つかこうへい正伝・その2 岸田戯曲賞受賞

前回の続き。

つかこうへい正伝 1968-1982

つかこうへい正伝 1968-1982

 

平田満

「[初めて観た暫の芝居は]色んな芝居のコラージュでね、『天井桟敷』と『黒テント』と『状況』と『早稲小』と合わせたみたいなやつ。まあそのときは、そんなことはわからなかったけど……(略)
 「たまたま通りかかったら、芝居はもう始まっていて、劇団のアトリエの前にあった小さなベンチに座ってるおじさんが『ダダで入れてあげるよ』っていうんで、途中で入って行った」
 その「おじさん」が座長の向島三四郎だったというのだ。そして芝居がハネたあと、再び声を掛けられ、舞台装置や照明機材を取り外す、いわゆる“バラし”を手伝わされた。
 「ダダで観せてもらったから、何かやらなきゃならないと思って……」
 そのまま平田は打ち上げにまで参加し、これが彼の人生を決定づけてしまうことになる。

鈴木忠志

 鈴木忠志と出会った72年の春以降、つかは早稲田小劇場の稽古に、足繁く通うようになる。(略)
 つかは、役者に指示を飛ばす鈴木の言葉をこまかくノートに取りながら、なんとテープレコーダーまで回していたというのだ。まるで巨匠先生に付き従い、その技を盗もうとする書生を思わせるそんな姿は、どうしても僕には想像出来ない。(略)
[『新劇』掲載予定の「鈴木忠志論」の取材のためもあったのだろうと著者]
そこに書かれた鈴木のもの言いや態度が、僕の知る稽古場でのつかこうへいと驚くほど重なるということだ。(略)
つまりつかはこの時期に、その演出スタイルにおいて、鈴木忠志の影響を強く受けたということだ。事実、川田龍一や齋藤公一によれば、仮面舞台でのつかは稽古場で声を荒らげ、役者を口汚くののしったりすることはほとんどなかったという。暫以降のつかしか知らない僕たちには、そんな姿はまるで想像がつかない。(略)
 鈴木とつかの関係は、つかが『熱海殺人事件』で岸田戯曲賞を受賞する頃まで続くが、この時期の鈴木に対するつかの言動は、その後、目上と認めた人間に向け、彼が一貫してとり続けたもののひとつのパターンとして、僕などにはかなりわかりやすい。
 川田龍一は、『戦争で死ねなかったお父さんのために』が『新劇』に掲載されたとき、つかに指示され、高級ブランデーを鈴木のもとに届けたという。
 さらに鈴木忠志によれば、岸田戯曲賞受賞の折には、つかは鈴木の妻を呼び出し、賞金の半分の五万円で、鈴木夫妻にそれぞれ腕時計とセーターを買ってくれたという。それもわざわざ三越まで行ったというところが、いかにもつからしい。
 そればかりか、つかは岸田戯曲賞受賞後、実家からかなりの額の金を送らせ、世話になった関係者に、しっかり付け届けをした。ある者には洋酒を、ある者にはカニ缶の詰め合わせを、ある者には帯留めを――。
 たしかにそういうことを平気でするひとだった。そこにはすべて、逆にそんなヤツだと思われたいという、つかの作為がある。扇田が看破したまさに「演技人間」の部分だ。そんなつかを、たぶん鈴木は面白がり、かわいがったのだろう。
 そしてつかの方は、早稲田小劇場に通い、鈴木の芝居作りを学ぶ中で、歌舞伎や狂言などの「演劇的教養」を吸収してゆく。それだけではなく、六方を踏みながらの発声や、仰向けで両足を上げ演歌を絶唱しながらの腹筋、腰を落とし金属製の脚立を背負っての白浪五人男の台詞など、その後、つかを経由して、僕らが暫で演技訓練として習ったことも多い。
(略)
 つまりこの頃、つかこうへいは、鈴木忠志という大きな存在を認めながらも、決してそのすべてを肯定することなく、それに臆することもなく、自らの演劇を確立し、世に打って出る道を、自分の中で、例によってしたたかに模索していたのである。

