失われた夜の歴史・その2 同衾・女子会

前回の続き。

失われた夜の歴史

失われた夜の歴史

 

女子会

 一部の地域では、数人の女性たちが、それぞれ紡ぎ車や糸巻き棒を持って近所の家に集まることがよくあった。フランスのいくつかの地方では、毎年冬になると、そのためにわざわざ「エクレーニュ」と呼ばれる間に合わせの小屋を建てた。16世紀にエティエンヌ・タブーロが書いているところによれば、中にはブルゴーニュ地方のように、テントに毛が生えた程度のものもあったらしい。娘たちが糸紡ぎをする小屋の暖房にも事欠く貧しいワイン農家では、支柱用の杭を使って屋外に囲いを作り、厩肥と土を「風が通らないようによく混ぜ合わせて」塗り固めた。それに対してシャンパーニュ地方のエクレーニュは、後の研究者によれば、「地面を堀り下げて作られた家」だったが、こちらも同じように畜糞で覆われた。女性たちの一人が提供したランプが中央に吊るされ、「女性たちはそれぞれ、糸巻き棒や錘を持ったり、裁縫道具を持った手をエプロンでくるんだりしてやって来て、すばやく中に入って席に着いた」
(略)
「女たちは親しげに語り合う。自分の赤ん坊のこと、親類や隣人のこと、亜麻のこと、糸紡ぎのこと、ガチョウ、家鴨、鶏、卵のこと、チーズ作りやバター作りのこと、そしておそらく、意地の悪い隣人のせいで牛の乳が薄くなった、あるいはまったく出なくなったことなどなど」。こうした噂話によって、人々や出来事に関する地元の認識が形作られた。そこで話すことによって、ごく普通の女性たちが、その地域社会において、男性たちの制度化された権威から独立した、広範囲に及ぶ影響力を行使したのである。「女は言葉、男は実行」というイタリアのことわざもある。(略)
女性同士の共感は、家父長制の家庭における重圧に対抗しうる心強い勢力となった。「一座の女性たちのさまざまな経験や解釈、説明、専門的意見」に接することによって、「長いこと心を重くしていた多くの石が取り除かれる」というわけだ。
(略)
家庭の幸せを招くまじないなどもあった。15世紀から伝わる『糸巻きの福音』に書かれた教えの中には、虐待する夫の気性を和らげるまじないも含まれていた。一方、仕返をしたい妻たちのためには、別の処方も書かれていた。「雄鶏が三度鳴く前に、女性が小用のために起きた時、夫をまたいで行くと、もし彼の手足のどれかが硬直していれば、妻が起き出した時と同じようにして元の場所に戻らない限り、その硬直が緩むことはない」。さらに、女性たちは悪霊を除ける方法や、もし女の子が欲しければ夜に(男の子なら朝に)受胎しやすくする方法も学んだ。
 こうした反逆の温床は、男たちを不安にさせた。16世紀に、イタリアのある道徳哲学者は、女性たちが「夜通し下劣な話に興じている」と罵っている。(略)
さらに悪いことに、糸紡ぎの寄り合いは、その性質上、魔女の集会ではないかという不安を掻き立てた。いくつかの村は、そんな「いかがわしい」集会を禁じようとしたが、無駄だった。それでも、集会に侵入した男たちは手厳しく非難され、暴力で撃退されることさえあった。1759年に、ある「シュピンシュトゥーベン」を訪れた職人コンラート・ヒューゲルは、糸巻き棒で武装した女性たちにこっぴどく殴られ、三週間も生死の境をさまよった。ヒューゲルの淫らな下心に対して処罰を主張するのは女性たちの「正当な権利」だった。女性たちは後になって、「あの男はもっと痛めつけてやるべきだった」と断言している。

バンドリング(結婚前のお試し)

