつけで、当時のイギリスのポップ・シンガーが作り出していた気取ったサウンドとは大違いだった。それは腹に一撃を受けたような、そして、若さを感じさせる音楽で、ビートルズは腹に一撃を受けたがったのだ。

大音量をレコード盤に刻みたい

キング・レーベルのレコードやビートルズが聴かせてくれたレコードで私が驚いたのは、技術的な攻撃性だった。アメリカのスタジオはイギリスのスタジオよりはるかに大きな音量をレコード盤に詰めこむことができた。輸入されたばかりの45回転盤を手に取り、それをじっと見てみれば、わざわざプレーヤーにかけてみるまでもなく、その耳をつんざく大音量がわかった。それは、人々が言うように、とてもいかしていた(イン・ザ・グルーヴ)。
 「すごいね」と私は言ったものだった。「こんなふうにレコードをカットできないものかなあ?」もしこれほど大きな音量にレコードをカットしようとしたら、針が、いや恐らくダンセットのレコード・プレーヤーのアームごとレコード盤から跳ね上がって床に転がり落ちたことだろう。だが、アメリカのレコードだと針が跳ね上がらない。彼らは技術面でずっと我々の先を行っていたし、また、ただ叫ぶだけでなく、唸ったり吠えたりする声のレコードも作ることができた。彼らがどうやったのかわからなかったが、きちんと知りたかった。
 今日では大音量のトラックにするには、ただ単にフェイダーを押し上げればよいが、あの当時は本当に大変だった。あのようなタイプのポップ・レコードを大音量にすればするほど、よりいっそうインパクトが強そうだったし、もちろんより売れそうでもあった。ディスク・ジョッキーは唸り声を上げているレコードを1枚でもかければびっくりしただろうし、ラジオでそれを聴いた人もびっくりしてレコード店へ駆けこみ、それを買う。それがビジネスだ。
 溝から最大限の音量を出すということが私にとって一番の関心事になった。夜中に目が覚めて考えだすということもあった。あの素晴らしいサウンド……!(略)
4人からもうるさく言われた。彼らにはアメリカ輸入盤の違いが聴きとれたのだ。「ねえ、どうしてこんなふうにできないの、ジョージ?」と、4人は声を揃えて言った。「こんなふうにしたいよ!」
 んー、なぜ私にはできないのか? なぜならそれは、レコードをかけたとき、針がしっかりと溝にとどまり、なおかつドンドンと叩くような感じが出るようなやり方でディスクにベース・サウンドをカッティングしていくようなものだからだ。それはギター、ドラム、ベースの周波数をぴったり同じにすることであり、ドラムをマイクでうまく拾うことでもあった。ビートルズ以前にバス・ドラムにマイクを置いたグループは少なかった。彼らはドラム・セットから4フィートほど離れたところにマイクを置き、それで何とかなると期待した。ベース・ギターもしかりである(略)。ポールはすごくいいベース・サウンドがとれると言い張ったので、私は彼のベースにマイクを通常よりずっと近づけ、もっとよくべース音をマイクが拾うことを確かめる必要があることに気づいた。そうやって我々は要求されているものをたがいに教えあった。ビートルズと私がである。私たちはエキサイティングなサウンドに向かって一緒に手探りで進んでいった。
 私たちはうまくやったようだった。というのも後に、そのさらにずっと後になっても、レコーディング・アーティストが私のところにやってきて、今度は彼らが言ったのだ。「どうしてビートルズのトラックのようにできないんだろう?」彼らは〈ベイビー・ユア・ア・リッチ・マン〉のベース・ギターを聴いてこう言う。「ねえ、きみ、こいつはゴキゲンなベース・サウンドじゃないか。いったいぜんたいどうやってこんなベース・サウンドを出せたんだい? ぼくたちにもこんなすごいサウンドを作ってくれよ!」
 だがしかし、実際のところその底に流れていたのはブルースのうねるようなパワー、苦心して得た大音量だったのである。

ブギ・ウギ

 ポールの話では、彼の父親はピアノでブギ・ウギを弾くのが好きだったそうだ。(略)
ブギ・ピアノの曲の中で左手が弾くベース・ラインは、単にブンブンというリズミックな音というよりもむしろ強い対位法のメロディを生み出す。ポール自身のベース・ギター奏法は、もちろんもっともメロディアスだ。彼は誰も到達できなかった規準を設定した。時にはベース・ラインのメロディから歌を書くことさえある。〈ベイビー・ユア・ア・リッチ・マン〉で聴くことのできるポールのベース・ラインは、彼が何をできるかを示したよい例だ。

ビーチボーイズ

《ペット・サウンズ》におけるウィルスンの対位法を使った曲作りは、世の中と疎遠状態にあった頃のビートルズには理解できない、あるいは考えつかないものだったが、彼らを非常に熱狂させ、曲作りに奮いたたせた。彼らのハーモニーはより複雑になってきた。声がたがいに“応答”しはじめたのである。〈シーズ・リーヴィング・ホーム〉はふたつのパートの対位法を使った作品だ――ジョンとポールのふたりの声がたがいに混ざりあい、補いあって完全なものになる(そしてストリングスによって次々と強調される)。少なくとも《ペパー》が登場するまで、こういったことに関しては(略)ビーチ・ボーイズのほうが優れていた。(略)
〈ゴッド・オンリー・ノウズ〉は、ビートルズを本当にびっくりさせ、彼らの注意を引きつけた。だが結局のところ、彼らが注目したその相方のグループがずっと聴いてきたのがビートルズだったのである。
(略)《ラバー・ソウル》を聴いた。それは明らかにぼくにとっての挑戦だった。(略)ぼくはすぐに《ペット・サウンズ》の曲作りを始めた。――ブライアン・ウィルスン
《ペット・サウンズ》の後に《ペパー》が来た。《ペパー》を聴いてブライアン・ウィルスンは、そのとき取りかかっていたアルバムを破棄し、苦悩のあまり数か月間引きこもってしまった、と伝えられた。その間に彼はじっくりと考え直したのにちがいない。なぜなら次のビーチ・ボーイズの《スマイリー・スマイル》は、明らかにもう一枚の傑作だったからである。(略)
大西洋を挟んでの非常に面白い強烈なパンチの応酬、ソングライティングとレコーディングの天才たちによる対抗試合だった。

次回に続く。