「モンクのいた風景」3 村上春樹編・訳

前回のつづき。
セロニアス・モンクのいた風景」その3

セロニアス・モンクのいた風景

セロニアス・モンクのいた風景

[モンクが表紙になった64年のタイム誌のスタッフ・ライター、バリー・ファレルによる記事]
Thelonious Monk Dancing

Thelonious Monk - Evidence - Japan (1963)

 それから彼はピアノの前からやおら立ち上がり、モンク風ダンスを始める。それはいつものことだ。彼の両脚は柔らかいすり足でそよそよと動き、その身体は小さなサークルを描いて回転する。帽子の縁が襟にくっつくくらい首は後ろに反らされ、両手は顎鬚をぐいぐいひねって、それを短剣の尖った鞘のような形にしてしまう。彼の両目は超然とした眠気のようなものに覆われ、その唇は瞑想的なOの字の形にすぼまっている。
(略)
 モンクにとっては毎日が新たな薬物摂取の幕開けである。アルコール、デキセドリン、睡眠薬、手に入るものなら何でも。それらの薬物が組み合わせ効果を発揮しながら血管を駆け巡る。
(略)
 あるときには彼はただ正気を失ったように見える。彼は往々にして周りとの接触をすっかり断絶してしまう。そういう時期には何も聞こえず、まったく口をきかないという状態が続く。何日も睡眠を取らず、部屋の中を思い詰めた顔でうろうろと歩き回る。友人たちを煩わせ、まるでジャズという音楽がうんざりする呪いであるかのようにピアノを弾く。一度ボストンで空港をうろうろ歩き回っているときに警察に保護され、グラフトン州立病院に連れて行かれ、一週間の観察処分を受けた。彼は問題なく即刻退院できたが(略)
そのおかげで自分の頭が正常であることが証明されたとモンクは言う。「私の頭がおかしいわけがない」と彼は断言する。「だって連中は私を病院に入れて、それからもう帰っていいと言ったんだから」
(略)
 彼はおとなしく、いいつけをよく聞く、礼儀正しい子供だった。しかしその名前はすぐに彼を目立たせることになった。「セロニアスという名前はまったく無視された」と彼は回想する。「そしてみんなは、私のことをモンキーと呼んだものだ。これには本当に腐ったね」。彼の父親は長い病気からの回復療養のために一人で南部に帰った。厳格な公務員であるモンクの母親が一人あとに残され、彼女は三人の子どもたちを厳しく躾けることに全力を傾けた。11歳になったとき、モンクは一時間75セントを払って、週に一度のピアノのレッスンを受け始めた。
(略)
14歳になる頃にはモンクは、不況時代の名物「レント・パーティー」[家賃を払えない人のために開かれる有料のパーティー]に加わり、もっぱらハーレムあたりでジャズを演奏していた。そして水曜日に行われるアポロ劇場の「アマチュア・ナイト」に毎週顔を見せるようになった。しかし彼はあまりにたびたび優勝したので、実質的にそのショーから閉め出されてしまった。彼は当時はストライド・ピアノを弾いていた。小節の一拍めと三拍めにシングル・ノートを叩き、二拍めと四拍めにコードを叩く。アート・テイタムやテディー・ウィルソンのロココ的妙技にはついていけないが、それでも彼は自分自身のスタイルを見出すことができた。彼の小ぶりな両手と、その尋常ではない和声感覚は、彼のスタイルをユニークなものにした。
 モンクは16歳でハイスクールに行くのをやめ、神懸かりの治癒師と共にツアーに出た。「我々が演奏し、彼女が治癒した」と彼は言う。しかし一年を経ずしてニューヨークに戻り、52丁目の「ケリーズ・ステーブル」でピアノを弾くようになった。当時のそのストリートは活況を呈していた。彼は流行を先取りするようにズート・スーツを着て、鬚をのばした。彼の雰囲気は(たまたまではあるが)その時代の空気に合っていた。ジャズ界はスイングの圧倒的なまでの重みの下で新しい動きを見せ始めていた。ビッグ・ダンス・バンドは黒人音楽の最も健康的な赤子を奪い取り、その両親が誰だかわからなくなるまで魂を飢えさせてしまったのだ。自らを敢然と守るべく、黒人ミュージシャンたちは新しい何かを――「やつらがまず演奏できそうにない音楽」とモンクがかつて表現したものを――展開していった。そして19歳のモンクは、「ミントンズ」のハウスバンドに加わることによって、その運動の核心へと足を踏み入れたのだ。
(略)
[チャーリー・パーカーディジー・ガレスピーケニー・クラークチャーリー・クリスチャン]らと協力し合うことで、モンクはバップの誕生の立役者となった。彼の演奏は他のミュージシャンたちにとって、刺激的なインスピレーションとなった。彼のタッチは、リズムをもつれ合わせながら前に進めていく。彼のハーモニーの独特な大胆さはホーン奏者たちを、これまでに耳にしたことのない飛翔へと駆り立てる。