学生サークル劇団でだらけたノリだった「暫」

 平田や三浦洋一佐藤信『あたしのビートルズ』の稽古に励んでいたその夏、向島はつかに初めて会っていた。もちろん間に入ったのは山口省二である。(略)
すぐに意気投合したらしい。四月に暫の芝居を観ていることもあり、つかは向島が若い劇団員を何人も抱えていることと、何より稽古場を持っていることに興味を示した。そして「ちょっと稽古をみてもらいたい」という向島の誘いにすぐに乗ったのだ。(略)
『新劇』に戯曲が載った新進の劇作家が芝居を教えてくれる――そんな謳い文句に惹かれ、皆、集まって来たのだろう。
[その中のひとりが、井上加奈子](略)
[稽古後、喫茶店で『つか版大喜利』に]
 「例えば『トルコ風呂に行った教師が、そこで働く昔の教え子に出会ってしまった。何と言う?』とか、『大晦日、同棲する男女の耳に、ゴーンと除夜の鐘。そのとき、ひと言』とかね。

「役者たちがメシ食えるようにする」

[既に高い評価のある]自分より一世代上の「早稲田小劇場」と、まだほんの学生劇団にすぎない「暫」。一方では、鈴木忠志に認められ、座付作家としての地位を得たいと思い、もう一方で、無条件で従ってくれる俳優たちを使って、自分の自由な芝居作りもしたい。それを両天秤にかけながら、今後の道を探っているようなところがあったのではないだろうか。
(略)
 深尾が記憶しているつかの言葉の中で、もうひとつ、こんなものがある。
 「早稲小はすごいけど、役者たちはみんな、芝居でメシ食えないじゃないですか。僕にそういうの全部まかせてくれたら、確実に食ってけるようにしますけどね」(略)
 「役者たちがメシ食えるようにする」
 これは、この先もつかがずっと口にし続けた言葉だ。(略)実際つかは、初期には自分が知り合ったテレビ局のプロデューサーたちに頭を下げて回ったし、子飼いの役者たちに自らマネージメント事務所を見つけてきたりした。[映画『蒲田行進曲』では風間、平田をゴリ推し](略)
意地の悪い見方をさせてもらえば、つかには、役者の名がマスコミを通じて売れることで、自分の芝居に客が増えるという計算があったはずだ。
 そしてそのこと以上に、役者のためにそこまでやってやる自分が好きなのだ。周りからは、人情味にあふれ、男気のある人間だと思ってもらえ、つか自身も、ろくでもない役者たちが彼の才能のおかけで売れたという満足感に浸れる。
 「……こんな自分が愛おしくってよ」
 『蒲田行進曲』の中で、銀ちゃんが小夏に向けて発する台詞である。
 「おめえらが、ウケてんじゃねえ、俺がウケてんだ!」
 出番を終えた役者たちが楽屋に帰ってくるたびに、つかが繰り返した言葉だ。
(略)
次第に配役が固まって行く中、劇団員たちには、一軍、二軍のような色分けがされていった。最終的に一軍の局長役は三浦洋一が演じるようになり、二軍の局長が平田満だったという。
 ところがなんと本番当日、最後の通し稽古で両方の芝居を見たつかが三浦を降ろし、局長役を平田に替えるのだ。(略)この呆れるほどの冷酷さ、残酷さもまた、つからしい一面である(略)
「三浦なんてよ、本番前に主役降ろされたんだぜ。観に来てくれって、友だちいっぱい呼んでるのによ、あいつ、受付やってたんだから」
つかが実に嬉しそうに話すのを、僕はその後、何度も聞かされた。
 三浦洋一というのは、よきにつけ悪しきにつけ、自分に自信があり、プライドの高い人間だった。そしてそれを平気で表に出すようなところがあった。つかの前で驚くほど寡黙で、ほとんど感情を表すことのない平田とは対照的だった。そんな三浦が本番を控え、どこか高揚している(つかに言わせれば「その気になってる」)姿に、つかがカチンときた……おそらくそんなところではないか。

