つかこうへい正伝 “何時か公平”説の真偽

つかこうへい正伝 1968-1982

つかこうへい正伝 1968-1982

 

40年の付き合いがある著者や番頭格の菅野重郎が闘病中のつかの安否が気になっても、怖くてこちらからは電話もできない。なぜなら、二十歳の頃から、連絡してくるのは一方的につかであり

僕はただ待っているだけだった。そして何か指示されれば無条件で受け入れてきた。それがどれだけ理不尽な要求であっても……。(略)
今回だって、どれほど見舞いに行きたい気持ちがあっても、「来い」と言われない限り、こちらからそれをすることは絶対になかった。それが僕とつかさんだった。
 しかしまさか菅野までが未だにそんな関係でいるとは……。彼は今、ある意味つかさんのビジネスパートナーであり、公私にわたっての相談役を務めているのではなかったのか。

傍若無人で小心で、残酷なくせに心優しく、とことん楽天的だと思ったら、死ぬほど悲観的になる……世の中の人間すべてをバカと呼び、稽古場で芝居が気に入らなければ、役者を一日罵倒し続け、取材が入れば、どの役者よりも目立とうとする……打ち上げで褒めた役者が笑顔でも見せようものなら、激高してテーブルのビール瓶を足で払い、カラオケでマイクを握れば、誰にも歌わせず、そのくせ他の客からクレームが来たとたん、シュンとして店を出て行く……。

父は鉄鋼業やホテル業を営む裕福な家庭の次男。

「つかこうへい」と名乗った後、すぐに「金原峰雄」という本名を示し、自分が在日韓国人であることを、初対面である[仮面舞台の]劇団員たち全員に告げたという。彼らと関わる第一歩を、まずそこから始めたのだ。これはとても興味深い。『三田詩人』の同人中では、一切それは語られてはいないし、翌年入団してくる齋藤ら劇団の二期生たちにも自分から伝えることはなかった。のちに早稲田の劇団「暫」に乗り込んだときも、あえて皆に告げたりはしなかった。
 たぶんそんな正面切っての告白など、つかの人生の中で後にも先にもこのときだけではないだろうか。いや、このときつかが行ったのは「告白」というよりむしろ、彼自身の「宣言」である。自分はこれから演劇に関わる、おまえたちと芝居をやって行く、という「決意表明」なのだ。そのために、いいか、なめるんじゃないぞ、俺は「ただの日本人」じゃないんだからなと、つか一流のはったりをかましたのだ。
(略)
 だが面白いことに、川田にせよ、重松にせよ、つかの出自を聞いてもただ「ふーん」と思っただけだったという。東京の山の手の高校出身の彼らには、もしかしたらつかが逆手に取ろうとしたかもしれない、いわゆるある種の「意識」のようなものはまるでなかったのだ。(略)つかの意気込みはまるで通じていなかったようだ。

大学時代のつかが恋していた堀田百合子談

 「逆説的な言葉だったり、皮肉だったり、どこか傍若無人を装っていることも含めて、すべてに懸命だったように思う。そうやってある種、演じていくうちに、それが身につき、のちのつかこうへいが作り上げられていったのではないかしら」(略)
 もうひとつ、堀田百合子がつかこうへいを評する中で、ズバリ言い当てていると唸らされたものがある。それは、つかが彼女との交流が途絶えた後も、後年まで、その父である堀田善衛のもとに自らの芝居の案内を送り続けたという話の中で、飛び出したものだ。
「ほら、彼って利にさといでしょう」
「利にさとい」……決して非難や揶揄する口調ではなく、むしろ愛すべき一面として、堀田はその言葉を使った。確かにその通りだ。つかこうへいの傍にいて、その強烈な上昇志向から生じる対外的な言動を目の当たりにして来た僕は、この言葉を聞いたとき、よくぞ見事ひと言で表現してくれたと、思わず堀田百合子の手を握りしめそうになった。
(略)
長いインタビューの最後に、僕はずっとためらっていた質問を、あえて口にした。つかこうへいとあなたは付き合っていたのか、と。
 堀田の答えは実に明快だった。
 「ボーイフレンドの一人かな」
 まったく厭味なく、サラリと言ってのける彼女に、つかが残したあの写真の中の女子大生が重なった。そして僕は二十一歳のつかの心情を思い、少し胸が痛くなった。(略)
 ひとつだけ、どうしても書いておきたい話がある。それは僕が川田親一から聞いたもので、堀田自身は全く知らなかったのだが……。
 たぶん時期的には少し後のことだろう。北陸に旅行に出た堀田を、つかが川田の運転する車で追ったというのだ。三日ほど行方を捜す中で、朝、金沢の駅で歯を磨いていると、遠くのホームに堀田が現れたのだという。しかし、つかはその姿をじっと見つめるだけだった。そしてひと言「帰ろう」と川田に告げ、そのまま車でまた東京を目指した――。
 この話を聞いたとき、僕はうれしくてしかたなかった。こんなつかさんがいたんだ……と。
 つかがその翌年書くことになる、初期の代表作『郵便屋さんちょっと』に登場するヒロインは「ゆりの看護婦さん」と呼ばれる少女だ。

