失われた夜の歴史 ロジャー・イーカーチ

失われた夜の歴史

失われた夜の歴史

 

犯罪者と魔法

中世後期には、犯罪者たちの間で各種のまじないが盛んに使われていた。たとえば、ハナワラビを鍵穴に差し込むと、錠が開くと言われており、マンドレイクも同様だった。麻酔作用を持つこの植物は、絞首台の下の糞尿が溜まった場所に生えると考えられていた。デンマークの押し込み強盗たちは、現場に数枚の硬貨を残しておくと、探索から逃れられると思っていた。またデンマークだけでなくヨーロッパ各地に、同じ理由で糞便を残していく連中もいた。殺人者の中には、捕まらないためのまじないとして、犠牲者の遺体をテーブル代わりに食事をする者がいた。1574年に一人の男が、ある晩、粉屋を殺してその妻を強姦した後、夫の死体に載せた目玉焼きを相伴するよう強いた罪で処刑された。彼は、「おい粉屋、このご馳走は気に入ったかい」と愚弄したという。
 「盗人の蝋燭」と呼ばれる最も悪名高いまじないは、ヨーロッパのほとんどの地域で信じられ、実行されていた。その蝋燭は、人間の死体から切り取った指、もしくは脂肪から作られたので、処刑された犯罪者はよく手足を切り取られた。また、死産の赤ん坊から切り取られた指も珍重された。死産児は洗礼を受けていないので、魔術的な特性が強いと考えられていたからだ。蝋燭の力をさらに強めるために、「栄光の手」と呼ばれる、死んだ犯罪者の手が燭台として使われることもあった。妊婦を襲ってその子宮を切り裂き、胎児を引き出すという残虐きわまる行為も行われていたらしい。
(略)
イギリスの泥棒たちが使う代表的な呪文は、「眠れる者は、眠れるままに」で始まった。1586年に、ドイツのある無宿者は、住宅に押し入る前に、死んだ子供の手を燃やした。焼けずに残った指は、まだ起きている者の数を表すと信じていたからである。18世紀後半になっても、アイルランド南西部の村カースルライアンズで、四人の男が埋葬されたばかりの女性の遺体を掘り出し、「盗人の蝋燭」を作るための脂肪を切り取ったとして告発されている。

暴力

 産業革命前の社会では、暴力が日常生活のほとんどすべての領域に浸透していた。妻や子供や召使いは鞭打たれ、熊はいじめられ(訳注:つないだ熊に犬をけしかけて見物する「熊いじめ」という娯楽があった)、猫は魔女の手先として大量虐殺され、犬は泥棒と同じように吊るされた。剣士は決闘し、農民は殴り合い、魔女は焼かれた。喧嘩は即座に表面化した。ある旅人はイギリス人について、「彼らの怒りに言葉が追い付かず、殴り合うことでしか発散できないようだ」と評している。短気に痛飲が加われば、そしてとりわけ、日々の単調さや果てしない貧困から来る自暴自棄という油が注がれれば、ほんの些細なきっかけで発火しても不思議はなかった。近世を通じて、殺人事件の発生率は、今日のイギリスにおける殺人発生率の5倍から10倍だった。近年のアメリカ合衆国における殺人事件の発生率でさえ、16世紀のヨーロッパ各地における発生率に比べると著しく低い。どの社会階級も暴力を免れなかったとはいえ、下層階級はそうした残忍性の矢面に立つ格好になった。それも多くの場合、親類知己によるものだった。あるヴェネツィア総督は、「同じ餌を食べて生きている動物は、互いに憎み合うものだ」と冷笑している。
 夜は最もひどい流血の惨事の舞台となった。一日のどの時間にも暴力の爆発は起きたが、日没後は、身体的な危害を受ける恐れが著しく増した。それも、武装した強盗だけでなく、むしろ路上の喧嘩騒ぎや、個人的な理由での襲撃による場合が多かった。イタリアのことわざは、「夜に出歩く者は、殴られに行くようなものだ」と警告している。
(略)
ヴェネツィアを旅行中の若いイギリス人女性が、ある晩、叫び声を耳にした。次いで「悪態と、バシャンという水音、そしてゴボゴボという音」が聞こえた。誰かがゴンドラから大運河に死体を投げ捨てたのだった。「ここでは、こういう真夜中の暗殺が珍しくないんだ」と彼女の連れは説明した。またデンマークでは、明け方の光が、前夜から川や運河に浮かんでいた死体を照らし出した。同様に、スペインのタホ川やフランスのセーヌ川にも、膨れ上がった死体が点々と浮かんでいた。パリの役人は、死体を回収するために川に網を張っていた。パリのガラス職人ジャック=ルイ・メネトラの自伝によれば、ある泥棒の一団は、鰻の皮に鉛を詰めたもので犠牲者の頭を殴った後、「夜の間に川へ」投げ込んだという。モスクワでは、路上での殺人があまりに多いので、当局は毎朝、死体を司法省まで引きずって行き、家族が引き取りに来るのを待ったという。ロンドンでは、他の大都市に比べて殺人は少ないほうだったが、当時の代表的な文人サミュエル・ジョンソンは1739年に、「この町で夜遅くに出歩くなら、死を覚悟せよ。外で夕食を取る前に、遺言書に署名しておけ」と警告している。

