いつも心に立川談志 立川談四楼

前半が晩年の様子、後半が一門の近況報告。

いつも心に立川談志

いつも心に立川談志

晩年

 歯の噛み合わせにも苦労してましたね。それから鼻の具合にも。これは落語家の、いや喋る稼業の宿命かもしれません。独演会の翌日、私ですら舌が傷ついていたりするのです。治療後の歯に舌が妙な具合に当たるせいです。これまた若き日にはなかったことです。
 師匠は何軒もの歯科医にマメに通いましたね。(略)結局師匠の歯はインプラントに落ちついたと聞き、驚きました。怖がりの師匠がよくあの手術を受けたものだと思ったのです。(略)
鼻の不調も問題です。入門時、師匠はすでに鼻の通りをよくする薬を使ってましたね。確かコールタイジンと言ったと記憶してますが、鼻の奥に向けて噴霧するもので、ポリエチレン製の青く小さい容器に入ったものでした。
 売れに売れ、掛け持ちに次ぐ掛け持ちで、これだけ喋れば鼻をやられるのも無理はないと思ったものでした。
(略)
「オレにも糖尿があるんだってよ」
 師匠が六十代半ばだったでしょうか、そう言ったのは。これにも驚きました。今で言う健康オタク、検査マニアの師匠がと、いささかショックを受けたのです。(略)
 弟弟子の文都が重度の糖尿でした。同病相憐れむ、同志意識が芽生えるのでしょうか。師匠と文都とは寄ると触ると情報交換をしてましたね。その睦まじさは弟子として嫉妬を覚えるほどで、しかも熱がこもってました。とにかくわけのわからない数字が飛び交うのです。そう、確か病院や医師を紹介し合ってもいましたよね。

ウツと破門

老人性のウツがあると知ったのは、師匠の最晩年の頃でした。ですから師匠がそんな状態に陥っているとは夢にも思いませんでした。
 声が出にくくなり、落語家としてどんなにもどかしかったことでしょう。落語は間と緩急と言われます。間は何とかかるとしても、声の不調は緩急に影響し、強い表現やたたみかけができなくなります。その悔しさたるや同業として察するに余りあります。
 ここでちょっと伺いたいのですが、師匠の世代、いや高みを極めた人は、なぜよかった頃の自分に基準を置くのでしょうか。志ん朝師、圓楽師然りです。ダメだ、なぜあの芸ができないんだと、御両所の口からハッキリ聞きました。古くからの客はそんなこと、あ、そんなこととは失礼でしょうか。言い方を変えます。そこを求めてないのです。出て来て落語を披露してくれればそれでいいのです。そりゃ出来がいいに越したことはありませんが、ごめんよ、声の調子が悪いんだ、まあ想像力で補って聴いてくれ。そんなひと言があればもう大満足なのです。もっと言えば、あの志ん生ではありませんが、そこにいてくれさえすればいいのです。大袈裟でなくファンとはそういうものと思うのですが、師匠達はそれじゃ嫌なんですよね。こんなオレじゃなかったと不出来の不満を暮らせ、ストレスを溜めてしまうのです。
(略)
 ハッキリ覚醒すると声の出ない現実と向き合わざるを得ない。体調の悪化とともにそれはつらいことだ。食事は噛むのが面倒だし何かないか。そうだ、いつものビールと睡眠薬があるじゃないか。その手があった。アルコールとクスリでうつらうつらするのがいい。高度の不満や陰々滅々とする気分からも逃れられる。少なくともその状態はハッピーだ。
[引用者注:「高度の不満」=「高座の不満」の誤植じゃないかと思う]
(略)
 そんな中でしたね、私にクビだと言ったのは。(略)
 もの凄い怒声が留守電に吹き込まれていました。(略)
 ケンもほろろでしたね。そして怒りの理由もさっぱり分かりませんでした。そんな中で、師匠は一回だけ気遣ってくれましたね。根津のマンションに伺った時、家族と過ごす部屋から自分の部屋へ移動してくれたことです。家族の前でする話じゃない。そう思ったことは想像に難くありませんが、そんな判断力が残っていたことに驚きました。でも師匠はフラフラでした。手を貸そうとし、師匠もまた借りようとし、両者あわてて手を引っ込めましたね。クビを切った師匠と切られた弟子の立場に、両者同時に気づいたのでした。実に微妙な気まずい空間でしたね。
「オレが間違ってた。水に流せ」
 そんな連絡がくるまで、半月ほどあったでしょうか。のたうちまわると言うと大袈裟ですが、悩み苦しみました。四十年近く師事し、尽くした人から一方的に切られたのですから。
 「オレの名誉を目茶苦茶にした」とのことですが、何を指すのかさっぱり分かりませんし、とにかく出てけの一点張りですから、承服しがたく憤慨もしました。要らないんじゃしょうがない、一門を出て、まだ前座の弟子とともにやっていくか。私がそう覚悟を決めた頃でしたね、忘れろとの電話をくれたのは。膝から崩れ落ちるという表現がありますが、それを経験しました。
 その直後ぐらいでしたね、最初の大きな入院は。(略)最初の診断は栄養失調でした。そりゃそうもなるでしょう、何も食わずにビールとミンタローを流し込んだだけですから。
 酒と薬を抜き、食事を三度摂ったら、見る見る体力が回復したとか。ようやく弟子にも面会の許可が出て、それでも怖る怖る出かけました。その元気なことに驚きました。かすれてた声もよく出ていて、張りもありました。入院当初のことや食い物について語りに語り、それが二時間を超えると、私の安心は不安に変わりました。明らかな躁だったからです。
 私との間にあったことにまるで触れないのも不安を募らせました。もしやあのことをまったく覚えてないのではとの疑心が芽生えた一瞬です。どうです師匠、図星ではありませんか。確かに私は許されました。だけど師匠、私は何も悪いことはしてないんです。そのことに一切触れないなんて。私は見た目極めて元気な師匠を目に焼き付け、病院を後にしました。
 あのとき覚えた胸騒ぎのようなものは当たってしまいました。退院し、再び芸能活動に復帰したわけですが、いつ巣食ったか分からない師匠のがんは、徐々に大きくなっていたのですね。

