ビートルズのここを聴け―リヴァプールとニューオリンズ

リヴァプールニューオリンズをむすぶ、新・ビートルズ学」

ビートルズのここを聴け―リヴァプールとニューオリンズをむすぶ、新・ビートルズ学

ビートルズのここを聴け―リヴァプールとニューオリンズをむすぶ、新・ビートルズ学

 

ラテン・ミュージック

スペイン、ポルトガルという同系のヨーロッパ文化において、取り分けフラメンコ&ファド(略)
実ははるか東方オリエントのインド方面からペルシア〜アラビア〜エジプト〜北アフリカを経て、主にイスラム教/イスラム文化に紛れてイベリア半島へと至った、“ジプシー/ヒターノ”の音楽なのである……。(略)
アフリカ中央西部あたりのソレナリに「イスラム化」していたであろうバンツー族のモノのみならず、地中海側「800年イスラム化していたヨーロッパ/イベリア半島」を通じて、ジプシーやベルベル人(モロッコアルジェリアチュニジアあたりのマグレブ北アフリカ人)が発揮した、北海側ヨーロッパ人に勝る黒人/アフリカ性もまた、“1492年”以前からラテン・ミュージックには取り込まれていた!ということである。
(略)
ジャズは、アメリカにおいてヨーロッバ白人とアフリカ黒人が出会って……」という、短絡的なシナリオこそが納得し易かったりするのだろうが、前述のようにそのジャズ発祥地ニューオリンズの「元ヨーロッパ人」の中心は、元フランス系および元スペイン系という地中海寄りラテン系ヨーロッパ人であり、さらに今では「ジャズ的ニュー・ミュージック」がイキナリ突発的にアメリカ南部の港町ニューオリンズのみから萌芽したワケではなく、「ラテン・ミュージック・エリア」に分類されているカリブ海西インド諸島との交流の内に、そういったエリアにおいては「大都会」ではあるニューオリンズゆえ結果的に人、ミュージシャンも集まり、最も発展したのだろうという見方ができる……ゆえに広義に解釈すれば、確かに「ジャズは、ラテン・ミュージックの一種」でもあり、後述していく「新たなアメリカン・ミュージックの源となる、新たなニューオリンズ・ミュージック」もまた、そのリズム/グルーヴ面においてラテン・ミュージックからの影響が指摘できるのだ……。
 さて以上のような展開は、「ニューオリンズリヴァプールビートルズ」という、極めて重要なキィ・ポイントを語っていくための振りであり

Hey Baby

Hey Baby

  • ブルース・チャンネル
  • ポップ
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes

ジョンのハーモニカ

[ブルース・チャネル:62年ビルボード1位になった一発屋C&W系シンガー]
そのチャネルUKツアー中に少なくとも「2回」、レコード・デビュー前のビートルズは彼の前座を務めており、そして周知の通りその「ヘイ!ベイビー」を特徴付けたそのハーモニカ・プレイヤーから、ジョンは直接ハーモニカ演奏の指導を受けたのである。それに関するビートルズ側からの直接的コメントは目にしていないが、『回想するジョン・レノン(「レノン・リメンバーズ」に改題)』でジョンはその「ヘイ!ベイビー」に触れており、「ディラン以前」において『ハーモニカはイケる!』を確信し、「ラヴ・ミー・ドゥ」→「プリーズ・プリーズ・ミー」→「フロムーミー・トゥ・ユー」……となっていったのは間違いなさそうだ。

レノン・リメンバーズ

レノン・リメンバーズ

 

