「戦争の常態化」と「無条件の歓待―平和」のあいだで 松葉祥一

「戦争の常態化」と「無条件の歓待―平和」のあいだで 松葉祥一

「積極的平和主義」のような意図的な「ダブルスピーク的話法」によって(略)
[好戦的な国家元首が]密かに軍事的な含意を「平和」という語に注ぎ込み続けた結果、もはやこの語は膨れあがって原形をとどめなくなってしまったようだ。
 他方で、「戦争とは呼べないものの全面化」によって、戦争の概念もまた定義不能になっている。(略)
これまでの戦争概念、つまり国民国家とその主権を前提にした戦争概念が、9.11のような「いかなる国民国家にも宣戦を布告せず、特定できる相手のいない戦争」を前にしたとき、問い直されざるをえないからである。そして、デリダはこの戦争概念を問い直す作業のためにカール・シュミットを読み直さなければならないという実際に――その結果、シュミットに反して、「現在爆発している暴力が、戦争にもとづくものではない」ことを明らかにし、「テロとの戦争」という表現がレトリックの濫用であることを明らかにするとしても。
(略)
 デリダが『友愛のポリティクス』で明らかにするのは、政治的なものの究極のテロス(目的)が戦争であること、したがってわれわれが政治に依拠する限り、戦争を避けられないということである。
(略)
シュミットにおいて、戦争は次のように定義される。「戦争とは、組織された政治的統一体の間における武力による戦闘である」。また、内戦とはこの政治的統一体内部の戦闘である。
(略)
戦争は敵対の極限的実在化に過ぎない。戦争は凡庸な日常や正常なものである必要はなく、一つの理想のように、あるいは欲するに値するもののように感じられる必要もないが、敵の概念がその意味を保持する限り、実在的可能性として現前し続けねばならない」。つまりこの戦争は、たんなる抽象的な思考対象ではなく、きわめて具体的かつ現実的なものでなければならない。というのも、シュミットによれば、戦争がそうした「具体性」を欠いた場合、その概念は「亡霊的な抽象になる」からである。
 しかし、このように具体的かつ現実的なものであるとしても、戦争は、「例外状態」のはずである。だとすると、政治的なものは「例外」から定義されることになる。実際、シュミットは次のように述べている。「今日もなお、戦争という事態は「危急事態」なのである。(略)
友と敵の政治的布置の極限的帰結が顕わになるのは現実的戦闘においてのみだからだ。極限的可能性から出発して、人間たちの生は特殊政治的な緊張を獲得する」
(略)
[デリダは]
この例外性が、反対に、出来事の偶然性を基礎づける。ある出来事が出来事であり、そして決定的であるのは、例外的である場合のみである」。
 ここからデリダは、戦争は前提であって目的ではないとするシュミットに反して、戦争は政治的なものの「テロス(目的)」であると言う。
(略)
政治的テロスの、あれこれの政治的目的の、あれこれの政策の現前ではなく、政治的なもののテロスの現前なのだ。「最も極限的な」政治的手段として、一切の政治的表象を「基礎づける」戦争は、友/敵のこの差別の可能性を顕現する。そしてこの表象に意味があるのは、「有意義」であるのは、この差別が「実在的に現前している」限りにおいて、あるいは少なくとも現実的に可能である限りにおいてである」。
 したがって、どのような政治や社会的なつながりも、実在可能な戦争なしにはありえないことになる。「戦争には意味がある、そしてどんな政治も、政治的絆としてのどのような社会的絆も、戦争なしには、その実在可能性なしには意味がない」。言いかえるなら、いかなる政治も、政治的なつながりも、戦争の「実在的可能性」によって基礎づけられている。逆に言えば、「例外状態」としての戦争が政治的なものを規定している以上、政治的動物としてのわれわれはつねに友−敵を念頭に置き、「例外状態」としての戦争に向かっていることになる。
(略)
 ハイデガーもまた、西洋形而上学は人間中心主義に陥って存在するものを濫用するに至り、必然的に戦争が常態化すると主張している。
(略)
平和がいつ来るのかという問いに答えられないのは、いつまで戦争が続くかを見極められないからというわけではない。もはや存在しないものへの問いが問われているからである。じっさいすでに戦争は最後には平和に至り着くようなものではもはやないのだから。戦争は存在するものの濫用の一変種になったのであるが、この一変種は平和のときにも継続される。長期にわたる戦争を覚悟することは、濫用の時代における新たなものが承認される、すでに時代遅れになった形式にすぎない。この長期にわたる戦争はゆっくりと移行するのだが、それはかつてのあり方の平和へと至るのではなく、戦争にかかわるものがもはやまったくそのものとしては経験されず、平和にかかわるものが意味のないもの、内実のないものになるという状態へと至るのである。迷誤は存在のいかなる真理も知らない。しかしそのかわりに、迷誤はあらゆる領域におけるあらゆる計画の完璧にして徹底的に動員された秩序と確かさとを育て上げる。


 そして、このように人間が技術によって存在するものを徴発する現代世界は、世界大戦へと必然的にたどり着くという。「世界大戦とその無制限な権力行使とは、すでに〈存在から見放されていること〉の結果にすぎない」。
 この直後に、「指導者〔=総統〕」が呼び出される。存在するものが迷誤というあり方に移行した結果として、指導者が必然的に登場するというのである。ここでハイデガーは、指導者の登場を賞賛しているわけではない。(略)
それは避けがたいというのがハイデガーの診断である。迷誤のなかで空虚が広がり、「空虚が存在する者の唯一の秩序と確保を要求し、そこにおいて「指導」の必要性が、すなわち存在するものの全体を確保するための計画的な算定の必要性が要求される」からである。
(略)
 またこのように戦争が全面化した「非世界」においては、国家的なものと国際的なものの区別もなくなる。すなわち、存在者の動員と濫用の「業務」は、グローバル化し、歴史を一様化すると同時に人間を画一化する。