 産業革命前の若者たちの間に出現したバンドリング、つまり婚約中の男女が着衣のまま同じベッドで寝るしきたりは、ある程度、こうした情熱――そしてそれを制御したいという大人の願望――に応えるものだった。大まかに言えば、二人は女性の親の家で、肉体関係を持つことなく、夜通し一緒にいることを許された。
(略)
バンドリングは、アメリカのニューイングランド地方で広く行われていたのは確かだが、そこで始まったわけではなかった。起源ははっきりしないが、ヨーロッパの農村地帯に古くからあった習慣のようである。イギリス諸島では、特にウェールズで多く見られ、18世紀の末になっても、ある住民によれば、「バンドリングは多くの地方の田舎町で盛んに行われて」いた。
(略)
地中海地方では、若い男性が恋人の家の外でセレナーデを歌って求愛するのが慣わしだった。バンドリングはスカンディナヴィア地方とオランダの一部でも盛んに行われ、オランダでは「おしゃべり」と呼ばれていた。夜間の求婚は、ドイツやスイスでも一般に認められた習慣だった。
(略)
実際のところ、その最大の利点は、それが親たちに娘への求婚を監視する手立てを与えたからだった。
(略)
 親たちの承認の下で行われる夜間の求婚では、服装や振る舞いが決められていた。こうした制限を支えていたのが、性交を許さないという至上命令だった。それを許せば、少なくとも、娘が結婚する資格を失うことになりかねなかったからだ。(略)
地方によっては、二人とも夜通し座っている決まりだったが、多くの場合、二人は娘のベッドで並んで横たわった。慎み深さの証として、男性は衣服を着たままか、胴着と靴だけ脱ぐことになっていた。ノルウェーのある若い女性は、求婚者の男性が住む村のしきたりをよく知らずに、相手が上着を脱ぎ捨てたのを見て抗議の声を上げた。
(略)
女性はシュミーズかペチコートを着けたままで、ウェールズではペチコートの裾を紐で縛ることもあった。それに対してスコットランドでは、貞操の象徴的な重要性を強調するために、娘の太ももを縛っていた。(略)
[植民地時代のアメリカでは]予防措置として一本の大きめのストッキングに娘の両足を入れさせたと言われている」。また、ニューイングランドでは、若い二人を隔てるために「バンドリング・ボード」が使われていたという。
 眠ることを選択するカップルはほとんどいなかった。ファインズ・モリソンによれば、オランダでは夜通し「二人で食べたり、飲んだり、話したりして過ごす」のが習慣だったという。最初の訪問ではないとしても、回を重ねるうちには、会話に加えて少々の肉体的接触も当然と見なされ、その中には熱烈な抱擁やキスも含まれていた。
(略)
スカンディナヴィア地方では、愛撫してもよい体の部分がはっきり決められていた。(略)[ロシアでは]19世紀に一部の地方では、求婚者が愛撫するのは女性の胸だけと限られていた(一方、ノヴゴロド地方のメルニクでは、娘の性器に触れることが許されていた)。荒っぽいやり方を愛情表現と見なす農民たちの間では、時として優しい愛撫が激しい殴打に変わることもあった。その上、互いに背中を平手打ちし合うことで、農村地帯では未来の配偶者を決める上で重要な要素となる、相手の力や健康状態を試すことができた。性的な戯れが手に負えなくなった場合でも、家族が近くに寝ていた。時には同じ室内で、親が付き添いとして寝ずの番をすることもあった。大方の親は、娘の徳義心を信じつつも、呼ばれたらすぐ介入できるように待機していた。当時のある人物は、「ほんの少しでも娘が泣き声を上げれば、相手の男は悲惨なものだ。家族全員が部屋になだれ込み、性急すぎる男を叩きのめすからだ」と語っている。
(略)
[それでも「荒れ狂う情欲を食い止められぬ」事態は避けられず]
18世紀のニューイングランドでは婚外子の比率が目に見えて上昇しており、バンドリングが広く行われるようになった時期とだいたい一致している。(略)
アメリカ独立後のニューイングランドの農村地帯では、花嫁の三分の一が結婚式の時点で妊娠していた。ヨーロッパの娘たちも同様だったと思われる。
(略)
この説にしたがえば、妊娠が結婚の理由になる場合よりは、結婚の予定が性交の前提条件となる場合が多かったということだ。アメリカを訪れたあるヨーロッパ人は、「バンデリッジ」の普及について書き留め、「田舎では、若い男が結婚を約束すれば」、その相手は「無条件で体を許すようだ」と記している。

