橋本治 失われた〜その2 子規、漱石

前回の続き。

正岡子規

 明治の第一世代として生まれても、少年正岡子規を育てたのは、江戸時代以来の武士の教養である漢学で、十代の半ばまで、子規は漢字で考え漢詩を作るのが好きな漢学少年になっている。それが政治少年に変わってしまうのが、十六歳になった明治十五年である。
 その年は、前年に議会開設が決定され、自由民権運動とその弾圧が高まる時期で、小学校を卒業した北村透谷がプー太郎状態から自由民権運動に接近して行くような時期
(略)
 少年正岡子規が松山の中学で熱心に演説をしたり、自由民権関係の校内雑誌の創刊を計画したりする政治活動をしていたことは事実で、政治家志望で上京して来たのも事実である。「他に選択肢がないから」という理由で「政治家志望」を口にしただけの人が熱心に政治活動をするというのも不思議だが、明治の少年正岡子規にとってはこれが不思議ではなかった。正岡子規の「へんな選択」は、その後も続くからである。
(略)
 上京の二年後、十九歳になった明治十八年の正岡子規(略)が哲学にはまった理由は、簡単に説明出来るはずである。真面目な漢学少年だった正岡子規は、「説得力のあるへんな考え方」を知らなかった。ところが東京に出て来た子規は、叔父から四方山話の末に「聞いたことのない公理」のような話を聞かされて興奮してしまうのである。
(略)
 十代の正岡子規のおもしろいところは、いろんなものと遭遇して感動してしまうことである。(略)
 十九歳の春に「誰がなんと言おうと哲学」とその志望を変えてしまった正岡子規は、その年の秋になると、今度は「文学」と出会って衝撃を受ける。[継続刊行中の坪内逍遥当世書生気質』](略)
哲学を目指しながらそれと対立するような詩歌小説にも引かれてしまう正岡子規は、「この相反する二つを結び付けるものはないか」と思って、詩歌書画の美術を哲学的に論ずる「審美学」というジャンルの存在を知り、「これだ!」と審美学の方に進んでしまうことになる。[またすぐ方向転換するが](略)
次に衝撃を受ける相手は、同年の幸田露伴である。
 正岡子規は、我が強いというか異様にプライドが高い。八歳年上の逍遥なら尊敬出来るが、それ以外の若い同年代の人間だと、なにをしても「知らぬものか」という態度でいる。(略)同年ながら既に帝国大学に進んで[文壇デビューして]いる尾崎紅葉の成功を、帝大の手前にいる正岡子規はどう見たのか?
《(略)其が非常の評判で世の中に持て囃されたけれ共、予は其を侮るのか妬むのか、敢て読まうとも思はずたゞ何事かあらんと済し込んで居た》
 早い話が嫉妬である。(略)
 「俺の方がもっと面白く書ける」は、単なる子規の自負心で、「二十三歳当時の文章は幼稚で人前に出せるようなものではなかった」と、その当時を振り返る子規は認めているが、妬みからではなく《本統に安心して仕舞ふた》と言うのはなぜだろう? 単純な話、それが正岡子規の「書きたい」と思うような小説ではなかったからだろう。だからその翌年になって幸田露伴の『風流仏』に出会うと、子規は全面的に降伏して、「『風流仏』のような小説を書きたい」と思うようになってしまう。[長編を書いて露伴に見せるも評価されず、小説を断念](略)
二十六歳の子規は、精神状態が不安定になり、友人に「この先はあまり露伴のことを言わないでくれ」とか、「僕は小説家になろうとは思わない、詩人になりたいんだ」なんてことを言っている。「自分は幸田露伴になれない」と思うことが、よほど悔しかったのだろう。正岡子規は、そうして俳人への道を進んで行く。

