アメリカ西漸史 《明白なる運命》とその未来

◆庭園の機械◆

1812年米英戦争当時、敵のイギリスは「サタンの慰撫を受け、楽園からアメリカの第1世代を奪おうとしていた。平和で農業に基づく土地を、軍事と製造業に基づく国に変えようとしていた」と、トマス・ジェファーソンは嘆いた。戦争は機械を突き動かし、機械は戦争を突き動かした。ソローにとって、ウォールデン池の静寂を台なしにする蒸気機関車の汽笛は、隔絶された世界としての、囲われた空間の平和を乱す機械にほかならなかった。その流れに抗して、人々は後ずさりし、あるいは反逆した。森のなかに還り、近代からの逃亡を図り、西に行く決心を固め――そして遅かれ早かれ、喪失と諦めの感覚を引きずって、都市の産業が象徴するアメリカに戻ってくるのだった。(略)
 レオ・マルクスは1964年に出版された『庭園における機械』という影響力のある本によって、「田園的な理念における機械はアメリカ発見の時代からずっとアメリカの意味を定義づけてきた」と論じている。
(略)
 レオ・マルクスによれば、アメリカの田園はひとつのデザインであり、「理想が部分として取り込まれる、そうした思想や感情の大きな構造」である。それに抗う動力こそ機械であり、ソローやホイットマンにとっては蒸気機関、あるいは織物工場ということになるのかもしれない。それらはメルヴィルの『白鯨』で、怪物の骨組みを眺めるイシュメイルの脳裡に突如として形象が浮かび上がるようなもので「田園的な空想の満足に浸っていると、突然、衝撃的な介入者が現れたのに近い」。