『白と黒とだけの階段』パンフ内のつか理論

[普通に煙草を買ったらそこには何もコミュニケーションはない](略)
現代人にとって一番恐ろしいのは無視される事であり、無視された時点で、一万円札を持って一日に二、三度ハイライト一ケづつ買いに行くような行動に出る。そして煙草屋のおばさんの如何なる意味でも僕を意識した眼で見る、その顔を見て僕ははじめて、『存在』が体じゅう満ちてくる訳です。僕の演劇の一つのパターンはその奇妙な行動?に出た時の寂しさを裏がえしにすることです。
 つかがこれほど明確に自らの作劇術を分析してみせたのは、これ以降ないのではないだろうか。

齋藤公一談

「[『赤いベレー帽をあなたに』は]話が『遠い声 遠い部屋』によく似てるんだよね。というか、もろそのまま。その頃、僕がそれを読んでるのをつかさんが見て、顔色変えたからね。『なんでおまえそれ知ってるんだ』って。『いや、カポーティぐらい知ってますよ』って答えたら、とたん機嫌が悪くなって……何なんだろうって思ってたら、『赤ベレ』を読んで行くうちに、あれ?そっくりだぞ、と……つかさんバレるのが嫌だったんだろうね」(略)
「重松さんなんかから、さんざん聞かされてたから、どんな人なんだろうと思ったら、なんだか痩せこけて、チョコマカしてて……やたら“吹く”ヒトだなあって思った。とにかく『世に出ている文学なるものはすべて読破している』みたいな言い方だからね。その当時は結構“吹く”奴いたけど、レベルを超えてたなあ。『そのうち俺は、世界文学全集に載るから』なんてことを平然と言うような……こっちは笑っちゃいけないと思うし」

無頼

 この頃つかが、以前にも増して無頼を気取るようになったのは、どこか自分の先行きへの不安の裏返しだったのではないだろうか。大学は卒業しないと決めた。自らの才能への自信はある。だからといって何の将来も保証されてはいない。結局、よりどころは仲間たちだけだった。
 「俺たちは必ずプロになるからな」
 という言葉を、この時期、つかは何度も口にしたという。
 僕が早稲田の「暫」に入団したての頃、ちょうど慶應から『郵便屋さんちょっと』の稽古に参加していた齋藤に言われたことがある。
 「いいか長谷川、つかさん絶対、大学やめさせようとするから気をつけろ」
 どうやら道連れを作ることで、つかは自らの不安を解消しようとしたのではないか。結局早稲田では、僕を含めて、つかの許で芝居を続けた者はすべて中退したのだから、狙い通りになったというべきか。それに巻き込まれることのなかった齋藤などは、つかから事あるごとに「この裏切り者が」と謂れのない罵倒を受けたという。

『緋牡丹博徒』と『男はつらいよ

『緋牡丹博徒』シリーズの熱狂的なファンだった。(略)つかが幼い頃、父に連れられ繰り返し観たという、旅芝居にも通ずるものがあったのだろう。(略)[「任侠映画」の劇構造が]その後のつか作品において重要な要素のひとつとなっていく。(略)
 そしてこの頃もうひとつ、つかが絶対に欠かさなかった映画がある。『男はつらいよ』である。これもまた第一作公開が69年の夏。つかが演劇の世界に足を踏み入れた時期にちょうど重なる。僕の知る限り、その後も十数年、盆と正月の『寅さん』は、つかにとって重要なイベントだった。何度か一緒に劇場に足を運んだが、そのあと皆が集まると、つかは必ずいくつかの印象的なシーンを語り、いかに「寅」が面白いかを、自分で演じてみせたりしたものだ。(略)
 『男はつらいよ』の「車寅次郎」が、そのキャラクターと語り口において、つか作品に与えた影響は半端なものではない。しいて挙げれば『蒲田行進曲』の銀ちゃんなど、その台詞回しといい、思い込みの強さといい、寅さんそのものである。いや、影響を受けたという意味では、作品の登場人物以上に、何よりつかこうへい自身がそうなのだ。普段のつかの語り口調は、間違いなくどこか「寅」が染みついていた。