北村透谷が《粋》を嫌う理由

 江戸時代の遊戯性は萎縮して、かつてそこに「自由奔放」があったことはなかなか思い出されない。西洋文明を摂取する時代は大真面目になってしまって、「自由奔放」の入る余地がない。だから西鶴を取り入れて、尾崎紅葉は《一風異様な文体》と言いわけをして、にもかかわらずその文体は順当なものでもある。尾崎紅葉は、自由奔放であるには真面目で臆病すぎるから、終生自身の文章への検討を重ね、その前衛ではない「調和力」によって、一代の人気作家となった。そこが「文章がひねくれて難解」な幸田露伴とは違うところである。
(略)
 尾崎紅葉の『伽羅枕』と幸田露伴の『新葉末集』(特にその内の『辻浄瑠璃』)の二作は、北村透谷にとって、相当ショッキングな作品だったらしい。尾崎紅葉幸田露伴は、北村透谷にとって小説の新しい時代を拓く書き手だったはずだが、その二人が揃って、北村透谷にとっては後ろ向きであるような《我が文学をして再び元禄の昔に返らしむる》作品を発表してしまった。
(略)
数えで二十五歳の北村透谷は近代青年で、もう江戸時代以来の旧弊が我慢出来なくなっている。北村透谷にとって《粋》というものはそういう古い美意識で、そんな時代遅れのものを、今更自分と同世代である一歳年上の尾崎紅葉幸田露伴が拒絶せずに平気で書いているということが腹立たしいという一面はあるだろう。
(略)
 北村透谷は《粋》が嫌いなのだが、しかしその理由は、《粋》が「終わってしまった時代の古い美意識」だからではない。北村透谷が《粋》を嫌うのは、彼らしい筋の通った理由がある。《粋》という概念は恋愛に似ていて恋愛ではないし、恋愛にはなれない――そこが問題だ
(略)
 恋愛は人を愚かにして、クリアであってしかるべき人の視界を暗くする。そのネガディヴであるところが恋愛で、だからこそ「恋と哀は種一つ」と歌われる。一方の《粋》は、恋愛に溺れて惑う者を笑う――その一点で理性的なものである
(略)
[擬似恋愛を提供する遊郭で]本気の恋愛に陥ってしまった人間は、終始一貫、擬似恋愛を装いながら本気の恋愛を実践しなければならない。それが《粋》の一形態である。
(略)
『処女の純潔を論ず(略)』を書いた北村透谷は、当然のように、パッシヴで弱い女が好きだ。
(略)
《粋》は理性に属するものだから、これを最上の概念にしてしまうと、恋愛が成り立たなくなってしまう。
(略)
 しかし、江戸時代の町人が発明した《粋》という概念は、遊びのための根本ルールでもあって、北村透谷が目の敵にするようなものでもない。北村透谷は、尾崎紅葉幸田露伴の有望なる同世代作家が、揃って遊里を舞台にする見事な作品を書いてしまったことに腹を立てて、「《粋》などという概念が未だに生き残っていることが間違いのもとなのだ」として、『徳川氏時代の平民的理想』という論を書いて発表してしまうが、事実はそれほど面倒なことではないだろうと思う。
(略)
 北村透谷にとって最上の女性のあり方は、「気高き処女が恋の想いに身を悶えさせる」というものだから(略)『伽羅枕』のヒロインのあり方に文句を付ける。
(略)
見方を変えればこの作は、「男性原理の支配する江戸時代に、恋愛などというつまらないものに縛られず生き抜いた女の痛快譚」というものにもなる。現代の女達なら、『伽羅枕』の主人公佐太夫を「男に縛られない女」として評価してしまうだろう。恋のもやもやの中に溺れてしまう女を書くことだけが「文学」ではないはずだが、「恋愛至上主義の方に行ってしまった日本の男」の元祖でもある北村透谷は、あまりそういう気づき方をしない。その点では、実作者である尾崎紅葉の方がずっと上で、『伽羅枕』に関してはこう語っている。
 《彼作は唯あれだけのことをづべらづべらかいたに過ぎない。幾等か油のゝツてゐた時でしたから、文章も艶麗(はで)にかいてあるので、世間はうけましたがね、実際は明治の文壇に出すべきものではない。明治初年頃の旧作家がかくべきもので、新しい教育を受けた小説家の筆を煩はすべきものぢやァなからうと私(わしァ)考える》
(略)
 前近代から脱した「近代小説」がまだろくに存在していない明治二十年代の前半に、尾崎紅葉は「新しい時代に即応した作品」を書かなければならないと思っていて、自分の書く『伽羅枕』を「こんなものはちっとも新しくない」と思っている。しかし、そうは思っていても「私はこういうものだって書けちまうしね」だし、「今の時代に出さなくたっていいものだけど、面白いからいいじゃねェか」くらいのことは思っている。