◆シカゴ――大平原の幻影◆

 アメリカ第2の都市の名称は、ミシガン湖の南西の端あたりから出ている悪臭の蒸気に由来している。ゲイリーの製鉄工場のことではない。ピエール・デュ・サブレという黒人が、臭気漂う沼をインディアンの言葉で悪臭を意味する「シカゴ」と呼んだからだ。縦横無尽に広がる都市に、ゲイリーから近づいていくと、巨大な湖畔のスカイラインが幻影のように突如として出現する。19世紀半ばのこの街も、それは同じだった。熱情で衝き動かされるジェファーソンの言う強欲な都市の怪物の典型例として、突如として出現し、中西部におけるロサンジェルスの初期のように、大平原を飲み込んでいった。大いなる湖と悠然と広がる河川、西に向かうたなびき、そしてほどなくして生じる鉄道からなる合流点で繁栄したこの都市は、それまでのアメリカにはそぐわないほどの急成長を遂げ、西部や南西部でのちに短期間に勃興する都市の先ぶれとなった。はじめて西部の典型的な都市として出現したシカゴは、デンヴァーのみならず太平洋岸までのすべてを見渡す都市という、まったく新しい存在を示した。第2次産業革命のとてつもない力とあいまって、シカゴは地域における巨大産業の中心地となった。産業地帯はピッツバーグからクリーグランドやデトロイトを通ってセントルイスカンザスシティヘと広がり、これが中西部を変質させると共に、もうひとつのエデンやアルカディアに対する希望と夢を打ち砕いた。シカゴはフレデリックターナーの緩慢に進化していくアメーバのようなアメリカの発展の道に終止符を打った。つまりはフロンティアを終焉させ、革命と置き換えたのだった。
(略)
鉄道は、シカゴという地理上の「針の穴」を通って、トウモロコシ、小麦から豚や牛にまで及ぶ西部の産物のすべてを輸送し、それらを中西部、東部、ヨーロッパで売りさばいた。より大きな視点をとれば、シカゴという都市の誕生は、ともすると世界経済における意義としても解釈され得るだろう。(略)
穀物、食肉、西部からの鉄道貨物を捌き、また、商業会議所という優れた価格決定のメカニズムによって需給を管理することで、ロンドンとニューヨークという金融センターを支えたのだった。
 大穀物倉庫、商品取引所、トウモロコシを、肉、すなわち豚に変える優れた手段を管理する方法など――現代の太平洋岸諸都市のように、シカゴはイノヴェーションの中心でもあった。鉄道が穀物の単位をブッシェルから「貨車1両分」 へと変えた。最も儲かるのは、穀物の荷を素早く下ろし、貨物車を空にして西部に戻すやり方だった。シカゴでは多量の穀物を余らせ腐らせもしたが、その問題もバッファロー1832年に発明された蒸気駆動を導入した大穀物倉庫が解決してくれた。大規模に荷下ろしされた穀物は回転する落とし樋に投げ込まれ、貯蔵庫に蓄積された。コンベヤーベルトが自動的に穀物の川を動かし、計測し、運び、分類した。セントルイスでは、まだ人足を使って穀物を袋ごとにミシシッピ川のはしけから工場へと運んでいた時代である。大穀物倉庫には、1日何百万トンもの穀物が道ばれた。この巨大な倉庫は、12車両分、すなわち2万4000ブッシェルもの穀物を1時間でさばき切った。シカゴは、12ものこうした大穀物倉庫を擁していた。
(略)
 トウモロコシを市場に持ち込むにあたって、食肉としての豚にするのが最も効率的に利益があがる方法だと、改革の嗅覚に長けた者は気づき、それによってシカゴはまったく違う街へと変貌した。複数の畜役所が誕生し(湖畔の畜殺所のように)、何世代ものあいだ売買業者は豚の腹やトウモロコシで荒稼ぎする一方で、荒くれものの労働者たちが、泣き叫ぶ獣の喉をナイフでかき切った(ノーマン・メイラーは「家畜は頭上のトローリーで霊的な循環に乗せられていた。次の家畜、そのまた後ろの家畜と、畜殺は死の叫びを生じさせた」と書いている)。
(略)
シカゴにすべての豚を集めるアイデアが生まれ、「解体ライン」に豚を走らせ、流血の湿気に満ちた硬い金属音の響く、悪臭を放つ不快な空間としての畜役所が、アメリカの産業を次の世紀で突き動かす大量生産技術の先駆けとなった(後にヘンリー・フォードの組み立てラインが生まれた)。そこでは、解体された豚や牛を腐らせる前に市場に迅速に運ぶ問題も生じた。ガスタヴァス・J・スウィフトが冷凍車(柑橘類の輸送業者が発明した)を採用し、豚や牛をポークチョップやTボーンステーキとして、東部の市場に流通させた。南北戦争が終わる頃までには、シカゴは「豚の都」というタイトルをシンシナティから奪い取った。

ネイティヴ・アメリカン

 メキシコ以北に生存していたインディアンの7分の6が、1492年から1600年の間に死滅したという事実は
想像を絶するが、人口減少はヨーロッパ人の植民と同時に始まった。(略)
大半は天然痘、腸チフス、はしか、コレラ、横根、マラリア、黄熱病などの病気で死亡した。どれも新世界には存在していなかったもので、ネイティヴ・アメリカンの免疫システムは、病原菌の前になすすべもなく徐々に屈服していった。
(略)
疾病の感染源となったヨーロッパ人は、病原菌を意図せずばらまいたが、一方、意図的にインディアンに施す物資に塗り付けておくこともあった。たとえば毛布である。カルヴァン主義者で不屈の信仰心の持ち主であったコットン・マザーは、神の意志と考えたが、「天然痘をインディアンの間で流行させる」ことを確実にする含意もあったのである。人口減少は驚異的であり、死神が恐ろしい勢いで大陸を駆け抜けた。マサチューセッツ岸のインディアンの90%が1617年から1619年に天然痘で亡くなったのだ。ヒューロン・インディアンは1640年代に人口の半数から3分の2を感染症で失った。大平原地帯の複数のインディアンの部族のなかには、97%から98%も数を減じた部族もいた。クロウ族は70%、アラパホ族は43%減った。天然痘はマンダン族を滅ぼし、スー族のラコタの民をほぼ壊滅させた。1900年、インディアンの数はアメリカの領土全体のなかでも22万人から30万人くらいの数になっていたが、彼らは「人類史でも最大の人口動態上の大災害」の生き残りである。
 連邦議会と国土調査者たちは、フロンティアはただ空っぽなのではなく、所有地として誰も保持していないと考えた。マサチューセッツ湾植民地知事のジョン・ウィンスロップは、はるか前からインディアンは土地の所有者ではないと宣言していたが、その根拠はインディアンが土地に囲いをつけないことや開墾しないことにあった。それに対してインディアンの族長のマサソイトは、プリマスの植民者に問うた――「所有地と呼んでいるのはどういう意味であろうか。大地を所用することはできない。なぜなら土地は母であり、母の子、獣、鳥、魚、すべての人間を育ててくれる」。大地は「すべての者のためにある」。そうした土地がどうして1人の人物に帰属するのか。マサソイトの説得力ある議論は、のちにまもなく大陸を飲み込む所有をめぐる個人主義とは共鳴しなかった。