ラバー・ソウル』の由来はミックの唇

[『ビートルズ/レコーディング・セッション』『アンソロジー2』におけるマーク・ルウィソーンの発見]
[1965年6月14日のロンドンEMI第2スタジオ]
「イエスタディ」を弾き語りで聴かされていたジョージ・マーティンとしても(略)レコード化可能な3作のOKテイクとして「夢の人」「イエスタディ」に加えてあのアグレッシヴな「アイム・ダウン」まで見事に歌い演奏し切ってしまうポールには、改めて腰を抜かされたのではないだろうか
(略)
さらに我々をポールが驚かせる一件、「夢の人」を6回テイクし、その第6テイクをアルバム用完全ヴァージョンとした後「アイム・ダウン」に取り掛かり、そのファースト・テイク(『アンソロジー2』収録。計7回その時テイクし、第7テイクをレコード化)が終わったところで、例のルウィソーンが発見したポールの“Plastic soul man,plastic soul man”(略)
[ルウィソーンが指摘するように、それはミック・ジャガーを指すジョークであり、その他、R&Bをカヴァーしていたグループ]
加えてポール自身への自嘲も含むのだろうし、また(略)テレ……も。
(略)
本物のブラックR&Bミュージシャンによる、『白人のインチキ・ソウル・ミュージック』に対する陰口がプラスティック・ソウルであり、それ転じて『ラバー・ソウル』、「ゴム製ソウル」の由来は……「ストーンズのヴォーカリストの“唇”」を、写真やビデオでチェックすればすぐに判明するに違いない。ちなみに、「その唇のヴォーカリスト」が主演している、70年のイギリス映画『パフォーマンス 青春の罠』における彼の役名は、「ラバー・リップ」……
(略)
アニマルズ「朝日のあたる家」に加えて、まだ“シングル用に「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン(彼氏になりたい)」をアテがってやった後輩”ぐらいに、侮っていたかも知れないストーンズの、本国イギリスにおける大ヒット「リトル・レッド・ルースター」が相まり、「そういう状況への反骨精神の発露」となり、秘かにレノン/マッカートニーが溜飲を下げようという企てもあっての、「ディジー・ミス・リジー」&「バッド・ボーイ」、そして「アイム・ダウン」ではなかったのだろうか?! そう、“ブルージー”という面ではジャガー、バートンには適わないものの、“アグレッシブ”というブラック・ミュージック/R&B性においては、「その3曲」で十分に肩を並べているハズだ。しかも、「アイム・ダウン」はカヴァーではなく、「ポールのオリジナル」なのである
(略)
 ルウィソーンは単に、「ジョンが“TWIST AND SHOUT”を1テイクで録ったというのは驚異的ですが、“LONG TALL SALLY”も1テイクで?」と振っただけなのだが(略)
 《ポール:そうだよ。ジョンと僕は対等だった。(中略)僕は感傷的なバラードを作るというので有名になっていたし、ジョンは僕と口論すると、わざわざそれを強調するようなことを言った。でも本当は、彼にもちゃんとわかってたんじゃないかと思う。“KANSAS CITY”で僕が行き詰まったとき(略)「しっかりしろよ!君の力はそんなものじゃないはずだ。頑張れ!」と言ってくれたのは彼だったよ。僕らは2人とも同じように、ノイジーな曲を書けばバラードも書いたんだ。僕は“YESTERDAY”ゆえにバラード作者と呼ばれ、ジョンは“TWIST AND SHOUT”ゆえに絶叫型と呼ばれたが、彼がリンゴのために書いた“GOOD NIGHT”はこの上なくセンチメンタルなバラードだし、自分(ジョン)の母親を歌った“JULIA”だってそうだよ。“TWIST AND SHOUT”のノイジーさを上回るものはないにせよ、誰にでも二面性があるものさ。》
(略)
[ツアー、1ヶ月半程の完全オフを経た4ヶ月後]
再スタートの日10月12日はやはり「ジョンの日」として始まり、ファースト・セッションの「浮気娘」はともかくとして、セカンド・セッションはイキナリ、その直前の 「アメリカ・ツアー中に、バーズ/デイヴィッド・クロスビーからも使用を薦められた」という、“シタール”(略)をフィーチュアした「ノルウェイの森」だ……! あのポールの「6月14日」から4ヶ月、弟分ポールと「対等では在りたくない」であろう兄貴分ジョンからの、またキツい一発がポールのボディに適中した瞬間であったに違いあるまい。そして翌10月13日、「アイム・ダウン」よりははるかにレノン/マッカートニーらしいオリジナリティを誇り、結果的に『ラバー・ソウル』のオープニングを飾ることになる、ポール主体のプラスティック・ソウル系ナンバー「ドライヴ・マイ・カー」の一日である……そういうレノン/マッカートニー中心の攻めぎ合いが丸1ヶ月ぐらい連続していく内、あの名盤『ラバー・ソウル』が自ずから形を成していく……。

She Put the Hurt on Me

She Put the Hurt on Me

  • Prince La La
  • R&B/ソウル
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes

ドクター・ジョンが語る、ニューオリンズ・ビート

ニューオリンズの音楽は、アメリカの音楽にとてつもない影響をあたえてた。でもニューオリンズの外じゃ、誰もそのことを気にかけようとはしなかった。リズムひとつ見ても、ニューオリンズがどれだけの影響力を持ってたか分かるっていうのにね。アール・パーマーやチャールズ・ウィリアムズは、R&BやR&Rのリズムを一変させてしまったほどの人たちだった。それに、『ニューオリンズのビートは、モータウンにも影響』をあたえてたんだ。私に言わせれば、『モータウンのビートっていうのは、ジョン・ブドローやスモーキー・ジョー・ジョンソンのビートをコピー』したものさ。ベリー・ゴーディは、AFOの連中がバックをやったプリンス・ラ・ラの“シー・プット・ザ・ハート・オン・ミー”のブードローのビートを、『そのまま、シュープリームスのベイビー・ラヴに使って大ヒット』させたんだ。それだけじゃない。モータウンのやつらはウォーデル・ケーザックとスモーキー・ジョーをデトロイトに呼んで演奏させ、その『テープをスタジオ・ミュージシャンに聴かせて練習させた』んだよ。それに『ブッカー・T&ザ・MG'sのアル・ジャクソンもチャーリー・ウィリアムズのドラミングから大きな影響を受けてた』んだ。アルは、「私のドラムは、チャーリーのドラムを単純にしたものなんだ」って言ってたよ。『リヴォン・ヘルムも、リンゴ・スターも、チャールズから影響を受けた』と言ってた。それを考え合わせれば、『ニューオリンズのR&Bは、モータウンからサザン・ソウル、ロックまで、すべての基本になった』と言っていいはずさ。
(略)
あとに現れたニューオリンズのドラマーと言えば、まずジグ(ジョー・ジグ・モデリスト/ミーターズ)だろう。レッド・ツェッペリンから、Pファンク(略)まで、ジグのドラムに影響されたやつらは数知れないよ。ニューオリンズの音楽を、外の世界に知らしめたという点では、アラン(・トゥーサン)とミーターズの功績は計り知れないほど大きいね。

次回に続く。