ビーチ・ボーイズ・中山康樹監修[KAWADE夢ムック]

鈴木慶一の「スマイル時代」狂気話

[幻の『スマイル』いいたい放談【鈴木慶一×松尾清憲×湯浅学】]

[“外まわりメンバーとブライアン”の軋轢という話の流れで]
そういうのって、バンドとしてはすごい摩擦が起きると思うよ。私事で申し訳ないけど、俺にも“ブライアン時代”っていうのがあるんだけどね(笑)。(略)ムーンライダーズのほかのメンバーはみんな外まわりしてるんだよ。松尾クンがやってたシネマを俺がプロデュースしてたときとか、みんな外まわりでいろんなミュージシャンのバック・バントをやっててね。(略)そのあいだって誰もいないじゃん。コマーシャルの仕事があってもシネマを使ったりして。22年ぐらい前だけどね。(略)スタジオに残ってる俺は解放されるんだけど、戻ってきたメンバーはすごい暗い顔してるんだよ。旅疲れしてるんだよね。あのとき、もしもみんなの留守中にスタジオ・ミュージシャンを集めて俺がオケだけ作っちゃっていたら、きっと『スマイル』みたいに発売中止になってたんだろうけどね。(略)その“ブライアン時代”のあと、82年に『マニラ・マニエラ』というアルバムを出したんだけど、あれが“スマイル時代”なんだよね(笑)。(略)完全に気が狂ってたからね。まずポスターを置いて、みんな朝はこのポスターに挨拶しなくちゃいけないとか言って。みんなすごいいやがってるんだよ。(略)そのときの俺ってすごいハイになっててさ。(略)料理用のアルミホイルをマイクに何メートルつけられるか、とか言ってね。それでヴォーカルを録るぞって(笑)。(略)あとは逆立ちして歌ってみたり。でも、みんなじょじょについてくるんだよね。最初はいやがってるんだけど面白いかもなんて思いはじめちゃって。それでまた旅に出ていく。(略)長いバンドにはそういうこともあるんですよ。(略)[そうなったきっかけは]忙しすぎかな。(略)[ツアー帰りのメンバーとスタジオ疲れの鈴木の]疲労疲労がぶつかると気が狂うんだよ。そういう突拍子もないことをやらないとレコーディングできない。(略)もちろんドラッグまではやってないけどね(笑)。

「ブライアンに絶大な影響を与えた鬼才」大嶽好徳
ウォール・オブ・サウンドの真実

 ウォール・オブ・サウンドとは、「当時としては珍しい多重録音と巧みなエコー処理により、まるで音の壁のような分厚く、迫力のあるサウンドのこと」という意味合いの解説が多くみられる。
 しかし、多重録音を確立したのは、ギタリストのレス・ポールである。彼が妻のメリー・フォードと組んだ多重録音による最初のヒット曲《ノラ》は1950年だ。同じ年に大ヒットしたパティーペイジの《テネシー・ワルツ》も多重録音による“ひとりデュオ”だった。さらに、レス・ポールは1953年に8トラック・レコーダーを完成させている。このことからも、60年代において「多重録音」はとくに珍しいものではなくなっていた、といっていいだろう。
 じつはウォール・オブ・サウンドは、多重録音のことではないのである。おそらく「音を重ねる」という言葉がいつの間にか、「多重録音」という言葉にすり替わってしまったのではないか。
 普通、ピアノ、ベース、ギターなどのリズム楽器は一台ずつしか用意しない。しかしスペクターは、それぞれ複数用意し、ユニゾンで弾かせることにより十分な音量と音圧を得ようとした。つまり、「ユニゾンで弾かせる」という意味で「音を重ねる」を用いた、と考えたほうが自然だ。
 さらに、基本的なバック・トラック、つまり、リズム・セクションとホーン・セクションはワン・トラックによるライヴ(一発録音)だったのである。
 また、ウォール・オブ・サウンドの特徴は深いエコーにある、と思っている人もいるようだ。エコー処理は、ウォール・オブ・サウンドにとって本質的なテクニックではない。たしかに深いエコーをかけることでウォール・オブ・サウンドふうに聞こえることもあるが、ヘタな歌もエコーをかけるとうまく聞こえるのと同様、似て非なるものといえるだろう。
 《ビー・マイ・ベイビー》を改めて聴いてみれば、意外にエコーが浅いことに気がつくはずだ。エンジニアのラリー・レヴィンは言っている。「ほとんどの人がエコーだと思っていたらしいが、そうではない」
 これらのことを踏まえてビーチ・ボーイズを聴くと、ブライアン・ウィルソンはスペクターのテクニックの本質的なところを理解し、自分のものとして完全に消化していたことがわかる。