別れ

 弟子が近況などを語り、それを師匠が聞き、ときどき筆談で応じる。そんな小一時間でした。そして師匠は来た時と同じように担がれて病院に戻ったわけですが、実は発熱していて、それを座薬で散らしての出席だったそうですね。ありがたいことです。そういう思いで来てくれたと知り、弟子もまたもう二度と会えないのだと覚悟しました。そうです、師匠は立川談志ではなく、松岡克由として家族の元へ帰ったのです。そうですよね。
 見舞えないことは分かっていました。最後の時を家族とゆっくり過ごすんだな。そういう認識でした。師匠は芸人仲間が入院してもまず見舞いませんでしたね。ヤツも芸人、痩せ衰えた姿を晒すのは嫌だろう。それが理由でした。前座の頃、見舞いを届けたのを覚えています。通夜葬儀も苦手でしたね。どうぞ見てやってくださいって遺族が言うだろ、あれが嫌なんだ、そんな姿を見られたいはずがないんだと、そうも言いましたね。
(略)
 一門の中には、今も死に目に会えなかったことを言う人がいます。なぜ知らせてくれなかったのだと。その気持ちは分かります。それぞれの弟子にそれぞれの談志がいるのですから。でも私は家族の選択を支持します。弟子が大挙して病室に詰め、ベッドを取り囲み、その瞬間、師匠に取り縋って号泣する。何ともおぞましい光景ではありませんか。それは家族のやることです。師匠、師匠もそれって嫌ですよね。

色川武大

 色川武大先生が亡くなった時、もうオレには相談相手がいなくなったと、師匠は本当に気落ちしましたね。分かります。行く末のことや芸論の相手としてこれほどふさわしい人はいませんでしたから。
(略)
 師匠と先生は、互いに兄さんと呼ぶ不思議な仲でしたね。二人が話を始めると、おいそれと中に入れない密度を感じました。いかなる場合でも先生は師匠を立てましたが、失礼を顧みず言えば、師匠が先生を頼っているように見えました。(略)
「何だろう、作家なのに芸人と同じ匂いがするんだよな。巨きな人だ」
師匠は親しみを込め、不思議そうに先生をそう評しました。