オリン・キープニューズ「セロニアスが教えてくれたこと」

ルフレッド・ライオンは、私のような新米ジャーナリストならうまくたきつけて、手持ちのユニークな若いピアニストを売り出すための宣伝記事を書かせられるだろうと踏んでいた。(略)
 私の直面した最初の厄介な問題は、彼が何を言っているのかよく聞き取れないことだった。私は後日、モンクは相手によってしゃべり方をがらりと変えるという説を唱えるようになった。(略)
セロニアスのしゃべり方は(彼の音楽と同じように)大方の部分において、本人がその気になりさえすれば、理解しやすいものになるというのが、長年にわたる私の考えだ。最初に私たちが出会ったとき、彼にとっての私は、専属レコード会社が無理に押しつけてきた迷惑な若いライターに過ぎず、彼はこちらの質問に対してくぐもった聴き取りにくい一言だけを発しては、防御壁の奥に引っ込んでいた。
 それでも私はがんばり通し(略)どうにか記事をまとめることができた。そして後日モンクが私に語ったところによれば、それは全国的な刊行物に載った彼についての最初の記事となった。
(略)
[ナット・ヘントフからモンクと録音できるかもという電話。自分をマイルズやMJQより軽視するプレスティッジに対してモンクは強い不満を抱いていた。]
 グロウアーと私にとっては願ってもない話だった。私たちはこれからは新しいジャズを積極的に録音していこうと心を決めていた。セロニアスとの契約はその強力な出発点となるばかりではなく、それによって私たちがどれくらいジャズに本腰を入れてかかっているかを、世に知らしめることになる。モンクに会ったとき、彼が私をよく覚えていてくれたことを知ってとても嬉しかった。彼はまた、私が彼について書いた記事に好意を持ち、内容を克明に覚えてくれていた。モンクとしては失うべきものがほとんどなかったということもあり、まだよちよち歩きのリヴァーサイド・レコードに運命を託してみようという気になったのだろう。その会社が、自分に好意的な記事を言いてくれた男によって運営されていることも、決断に寄与していたに違いない。
(略)
 私にとっての最初の問題は(略)モンクのレコーディングが予定されていた初日に持ち上がった。(略)
モンクがほとんど定刻に現れたので、私はほっとした。オスカー・ペティフォードはその少し前に着いていた。しかし[約束をすっぽかさないことで定評のある]ケニー・クラークは姿を見せなかった。我々はやきもきしながら彼を待った。電話をあちこちかけまくった。しばらくしてセロニアスが、代役を呼んだらどうだろうと言い出した。皮肉なことに彼のあげた名前はフィリー・ジョー・ジョーンズだった。ジョーンズは後に、リヴァーサイドで誰より頻繁に仕事をするドラマーになるのだが、そのとき私はまだ彼の名前を耳にしたことがなかった。(略)
ようやく居所がわかったケニーは、モンクから教わった日にちは間違いなく翌日だったと断言した。
(略)
私と私のパートナーは、我々の獲得した新しいピアニストに関して世間に広く流布している「とてつもなくわかりにくいアーティスト」という思いこみをひっくり返すことが、自分たちにとっての最終的ゴールだと決めていた。だからまず最初に、ビバップ・ホーンと難解なオリジナル曲を抜きにしたレコードを作ることにした。エリントンの曲だけを集めてトリオで演奏するレコードを作らないかと、我々は提案した。
(略)
モンクは躊躇なくそれを承諾したが、実をいえばエリントンの音楽はろくに知らないんだと打ち明けた。(略)
我々がスタジオに顔を揃えたとき、彼はピアノの前に座って、たどたどしくメロディーを弾き始めた。まるで生まれて初めてその楽譜を目にしたみたいに。彼が実際にまったくの白紙状態でその場に及んだのかどうか、私には永遠に知るべくもない。しかしそこに私を試すという意図が少なくとも部分的に含まれていたことにまず疑いの余地はない。(略)
エリントンが録音したオリジナルの「黒と褐色の幻想」のコーダに、ショパンの「葬送行進曲」からの引用があることを、その演奏ぶりから察するに、モンクは間違いなく知っていた。そしてまた彼の「学習」は異様なくらい速かった。さっきまでたどたどしく音符を探して弾いていたはずなのに、あっという間に――とはいえ私には永遠のように感じられたはずだが――もう複雑精緻なインプロヴィゼーションをやってのけていた)。
(略)
きわめて深い真実を、一見してさりげない、あるいは時として滑稽な独特のコメントを通して、人に伝えることができるという希有な能力を、彼が持ちあわせていることに)。そのときはクラーク・テリーが「ベムシャ・スイング」を作曲者と共に短くリハーサルしていた。「私が今、後ろで弾いている音にあまり注意を払わなくていい」とセロニアスは彼に言った。「なぜなら実際にレコーディングするとき、私はたぶんぜんぜん違う演奏をしていると思うし、私はたぶん君を混乱させるだけだろう……」。モンクの音楽に対する流動的で、常に変化に富み、即興的な生来の姿勢を、これほどすっきり要約する表現は他にあるまい。
(略)
[最初の]ソロ・アルバムを吹き込んでいるときに、我々は最初の正面対決を経験し、そこからもまた私は大きな教訓を得た。アーティストのために仕事をするというのは、ドアマットのように踏まれっぱなしになるのと同義ではないということだ。このアルバムのために予定していた最初のセッションはお流れになった。今そちらに向かっているという一連の電話がかかってきて、そのあとでようやく彼が姿を見せたとき、ゆうに一時間は遅刻しており、また準備もできていなかった。私はきっぱりとした通告を与えるために、そこで彼を待っていた。私は言った。こちらにもいちおう自尊心があり、ここまでなら何とか許せるという一線がある。おそらく半時間の遅刻までは我慢するが、それ以上遅くなるようなら、わざわざスタジオに顔を見せるには及ばない。私はもう引き上げているから。そして我々は新たな録音日を決めた。私はそこに十五分ほど前に姿を見せたが、セロニアスは既に私を待っていた。彼はいつもの大きな笑みをゆったりと浮かべ、静かな声で言った。「やあ、遅いじゃないか」と。

