『オンライン・バカ』 ウィキペディアの問題点

パラッとめくって、ウィキに関するあたりだけ読んだ。
原題は「The End of Absence: Reclaiming What We've Lost in a World of Constant」。惹句だとしても、「オンライン・バカ」というタイトルはどうなんだろう。

超越瞑想」をめぐる争い

[ジェームズ・ハイルマン](略)は、ウィキペディアの使命の正しさを信じている。週に40時間は小さな町の病院にある救急治療室で医者として働き、さらに40時間をウィキペディアのための無給の仕事に充て、余暇に医療関連のページを編集し、補強している。(略)およそ800人の活発な管理者の一人だ。仕事に深く関与しており、最近は、「妊娠」のページの冒頭につける画像は裸の女性にするか着衣の女性にするかという、五か月にわたる議論を差配した(100人の利用者が投票して、最終決定による画像がアップロードされた――着衣だった)。
アドミニストレーターは決して栄光の地位ではない。この称号が与えられると「アドミンシップ申請」の後、一週間ほど、博士論文の口述試験のような同業者による審査を経る(略)アドミニストレーターは真偽を判定することはできない。ただそこに向かってモップをかけることができるだけだ。
 しかし数年前、ハイルマンは「超越瞑想」(Transcendental Meditation、略称:TM)の真偽をめぐる争いに巻き込まれることになった。(略)ウィキペディア超越瞑想には健康について無視できない利益があると公式に述べていた。ハイルマンは文献を調べ、その主張を支持する証拠が見つからないので、当該ページから違反する文章を削除した。
 その部分はすぐさま再掲された。ハイルマンはTMは新興宗教と考えていたが、TMの人々は自分は科学者だと考えていた。「自分たちの」ウィキペディアのページで挙げられるようになった出典は、すべて超越瞑想の綱領と連動した研究だった。

強固な党派性の影響を受けるウィキペディア

ウィキペディア上での論争は、一般の投票で決着がつけられる。両陣営の一定回数の改訂合戦が行なわれた後に、単なる手順の一つとして、そのような投票が行なわれる。しかし、ハイルマンとTMの件は一般の編集者(つまり利用者)が投票に関心を抱くほどではなかった。TM側で作業する編集者チーム(わずか10人ほど)でも、実施されたどの文言についての投票にも勝つことができた。TM編集者はTimidGuy〔臆病者〕やLittleOlive〔オリーブちゃん〕のような、格別に弱者風に見せることをねらって選ばれた(とハイルマンは言う)ログインネームを使っていた。
 「連中は実際にはいつもめちゃくちゃ礼儀正しい奴らですよ」とハイルマンは私に言った。「不満をあらわにしたりしないで、いつも定められた通りにふるまってます。ページに自分の見方を、何年もかけて、穏やかに、静かに押しつけた、礼儀正しい、良心的な編集者です。総じて宗教はそうですが、辛抱強く、心理学もよく理解しています」。
 ハイルマンは自分自身の真実、伝統的な科学の方法に沿った真実のために戦い続け、結局、ウィキペディアの投票方式を回避する方法を探した。ウィキペディアの論争の大多数は一般投票で決着がつけられるが、さらに高い権威と呼べるグループが一つあった。「裁定委員会」だ。ジミー・ウェールズはこのサイトを設立してから二年後、編集者間のどうしようもなくなった論争に決着をつけるための委員会を考えた――そうして12名(今は15名)を選んだ。ハイルマンはこの超越瞑想の件を、この最後のよりどころとなる法廷に二度持ち込んだ。
 何にもならなかった。「裁定委員会は行儀作法の問題を判断するだけで、事実かどうかの問題は判断しないんです」と、ハイルマンは説明した。つまり、礼儀正しくふるまえば、その人による真実は、うるさい事実を振り回す人からとやかく言われても残ってよいということだ。(略)
[委員会の一人に確認すると]
1ダースをちょっと超える人数で、医学から宗教からさらにその向こうのすべての内容の問題について判断を求められる資格など、まずありません。扱えるのは、人がどうふるまっているかです」。奇妙なことに、裁定委員会に持ち込まれる事例はどんどん少なくなった。2006年には116件あったが、以後、その数は急降下している。2013年には、委員会が扱ったのはわずか12件だった。
 裁定委員会は明らかに善意のもので、その目的に役立っているが、ウィキペディアの知識生産は、いつもどこかの強固な党派性の影響を受ける(略)
「これはウィキペディアの弱点です」とハイルマンは言う。「果てしなく我慢すれば、どの知識が世界に提示されるかを一つの集団が変えることは実質的に可能です」。今日に至るまで、ハイルマンは超越瞑想のページの姿勢には不快感を抱いている。最後にハイルマンは「あちらは単純にこちらを根負けさせたのです。私は降参せざるをえなかった」。(略)
この巨大な三次資料が、知識生産で恥ずかしげもなく採用されるようになるとき、私たちが心配しなければならないのは、ひどいでっちあげでも、悪意のない間違いでもない。(略)
ジェームズ・ハイルマンのような一個人の努力よりも長生きする勢力の利害なのだ。コカコーラ社にはいくらでも時間がある。すべての教会もそうだ(略)
私たちの集団的な、組み込まれた偏りは、将来の世代に、人間の理解に対して、どんな捉えがたい、気づきにくい変更をもたらすだろう。