『郵便屋さんちょっと・完結篇』

 仮面舞台の齋藤公一は、「のちのつかさんの芝居からは、僕らの時代にあった『詩的』な部分がどんどん削ぎ落とされていった」と振り返るが、この『郵便屋さんちょっと』の最終章を比較したとき、それは明確に表れている。(略)
 おそらくつかはこの頃、“別役的なもの”から離れようとしただけではなく、『三田詩人』時代の「つか・こうへい」との決別も図ったのだろう。そしてここから、多くの若者たちの熱狂を生んだ「つか芝居」は出発したのだと、僕はそんなふうに思う。
 これ以降のつかの劇中の台詞からは、少なくとも『郵便屋さんちょっと』のタイプ印刷版には残っていた、どこかスタイリッシュで、気取った言い回しが消え、とことん日常的な言葉の重なりになっていく。その上で、もっとひねくれ、もっと人間の本質を暴くようなものになる。
(略)
なぜかそこに岩間多佳子の名前はない。(略)白石加代子の娘役で出演するため、早稲田小劇場の稽古に参加していたのである。(略)つかは「勉強のため」と説得し、彼女を送り出したという。このヨーロッパ行きにより、岩間は勤めていた会社を辞めねばならず、ここから芝居一本でやっていくことになる。
 「つかさんが真剣な顔して言うのよね。『おまえな、今は俺なんかより、鈴木忠志の方が演出家としてはずっと上だ。だからおまえのためにも俺を離れて向こうに行った方がいいと思う』って。ほら、つかさんってある瞬間、とんでもなく真面目になって、大きな勘違いなんだけど、自分でも頑なにそれを信じ切って、説得してくることってよくあるじゃない。そのときも、ほんとに私を思ってのことで、きっと天下の早稲小で白石さんの相手役を務めれば、岩間も有名になると思ったんじゃないかな……」(略)
 「でも結局、そんな思惑、大外れで、そうなるとつかさん、自分で言ったことなんてころっと忘れちゃうし……私はなんだか人身御供にされたような気持ちだった」(略)
 齋藤公一は、つかがこの頃しみじみと語った言葉を憶えている。
 「早稲田のやつは、慶應と違って腰が座ってるからなあ」
 あれだけ露骨に早稲田嫌いを公言する陰で、こんなことを言っていたのだ。自分について来ることがなかった仮面舞台の仲間たちへの失望から、三浦や平田ら、早稲田で出会った役者たちに対して、何か確実に託せるものを感じ始めていたということではないだろうか。

ヒモ状態のつか

[仕送りのなくなった]この頃のつかは、沼袋のマンションを出て、江古田で間借りし、なんと平田満と同居を始めている。(略)
つかが平田のことを、それだけ特別に思っていたということだろう。この先、自分の作品を世に送り出す上で、俳優として必要不可欠な存在であると、このときもう気づいていたに違いない。ただしそれだけではなく、当時のつかの経済的事情も絡んでいたはずだ。実際、その部屋の家賃は平田が払っているし、彼がアルバイトした中華料理屋の給料袋が、そのままつかの懐に移動する場面に、劇団員たちは居合わせている。(略)
つかの生活はかなりの部分、まだ学生だった暫の面々によって支えられていたのではないだろうか。(略)
[劇団員総出のぬいぐるみイベントバイト料もすべてつかが奪取。井上の広告モデルギャラ、岩間のビアガーデンバイト料も同様の目に]
(略)
 ただし、つかが岸田戯曲賞を受賞し、一定以上の収入が入り始めてからは、その関係は全く逆になる。どんなときであっても僕らが金を出すことは一切なくなった。つかは当然のごとく、必ず僕らの分まで支払うのだ。これもまた後年まで徹底していた。僕がつかのもとを離れ、かなりの年齢になってからも、つかの前で財布を出したことは一度もない。

中野幾夫

[文学座の『熱海殺人事件』の稽古で忙しい]つかの代理として中野幾夫がやってきた。中野はそれまでも事あるごとに現れ、つかの慶應時代の後輩だということは知っていた。僕の知る限り、唯一つかと対等の口をきく、何やら不思議な存在だったが、二人のやり取りはいつも、つか芝居そのものといった面白さだった。
 そんな中野が演出席につき、僕らに指示を出し始めたとき、その物言いや与えてくる台詞に、あまりにもつかと重なるものが多いことに僕は驚いた。相手を客観視した上での突き放すような“皮肉”という部分では、むしろつか以上の鋭さがあったかもしれない。このとき僕は、彼によってつかが芝居の世界に引き込まれたことなど知らなかったが、「つかさんの方が、どこかこの中野さんのマネをしているところもあるかもしれない」と思ったことを憶えている。
 実は僕は今でも、つかが「つかこうへい」というキャラクターを確立していくうえで、少なからずこの中野幾夫という人間から貰い受けた部分があったと思っている。中野は若くして演劇の世界から身を引いてしまったが、のちのつか演出による『熱海殺人事件』の中には、中野のアイデアによるものがいくつも残っていて