卒業写真

[堀田百合子が持参した慶應卒業アルバムに中退であるはずのつかの顔が]
 これに関しては、岩間が記憶していた。ある日、稽古場にやってきたつかが、
 「俺、今日、卒業写真撮って来たんだ」
 と口にしたというのだ。つかが卒業出来ないと知っていた岩間は、不思議に思ったという。
 つかは自分が慶應出身であることに、ある種の誇りのようなものを持っていた。もちろん正面切ってそんなことを語ったりはしない。しかし、自らに関してあれはどなんでも自虐的に笑い飛ばしたり、揶揄してみせたりするつかが、慶應の話をするときだけは、どこか自慢げな表情を素直に浮かべるのを、僕はずっと感じていた。
 それを考えると、この卒業写真の件もわかるような気がする。つかは自分が慶應の学生であったことを何らかの記録として残しておきたかったに違いない。さらに両親にそれを見せてやりたいという思いもあったのではないか。いや、もしかすると、このアルバムを見せることで、両親には卒業したと嘘をついたのかも……まあ、あの人ならなくはない。

売り込み

 雑誌『新劇』の1972年4月号には、つかの戯曲として初めて、『戦争で死ねなかったお父さんのために』が掲載されるが、それはこの戯曲をつかが早稲田小劇場の主宰者、鈴木忠志のところに持ち込み、作品を気に入った鈴木が『新劇』に紹介したというのが経緯らしい。(略)
 早稲田小劇場といえば、自分が劇作家として最も意識していた別役実のかつてのフランチャイズであり、主宰者である鈴木忠志の手によってその別役作品が数多く世に送り出された場所である。おまけに現在そこに、演出家の鈴木忠志はいても、作家はいない。となれば、つかが何を考えたか充分想像はつく。とにかく自ら売り込みをかけたわけである。(略)
舞台設定を指示するようなト書きがまったくなく、ただ台詞が並ぶだけのこの戯曲が、鈴木は演出家としてお気に召したらしい。(略)
つかが『郵便屋さんちょっと』ではなく、あえて『戦争で死ねなかったお父さんのために』の方を蔦森に託したのは、ト書きがないことに鈴木が惹かれるのを読んでいたというわけではないだろう。(略)70年安保闘争の残り香が強いその時代に、戦争なり国家なりを茶化して見せながら、その本質を晒していくという手法は、あるテーマ性をもった作品としての評価を、いわゆる演劇人筋からは受けやすい……そんなしたたかな計算があったのではないか。
 その狙い通りだったかどうか、『戦争〜』を読んだ鈴木は、すぐに「こいつに会いたい」と、一面識もない若い劇作家を呼ぶのである。現れたつかは実に礼儀正しく、低姿勢な青年に見えたという。このあたりが、先輩諸氏の懐に飛び込む術を心得えたつからしいところだ。
 そしてつかは真っ先に自分が韓国籍であることを告げる。ここにもまた、僕はどこか、つか流のある作為を感じてしまう。

“何時か公平”説の真偽

[成美子が唱え、扇田昭彦『日本の現代演劇』(1995)によって広まった「いつか公平」説]
 ああ、つかさんやったな……と僕は思う。この頃すでに、つかはそれまで対外的には一切触れることのなかった自分の国籍を公にし(略)極端な言い方をすれば、自らの国籍の問題を作家としての武器にし始めた時期に重なるのだ。それはかつて鈴木忠志に対して使ったものを、広く外に向けたと思えばいい。(略)
[扇田も]初めて出会い、真っ先に「僕は韓国籍なんです」と打ち明けられたという。扇田の朝日新聞の演劇記者という立場が、つかにあえてそれを言わせた……というのはかなり穿った見方だろうか。(略)
つかの中で、いつも何かしらの計算が働いていたような気がしてならない。そんなしたたかさを、つかはずっと持ち続けていたはずだ。
 ゆえに扇田から“何時か公平”説を伝えられたとき、つかはかなり面白がったのだと思う。「これは使える」と、瞬時に判断したのだろう。思ってもみなかったこじつけにどこか喜び、「そう受け取ってもらっても構わない」と言葉をわざと濁して、ニヤリとしたのではないか。
 いや、もちろんこれはあくまで僕の推測にすぎない。ただ、つかこうへいという人間が自分のペンネームを考えるときに、“何時か公平”などというベタついた暗喩を込めることなど、僕には想像できないのだ。(略)
[著者が73年島崎武典に訊ねた時の]答えは「慶應入学当時、よく通る場所にあった家の表札からいただいた」というものだった。(略)
 重松収はつかが仮面舞台に登場した折に、漢字では「塚光平」と書くのだと当人から教えられたというから、この話にはかなり信憑性がある。

次回に続く。