  • ペット・サウンズ比較検証 

山下達郎、執念の解説「改訂」史

93年発 TOCP7767-69
(略)ようやく英文ブックレットの対訳がついたこと。さらに復活した達郎の解説は大幅な改訂が行われ(第三版だ!)、人名や用語・漢字かな文字の表記の手直しのほか、たとえば、《ドント・トーク》の曲解説で、「カーメン・マクレエがアルバムでこの曲を取り上げている」という記述を、「カーメン・マクレエが67年のアルバム『フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ』でこの曲を取り上げている」とするなど、より具体的で詳しい解説に改訂。また、《僕を信じて》のバイシクル・フォンの使用の有無について、88年版では、あくまで推測であるということで、「但しハーモニカの可能性もなきにしもあらず」という但し書きを入れてあるが、ここでは、その後の調査で確証が得られたのか、「但し書き」部分を取り払っている。うーん、もう頭が上がりません。
(略)
97年 TOCP3322
(略)消費税変更に伴うただの新装販。のはずなのだが、達郎の解説にはまたしても大幅な改訂が加えられている。これは『ペット・サウンズ・セッションズ』及びその関連資料が世に出たことによる改訂だ(でも、まだ日本版『セッシションズ』は出ていなかったような)。
 思い描いてきた『ペット・サウンズ』のレコーディング、ミックス・ダウンとは、どうやら異なるようだということがわかったためか、それまでの版で説明してきた「別々に録音されたいくつかの断片をつなぎ合わせたもの、あるいはミックス・ダウンを別々に行ってあとでつないだものと考えられる」という説を取り下げ、「実は細かいパーカッションの類までが一発録りで行っていることが判明し、ちょっとしたショックだった」と打ち明けている。
 そしてここに音楽の現場にいる達郎ならではのコメントが入る。「だが、それなら何故途中でミックスを変えているのか?たった4トラックしかない時代で、編曲をこれだけ作り込んでいて、普通なら曲中での音質の変化を嫌うものなのだが。まったくもって不思議である。」ここまで一つの作品「解説」の改訂を続ける達郎も、十分に不思議な人物なんですけど……。ま、とにかく第五版で、この第五版がメジャーな改訂版としては現在最新のものだ。またこのCDから萩原健太の解説も追加された。
 2002年5月現在、今でもこのCDが現行版となっている。リマスターはもちろん87年のままだ。トホホ。