根岸とし江

[見学していた根岸に]つかさんが、『君も寒いでしょう。よかったら一緒に踊りなさい』って」
 根岸はまったく物怖じせず、元気よく舞台に上がり、踊りに参加したが、僕らの我流のインチキなダンスとの違いは一目でわかった。つかはすぐに、前に出て好きなように踊ることを指示し、僕らは山本リングの曲に合わせて根岸が次々とやってみせる派手なステップや、手脚や腰の振りに懸命について行った。それはかなりの時間、続いたと思う。
 この日、たしか根岸はそのダンスに参加しただけだった。ただ、その全身から溢れる不思議なエネルギーのようなものに、僕らが圧倒されたことは間違いない。(略)
 根岸が帰っていったあと、つかは半分呆れ、半分感心したようにつぶやいた。
 「なんだか、ハイセイコーみたいな女だったな……」
 二度目に根岸が登場したのは、自由劇場での公演が始まったその本番前だった。そしてつかに言われ、また同じように倹らを従えて準備運動代わりのダンスをこれでもかと踊ってみせた。そのとき根岸が着ていたのが、真っ赤なベルボトムジーンズに赤いサテンのシャツ、そして紺のベストだった。つかにとってもよほど印象的だったのだろう、これがそのまま『ストリッパー物語』の衣装となるのだが、それを観客たちが目にするのは、まだ一年半ほど先のことだ。

文学座熱海殺人事件

ずいぶんちゃんとした芝居だというのが、正直な感想だった。(略)
 石井強司によれば、それでも文学座にとっては厄介な戯曲だったという。
「ト書きはほとんどないし、展開のスピードや意外性にどこかついていけないところがあったと思う。(略)
芝居の途中で実際の照明や音楽を出演者が止めたりするなんてのが、それまでの新劇ではありえないし、ずいぶん刺激されたよね。何よりも、言葉が“生”なんだよ。今までの戯曲と違うのはもちろんだけど、当時のいわゆる『アングラ』とも違う、日常の言葉というのかな。(略)」
 僕などには、ずっとそばで観てきたつかの芝居(略)と比べて、『熱海殺人事件』はいかにも“新劇”的に思えたのに、その中にいる人たちにとっては、まったく別物だったらしい。
(略)
[当初は「静かでおとなしい人」だったが、上演が終わる頃には芝居の評判に自信を得たか、いつものつかになり]
劇団内につかシンパが増えていったのは想像するに容易い。
 「作品自体もそうだけど、つかこうへいというキャラクターと付き合うのはかなりインパクトがあったからね。あの時代、続々と新しい演劇が世に出てきて、若い劇団員の中には、自分たちがどこか新劇という枠の中でぬるま湯的な育ち方をしてるんじゃないか、これでいいのかという思いがあって、そこをつかさんにわしづかみにされたというか……」
(略)文学座との蜜月は、75年秋の『戦争〜』の再演まで続くのだが、それ以降はなぜかぷっつりと縁が切れてしまう。
 石井は、つかがアトリエではなく、本公演に芝居を書き下ろすことを望み、それが実現しなかったからではないかと言う。
 「まあ今なら、優秀な新人作家の芝居をちょっと本公演に回せないかってことになるんだけど、まだそんな時代じゃないからね」
 これを聞いて思い出したことがある。つかが、あの『やさしいゴドーの待ち方――その傾向と対策』で試した老女優と弟子の芝居を「杉村春子太地喜和子でやりたいんだよな」と語るのを、僕は一度ならず耳にしているのだ。
 たぶんつかはそういったものを書かせろと、文学座に要求したのではないか。

岸田戯曲賞受賞

 別役を除いては、すべての選考委員がつかの若さに触れ、老婆心ともいうべき憂慮をみせているのが面白い。それを書かずにはいられないほど、25歳での受賞は異例だったということだろう。選評の全文を読むと、『熱海殺人事件』を積極的に推しているのも別役実だけで、彼を除くほぼ全員が清水邦夫の『ぼくらが非情の大河をくだる時』をまず第一に選んでいる。『熱海』を推すにしても皆、同時受賞という意見で、石沢秀二矢代静一に至っては、それすらあまり乗り気ではなかったようだ。
 つかにとっては、前年の岸田戯曲賞の選考が何らかの事情で取りやめになったことが幸いしたのかもしれない。(略)
 これもまた、つかこうへいの持って生まれた“運”のようなものだろうか。(略)
[しかし]マスコミが積極的に取り上げたのは、本来なら次点として受賞を逃したかもしれないつかの方だった。(略)
まさにつかは“時の人”となった。
(略)
岸田賞の受賞パーテイーには、岩間をはじめ大津や島崎ら仮面舞台時代からの仲間、そして暫からは平田と井上だけが参加したという。ようするに彼らが、つかにとっての“身内”だったということだろう。今になって考えると、これがその先、つかの選択する方向を示しているのだが、ここではまだ当人も気づいていないはずだ。

次回に続く。