[「ストーリーヴィル」「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」を手がけたジョージ・ウィーンの自伝。モンクが登場する章から抜粋。]

1961年は私にとってまさに苦難の年だった。1960年のニューポートにおける騒動[観客が騒ぎを起こして州兵が出動し、フェスティヴァルは中止の危機に追い込まれた]と、ボストンで経営していた「ストーリーヴィル」の閉店が同時に起こり、私はビジネスの拠点を一度になくしてしまった。
(略)
セロニアスとおこなった最初のヨーロッパ・ツアーは、私自身にとって金銭的に利するところはほとんどなかったが、それでもセロニアスが立派に仕事をこなしたことと、プロモーターたちがコンサートで利益を出したことで、ヨーロッパの興行主たちは私を、提携して仕事ができる、信頼のおける人間だと見てくれるようになった。私はそれに先だつ1959年にも、ディジー・ガレスピーとデーブ・ブルーベックを連れてツアーをおこなったのだが、ヨーロッパでの私の評判を大いに高めたのはモンクのツアーだった。
 私はずっと日本に行きたくてしょうがなかった。トシコ・アキヨシと親しくなったことで、かくも才気溢れる若い女性を生みだした極東の文化に対する私の好奇心は、一層かき立てられた。そして私はまた、1963年の日本においてモンクに対する興味が高まっていることを耳にした。しかし日本の厳重な外貨統制が、その地でのビジネスをむずかしくしていた。労働ヴィザを手に入れるには、一人一人が個別に日本領事館に出向かなくてはならなかった。(略)
厳しい海外渡航制限があったため、日本のプロモーターたちがアメリカにやってきて、エージェントやアーティストたちと直接交渉することはむずかしかった。セロニアスもネリーも、バンドのメンバーたちも日本に行きたがったが、彼ら全員を一緒に引き連れて、日本領事館まで労働ヴィザの申請に行くのは容易なことではなかった。それでもなんとか全員をひとまとめにして、マンハッタンのミッドタウンにある領事館のオフィスまで連れて行くことに成功した。なのになんたることか、オフィスは閉まっており、「天皇誕生日のために休館」という札がかかっていた。それから七、八ヶ月にわたる馬鹿げた煩雑な手続きがあり、ようやくすべての障碍を乗り越えることができた。そして1963年の5月、セロニアス・モンク・カルテット(チャーリー・ラウズ、ブッチ・ウォーレン、フランキー・ダンロップ)は最初の日本ツアーをおこない、私はそれを機会に日本人を相手に盛んにビジネスを展開するようになった。それは今日に至るまで続いている。