『日米必戦論』

 膨張主義者の論壇のなかで増えていた記事は、カリフォルニアの侵略を日本が極秘裏に進めているというものだった。ホーマー・リーという、奇妙な男が『無知という勇敢』(1909)[『日米必戦論』望月小太郎訳]のなかで、日米の衝突は避けられないと書いた。彼は経済競争が戦争につながるという複雑な論理を組み立てていた。有事になれば、日本海軍はワシントン州のチェヘイリス、サンフランシスコのゴート・アイランド、ロサンジェルスの3ヶ所に100万人の侵入者を送り込むだろうとしていた。リーの本は詳細な地図とナンセンスで埋めつくされ、よく売れた。アメリカの参謀本部は、彼の本に真面目に注目した。マッカーサー将軍の情報参謀のチャールズ・ウィロビーは、1941年に引用までしている。ハースト・プレス社は、日本の太平洋岸への脅威の噂を煽りたて、1915年9月の記事では、どのように戦争が展開するかといった計画もご丁寧に提供している。陸海共同戦におけるカリフォルニアの海岸上陸作戦の訓練だとして紹介された、日本兵士の写真も掲載された(のちにそれは日清戦争の修正写真であることが証明された)。ロサンジェルスの地元紙は、いったん戦争が始まったれば、日本の鉄道労働者がヘンリー・ハンティントンの「レッドカー」網を乗っ取り、日本軍の師団をロサンジェルス郡界隈で輸送するのだと書き立てた。こうした言説を一笑に付すアメリカ人は「ホワイト・ジャップ」と呼ばれた。『侵略』という名の小説は、ロサンジェルスっ子の究極の悪夢を想起させた。日本の飛行機がロサンジェルス焼夷弾で火の海にして、地上に降りてきた落下傘部隊は「悪魔のような形相でオレンジをぱくぱく食べる」といった描写だった。
 日米戦争の最も有名なシナリオは、ヘクター・バイウォーターによる1925年出版の『太平洋海権論』だった。日本によるアメリカ太平洋艦隊への攻撃で戦争が始まるというシナリオの本で、作者本人の言では、後々に評価を得たという(確かに彼は真珠湾攻撃こそ予測しなかったが、フィリピン、グアムヘの1941年の攻撃といういくつかの点を予見した)。彼によれば、日本を封じ込める唯一の方法は、フィリピンとミッドウェイとウェーク島に海軍基地を造ることだったが、それはまさに戦争とその後に対する予言めいた示唆でもあった。真珠湾攻撃の設計者、山本五十六長官は、ワシントンの若き海軍駐在武官だった時分、バイウォーターの本から詳細を学び、東京の日本政府にレポートを書いて報告していた。言うまでもなく、白人対黄色人種、アングロ=サクソン対ジャパニーズ・サムライという「人種戦争」になることが予測されたが、陸軍元帥の山縣有朋は、人種間の黙示録的な衝突の予測にあえて注目していた。
[Bywater(1925)On Yamagatas's racial views]

次回に続く。