放火は「弱者の武器」

 強盗も、自分たちの犯罪を隠蔽するために、放火という手段を使った。革命以前のフランスでは、泥棒たちの間でよく知られた策略だった。
(略)
 一方、別の目的で行われる放火もあった。西ヨーロッパ全域で、農民や宿無しの一団が、地主に対抗する手段として火事を起こす場合があった。放火は「弱者の武器」だった。金もかからず、誰でも容易にできるし、夜なら邪魔される恐れも少なかったからだ。こうした「付け火」は中世から始まり、16世紀にはあちこちで盛んに行われた。
(略)
[ドイツでは「ブントシューの一揆」につづき]1524年から26年にかけての「農民戦争」で、さらに多くの家が焼かれた。シュヴァルツヴァルトでは、農民たちの指導者が殺された仕返しに、大修道院が焼かれた。(略)
イギリスでは付け火はさほど蔓延していなかったが、18世紀のアイルランドでは、夜間の放火が暴徒化した農民たちのお決まりの手段だった。1733年に、イングランド西部で放火犯一味の噂が広まったが、実のところは、大篝火の禁止に不満を抱いたサセックス州ホーシャムの住民が、役人たちの家を焼いてやるという趣旨の札を町役場に貼り出したのだった。そこには、「お前たちの家が炎に包まれるのを遠巻きにして見物したら、この上ない気晴らしになるだろう」と書かれていた。アメリカの諸州では、不満を抱く奴隷たちの放火によるものとされる火災が何件か発生していた。たとえば、1720年代初めにボストンで、その20年後にはニューヨーク市で、そうした火災が発生している。

消灯令、「ナイトウォーカー法」

 城壁内における夜間の交通を抑制するために、市や町の当局は消灯令を布いた。門が閉まった後の時間帯だけ(夏季はもっと早い場合もあった)、鐘の音が各家庭に、火をきちんと覆って床に就くようにと警告した。(略)
[ウィリアム征服王]は1068年に、全土に午後8時の消灯令を布いた。彼の意図が火事の予防にあったにせよ、あるいは後世の評者が主張するように、彼の統治を脅かす真夜中の謀議を防ぐことにあったにせよ、中世ヨーロッパではこの種の規則が珍しくなかった。通りから歩行者が一掃されただけでなく、晩鐘が鳴った後もまだ明かりがついている家は、規則違反を咎められた。違反者は罰金を科されたが、特に戸外にいた者は、投獄される恐れがあった。
(略)
 消灯令の重要性を強調するために、北はコペンハーゲンから南はパルマに至る多くの都市で、頑丈な南京錠で留めた太い鎖によって道路が封鎖された。これは月のない晩には、馬に乗った人間にとっても徒歩の人間にとっても手強い障害物となった。ニュルンベルク市だけでも、400組以上の道路封鎖用の鎖を保持していた。
(略)
 こうした都市部における抑圧的な消灯令は中世末期まで続き、人々が屋内に閉じこもる時間の目安となっていたが、午後8時でなく9時か10時の場合が多かった。さらに注目すべきなのは、当局の関心が、次第に私的な行為より公的な行為に、つまり自宅で夜更けに火を燃やす市民ではなく、外をうろつく人間のほうに向けられるようになったことだ。1553年にイギリス中部の都市レスターで採択された「ナイトウォーカー法」は、夜間に「街中を徘徊」して「正常な休息を取ろうとしている善良な人々に多大な迷惑」をもたらす「種々の不穏で邪悪な傾向を持つ人物」を犯罪者と見なすと宣言している。

プライバシー

ジョンソン博士とジェイムズ・ボズウェルは、ヘブリディーズ諸島の旅行中、しばしば互いにラテン語で会話をした。「高地地方の小さな宿では、盗み聞きされるのを恐れたから」だった。どんな秘密も召使いたちの格好の餌食となった。召使いは、噂を撒き散らすことにかけては最も悪名高い連中だった。さらに悪いことに、近世の住居では、間を隔てる路地はごく狭く、おまけに壁は薄く、割れ目だらけで、窓は覆いもなく剥き出しだった。都市部でカーテンが家々の開口部を飾るようになったのは、18世紀になってからであり、その頃でも田舎ではめったに見られなかった。市街地では、昼間にカーテンをいつも閉めておくと怪しまれた。ニューイングランド植民地のある住民は、隣人の家にカーテンが引かれているのを見つけて、それを「娼婦カーテン」と呼んだ。
(略)
 男女を問わず、社会的地位が低い者ほど厳しい詮索の目を向けられた。単純労働者や召使い、浮浪者、奴隷などはすべて、社会的に上位の人々から疑いの目で見られた。(略)
浮浪者は「住む場所も煮炊きする場所も」持たず、絶えず移動しているため、世間の不安をいっそう掻き立てた。エリザベス朝の詩人ニコラス・ブレトンは、「彼は通例、藪の中で身ごもられ、納屋で産み落とされ、街道で生きて、溝の中で死ぬ」と書いている。地域によっては、ユダヤ人や売春婦、異端者といった社会の除け者には、衣服に恥辱の印をつけることが義務づけられていた。アウグスブルクでは、乞食は衣服に「シュタットピール」、つまり市の印をつけていた。そして売春婦の印は緑の筋、ユダヤ人は黄色の輪だった。1572年に制定されたイギリスの法律では、浮浪者は「激しく」鞭打たれ、焼けた鉄の棒で右耳の軟骨に穴を開けられることになっていた。それでなくても、ぼろぼろの衣服と虚弱な体によって見分けられた下層階級は、長年にわたる困窮と不安定な状態の結果、不正直な振る舞いを示すとされていた。

次回につづく。