オリジナル盤

 マトリックス・ナンバーとはアナログ盤レーベルの外側に刻まれた番号。多くの場合マスター番号をあらわすといわれている。このナンバーが小さい方が、若い。ようするに初版に近いわけだ。そして音質的にも鮮度が高い。なにごとも若さっていいな、ってこと。研究が進んだビートルズの中古LPでは、この番号が2から1になっただけで価格がウン万あがるものもあるという。
 値段があがるのはイヤだけど、ピートルズを筆頭にマトリックスの研究が進んだことである程度盤の音質が特定できるようになった。昔は音質の話をする場合、たとえば輸入盤は音がいいという人とそんなに良くないという人がいたとしても、片方がナンバーの若いオリジナル盤、片方が10回目くらいのプレスの盤ではまったく話がかみ合わなかったのである。
 で、ビートルズはともかく『ペット・サウンズ』はどこまで番号が若いのがあるのか。今回の探検で発見できたのは以下のもの。もちろんもっと若いのもあると思う。
ペンシルバニア産 F17/F21
・カリフォルニア産 G28/F27
(略)
さてこれでやっと音質の話だ。ビートルズの英国オリジナル盤の音の良さ、特にナマナマしさや活きのよさについてはよく言及されているけれど『ペット・サウンズ』はオリジナルだからといってそれほどすごいわけではない。カッティング・レベルが低く、パッと聴いた感じ、迫力はない。ただA面の何ヵ所か、それとB面の《ヒア・トウディ》の盛り上がりなど、音が密集する部分があって、その部分でのダイナミック・レンジはかなり広い。逆にいうとこの落差をつけたいためにわざと全体的なレベルを落としているのかもしれない。なにしろ明確で強烈なビートがなく、そのくせ中音域に音が密集しているアルバムなのだ。この後に出てくる再発盤や他の国の盤は下手にレベルをあげたため歪み気味になってしまっているものが多い。
 特に米のCapitol盤だから悪いというわけではない。たとえば『サマー・デイズ』のオリジナル盤(Capitol T2354:ペンシルバ二ア産F1/G2)は素晴らしい音、これぞオリジナルって感じのサウンドが楽しめる。通常うめ草的といわれるB面ラストのアカペラなどもあまりの鮮烈さ、生々しさに感動してしまう。やはり『ペット・サウンズ』が特殊なのだろうか。
 ただ、パッとしないといっても、鮮度が高く、モノならではの奥行きはあるし、彫りも深い。よくこのアルバムに関していわれる、浮遊感、クリーミーとかドリーミーという感じはこの米モノ盤を大音量で聞くとすごくよくわかる。最近のリマスター版のように解像度が高く、スネアなどをエンハンスして強調している音からは感じとれないサウンドが広がるのだ。
 また工場の違いによる2種類の盤はペンシルバニア産は中域がスッキリとしていてどちらかというと硬質な感じ。カリフォルニア産は中域に厚みがありあたたかくフワっとした感じ(って偏見かな)。マトリックス番号が若いものなら鮮度はどちらも高いので、この2つの差は好みの問題かもしれない。
 今回何枚かオリジナル盤を集めて試聴した結果、最も人気が高かったのが、写真34のプロモ盤。プロモといってもジャケットに“PROMO”という文字型のパンチ穴が開けてあるだけなのだが…。カリフォルニア産でマトリックス番号はG28/G30。やわらかく鮮度の高いサウンド。今回聴いた全LP/CDの中でももっとも音のまとまりがよかった。やはりビーチ・ボーイズのアルバムはカリフォルニア産がいいのだろうか。
 なお87年のリマスターでのみ修正された《少しの間》のカウントもれ(?)、タイトル曲のテープゆれはもちろんオリジナル盤から存在する。
(略)
 疑似ステの音は今聞くとやはりヘン。高音が右、低音が左によっていたり、ヴォーカルがおかしな位相で鳴っていたりする。ただこの米国疑似ステレオ盤はそれなりに鮮度は高い。
(略)
 リプライズに移籍後の72年の再発。新作『カール&ザ・パッションズ』のおまけでついていた。(略)
 たしかにモノラル・カッティングでCapitol盤より音圧は高いが、そのためか中域は歪み気味。音はもはや死んでいる。
(略)
●英国モノラル盤初版:CAPITOL/EMI T2548
 英国モノ盤は中古市場でも人気が高い。特に初版はコーティングが美しい折り返しジャケット、クラシカルなデザインのCapitolレーベル、重量感のある盤と、非常に高級感がある。でも音はイマイチ。中域に圧力があり、カッティング・レベルも高いが、米国オリジナル盤より鮮度は落ちていて、音はひしゃげている
(略)
[高音質?LPもかなり出たが、どれもあまりいい結果は出ていない、が]
 99年のトゥルー・ステレオ・ミックス盤。同年に発売された日本の2in1CDと同じロン・マクマスターによるリマスター。どちらかというと逆で、このマスターを使って日本でCD化したのかもしれない。
 これは素晴らしい音で、『セッションズ』に収録されたCDに比べてアナログ盤らしい暖かみ、広がりが増している。これだったら高音質といわれても納得できる。モノでキビしかった「駄目な僕」が歪み感もなくきちんと鳴る。楽器ひとつひとつが明確に聞こえてくる。(略)
 しかしこうしてステレオ・ミックスを聴くともとのモノ・ミックスの素晴らしさをあらためて再認識してしまう。こんな複雑で多くの音を一つのサウンド(最近は音響というのかしら?)にまとめてしまっているのだ。しかもステレオで聴いて、あれこんな音あったのか、と思ってモノを聞き直すとちゃんと入っているのである。

  • おまけ

ウィルソン家は挫折まみれ

[定説のように語られてる話も、案外そうじゃないんだねという話。批判的意味合いで言っているのではないので、そこんとこヨロシクw]
2011年に日本発売のこの本(ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化 - 本と奇妙な煙)を読むと、2002年発売の当書で定説のように語られてることが事実じゃないことがわかる。
たとえば、「アメリカン・ポップス史におけるビーチ・ボーイズの位置」(佐藤良明)では