ジャイアンツ・オブ・ジャズ」は

1971年春に私が立ち上げたオールスター・グループだ。最初から私は、ディジー・ガレスピーセロニアス・モンクを中心としたバンドを思い描いていた。できればそこにソニー・ロリンズとJ・J・ジョンソンとレイ・ブラウンマックス・ローチを加えたい。しかしいろんな事情があり(そのいくつかは財政的なものだった)、そのメンバーは集められなかった。そこで私はソニー・スティットとカイ・ウィンディングとアル・マッキボンとアート・ブレイキーに声をかけた。そのようにしてバンドが誕生した。グループにはリーダーを据えないことで合意がなされたが、司会のほとんどはディジーが受け持った。(略)ディジーもモンクもブレイキーも、自分たちのツアーではファーストクラスに乗ることに慣れていたにもかかわらず、コストを切り詰めるために、他のみんなと同じエコノミークラスで我慢してくれた。
(略)
逮捕歴があったために、ソニー・スティットは日本入国を許可されなかったのだ。我々には打つ手がなかった。ソニーは東京空港で長く足止めされたあげく、そのままヨーロッパに飛んで、そこで二週間我々の到着を待つことになった。日本では彼の代役として、日本人のテナー奏者スリーピー松本がバンドに加わった。
(略)
 しかし今思い返してみると、「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」がユニットとしての真の一貫性を持っていたかどうか、もうひとつ自信が持てない。バンドはおおむね優れた演奏をしたが、音楽的に一心にまとまって熱く燃えるというようなことは起こらなかった。私はこのバンドに加わるように求めたことで、セロニアスに悪いことをしてしまったな、と思わないわけにはいかない。彼がその仕事を引き受けたのは、私を信頼してくれたからなのだ。そして彼はひとことも苦情を口にしなかった。しかしカイとソニーはモンクと一緒に演奏することに慣れていなかった。彼らはディジーの音楽世界の方に傾いていった。ブレイキーと、そして(ある程度までだが)マッキボンだけがモンクの音楽を真に理解していた。そんなわけで「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」は、きわめて個性的な両極のパーソナリティーに引っ張られるかたちになってしまった。セロニアスの曲が聴衆の間に引き起こす認知と喝采を目の前にして、ディジーが驚愕していた様を私はよく覚えている。
(略)
参加したすべてのメンバーにとって、その経験はプラスの方向に作用したし、誰のキャリアも傷つかなかった。とはいえそれは、私が最初に思い描いたような輝かしい音楽的達成には至らなかった。
 ツアーの最後に行われたスイスでの録音セッションの最中、モンクはどうやら退屈したらしく、スタジオをあとにして散歩に出ていった。何年も彼と共に過ごしたあとで、私は彼のそんな症候に気づいていた。発作のようなものが起ころうとしているのだ。地理のわからないスイスの町で迷子になってしまうことが心配で、私もスタジオを出て、一緒に歩くことにした。彼はまともに話をしたし、コミュニケーションにも支障はなかった。やがて我々はスタジオに戻り、セッションを無事に終えた。これでもう事は収まったと私にはわかった。私にわからなかったのは、それが彼にとっての最後の録音になったことだった。
 1971年にはモンクは、ウィーホウケンのニカ男爵夫人の家に住んでいた。そして亡くなるまでそこにいた。その期間彼はニューヨークでただ一度、公衆の前に姿を見せたが、それを主宰したのは私だった。
 1971年に私は「ニューヨーク・ジャズ・レパートリー・カンパニー」を立ち上げた。そして四月六日にセロニアスの音楽のコンサートを予定していた。
(略)
一人のミュージシャンが自分の師と仰ぐ、また憧憬する相手に愛情を示すべくおこなった、最も非利己的な行為のひとつなのだが、バリー・ハリスはセロニアスに電話をかけ、コンサートのことを話し、顔を見せて演奏してくれないかと頼んだ。誰も彼が来るとは期待していなかったのだが、モンクはやってきて、リハーサルもなしにコンサート全部を弾き切ってしまった。モンクを愛する人々は目に涙を浮かべた。モンクは1975年と76年の「ニューポート・ジャズ祭/ニューヨーク」でも演奏はしたが、この「ニューヨーク・ジャズ・レパートリー・カンパニー」における演奏こそが、彼の最後の至芸として私の脳裏に残っている。そろそろ復帰してまたロードに出る時期じゃないかなと、コンサートのあとで私は彼に言った。どうしてそう思うんだねと彼は尋ねた。「世界中が君を求めているからだよ、セロニアス」と私は言った。彼は淡い微笑みを浮かべて私を見た。でも何も言わなかった。そのとき彼がどんな病を抱えていたか私は知らなかったし、自分を抑制できなくなり、公衆の前に姿を見せることを尻込みしていたことも知らなかった。