 明治の近代になって、男達は近代人になろうとする。近代人になろうとして高等教育を受けた男達は、もうそれだけで自分のことを「近代人」だと思い込んでしまう。しかし、女にとって「近代」などというものは、さして意味がない。女達の生活スタイルは、前近代の江戸時代にもう完成しているから、女達にとって「近代」などというのはどうでもいいもので、それは新しい着物の模様のようなものでしかない。中身が前近代のままの女にとって、「近代」というものは「もっと自由になってもいい」と呼びかけるものだ。だから、近代の女は自由になって「女」というものをよく知らない「身も心も近代であろうとした真面目な若い男達」を翻弄する。
(略)
 男は近代になって「近代人」になり、なろうとして、その必然にピンと来ない「近代の皮をかぶった前近代の女」に翻弄されている――そのように見えて、実は、自分が身に着けてしまった近代という衣装の窮屈さに身悶えしている。

夏目漱石

自然主義」系の書き手が夏目漱石の書くものを「拵えもの」と非難するのは、夏目漱石の書くものが、自分達の書くもの、あるいは書かんとするものとどこかで重なると思えるからだ。『三四郎』以後の夏目漱石の書く「苦い小説」は、「自然主義」作家の内実に響いて、しかし彼等に「俺の人生はあんな風にうまく収まらない」と感じさせる。だから「拵えもの」と非難する。それを夏目漱石は右の文章できちんと一蹴しているのだが、しかし不思議なのは、どうして夏目漱石が「俺達とどこかで抵触している」と「自然主義」系の作家達をイライラさせるような小説を書いているのかということである。
 「拵えもの」なら、「自然主義」と抵触するようなしんどいものを書かずに、もっと気楽なものを書けばいいのにと思う。『三四郎』の二年前に完結した『我輩は猫である』や『坊っちゃん』を、夏目漱石は楽しみながら書いていた。それがいつの間にか変わったが、夏目漱石私小説作家ではない。だから、彼の「苦い小説」が彼自身とどう重なるのかはよく分からず、見る人にとっては「他人事の拵えもの」になる。
(略)
 夏目漱石は、近代にやって来られた日本も、日本にやって来た西洋の近代も好きではない。英文学者になってしまった夏目漱石は、西洋の近代の中に自分の望むものなどなにもないことを知る。(略)
初めは、その近代のありようをからかって、『吾輩は猫である』とか『坊っちゃん』を書いていた。
(略)
放っておけば、自分は生きていたくない。「己という病」を重々に承知していればこそ、夏目漱石は「則天去私」を言う。
(略)
自分は現実に生きて、現実に生きるということは「他人と共に生きる」ということだから、夏目漱石にとっての重要な命題は「他人はどう生きるか」になる。だからこそ彼は、自分とは関係のない――ある部分で自分とは重なるかもしれない「拵えもの」の他人を小説に書く。文章を書くこと自体が好きだった彼は、その結果つらい方向に進まざるをえなくなる。

あとがき

 読みにくい明治二十年代の文章を読んでいて思った。書き手はみんな若い。幸田露伴尾崎紅葉も、二十三歳でプロ作家としてデビューしている。その若さは時代の若さでもあろうかと思ったが、引いてふっと考えると「海のものとも山のものとも知れない二十三歳の若者を平気でデビューさせた出版社があった」ということになる。
(略)
 日本には江戸時代以来の出版文化があるにしろ、「その業界が“新しいものを出してみよう”と思うのはどういうことだろう?」と私は考えて、少し呆然とした。その「進む先」がなんであるかがまだロクに分からないにもかかわらず、小説に対して「それは必要だ」と思って期待をしてくれた人達が大勢いたのだ。その「期待」があったればこそ、多くの作家達が雑誌編集の側にも回った。創刊された『都の花』の編集担当者は言文一致体の書き手だった山田美妙で、森鴎外幸田露伴も別の雑誌で編集の仕事を受け持っている。雑誌の編集こそしなかったが、夏目漱石だって朝日新聞の文芸欄の担当をしていた。それはつまり、これから生まれる「新しい文学」に対して、みんなが期待をしていたということだと思う。近代日本文学の初めにあって、その後に失われてしまったものは「人の期待」だったのかと思うと、私は言葉を失ってしまう。