ウィルソン家ってロス郊外に住む、いわば中小企業の社長さんですよ。同世代の感性豊かなイギリス人青年とちがって、黒人音楽への憧れみたいなものもない。

と書かれているけど、のちに没落するラヴ家はともかく、ウィルソン家は挫折いっぱいの家庭。また黒人音楽を全く知らないとも言えない。

ここ二年ほど、マリーは(略)南カリフォルニア・ガス会社で働いていた。(略)[真珠湾攻撃時]管理部門の平社員だった。(略)
[父]バディ、52歳。今や家族の誰にもやさしい言葉ひとつかけない、大酒飲みのもと便利屋に成り下がっていた彼は、重たい木製の工具箱をよっこいしょとかつぎ、毎日ように大声で“クソガキども”のせいで仕事に遅れるなどと悪態をつきながら家を出た。だが少なくともその半分はウソで、そのままヴァーノンの工業地帯のそばにある肉体労働者たちが集まる居酒屋へと姿を消すことが多かった。(略)エディスが食費用にとっておいたお金をバディが飲み代にくすねたとき、彼女は吐き捨てるように言った。「やっぱりウィルソン家の人間だね」。(略)
 哀しいかな、マリーもバディと同様、貧困やその他の障害ゆえに個人の尊厳に関して無頓着な環境で育った人間だった。威圧的に出なければ他人からは軽んじられ、大人同士がいったんケンカになれば死さえありうる、そんな環境だったのだ。(略)
そうこうしているうちに、いつのまにかマリーは自分自身で道を切り開くチャンスを遅らせてしまっていた。
(略)
 1945年初期、マリーはグッドイヤーの別の部署の主任補佐に昇進した。そこで彼が任された仕事は、窮屈で息苦しい組み立て工程の現場で見習い生に仕事を教えることだった。(略)
新入りに悪態をつきながら、マリーはぐるぐる回るタイヤの台座の電源を急いで切った。その時だった、棒が機械に巻きこまれ、見習いのあやふやな手元から離れたかと思うと、台座からはね飛ばされたそれはマリーの目にまるで銛のように突き刺さった。(略)
 五年勤続賞のピンを受け取ったその日、マリーはオードリーに他人のために働くのはもう耐えられないと告げ、エアリサーチ社を退職して自営でやっていくことを心に決めた。
 ウィルソン家は大きなパレードのいまだ傍観者だった。うまく立ち回って主流に乗ることなどマリーにはできなかったし、それを苦々しく思う父バディ・ウィルソンは、次第にすべてを次男のせいにするという、いつものパターンを繰り返すようになった。

一夜にして大金持ちになったミルトンは(略)地中海ふうの三階建ての大豪邸を建ててしまった。14部屋もあるラヴ家のヒルサイドハウスに、一列になっておっかなびっくり入場したウィルソン一家(略)
しかしそのときすでにラヴ・シート・メタルはトラブルを抱えていた。あまりの急成長が原因で、会社とクライアントの間で訴訟が絶えず、トントン拍子の成長が数年続いたあとは、業績も横ばい状態だったのだ。
(略)
ラヴ家は、ウィルソン家の間抜けな遺伝子を何ひとつ受け継いでいなかった。
(略)
[ブライアンはフォー・フレッシュメンを崇拝]
 一方マイクは(略)ドリフターズなど、黒人ヴォーカル・グループに目がなかった。
(略)
ラヴが経営する板金店は倒産し(略)ベッドルームが三つの薄汚い家に引っ越すことを余儀なくされた。(略)
サウスランドの成功者の手本だったラヴ家の地位は、一瞬のうちに泡と消えた。今や一族の期待の星はウィルソン家だった。 そしてそれは明らかに(略)ブライアンだった。

アル・ジャーディン

ビーチ・ボーイズストーリー」(中山康樹)では

グループの将来に不安を感じていたアル・ジャーディンは、ビーチ・ボーイズがキャピトルと契約を結ぶことを知らないまま、脱退を決意する。

と書かれてるけど、

 1962年3月8日、ハイト・モーガンがさらなるレコーディングのためにビーチ・ボーイズに招集をかけたとき、空いていたのはブライアン、カール、アルのみだった。(略)
 キャンディックスからビーチ・ボーイズのフル・レングスのアルバムを発売したいと考えていたモーガンは、それに見合う十分な素材を揃えるつもりでおり、〈サーフィン・サファリ〉も、現在90位台で上昇中の〈サーフィン〉に続くヒット・シングル間違いなしとの自信があった。しかしアル・ジャーディンに問題が起きた。彼はグループ結成の原動力であり功労者だったが、両親との長い話し合いの結果、自分にとって一番賢い次のステップとして、ロックンロールから足を洗って学問の道に進むと決めたのだ。彼はグループを脱退し、歯医者か医者になる目的を叶えるために、ミシガン州ビッグ・ラピッズにあるフェリス大学の医学校に進んだ。
 突然ジャーディンを失ったことは、ライブが間近に迫っていたビーチ・ボーイズにとって危機的状況だった。
(略)
 〈サーフィン〉は地元のチャートで最高位2位になり、ビルボードのホット100でも3月24日に75位を記録した。数量ベースで5万枚を見こんでいたキャンディックスだったが、製造コストの圧迫がこの弱小レーベルを重大な財政危機に追いこむ結果となり、結局ハイト・モーガンはキャンディックスの責務と配給をハーブ・ニューマンのエラ・レコードに委ねることにした。ところが、1962年3月29日に交わした契約文書のインクもまだほとんど乾いていないうちのこのモーガンの行動を、マリーは契約不履行と解釈し(略)
ハイト・モーガンに対してお前の役割は終わったと告げ、自分が一からやり直してみせると宣言した。マリーはキャピトル・レコードを相手に、もっと高額で大きな契約を取り交わせると信じていたのだった。
(略)
1962年7月16日、ビーチ・ボーイズはキャピトル・レコードと契約を交わした。