Thelonious Monk Quintet 1959 Jackie-ing

5 By Monk By 5

5 By Monk By 5

「私的レコード案内」村上春樹
『ファイヴ・バイ・モンク・バイ・ファイヴ』

 僕はこのレコードのA面一曲目に収められている「ジャッキイング」という曲がとても気に入っている。まずアート・テイラーの、素晴らしくキレの良いシンバルのイントロがある。ハシッ、ハシッ、ハシッ……。ここからもう既に胸がわくわくしてくる。そしてテーマの合奏。まったくなんて不思議なテーマだろう。ルールのよくわからないスポーツ競技集会のためのファンファーレのようにも聞こえるし、回復の余地なく歪んだ魂の発する、妙に明るいステートメントのようにも聞こえる。いずれにせよ、僕はこのテーマが大好きだ。
 それからチャーリー・ラウズのテナー・ソロ。彼は勢いよく音楽に突入し、なんとかモンクの設定した音楽の檻から、外に逃げ出そうと真摯に苦闘するのだが、逃げられそうで簡単には逃げ切れない。コーラスからコーラスヘと張り巡らされた迷路。それからサド・ジョーンズコルネットのソロ。「これはいったい何なんだ?」という疑問符が、このヴェテラン・ミュージシャンの頭の上にぽっかり浮かびっぱなしだ。彼の高い技術といくつかの優れたアイデアは、モンクの檻から彼をなんとか抜け出させてくれるが、でもふと気がつくと、いつの間にかまたその檻の中に舞い戻ってしまっている。それは本当に特殊な形状を持つ、重層的な檻なのだ。でも何はともあれ、どちらのソロも同じように素敵だ。彼らは全力を尽くしている。モンクの不思議の檻に紛れ込んでしまった二羽のジャズ・バードたち。僕は彼らの戸惑いと奮闘を愛する。
 それからモンクの短いソロ。彼は慌てず、急がない。そしてその二羽の鳥たちの航跡を、自分の大きな手の中に優しく包み込んでしまう。「それでいいんだ」と彼は告げているみたいに聞こえる。足で床をどんどんと叩き、リズムをとりながら、例のもそもそとした声で。「檻のことなんて気にしなくていい。自分が中にいるか外にいるか、そんなことも気にしなくていい。自分の感じるところをそのままプレイすればいいんだ。そこが君自身の空なんだ」と。僕はそういうものごとのあり方にすっかり魅了されてしまう。なんて素敵なんだろう。
(略)

「喧嘩セッション」

マイルズは後日「モンクに向かってそんなこと[「おれがソロを吹いているときに後ろでピアノを弾いたら、ぶん殴るぞ」]を口にしたら、つまみあげられ、壁に思い切り投げつけられて、一発でおだぶつだよ」と語っている。モンクは「マイルズがおれを殴ったりしたら、あいつの命はない」と語っている。熊のようにがっしりとした大男のモンクと、鼻っ柱は強いが細く小柄なマイルズとではたしかに勝負にならないだろう。ケニー・クラークは「まずいことなんてなかったよ。モンクはただ便所に行ってただけだ」とあっさり説明しているが
(略)
 パーシー・ヒースは「殴り合いなんてものはまったくなかったよ。マイルズが『ピアノなしでワン・コーラスのソロをとりたい』とロにしたことで、モンクのエゴが傷つけられ、すねちゃったんだ。ただそれだけのことだよ」と言っているが、たぶんそのへんが真相なのだろう。しかしそこには間違いなく、ぴんと張り詰めた緊張感があった。モンクはプライドの高い人だ。かつての弟子筋である若造のマイルズが、セッションのリーダーとして偉そうに振る舞うことが面白いわけがない。
(略)
 ちなみにスミソニアン協会が編集した『The Smithsonian Collection of Classic Jazz』というセットもののレコードには、この「バッグズ・グルーヴ」テイク1のモンクのアドリブ部分だけが抜粋されて、「ブルーズ・インプロヴィゼーション」というタイトルで収録されている。この部分だけ独立した作品として聴いても、いつもとは少し違った雰囲気で面白いです。僕が「ほとんど完璧に近い音楽」として今とりあえず思い浮かべられるのは、このモンクのソロと、クララ・ハスキルフリッチャイの伴奏指揮で演奏したモーツァルトの27番協奏曲の第二楽章と、あとはビリー・ホリデーがレスター・ヤングをバックに歌う『君微笑めば』……それくらいかな(もっとたくさんあるのかもしれないけれど、とりあえず)。でも人生にそういうものが三つあるだけでも、僕は幸福だったと言うべきなのかもしれない。