同衾仲間

裕福な人間でも、家から離れると、時には他人とベッドを共にした。(略)
西洋社会において、礼節に関する新たな規範は眠りにまで広がっていた。「注意の行き届いた好ましい同衾者」は静かに横になり、他人のことに気を回さず、毛布を引っ張らないようにしなければならない。また、「話を交わした時」は、同衾者に「おやすみ」の「挨拶をする」のが礼儀というもの。
(略)
18世紀には、上流階級の間にベッドの共用を嫌う風潮が広まり、「ベッド・ファゴット(売春婦)」という軽蔑的な言葉が生まれていたらしい。産業革命前の上流階級には、私的プライバシーをよしとする気風が高まりつつあったが、暮らしの領域でこれほど明白に表れたものはほかにはなかった。宗教界の指導者たちも多くが、ベッドを共用する家族のモラルを非難する声を上げ始めた。
 それでも、中流階級ですら、同衾者は喜ぶべきものと考えていた。家族であれ、召使い仲間であれ、友人であれ、親しい人のそばで眠ることは、他人のぬくもりを享受したり、追加のベッドを購入する費用を節約したりする以上に利点があった。安心感を得ることもできたからだ。ひどく不吉な予感のする夜には、友人や親戚は、共通の恐怖を和らげるために、同じカバーの下で眠った。夜が近づくにつれ、「気が滅入るような恐怖」に取りつかれたボズウェルは、自分一人では「そこにいられない」ので、友人に無理矢理一緒に寝てもらった。別の夜には、亡霊についてじっくり話をした(「幽霊が地上へ戻ってくるかもしれないと思うと恐ろしかった」)後、またもや、仲間と一緒になりたがった。ペンシルヴェニアのアイザック・ヘラーは悪魔を恐れるあまり、「何度も、一人で寝ずに起き上がって」、働いていた農場の「黒人たちのベッドヘ行った」。
(略)
 暗闇で隣り合って横になるベッド仲間は、社会的道徳観を進んで破ることがわかっている。同じベッドに追いやられる男の召使いは、同性愛関係に陥る恐れがある。同じように、狭い家の中で、男女の召使いがベッドを同じくした結果、私生児が生まれることもしばしばあった。ベッドを共用することは、主人と召使いの関係を変えることすらあった。日中はいかに厳しく身分の違いが守られ、相手のことなど気にかけない関係にあろうと、ベッドに入る時間になれば、気が変わることはよくある。『イングランドの悪党』(1671年)では、いつも女中とベッドを共にしている女主人が、「すっかり打ち解けて」、女中に自分の「愛人」のことも含めて「何もかも」話している。もっと礼儀に欠けるのは、就寝時に女主人と女中が行う「おなら比べ」で、王政復古時代の詩『彼女は暗闇の中、ベッドヘ行った』に描かれている。こうした女主人と寝る女中たちは、その間、虐待する夫から女主人を保護していたことになる。つまり、トマス・ヨールデンの『闇の賛歌』が認めるように、「光は違いをはっきりさせるが、汝(闇)は平等をもたらす」。行儀作法の指南書の著者たちは、上位者に敬意を表するように、ベッド仲間に注意する必要があると説いている。「自分より上位の人物と寝る時はいつでも、どちらの側を相手が喜ぶかを考えて、そちらを空けておくように」。

ボルスター・レクチャー

 疲れた人間同士が寄り添うことで、伝統的な夫婦間の差別は薄れ、その結果、父権的な家庭内でも女性にとってはめったにない自立の瞬間が訪れる。性的な境界は引き直される。暗い中でベッドに横たわれば、妻は他の時間にはふさわしくない関心事についても意見を言うことができる。「女性は自分の技を使う時を知っている」と、ジョシュア・スウェットマンは1702年に言っている。「夜なら男性を思い通りに操ることができるのだから」。おだてたり、機転を利かせたり、あるいは性的関係を控えたり、夫の嘆きをよそにベッドで「冷たくする」など巧妙に策を講じる。
(略)
最も不愉快なのは「カーテン・レクチャー」ないし「ボルスター(長枕)・レクチャー」として広く知られる小言である。「それは女性の権利になる財産です」と『ウェルチ家の女相続人』(1795年)の中でミス・プリンリモンが主張している。コネティカットのジョン・エリオットが記した世に埋もれた日記には、数人の妻たちが振りかざす権力についての生き生きとした報告が含まれている。エリオットは妻について「こうしたカーテン・レクチャーはしょっちゅう、それも手厳しくて長い(ほとんど一晩おきに、夜の時間の大部分、時には毎晩、来る晩来る晩、夫婦二人とも目覚めていることになる)、しかも、これ以上ないほど汚くて下品な言葉で……最初の妻や二番目の妻、あるいは、最初の子どもや二番目の子どものことなど昔の話を思い出させるようなことを言う」と書いている。過去に数回結婚したことでエリオットを非難したり、就寝時に口説こうとするのをはねつけたり、時には別室で寝るように言いつけたりした。
(略)
毒を盛られる場合は別として、男たちがこれほど虐げられた妻に対して無防備になる時はない。ヨークの虐待された妻は粗野な連れ合いに「私だって望めば、寝ている間にあなたを殺せるのよ」と釘を刺している。ドイツでは、ハルバッハのマルガレータ・クラフトが二番目の夫と「結ばれた」直後に、ベッド上で斧をふるって夫を殺害し、その後、切断した遺骸を地下室に運んで肥料をかぶせるという事件があった。1737年には、コネティカットの夫は――おそらくいびきをかいている間に――妻から、大きく開けた口に、暖炉の燃えさしをシャベルで突っ込まれている。一方、ダービーでは、サミュエル・スミスなる腕のいい靴下職人が、暗い中、寝ている間に、女友達からペニスをナイフで襲われた。女友達は「彼と数年間付き合ってきて、何度も結婚の約束を交わしたのに、だまされてばかりだった」と主張した。スミスは「大量の血」を失い「苦痛が増してきて」、はじめて「何がいけなかったかを理解した」という。